黒猫
車がバックする音で目が覚めた。聞き慣れた赤い軽自動車の車内だ。父が窓から顔を出して後ろを確認している。外を見ると高速道路のパーキングエリア特有の、広大な駐車場があった。
どうやら、まだ、目的地には着いていないようだった。車を白線とぴったり平行に止めた父が、私に気づいて言う。
「小春、朝飯買いにいくけど、何がいい。」
「ううん、なんでもいい。車で待ってる。」
回らない頭を、働かせながら答えた。携帯電話を見ると、8月27日の午前8時を過ぎていた。
「エンジン切るぞ。鍵、置いていくから。」
そう言って父は、そそくさと車から出ていった。エンジンの音も、父の姿もなくなると、遠くで鳴く蝉の声がした。歩道には子供連れの家族が、縞模様の横断歩道を渡って駐車場に踏み入ろうとしている。
外はもう暑いだろうか。この見知らぬ土地の夏は、どんなものだろうか。そんな、なにげなしの心で、外に出た。
広がるドアから、私の冷気をぬぐい去ってしまうような熱の塊が私を覆う。それと同時に先までとは違う、ジリジリと耳を覆うような鳴き声が鳴り響き始めた。広大な駐車場の反対側は森になっていて、この蝉の声はそこから聞こえているらしかった。雄大で、けたたましいその声と、アスファルトに照りつける暑さに気圧され、私はすぐに車に戻ってしまった。
8月26日、目が覚めたのは夕方になってからだった。
夏の西日は、冷えたフローリングを熱いと感じさせるほど暖めた。体を起こせば、硬い床面に密着させていた腕には赤い痕ができ、制服の身体の下敷きになっていた部分はしわができていた。相変わらず部屋は静寂に包まれていた。他の部屋の電気もついておらず、人の気配もなく、まだ父も母も帰っていないようだった。
西日で汗ばんだ私は、喉が乾いて台所へ行こうとすると、ちょうど玄関のインターフォンが鳴った。
玄関先に置いた姿見の私を見て、ほんの少しだけ、客に応じるか迷った。しかし、どうせ私がこの家にいるのも今日が最後なのだから、どんな身なりだどろうと構わないだろうと思い、ドアにチェーンをかけたまま少しだけ開けた。
「はい。」
「橘さん、私。電話しようと想ったけど、番号知らないから来ちゃった。ちょっと話したいんだけど、今出れる?」
今朝の黒猫の女だった。最悪だ。思わず、
「今ちょっと忙しくて。それで…。」
明日でもいいかな。そう尋ねようとしてやめた。僅かに開けた扉から、日の光が埃っぽい玄関に差し込んでいた。
「引っ越しの準備?手伝おうか?」
本当に無遠慮な女だと思った。
私は玄関に三段に積んだ段ボールをちらりとみて、
「ううん、すぐ終わるからいいよ。下で待ってて。」と言ってしまった。下とはマンションのエントランスの事だ。特に何も置いてないが、大きな出窓がある広い空間になっていて、昼間には四、五人のおばさんが大きな声で噂話を囃し立てている。
女はわかった、と返事をしてすぐにドアの隙間から見えなくなった。支えていた金属扉から手を離すと音をたてて閉まり、それと同時に、差し込んでいた日差しも遮られた。
彼女が私に何の用だろうか。
期待よりも恐怖の方が大きかった。結局、行かないわけにもいかず、私は二、三分後に着替えもせずに家を出た。今日が最後なのだ。
下へ降りるのに階段を使った。このマンションにはエレベータも備えついているが、扉が空いた瞬間にあの女と対面する、というのはなんとなく嫌だった。階段を下りる靴の底が地面にあたるたび、足音が遠くまで響いた。嫌だな、嫌だな、と口から自然に言葉がこぼれていた。
降りるにつれ重くなる足取りが、ついに一階についた。軽く息をついてからエントランスに出た。二人いる。あの女と集会で女の横にいた長身の男だ。男が私に気づいて、女を小突いた。女が私に気づく。
「橘さん、急にごめんね。」
女が、座って、と言ってエントランスの出窓の縁をばんばんと叩いた。促されるままに縁に座ると、女も私の横に座った。男は遠くの壁にもたれ掛かって携帯を触り始めた。指先が出窓の金属部分に触れると、密閉され冷房が効いているこの空間からは想像もできないくらいの熱を持っていた。
「私達って近くにすんでたのにそんなに関わりなかったよね。それなのに引っ越しちゃうなんて。」
どうやら彼女は私の近くに住んでいるらしい。そう言えば、小学生の時も同じ通学路だったかもしれない、と思い出していると、
「それで、あのさ、今日お母さんから聞いたんだけど、橘さん、一人で行くの?それに家族の都合って…。」
と、彼女は耳を疑うような事を言った。
私は思わず、え、と聞き返した。今一番知られたくないことを、この女に知られている。言葉につまる。私は何とか冷静になろうと、小さく、口で息を吸い込んで、吐いた。
目の前の彼女は私をどう評価するだろうか。それが怖くなった。女は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「こんな家庭おかしいでしょう。わらっちゃうよね。」
こんな家庭。
私には成人して、就職している兄が二人いる。二人とも既に、誰もが知っているような企業に就職して家を出た。二人は私よりずっと学業優秀で、人望もある。
どうやら彼等の頭の方は血筋のようで、父も母も祖父、祖母も大学を出て、社会では、それなりの地位を築いているらしい。
そんなもの言い訳だ、と言われればそれまでだが、私はそれに足るほどの能力は無かった。
兄たちのように、高校の入試で学区内随一の、進学校である高校への入学は叶わず、今の学校に入った。だが両親はそれに納得せず、ついに高校二年になった春、私を遠方の某先生という親戚に任せることにしたらしい。その某先生というのが、父方の親戚で、なおかつ地方の有名高校の校長らしく、父が「某先生に任せれば、お前だって立派になる、某先生なら絶対大丈夫」などと、私に向かって、呪われたように延々と繰り返していた。
「笑わないけど、親に転校させられるってドラマみたいだよね。私なんか一度も転校したことないし。たぶん、すごいことだよ。」
すごいことだよ、と女は小さくもう一度言い直した。私はどうすることもできず、出窓から差し込んでいる太陽が作り出す私の影をじっと見ていた。女も二、三度私の顔を見ると、なにも言わなくなった。どう思われても仕方のない事だった。
それから、無言のまま、ゆっくりと日が沈んでエントランスの照明が点く頃になると、遠くで話にも入っていなかった男が、女に向かって、
「俺、先に帰るよ」と言うと、横でずっと黙っていた女も、
「私も、もう今日は戻るよ。今日はありがとう。」
と、私には何事か知らないお礼を言い、エントランスを後にする男に手を振った。何か話さなければと思った私は、
「仲、良いんだね」と、続けて口を開いた。
「いいやつだよ。本当に。」と、女は私の方に振り返って嬉しそうに笑った。
素敵だった。その笑顔は。彼女は私と違う。私には眩しすぎる。きっと彼女は私の知らない経験をたくさんして、私には思いもよらない楽しみを感じて、一生を終えるのだろう。そう思った。
「小春ちゃん、はい、これ。」
彼女はどこに持っていたのか薄い封筒を私に差し出した。彼女の目を見ると、真っ直ぐな眼で私を見ていた。私は躊躇しながらもそれを受け取った。薄くて硬いものが、紙越しに指に触れた。
続けて、彼女は先とは違う真面目な口調で、
「時間がなくてさ。あんまり良いもの用意できなかったけど、何て言うかさ、向こうでも頑張ってね。」と、言った。
心を指先で強く押し込まれたような、痛みとも捉えられない、鈍いもどかしさを感じた。
私が何か答えるために、口を開けようとすると、彼女はじゃあね、と言って通路の方の方へ歩いていってしまった。
私は彼女に何も言えなかった。
治ったはずの足の傷痕が、少し痛んだ。