追憶
「橘さん。お母さんから聞いたんだけど、引っ越すって本当?」
同じ日、体育館の集会に向かう途中に、そんなことを言う女が現れた。校内で私に話しかけてくる人は少ない。私が正しければこの品が良い猫のような顔の女とは話したことはない。私は突然掛けられた言葉に戸惑いながら、そうだよ、と答えた。猫の女は口に手を当てていかにも驚いていることを見せつけるような反応を見せた。
余談だが、私は猫が嫌いだ。私が生きてきた中で猫という猫は、近所の神社に放し飼いされていた黒猫しか知らない。愛らしい姿をしているが、人に押しがましいほどの媚を売り、ぼったくりとも思えるほどの対価を求め、それが得られないとなると、次は己の爪で訴える。そんな猫だった。簡単に言えば、小学校の下校の道中でその猫と遊んでいると、私が唯一の友人から貰ったオーストラリア土産のカンガルー肉のジャーキーを、その猫にカツアゲされた上に、右足を深く引っかかれただけの話なのだ。
その時に得た経験から察するに、この女からはその卑しい黒猫と同じものを感じていた。
「どうして、どうして引っ越すの?」
と、女は口に手を当てたまま言う。づけづけと、他人の家庭事情に踏み込む無遠慮な女だと思った。いや、これこそが黒猫の媚なのかもしれない。
「ちょっと、親の都合で。」
私はそれ以上追求されないように少し調子を落として、言葉を濁してやった。すると相手もようやく何か察したようで体育館に着いたきり、それ以上は話しかけてこなくなった。
体育館は人混みで熱気に溢れ、右も左も汗を拭う人ばかりだった。壇上では今年度に赴任した校長が、約束事のように、長話をべらべらと話している。
今の校長はこの春、つまり私が二年生になった時に赴任した。つまり就任から一年も経っていない。そのくせ壇上に上がるたびにいつも、「五十年もの伝統をもつわが校は…」と学校の全てを知っているような口振りをする。きっと、彼は校長だから、偉い言葉を話さなければならないのだろうが、だからといって私達が彼の話を真面目に聞く理由にならない、と私は思うのだ。
そうして、身にしみついたクリティシズムに浸り、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていると、ふと目線を最前列の生徒に移した時に、先程の、黒猫女が私の方へ振り返っているのが見えた。私はすぐに壇上の校長に目を戻し、目のはしで彼女を観察した。彼女は自身の横に並んでいる、長身の男子と何かを話しながらこちらを見ていた。私の事を噂している、もうすぐ引っ越すことだろう、と私なりの第六感で確信を掴んだ。軽く目を閉じてから彼女らに目が合うようにまぶたを開けて二人を見つめると、彼女と男は、はっとしたように前を向いた。
それからは特筆することもなく、昨年と同じように一日が進んだ。教室に戻って、担任が、二、三、の言葉を言って、この日は終わった。
すぐに教室を出てまっすぐ家に向かう。この校舎で歩く靴音も、窓から眺める青空も、今日が最後だというのに名残惜しさを感じなかった。淡く、淡く、私は薄れていた。
自宅に戻ると、玄関のすみに三段に積まれた段ボールがあった。中には私の荷物が入っている。見慣れた玄関に、見慣れないものがあるのが不思議な感覚だった。箱は大きいが中身はほとんど入っていない。触れたら崩れそうで、慎重に脇を通り抜け、自室に入ってドアを閉めた。
ふう、と息を吐いても、鞄を床に放り出しても、マンションの六階の、締め切った部屋からは車の音も夏の虫の声も、僅かに聞こえるだけだった。何もなくなった、だだっ広いフローリングに、壁を背にして座ってみると、その部屋は私の物ではないように思えた。横になってそっと目を閉じると、冷たい床が私の体温を吸っていくのを感じる。次に目を開けたら、なにもかも昔に戻ってやり直せないだろうか。そう考えているうちに、私は眠ってしまった。