視点を変えて・・・・・・
「奥さん、また出ていったって?」
静かにそう私に訊ねたのは、友人のAだった。Aは右目に、白いガーゼをあてている。眼帯でなく、ガーゼをあてテープで止めているのが痛々しかった。私はAの右目を指で締示しながらAの質問にかぶせるように言った。
「大丈夫かいそれ。右目、どうしたんだ。ちゃんと病院へ行ったのか?」
質問に答えるのが心苦しかったわけではない。ただ、Aの右目が気になっただけなのだと、私は自分に言い訳をしていた。Aはすぐにそれを察してくれたようで、「ちょっとね、話したら長いけどいい?」と首をかしげてみせる。無論、長ければ長いほど、情報が多ければ多いほど、有難かった。Aがそこまで察してくれたのかわからないが、それは確かに長く、そして奇妙な話だった。
「ある日、ポロっと取れちゃった。何がって顔をしてるねぇ。もちろん目がだよ」
「眼球が……瞼から落ちたってことか?」
「そうそう、そういうこと。さすがお医者様、的確ですね。――驚きましたよ。なにせいきなりポロっと落っこちたから。本当に何気ない時だった。あの日は……そう、休日だった。つい三ヶ月ほど前に――ああ、会社は辞めたんだ。言うの、遅れちゃったけれど。ごめんね」
「それはなによりだ」
私は心から彼女の退職を喜んだ。
なにせ、彼女が退職したと言っているのは、彼女を馬車馬以上に働かせていた常識はずれの、いわばブラック企業なのだ。彼女は顔を合わせるたびに、他人事のようにそこでのことを語り、私も耳を傾け相槌を打つことが支えになる筈だと思っていたが、彼女が肉体接待を強制されかけ危ういところで逃げ延びた話を聞いたときは、さすがに代わりに労働団体にかけこもうかと思った。しかしそれをしなかったのは、我々の環境が理由だろう。
彼女も私も、さみしい身の上だった。血縁者は死亡しているか、どこかで死亡していると思われるか、正直死亡してくれている方が有難という感じで、友達もお互い以外に居らず、孤独を知っている人間の癖なのか、自分の社交範囲の狭さを知りながらも、それでもこれ以上の人間関係を望まないような有様だった。
数少ない友人同士である我々すら、滅多に連絡はとりあわない。最低年に三回は会うものの、その程度だった。それでも、私は彼女の気持ちが分かった。よく分かった。きっと会社を辞めても、我々はこの国の国民の一人として世間からみてもらえるだろう。失業保険だって受けられるし、自動車免許が取り上げられるわけでもない。その気になればパスポートだって作れるだろう。しかし心のどこかで、会社の辞職届にサインをした途端、人間扱いをされないのではというどうしようもない不安がある。長年の孤独のせいなのかもしれない。Aは、仕事により存在の証明をしていた。何年か前、大学病院でこき使われていた私のように――
「ブラック企業から抜け出せたんだな。おめでとう」
だから私は、心底祝福した。彼女の勇気を称えた。
「ふふふ、失業保険に頼りきりだぜ」Aは照れくさそうに言った。
「たっぷり使ってやれ。ところで、それでどうして、その、目が?」
冗談のような話だ。いや、きっと冗談だろう。しかしAは冗談を好かない。ちょうど私のように。
「うん、半年前に会社を辞めて、それからしばらくして、ある朝起きて顔を洗おうとしたら、ポンと取れた。痛みも何もなかったよ。自分の瞼の裏というのをはじめて見たよ。で、その『見た』っていうのは何で見たかといえば、右目で見たんだよ」
「取れた右目で?」
「そう。洗面所には顔を洗うためにぬるま湯をたっぷりとはっていた。そこへ落ちたおかげで、眼球は傷がつくことはなかった。ぬるい湯の上でぷかぷか浮く眼球を見て――この時、つくづく人間は目で見てものを考えるんだと思ったんだけどね――左目で眼球が浮くさまを眺めているときは、まるでホラ、鬼太郎の目玉オヤジが湯に浸かってるみたいだ、気持ちよさそうだなあと思った。でも、抜けおちた眼球から、あっけにとられる自分を見た時は、とてもそんなのんきなことを考えていられなかった。ひどい顔をした女だと思ったよ。まるで死にぞこなった自殺者か、それでなかったらゾンビのようだった。その時はまだ精神科を受診していた時期だったからね。今は少しはマシになったけれど」
「精神科?」
「これも言ってなかったっけ。会社を辞めたのは、ドクターストップがかかったからなんだよ。半年前、朝の三時までちょっと残業してたんだけど、そしたら隣で作業をしてた先輩が椅子ごと後ろに倒れてね。まあこれは以前にも言ったと思うけどいつものことで、ああ眠かったんだなって思ったんだ。でも、平常なら先輩は起き上がってきて、またパソコンに向かうはずなんだよね。でも向かわない。ずっと床に倒れてる。――ああ、寝てるんだな、いいな、私も寝たいと思った。たぶん作業が終わって寝てるんだと思った。先輩はとてもきっちりした人で、作業が終わるまで絶対に帰らない、帰るどころかコンビニに行ったり廊下に出てタバコを一本吸って一息つくようなこともせず、ひたすらパソコンに向かってキーを打ってるような人だったから。まあそういう人じゃないと、あそこで『先輩』って呼ばれるほど長く居ることはないんだけど。――ああ、話がずれちゃったね」
そこで先ほどAが注文した梅肉の入ったカルピスソーダがきて、Aはそれで喉を潤すと続きを話し出す。
「でね、十分か三十分か、あるいは一時間は経っていたのか……このあたりは曖昧なんだけど、ふと隣を見ると先輩はまだ椅子ごと床に倒れてる。よくよく顔を見てみると、泡を吹いてた。わたしは笑っちゃったよ。それで『面白いですね』って、まるで先輩がおどけてそうしているかのように言って、で、またパソコンに向かおうとしてそこでさすがにああダメだ救急車を呼ばないとって正気に戻った。――そうそう、ちょうどその時書類ができあがって、印刷しようとしたんだよ。印刷のアイコンにカーソルをあてたところで、パソコン画面の隅に先輩のかけていた紫色の眼鏡のツルがうつっているのが目に入った。それで、オフィスの床に人が倒れているということが、いかに異様かっていうことを思い出したんだよ。
すぐに119に連絡して、救急車に来てもらった。あの会社は、夜は外から電話がかかってくることがないから、夕方の六時ぐらいに帰る部長が電話線を抜いて帰るんだよね。だから自分のケータイから電話して……幸い、先輩は命まではとられなかった。倒れた衝撃で肋骨にヒビが入ってたらしいけど、先輩はそれでも半分眠っていたらしいよ。救急車で搬送される時、社員はわたししかいなかったからさすがに仕事は放っておいて付き添ったんだけど、病院で先生にいろいろ聞かれるんだよね。『いつ倒れたんですか?』『どれぐらいからこういう状態だったんですか?』って。それに分かる範囲で答えていたら、先生の表情がみるみる変わっていくんだよ。最後は優しくわたしの肩を叩いて、近くでガーゼの替えを作っていた若い看護師に声をかけた。そして救急病棟の隣の、緑色の建物につれていかれた」
「産婦人科?」
「まさか。精神科だよ」
私達は笑いあった。Aは何もかもから解放された、朗らかな笑い声をたてていた。笑いながら、私は安堵する一方で驚いてもいた。いくら会社を辞めたからといって、こうも人は変わるだろうか?
「まあこんな感じで、先輩ともどもドクターストップがかかったというわけですね。はい」
「壮絶な話だ」
「で、取れた眼球の話。――朝、洗顔してる時に目が取れて、しばらくぼーっとしてたんだけど、これもさすがに放っておいたらだめだと思って、救急車を呼ぼうとした。でもパジャマ姿だったから、とりあえず着替えたの。そうしたら意外に冷静な自分に気づいて、なんだか状況が面白くなってきちゃってね。右目はさ、ジンジン熱いだけでそんなに痛くないし、視神経だって普通に考えたら切れてるはずなのに、右目はちゃんと見えている。お医者様にお見せするだけでもお金がかかるし、第一珍しいことだから騒がれるのは目に見えている」
「うん。だろうな。過度なストレスで目が取れるなんて話は聞いたことがない」
「髪は抜けなかったのに、変だよね。やたら痰は吐いてたけど。――あ、ごめんね、食事中に」とAは肩をすくめる。「わたしは取れた眼球を飲んでみることにした。飲んでから、後悔したけど。嫌なものを見そうな気がして。自分の身体の中なんて見たくない。特に下の方は最悪だ」
「思い切った真似をしたな」
「とにかく病院はもうこりごりだったから。お金だってかかるし、あの清潔な空間は苦手だよ。君はよく平気だね」
「当たり前だろ」
「でもね、飲むと面白いことになったよ。なんと元の場所に戻っちゃったんだよ」
「右目に収まったのか?」
「そうそう。でも、また落っこちちゃった。運も何度も続かないみたいで、今度は熱熱のコーヒーの中に落ちた。これはさすがに痛かったなー。眼球丸々やけどしちゃったよ」
うげ。
私は焼き鳥を食おうとしていたところだったが、さすがに皿へ戻し、視線をAのガーゼで蓋をされた右目に集中した。では、そのガーゼの下は今、一体どうなっている?
Aはニヤニヤしながら続きを話す。
「コーヒーをザルでこして落ちた眼球をなんとか出して、あわてて冷水につけたら、眼球はキンキンに冷えたよ。眼球が抜けた右の瞼からはうっすらと涙が落ちて困っちゃった。どこにも出ていけないし、部屋の中にいてもタオルをずっと右目につけておかないといけなかったからね。ほら、冬に暖房をつけると窓に露がつくよね? そんな感じの現象に近いものだと思うんだけど」
「そりゃ不便だ」
「でも不思議と視力が上がったんだよね」
「へえ?」
「冷やすとやっぱり違うんだね。火傷が治ったあたりでもう一度眼球を飲むと、またちゃんと元の場所に収まってくれた。でもまた飛び出るのはごめんだから、こうしてガーゼで止めてるの」とAは自分の右目を指す。「ワイヤレス視神経は有難かったよ。自分のことを文字通り客観的に見せてくれたから、おかげで病院通いから抜け出せた。精神科の先生はいい人だったけど、やたら薬を出すから嫌だったんだ。もうしばらく錠剤は見たくないよ」
右目が落ちなければ、幽鬼のような己の顔を正面から見なければ、今頃まだ精神安定剤に頼り切りになっていたかもしれないと、Aは語った。興味が引かれてAがかかっていたという精神科の先生の名を訊ねると、聞いたことのある名前だった。確か投薬治療派の精神科医で、毎回五分も話さないのに患者にクスリを渡すと評判の医師だった。私の患者が以前かかっていて、食品工場でパートをしていたその患者は、自分がラインに流れる製品になった気分だったとユニークな喩えをした。流れ作業というわけだ。
「左目の視力も上がったんだよ。面白いでしょう?」
「左目も?」
「釣られて平均並によくなったみたい。パソコン画面に鼻をすりつけてたせいで、新調した眼鏡も使えない有様なんだけど、今は眼鏡さえかけなくてよくなった。無くした視力を取り戻すことができたし、本当に良いことばっかりだったけど、それ以外にはあんまり使い道がないから困っちゃうよ。こうして押さえてないといけないしね」
「でも、たとえば隙間に物を落としたときなんかに便利じゃないか?」
「埃だらけのところに、自分の眼球を投げいれろって?」
無茶言うなと呆れた顔をされた。
確かに、それは嫌だろうな。下手をしたらゴキブリにたかられるかもしれない。うん、考えただけで嫌だ。
「でも何ともないならよかった。これで失明なんてことになったら、弱り目に祟り目じゃないか」
くだらない冗談を言う私に笑いかけ、Aは聞き流しそうになった程さりげなく言った。
「君もよかった」
「へえ?」
Aはその時、右目を抑えていた。そのガーゼの下で何を見たのか、彼女はくすっと笑う。
「視力が格段に上がったからね、君の脳髄の奥まで見通すこともできるんだよ」
「それは便利だろうな」私はキリンビールを一口飲み、口についた泡を拭って、ふと酔っぱらった状態の脳髄も見通せるのかなと思った。酔っぱらいの思考ほど、支離滅裂なものはない。はたしてどのように見えるのだろう。
「その通り」
Aはうんうんと頷いて応じる。
「だから、この時間帯のこういう場所にいるのは、ちょっとしんどくなってきたところなんだよ。ね、よかったら場所を変えない? 飲みたいならバーでもいいよ。散々酔っぱらう人は少ないものね。こういう居酒屋はしんどいよ」
そう彼女が言ったところで、彼女の後ろで宴会をしていた若い男女九人が笑い声を上げた。あまりに騒ぐので、周囲の客も驚いてその男女の宴会に目を走らせている。Aはガーゼを抑えながら、後ろを向くことなく露骨に嫌そうな顔をした。
「どうした?」
「三匹ほど発情した猿がいる」
「どこにでもいる。気にするな」
「それがね、残りの男女六名はいかに三匹の猿を追い出すかということに執心している。猿達はそれも知らずに、今夜ごちそうにありつくため、精いっぱい宴会を盛り上げようと努力している。自分達が盛り上げ係で、既に出番が終わっているというのにそれに勘付いていない。ありふれていたって、見ていて胸が痛いことに変わりはない」
それもそうかと、私は納得した。
「わかった、場所を変えよう」
私は駅近くの真っ赤な提灯をかかげたおでん屋のことを思いだしていた。物静かな中年の夫婦がやっていて、値段が安い割においしくて、その上店の雰囲気がそうさせるのかベロベロによっぱらうような客は滅多にいない。みんなほろほろと酔いながら、旨いつゆが沁みたおでんを口いっぱいに頬張る。絶品のおでん目当てに来ている客ばかりなので、少なくとも味が分からなくなるほど酔う猿はいないはずだ。
Aを見るとパッと顔を明るくして、机の隅の勘定の紙をつかんでいた。
「いいね、そこにしよう!」
その後、Aと私はおでん屋でほろほろ酔いながら、年に三回の内一回の交遊会を無事終えた。
一回目の交遊会から九か月後、年に三回の内二回目の交遊会は、例のおでん屋で行われることになった。とはいえ以前のように飲み会ではない。酔っ払いが苦手になったAのためというわけでもないが、昼から会ってお茶でも飲むことになった。おでん屋は昼間はおでん屋の中年夫婦の娘さんが甘味を食べさせてくれる店に変わり、私は善哉を先に注文して、固めのあずきを噛み悦に浸りながら、娘さんと談笑していた。
「ねぇKさん、その左目どうなさったの? どこかにぶつけられたんですか?」
娘さんはお茶のおかわりを持ってきながら、心配そうに言ってくれた。それほど常連でもない客の名前を覚えてくれている、気立てのいい娘さんだった。
私はニッと笑ってみせた。
「なに、ちょっと女房にね」
「奥さんと、喧嘩でも……?」
「チョット諍いがあってね。こうなっちゃいました」
ガーゼで覆った左目に私は少し触れる。何の感覚もなかった。優しい娘さんは怒った猫のように目をいっぱいに見開くと、「病院には行かれたんですか?」と固い口調で言った。
「なかなか暇がなくて」
「ダメですよ、そんな。お医者様なのに。こんな所に来る暇はあるんだから、ちゃんと病院に行ってくださいね」
優しい彼女はつっけんどんにそういって、さっさと奥へ引っ込んでいった。
携帯が鳴り、出るとAだった。
「K君、ハロ」
「道が分からないか?」
「ううん、わかるというか、かなり近くにいるんだけど、実はそこに近づけなくて困ってるんですよ」
「犬にでも襲われたか」
「まさか。今日は電話だけにしたいと思ってるんだけど、どうだろう。ダメかな?」
Aの口調はあくまで淡々としていた。私は理由をあれこれ考えながら、できるならAに会いたいので、無駄だと思いながらも窓の外を行き交う人々に目を凝らしたりした。
「無理だというならしょうがないが、またどうして?」
「気を悪くしないでほしいんだけど、単刀直入に言うなら、君の頭の中が怖い」
ああと、私は思わず大きな声を出してしまったようで、カウンターの奥で仕込み作業をしていた娘さんの注意を引くことになった。
「そうか……そうだな。それは……うん。考えが足りなかった。悪いな、A」
私はそこに思い至らなかった浅慮に、罪悪感でいっぱいになりながら、Aに詫びた。友人に嫌な思いをさせてしまった。
「ううん、いいんだよ。わかってる。わかってるけど……怖いんだよ、これはどうしようもない。なんでもない顔をして、君の前に出られない。わかってくれる?」
「ああ、よくわかる。私も君の立場なら、私のことが直視できないだろう」
Aは少し黙り、そして言った。
「………………いつか、その言葉通りの日がくるよ。友達だから言うんだけど。私は自分のゾンビのような顔を見て、本当にゾッとしたんだ。その手段をとるということは、君にもいつかそういう日がくるということなんだよ」
「ああ、分かってる。しかしあの日は、普通通りに接してくれたと思うんだけど、あれは我慢してたのか? ほら、私が思いついたときだよ。私の考えが、透かして見えていたんだろう?」
Aはそっと溜息をついた。
「人の考えっていうのは、ほんとにあっけないものなんだね。K君、君があの日思いついたのは、奥さんに君の目を飲ませれば、奥さんの行動が掌握できるんじゃないかという、とりとめのない思いつきだよ。夫婦のことだし、それにあの時の君は酔ってたから、笑ってすませることができた。でも……でも奥さんは、違う男の人の子どもを孕んでいたんだね」
「そうだな。あの日から二三日経った後、そう告げられた」
私はあらためて考え直してみた。労働こそが存在証明であると信じ、大学病院という箱の中で上に言われるまま働いていた私を救い出し、新しい世界を見せてくれた、目を覚まさせてくれた彼女には感謝しているが、だからといって彼女の門出を祝うことなどできるはずもない。それならなぜ、彼女は私をあの箱から出したのだろう。今や私のレゾンデートルは、彼女に行ってもらうほかないのに。こんなにも脆い私を、遊び半分で箱から誘い出した彼女には責任を負ってもらわなければならない。
私は三回考えて、首を振りながらAに告げる。
「……ああ、A、私は無理だよ。やっぱり彼女から離れることはできそうにない」
「そう。なら、彼女に君の眼球を飲ませればいいよね。責任は彼女に負わせればいい。――K、彼女の子に一体何の責任がある?」
ああ、本当にAには私の考えが見えているらしい。
友人の右目から見た私の顔は、どんなに怖ろしい顔をしているだろう。
「見たくなったんだ。女房を、他の視点から。君が自分のことを物理的に客観視して立ち直ったように、異なる点からあの女を視たくなった。愛した男との子に、あの女は一体どういう顔を向けるのか。興味を持った」
「君の目を飲んだ彼女の子が、いつか君を視ても?」
「俺なんて透明人間みたいなものだ。見ようが見まいが、どうでもいい」
少しの沈黙。そして、Aははじめて感情を露わにする。
電話越しとはいえ、このようなAの声を聞くのは本当に久々で、私は内心少しうろたえた。
「K君、抜いた眼球は氷水で冷やしてやればよかったんだよ。そうすれば、君は彼女の考えが手に取るように見えたんだ。素晴らしい視点が手に入ったんだよ。わたしはちゃんと君にそう話したのに」
Aはすべて知ったうえで、そう言っているのだろう。私の脳髄を見透かし知った上でも、そう言わざるをえないのだろう。私は奥からこちらを気にする娘さんに対して微笑を浮かべ、謝る代わりに小さく手を振りながら答えた。
「見なくてもあの女が考えることなんて分かるよ」
「あの夜、私は言った筈だよ。人間は目で見て物を考える。辛いだろうけど、実際に見ればふっきることができたかもしれない」
「ふっきる? なおのことお断りだね。あの女には責任を負ってもらう」
通話を終えた後、私の経営する産婦人科で元妻が、子どもを出産したという連絡が入ってきた。私の病院で出産することを持ちかけた際、さすがにあの女も断るかと思ったが、私からの結婚プレゼントとでも思ったのか、あの女はむしろ涙ぐみ心底嬉しがってこの話を受け入れた。相手の男は嫌がっていたが、さすがに元夫が執刀しないことを知ると渋々話を受け入れた。余程私にあの女の股ぐらを見せたくないらしい。とっくの昔に見飽きているというのに。
部下は元妻に完璧な処置をしてくれたようだった。私は部下をねぎらった後、電話を切った。かすかに頬を染めながら近づいてきた若い甘味屋店主は、私に試作品だという和菓子を一つ、もたせてくれた。
「ちゃんと病院に行ってくださいね。それから、ちゃんと休んでください。甘いものでも摂って……ね、先生? 医者の不養生ですよ」
「ありがとう。有難くいただくよ。病院にも行く」
「約束ですよ」と娘さんはほっとしたように頬を緩め、白い歯を見せた。とても可愛らしい笑みだった。
あの女も、この娘さんの十分の一でも優しい女ならよかったなと、私は思った。
店を出て、車でクリニックに戻る間に三件の着信があった。運転中なので切っていたが、三件目に諦めて路肩に車を寄せ、電話に出た。着信はAからだろうかと思っていたが、意外にも先ほど処置成功の連絡をしてきたばかりの私の部下からだった。
「なんだ、どうした」
「スイマセン、先生。すぐに戻ってきてください。大変なんです。ちょっと目を離した隙に――」
今とりだしたばかりの新生児が消えたという。
後ほど正面玄関にとりつけてある監視カメラを警察と共に確認したが、解像度が低く女だということぐらいしか私には分からなかった。しかし映像を見た二名の刑事は、さすがプロだけあって解析せずとも大体のことはわかるようだった。
「女か」
「ええ、それと何か……マスク?」
「いや、眼帯だな。右目に眼帯をつけている」
刑事達はぶつぶつと言い合い、いかがですかというように私に顔を向けたが、私は黙って首を横に振った。
一週間後、ひっそりと元妻の許へ新生児は戻った。元妻とAとの間に一体どのような話し合いがあったのか、それはまるで聞いていないし見当もつかないが、あの女にはまるで似つかわしくない「ごめんなさい。本当にごめんなさい」という大人しい一言が電話を介して私にもたらされた。元妻はその後、新しい夫と海外へ移住したという。どこへ行ったか知らないし、調べる気にもなれない。
Aとは以来、会っていない。連絡先もわからない。こちらは少しは調べたが、どうにもならなかった。私は友人を失い、妻を失い、それこそ弱り目に祟り目だ。しかし視点を変えてみればそれほど悪い結末でもない。少なくとも、他人の視点から今の己の顔を直視せずに済んだのだから。
どうにでもなれと、左目のガーゼは外してしまった。湯気をたてるコーヒーの中にこぼれ落ちてしまっても構わないと思っていたが、左目はどうすることもなく、ちゃんとあるべき所に収まり続けている。