時よ戻れ! でも戻るな!
昼下がりの学校の体育館裏。そこに俺ともう一人。
「ごめんなさい……私には好きな人がいるの」
そう俯き加減に謝る少女は同じクラスの美少女、響千里ちゃん。そして、振られた俺はしがない学生御手洗猛。
同じクラスになったのも何かの縁と思い、高校の入学式で告白したわけなんだけど……うん、サクラ散りましたな。
「そかそか、そうだよねー」
でも、俺は落ち込みやしない。そりゃ、振られたのは寂しいさ、悲しいさ。でも、俺には取って置きの秘策があるから。
「うん、ホントにごめ――」
「二時間前にタイムスリーーップ!」
少女の発言を聞き終える前に、俺は高らかにそう叫び上げた。すると、
「――めごにトンホ、んう」
少女はまるで逆戻しをした映像のように動く。否。
「のるいがとひなきすはにしたわ、いさなんめご」
まるでじゃなく、事実、少女は逆戻しをされているのだ!
俺は後ろ足にスタスタと去っていく少女を尻目に、太陽が西から昇るのを一瞥してふふんと鼻で笑うと、桜が上へ上へと上がる道を歩いていく。
そう、俺には時間を戻す裏技とも言える行動ができるのだ。その方法は……。
「へへーん」
得意げな表情で俺は手のひらに乗ったソレを見る。大きさは野球の玉程度。重みは殆ど無く、外装はまんま機械。なんだか良く分からない細工だが、あえて言えば未来っぽい感じ。機械の内装をまんま外に出したような。しかもその球体は、時折うす緑色に発光するのだ。うん、いかにもテクノロジーちっくだ。
そして俺がなんでこんなのを持っているかと言うと、それは三日前にさかのぼる。
「出来たわ、出来たのよ猛! 世紀の大発明がここにぃぃ!!」
そう言って独り、うひゃひゃうひゃひゃと怪しげな踊りをしながら盛り上がる女性は俺の姉貴、御手洗静。うん、名前負けしてるけど無視の方向で。長い黒髪に、切れ長の目、すらりと伸びた足。と、黙ってれば綺麗な方なんだろうけど……はぁ。
まぁ、とりあえずそんな姉貴でも、実はどこかで博士号を取得してるいわゆる天才らしい。あれだな、天才と馬鹿はなんとやらとも言うし。
ただ、それだけに姉貴が大発明とか言うとやっぱり気になってしまう。世界の名だたる企業が喉から手が出るほどに姉貴の力が欲しいと、ラブコールを毎日送ってきてるらしいし、将来はエジゾンをも越えるとか何とか噂されてるし。そんなこんなで、猫のようにうっしっしと笑いながら手元を見る姉貴の大発明作品とやらを、俺は背伸びをしながら姉貴の頭の上から覗き込んだ。が。なんてことはない、ただの丸い機械。なんだと落胆の息を吐いたとき、姉貴がむむっと唸りながらこちらを振り返った。そしてため息返しをして口を開く。
「猛ぅ、なんか勘違いしてるようだけど、これはそんじょそこらの機械じゃないのよ。これは、そう。人類が持つ悩み、願い、そして夢が解決するほどの素っ晴らしいの機械なのよ! ありがたみを感じながら敬服するが良い」
そう言って姉貴は鼻を鳴らしながら目を瞑って自慢げに腰に手を当てるが、対する俺は、はぁ、と気の抜けた返事をしていた。そして姉貴は片目をヒョイと開けてそんな俺を見ると、表情を強張らせ、「こ、こほん」とわざとらしく咳払いをした。
「なによなによ……このありがたみが分からないなんて、私の弟失格よ……まったく」
ぐちぐちと独り言を漏らしながらそっぽを向く姉貴。だが、何かを思い出したように顔を上げると、唐突にこちらへと振り返った。黒い瞳が、いやーに爛々と輝いている。
「な、なんだよ?」
「ふふーん。猛ぅ、ちょいこっち見なさい」
「嫌に決まってるだろうが! 絶対なんか企んでるだろ!」
姉貴は逃げようとする俺にまとわりつくようにして羽交い絞めにする。
「企んでなんかいないわよ〜。ちょっと、実験台に付き合って欲しいだけでね」
「ね、じゃねえ! ちょこんと首傾けるな! て、ああ、こける!」
俺のバランスを崩した体が、フローリングの地面に落ちる、寸前。
「グッドチャーンス。タイムスリーーップ!」
そう、姉貴が叫ぶやいなや、俺の体が重力を無視して起き上がった。それも勝手に。
「な、なんだこれ」
そしてそのまま、俺の体は意味の分からない行動を勝手にとっていく。まるで、糸にからめとられた操り人形のように。そして、目の前で腕組をしながら立つ姉貴は、悪どい微笑を携えている。
「これがこの機械の能力。時間転移」
「じ、じかんてんい?」
俺は何故か背伸びをする。
「そそ。時間をそのまま戻したり進めたりするのよ。今のところとりあえず、過去に戻る事しかできないけどね」
「じゃ、じゃあ、今俺の体は過去に戻ってるのか?」
「うん、そうなるわねー。私は自分でそういった力を遮断したり、あるいは制限できるパッチみたいなものを持ってるから、自分で調整できるんだけどね」
そう言って姉貴は胸元の金色に輝くバッチを掴んでみせた。
「そ、そうなのか……じゃなくて、いつまで俺は過去に戻るんだよ!」
「うーん、とりあえず順を追って説明していくとー、この機械は所有者がこれを持ってタイムスリーップって高らかに宣言すれば、世界のあらゆる事象が過去に戻っていくの。いや、進んでいくといった方が適当かもね。その証拠にほら、テレビを御覧なさい」
俺は姉貴につられるように、テレビへと顔を向けた。そこには。
「て、テレビが逆再生されてる!」
しかも左隅っこの時計もどんどん数が減っていってる。
「そう、その通り。それに、窓の外だって桜が上がり、人は後ろ足に駆けていく。車だって高速でバックしていくわ」
姉貴の言ったとおりの光景が、窓の外では繰り広げられている。
「ま、マジかよ……」
俺は昼寝をしていたからか、今は机に寝そべって姉貴の方を向いていた。
「そいでもって、猛はパッチの力で肉体だけを逆戻しにしてるわけ。ここまでの技術発明は、世界中探しても私だけよ。なんて言ったってタイムパラドクスも無意味にしてしまうんだからね。ふふ、世界が私に恐れをなして逃げていく姿が浮かんでくるわ……ふふふ」
「う、うん……別に世界がどうなったって構わないからさ……俺のこれは、いつまで続くの?」
「そうそう、そうよねー……うーん、正直な話私以外の人間はどうでもいいって思ってたから、その辺よくわかんないのよぉー。あっはっは」
「高笑いすなぁぁぁ! さっさと戻せーー!」
――こうして、三日前(実際にはもっともっと長く感じたが)の出来事は過ぎていき、今日、俺はあの機械をこっそり持ち出していたんだ。
姉貴の部屋からパッチも盗み出し、結果はご覧の通り。きっかり二時間前にタイムスリップし、今は入学式真っ只中。先ほどの響ちゃんは、何も知らない顔で俺の席の斜め前に座っている。
(この子はムリだったから……次は、と)
俺は視線を少しずつ横へ横へと流していく。と。流麗な黒髪がふと目に付いた。いや、目を、奪われた。
壇上に、その少女はいた。長く艶やかな髪、そして目鼻がすっとしていて、声は透き通るぐらい澄んでいて。あまりに、可愛すぎた。響ちゃんだって可愛かったが、この子は次元が違う。あえて言うなら、そう、女神だ。女神が俺の前に降臨したんだ!
「――以上、新入生代表遠山楓、祝辞を終わります」
一礼して去っていく楓ちゃん……ビューティフルだ。そしてワンダフル。こんな素晴らしい出会いがあるから、人生は楽しいんだ。
ウキウキした気持ちで周りを見てみれば、他の男子も一様にしてうっとりとした表情で楓ちゃんを見ていた。
むむ……ライバル多し、か。
だが、そんなことで俺はめげない。何故なら――俺はポケットに入れた丸い球体を強く握る――俺には、秘密兵器があるからさ。
昼下がりの学校の体育館裏。そこに俺ともう一人。
「……」
『先ほど』の風景とまったく同じなのに、一つだけ違う。そう、楓ちゃんだ。
俺は高鳴る鼓動を抑えることなく、口を開いた。
「ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」
その言葉に、空虚な目をしていた楓ちゃんは下げていた額を少しばかり上げ、俺にピントを合わせると見つめた。
「別に……いいわ」
流石クールビューティ。器量良しの頭脳明晰な女子高生らしい受け答えだ。
「そか、じゃあ、本題に入るね」
俺を目を細めたまま、最高の笑顔を楓ちゃんに向けて、
「俺と付き合って」
「ムリです」
即答された。俺と、の時にはもう否定の言葉が楓ちゃんの口から出されてた。
「そ、そう」
俺は落胆の色を隠せないまま、ピクピクと痙攣する口元を無理やり歪ませた。
「それだけ? なら、私は――」
彼女が動作をする前に、俺は。
「二時間前にタイムスリーップ!」
高らかに叫び上げた。だが。
「ふふふ、これで楓ちゃんも俺を振ったという記憶を失い、俺は振られたという汚名を被ることなく……て、あれ」
桜は上がっている。太陽は西から東へ昇っていく。確かに、世界は逆戻りしているというのに……。
「……」
楓ちゃんと俺だけは、世界の流れから逆行していた。
「あれ、あれ? ……な、何故?」
「……」
「こ、故障か、この肝心な時に……」
そして俺が機械を弄繰り回してる時。
「故障じゃないですよ。ちゃんと機能してます」
「故障じゃないのか……て、なんで楓ちゃんがこれのこと知ってるの!」
俺は驚きの表情で楓ちゃんを見たが、楓ちゃんはただ無表情に。
「簡単です。私はそれを破壊しに来たんですから」
そう言い捨てるように言葉を紡ぐと、何やら英語に似た文を呟き、手を前へ差し出すと。
「出ろ」
そうして、長い刀身をした煌びやかな白銀の剣を、何もなかったはずの空中から顕現させた。
「な、な」
楓ちゃんは抜き身のまま握り心地を確かめるようにヒュンと二、三回宙で振るうと、満足げに微笑み。
「私はクロノスキーパーなのです。いわば、時を司りし者。ここで言えば、警官のようなものですね」
そう言った。
意味が分からない。くろのすきーぱー? ときをつかさどりしもの? けいかん?
「なにが、どうなってるんだよ……」
「まだ分からないんですか? あなたが持っているそれは、この世界にはあってはいけない物なのです。だから、時を司る私がここへやってきた。偽装工作をしてまでね」
「な、なんでこれがいけないんだよ!」
楓ちゃんは俺の持っている機械を涼しげな表情で一瞥すると、また俺を捉えた。
「時の改ざんは常に行われてるんですよ。それはあなたがさっきやったような小さな改ざんから、大衆が知っているような事を根本から覆すような大きな改ざんまで。でも、あなたたちは平和に暮らしている。これは矛盾だと思いません? それこそ一億年後まで未来という概念は存在するはずなのに、その中で何度も発明されたであろういわゆるタイムマシンがこの世界に来たという歴史はない。それは、何故なら、私たちが改ざんを正しているからです……つまり、あなたのやってることは、私たちからすれば違法行為なんです」
分からない、わからない、ワカラナイ。
「それじゃあ、あんたは俺を……どうすんだよ」
汗が吹き出る。足が震える。頭が熱い。目の前が薄暗い。
少女が歩く。傍らに剣を携えて、近づく。
俺は恐怖で慄く。震える足で、少女から退く。
だが、ドンという背後の音と同時に、俺は後退できなくなった。背には冷たいコンクリートの感触。だが、それでも少女の足は止まらない。
「あ、あ」
「普通なら『ここ』まではしないんですがね……今回ばかりは話が違う。その機械は、あまりに危険すぎるから……だから、開発者であるあなたを、殺します」
「お、俺が作ったわけじゃない! これは」
「これは?」
「これは……」
言えない。姉貴だって言えば、きっとコイツは姉貴を殺しにいく……なのに、言えるわけないだろっ。
楓ちゃんは呆れたように鼻から息を漏らすと、剣を振り上げ。
「要領を得ませんね……とりあえず『イマ』のあなたは殺しておきましょう。なに、心配しなくてもあなたの無実が分かれば、過去に戻ってあなたを蘇らせますから」
楓ちゃんはそこでにっこり笑うが、まるで安心できない。
「や、ややめい! ひ、人殺しになるんだぞ!」
「大丈夫、多分生き返ります」
そうして楓ちゃんはグッと親指を立て。
「それじゃ、いきますよ」
剣の柄を、押した。瞬間だった。
「っ」
少女は唐突に額を上げ、校舎を見つめた。剣の刃は俺の髪を数本落としつつも、すぐ眼前で停止していた。
「おお、お、おおい。は、早くおろせ」
「これは……Aランク」
俺の言葉はまったく楓ちゃんに届いてない様子。だが、その瞬間。
ヒュンという音と共に、目の前を炎が通り過ぎた。いや、ここまでくると炎の渦だ。俺の身長よりも高く、そして広い。
「……」
呆然としてしまった。少女の、楓ちゃんの姿を跡形もなく炎が食らい尽くしたのだ。あまりの出来事に俺はただ口をポカーンと開けているしかなかった。
「あーあ、外れちゃったか」
何処か聞き覚えのある声と共に、横から足音が聞こえる。
俺はカクカクと首を回し、そしてその姿を捉えた。
「あ、姉貴」
「よ、猛ぅ、ピンチっぽかったんじゃなーい?」
そう言ってニヤリとニヒルに笑う姉貴は、手に『銃』を持っていた。黒々とした外観に、姉貴の小さめな手には不釣合いなほどゴツめの銃。だが、姉貴はそんな銃を軽々と片手で持ちながら、あまつさえグリップの所を中心に人差し指でくるくる回していた。
「あ、姉貴、ソレ……なんだよ」
「ん、これ?」
姉貴は顎で銃を指し示す。俺はそれにたいして頷きをもって返事をする。すると姉貴はふふーんとかほくそえみながら聞いて、聞いて驚け見てわめけ。とか意味不明なことを言ったうえで。
「これは、私が開発した『開運、なんでも出せるんです二十八号』よ」
とか言った。色々突っ込みどころはあるが、あえてそれはスルーして俺は一番の疑問を口にする。
「そ、それが、さっきの炎の渦を出したのか?」
「ええ、そーよー。他にもねぇ、氷やら雷やらなんでも出せるわよーん」
ぐわっはっはと姉貴は高笑いする。ああ、これさえなければ完璧なのに……。
そう思う俺を尻目に、姉貴は唐突に笑いを止めると俺の背後へと視線を移し、微笑した。まるで、凍りつくような微笑を。
「ずいぶんと手間取ってたようねぇ。それで、解析は終わったのかしら?」
俺は姉貴が言葉を投げかける場所に振り返った。そこには、
「はい……どうやら、あなたが先ほどのタイムマシンの製作者のようですね。それにその銃のような機械も……あなたは危険です。よって」
そこで楓ちゃんは自分の横で白銀の剣を振るい。
「私の独断で、あなたを抹消します」
そう言った瞬間、楓ちゃんは地面を踏みしめ――そう視認したときには、『跳躍』していた。
「ちぃっ」
姉貴は舌打ちをすると、すぐさま銃口を楓ちゃんに向けた。
だが、まるで獲物を見つけた獣の如き速さを孕んだ楓ちゃんは一瞬にして距離を詰めると、白銀の剣を掲げ、姉貴に――振るえなかった。
「っ!」
楓ちゃんは頭上に剣を上げたまま停止する。
「ふぅ、間一髪。そして思ったとおり」
姉貴は楓ちゃんの前で、かいてもない汗を拭い去るふりをしながら、不敵に笑った。
「……」
「な、なにがあったんだ?」
「まぁだ分からないの、猛ぅ? ま、いいわ。説明したげる」
そう言いながら姉貴は、まるで立ち往生したまま動かない楓ちゃんの周りを闊歩し始めた。
「この子らは、時の警察官。それはつまり、時に縛られない存在なわけ。時間に縛られるようなら、さっき使ったあんたのタイムスリップでこの子も他の人と同じように時間を逆行するからね。でも、しなかった。それで私はピーンときたわけ」
そこで姉貴は自分のこめかみをポンポンと指で叩いた。
「ああ、この子らは肉体の存在が薄いんだなってね」
「存在が薄い?」
「ええ。この世に肉体として形作られるだけの、いわば文字通りの器としてしかこの子らの肉体は機能してないわけ。言うなれば、霊的存在のようなものよ。多分この子は精神で肉体を形成してるわけ。そしてそれは、肉体を逆行させればあるいは停止ぐらいにまで持ち込めるということ。結果は見ての通りよ。精神はハナから逆行させるつもりも無かったから、当然意識はあるようだけどね」
「……」
少女は何も言わない。ただ立ち尽くし、虚空を見つめる。
「後はこの子をどうするかよねぇ。殺すのは嫌だし、だからといってこのままにしとくのもなぁ……うーん」
なんて姉貴が独り唸っている時。少女の目が、彩を取り戻した。
「あ、姉貴……」
「んー、やっぱこのままにしとくしかないのかな……ん? どうしたの。その見ちゃいけないものを見てしまって、序盤にして謎の物体に殺される五秒前の脇役な顔しちゃって」
その瞬間。
「お見事でした」
そんな、熱湯も凍るような冷たい声を、少女は発した。
姉貴は驚きの表情のまま楓ちゃんを見て、額を押さえる。
「あちゃー……類稀なる精神力の賜物だね……」
「はい。多少無理をして精神力を肉体の方に転換しました。もう、二度と同じ手はくらいませんよ」
少女は歩む。ゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるようにじわじわと。
「く……万事休す、か」
姉貴は気の抜けたようなため息を吐く。ただ、時に身をゆだね、そしてその時を甘受するように。
楓ちゃんの歩みが、止まった。目の前には俯く姉貴。
「何か言い残す事は、ありますか?」
最後の問いかけ。それに、姉貴は――。
「十、九、八……」
「言葉すら残したくありませんか……いいでしょう。望みどおり、全てを無に帰してあげましょう」
楓ちゃんは剣を掲げる。
「さようなら、狂った科学者よ」
そして無慈悲に剣を振り下げ――
「イチ、ゼロ! チェックメイトっ!」
姉貴がそう言って顔を上げた瞬間、姉貴めがけて落とされた断頭台は、緑に輝く防壁に阻まれた。
「な」
そして、ジジッという音と共にその防壁に人影が映し出される。そこには、若い、女性の姿があった。
「かあ……総督」
零れ落ちるように、楓ちゃんはそう口にしていた。
「楓……今回は退きなさい」
凛とした声が、辺りに響く。まるで、どこかの洞穴にいるような錯覚に陥るぐらいに、響く声だ。それに対し、楓ちゃんは驚きに目を見開く。
「な、それはこの者を、罪を見逃せという事ですか?」
楓ちゃんの声には、反抗の色がありありと伺えた。だが、その矛先の女性は、ただ涼しげに佇んでいる。
「そうよ。それに、今回のコレは『過去になければならない形』だから、私たちが手を加えることこそ、大罪になるわ」
女性のその言葉に、楓ちゃんは青ざめた顔をして俯いた。
「そんな……そんなことって」
「そう、多分あなたが思ってることは正解よ。さ、早く戻ってきなさい」
楓ちゃんはその声を聞いて、緊張したような面持ちでこちらを向いた。
「えと……今回は申し訳ありませんでした」
深々と楓ちゃんが深々と頭を下げた。
「いいってことよ。分かってくれたならよろしい」
楓ちゃんは頭を上げると、うむうむと独り頷いている姉貴を見て、初めて、自然に、そして引き寄せられるような笑顔を、魅せた。
「曾おばあ様が、善行のためにその力を行使する事を心より祈っています」
そう言って、霧のように姿が消えた……て、なに? なんか今変なこと言ってたような……。
「それで、随分と待たせてくれたわねー、私の孫ー?」
え……ええ?
「ふふ、これでもものすごぉーく頑張ってのですよ、おばあ様」
「どうだか。どうせ私の孫の事だから、ぎりっぎりの所で登場しようとか思ってたんじゃないのぉ?」
「そんなこと出来ませんわ。私のおばあ様にそんなことしたら、将来何をされるか」
ほほほほと二人で嫌な笑い声を上げる中、俺は薄々気づいていた疑問を口にした。
「えっとぉ……二人は、どんな関係なの?」
「そんなの決まってるじゃなーい。私とコイツは子孫と先祖の関係なのよ」
二人でふふーんと笑う姿を見て、俺は諒解した。ああ、ホントだって……。
あの後、世界で初めてタイムマシンを作ったのは姉貴で、しかも時の警察とかを作ったのも姉貴で、今回もしも姉貴が死んでたらクロノスキーパーも消えてしまい有象無象の危機に迫る事だったとかなんとか。でも、二人の余裕そうな、そして何処か馬鹿っぽい笑い声を聞くと、そんな事態に陥っていたとかは想像できなかった。
――そして、あれから数時間後。いや、数時間前か。
今回の事件を水に流すためかなんか知らんが、結局俺はまた三度目の過去を体験していた。だが、いつもと違った。
「て、あれ……ここは、体育館裏?」
辺りを見渡せば、どこから見ても先ほどからいた場所と変わらない。もしや、タイムスリップに失敗したか……?
そんな疑心を抱きながら、独り首を捻っていた時。
「あの……御手洗君、ですよね?」
そんな、声が後ろから聞こえた。
「え……ああ」
俺はそこで、理解した。なんでここにいるかを、そしてあいつらが何を考えてここに送ったのかを。
――響千里ちゃん。その人が俺の後ろにいた。どこかオドオドとしながら、千里ちゃんは俺の様子を伺っている。
「はぁ……そうか、そうか、そうですか」
俺は困った顔をする千里ちゃんを横目にため息をつく。
自分でやったことの責任は自分で持てということか。過去はやり直せばいいってことじゃない。特に、あの道具を使った場合なんて正にそんな意識がついてしまう。だけど、ホントはそんなことじゃダメだ。後悔しないように、そして幸せを掴むために何度も模索しながら進んでいかなくちゃならない。だから、俺はここにいるんだ。あれをただのあったかもしれない過去じゃなくて、ちゃんとした過去にするために。
俺は頭を上げる。自分でも分かるくらいに、柔らかい笑顔を浮かべてる。
忘れてた大切な事を思い出して、そしてそれを形にするために、俺は流れるように口にしていた。
「千里ちゃん、俺と付き合ってください」