表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
利己ノ澪  作者: 夢叶 藍
4/4

第肆話 「優しさの空洞」

昼下がりの光が校舎の窓を揺らしていた。

体育祭の準備期間に入ったせいか、教室の空気はいつもよりざわついている。色とりどりの声が、ひらひらと紙吹雪のように宙を舞う。記人は机に肘をつき、プリントの隅を静かに折りながら、その騒がしさをどこか遠くに感じていた。


「記人、放送係と委員会の兼業結構忙しいぞ〜?」

真後ろから、仲巻の軽い声が降ってくる。


「まあ……原稿書くのは嫌いじゃないから」


「いや、好きだろ。むしろ楽しんでるだろ」

仲巻が笑い、ペンのキャップをカチカチ鳴らす。


その音に紛れて――

ふっと、記人の視界の端を黒い影が横切った。


蝶が一羽。

生徒たちの間を縫うように飛んでいき、跡形もなく消える。


まるで記人にだけ見える“印”のように。

胸がわずかに疼いた。

けれど仲巻の声がすぐに現実へ引き戻す。


「そういや午後、渚さん見かけなかった?珍しく校門の方にいた気がするけど」


「……渚?」


「おっかしいなぁ見た気がすんだけどなー」


仲巻の言葉に、記人の手が止まる。

渚の名前。その響きだけで、空気が細く張りつめる。

目を伏せた瞬間、教室のざわめきが遠のいていった。


――あの白い波紋の気配。

――渚の佇む“冷えた空気”。


理由もなく、背筋が静かに震える。


「もしかして…恋?キャー」

仲巻はおちゃらけたように笑うが、記人の心はどこか別の方向へ沈んでいた。


黒い蝶を見た後の、あの異様に静かな間。

何かが動き始める前の、世界の息をひそめる気配。


「……仲巻、ちょっと外の空気、吸ってくる」


「あいよー。戻ってこなかったら、俺が先生に『記人は異世界に旅立ちました!』って言うはー!」


仲巻の飄々とした声を背に、記人は教室を出る。


廊下に出ると、光の粒がゆっくり流れていくように感じられた。その一瞬、階段の踊り場の影で、白い靄のような揺らぎが見えた気がした。


気のせいにして歩いていくと――

校門近くの歩道に、ひとりの少女が立っているのが見えた。

白い息を吸い込み

空を見上げるように立つその後ろ姿。


剥原渚。


彼女は記人に気づいていない。

ただ、遠くに向けて冷たく澄んだ視線を投げていた。


その視線の先に――

夕日に照らされ、ゴミ拾いをするひとりの男性の姿があった。


清潔なシャツ。穏やかな笑顔。

通行人に会釈しながら、丁寧に落ち葉を拾い上げている。爽やかで、優しげで、誰が見ても好印象。

だが、彼を見つめる渚の目だけは凪いでいなかった。

白い光が薄く揺れ始めている。記人の胸がざわつく。


“何かが始まる”。


その直感に、声が出なかった。渚のすぐ横に、公正がいる。イヤホン片手に、スマホを見せながら、淡々と言葉を落とす。


「裏アカ、昨晩更新されてた。妻の投稿だ」

「外では善人。家の中は無反応の怪物。……だそうだ」


渚はわずかに息を吸い込む。


「確認して……

 それでも偽ってるなら」


白い波紋の前触れ。

空気が静かに凍りつく。


「――第二段階で裁く」


その瞬間、記人の心臓が跳ね上がった。

渚の言葉が風のように溶けていく。


偽善断罪。

“笑顔の下の空洞”を暴く裁き。

遠くで、黒い蝶が一羽、ゆっくりと落ちていった。



夕暮れの色は、優しさの皮膚を纏ったように柔らかい。けれどその下で脈打つものを、渚だけは見逃さない。


ターゲットの男──

40代前半、課長職。

近所では“爽やかな善人”として知られ、今日も小さなトングで落ち葉を拾っていた。


「お疲れさまです」

「いつもありがとうございます」


通りすぎる人々が声をかけるたび、男は微笑む。

その笑顔は、光を取り込んだように温かい。


記人はただその場面を見ただけで心が緩むほどだった。


けれど渚だけは違った。


「……目が死んでる」


小さく呟き公正が横でうなずく。


「外で“完璧な優しさ”を続けてる奴ほど、中で壊れる」


スマホをひねりながら、淡々と続ける。


「裏アカに書いてあったよ。

 “夫は家で私と子どもに一切の表情を見せない。

 怒鳴りもしない。ただ、冷たい無反応だけ置いていく”ってさ」


公正が投稿の一部をスクロールする。


《外では別人みたいに優しい。家に帰ると、まるで空洞みたい。

 私、怖い。子どもが怯えてる。助けて。誰か気づいて。》


淡々と読み上げる声が、夕空の底に沈んでいく。

渚は目を細め、男をじっと見つめた。

拾い上げたゴミを丁寧に袋へ入れ、猫に優しく手を振る。その仕草は美しいほど自然で、どこにも“悪意”がない。


けど。


「……優しさに酔ってる」


渚の声は氷の欠片のようだった。


「本当の優しさじゃない。これは“他人の目”だけに捧げる善。家族という最小の世界を見て見ぬふりする癖がついた人間の特徴」


記人は息を飲む。


渚は一歩、男に近づいた。

空気が、静かに震える。


「確認するね」


男が気づき、微笑む。


「ああ、どうも。お手伝いですか?」


声は柔らかく、どこにも嫌味がない。

けれど渚はその笑顔の奥を覗くように、無言のまま立ち止まる。


男の微笑みが揺らいだ。

一瞬だけ──

ほんの一瞬だけ──

温度のない影が走った。

渚は、迷いなく囁く。


「外だけ“善”を積む人。

 中身だけ腐っていく人。

 どっちが罪が深いと思う?」


「……え?」


男の表情に小さなひびが入った瞬間。

世界の色が淡く沈んだ。

白い波紋が──渚の足元から、ゆっくりと開く。

水面でも光でもない、静けさそのものが広がるように。記人は息が止まる。公正はポケットに手を入れたまま、僅かに口角を上げた。


渚の声が落ちる。


「偽善断罪──

 外で作った“優しい自分”に酔って、一番守るべき場所だけ見捨てたね。その逃げ……今ここで終わりにしよっか。」


空間が反転するように揺れる。男は言葉を返せない。

声がこぼれない。鼓動だけが暴れるのに、身体が動かない。渚が指先をすっと動かす。


「あなたの善は“外向き”に偏りすぎた。

 だから──折れる方向を、こちらに合わせるね」


波紋が、男の影を呑み込む。


沈む。吸われる。

音のない深海に、善だけが凝固していく。

男の瞳から、怒りも恐怖も抜け落ちていく。

残るのは――過剰な“善性”だけ。

どこかでカツンと小さく折れた音がした。

渚が囁き落とす。


「外側で作った善行。

 今度は家の中だけに閉じ込めて返してあげる」


第二段階は終わった。だが静けさだけが残った。

男はそっと立ち上がり、まるで壊れた玩具のような穏やかさで頭を下げる。


「……ありがとうございます。

 ……もっと……善い夫に……なります……」


その声は優しすぎて、逆に人間味が死んでいた。

公正がぼそりと言う。


「やべぇな。これ、家族の方が先に壊れんぞ」


渚はわずかに微笑む。


「壊れるべきは“偽り”の方。

 家族はそのあとで、本当の声に気づくよ」


夕風が通り抜ける。白い波紋は跡形もなく溶けていた。記人の胸に、黒い蝶がひとつ落ちるような感覚があった。胸の奥が、不気味にざわついた。




玄関の鍵が回る音は、いつもと同じだった。

けれど、家の空気はまるで違う“密度”で迎え入れた。


「ただいま」


その声は優しかった。優しすぎた。

リビングから現れた妻は、一瞬表情を曇らせた。

いつもは気楽に「おかえり」と言えるのに、今日は喉の奥が固まって出てこなかった。夫は微笑む。

いつもの外面と同じ、整った、爽やかで柔らかい笑み。だが、その笑みに“呼吸の温度”がない。

妻は思わず子どもを庇うように立つ。


「……あの……どうしたの?今日、疲れてる?」


「いや、何もないよ

 もっと……善い夫に、なろうと思って」


その声の柔らかさが、耳を刺すように怖い。

夫はエプロンを取り出し、手際よく料理を始めた。

いつもはしないのに。調味料の位置もよく知らないのに。それなのに、ひとつひとつの所作が“妙に完璧”。

包丁がまな板を叩くリズムは心地よいはずなのに、妻の心には冷たい汗だけが流れる。子どもが小さく震え、袖を掴んだ。


「……ママ、あのひと、ちがうよ……

 パパじゃないよ……」


その言葉が胸に突き刺さる。

夫は振り返り、満面の笑みを浮かべた。


「大丈夫だよ。

 善いことを、たくさんするよ。

 今日からずっと、ずっと……」


声の調子は優しいのに、そこに“人間のゆらぎ”がなかった。まるで外で見せる善意だけを濃縮した、人工的な優しさの仮面。夕食の時、夫はずっと笑っていた。

ひと口食べるたびに「美味しいね」「幸せだね」と優しく言う。けれど頬の筋肉の動きが途切れない。

笑みが止まらない。瞬きの間隔が異様に一定。

妻はもう涙が出そうだった。


「ねえ、ほんとに……どうしたの……?」


「善い夫に、なるんだよ。

 家族のために。

 君たちのために」


その言葉を聞いた瞬間、なぜか妻は直感した。


──“偽善”が壊れている。


その夜。妻は布団に潜り込んで震えながらスマホを握りしめた。裏アカに投稿する指が、冷たく震える。


《今日の夫、怖い。

 優しすぎる。何か、違う。

 子どもが怯えて泣いてる。

 誰か助けて。何が起きてるの?》


送信。投稿した瞬間、

画面に“誰かが既に読んだ”という通知が走る。


──閲覧1。


その数字に、不気味な既視感。


【平良公正】

“新着投稿”

“異常報告”


暗い部屋に、その文字だけが灯った。妻は知らない。

公正がその投稿を読み、画面の向こうでひとつ息をつくことを。


「……渚、始まったぞ」


彼は静かに立ち上がった。家の中では、夫が寝室のドアの前で、微笑んだまま佇んでいた。


「まだ眠らないよ。

 家族のために……もっと、善いことをしたいから……」


ドアの隙間から漏れたその声に、

妻は声を殺して泣いた。




夜風が細い糸のように流れていた。

駅前のロータリーにはまだ、人々の足音が名残のように漂っている。記人は学校帰りの荷物を肩に抱えながら、静かな道を歩いていた。渚の裁きの“気配”は、まだ身体に薄く残ったままだ。


白い波紋が広がった瞬間の、あの胸のざわつき。

黒い蝶が一羽、肩先をかすめたような幻覚。

世界の色がたった一拍だけ沈んだような感覚。

理由は分からない。でも、そのすべてが記人の心を落ち着かなくさせていた。歩道の街灯がぽつぽつと続く。その光の粒に、何かが紛れ込んだ気がした。


──ふわり。


また、黒い蝶。

一羽だけ。

風に乗ったように、記人の前を横切る。


記人は足を止めた。喉が乾く。

鼓動がゆっくりと速くなる。


「……澪……?」


声にならないほどの小さな呟き。けれど、どこにも返事はない。静寂がひとつ、濃く落ちる。


そのときだった。


遠く。歩道橋の上。人影が一つ、夜の縁に立っていた。光と闇の狭間。輪郭が溶けるような距離。

なのに、記人は理解した。


──澪だ。


黒い長髪が風に揺れている。

制服のスカートの影が、夜気を裂くように揺れた。

ただ立っているだけなのに、空気の密度が変わった。

記人の背中を、冷たい針がゆっくりと這い上がる。

瞬きした。



次の瞬間、影は消えていた。

音もなく。

痕跡もなく。

ただ、世界が一度呼吸を止めたような余韻だけ残して。


記人は歩道橋を見上げながら、胸を押さえた。


──見られている。


直感だけが鮮明だった。


“澪は渚の動きを知っている”

“そして記人の記録も、見ている”


その事実だけが、夜の空気を冷やした。



帰宅してノートを開く。

震える手で白い波紋の記述を写し取っていく。

だが。ページの右下。そこに、小さな黒い点が滲んでいた。インクではない。

記人の意識が書いていない“余白の侵食”。


「……黒……?」


その点は、蝶の羽の鱗粉のように見えた。

次の瞬間、記人の背中に戦慄が走る。

黒い蝶の跡。澪の“観測”の影。

白い波紋と黒い蝶が、まだ触れ合ってはいない。

でも、確実に近づいている。


カチリとページを閉じる音が、夜の家に響いた。

その瞬間。窓の向こうで、蝶の影がふっと横切った気がした。記人は息を呑んで動けなかった。


それでも──

胸の奥で震える小さな言葉があった。


「……澪……」


ただの囁き。誰にも届かない、ひとりぼっちの声。

けれど、その声は確かに夜の静寂へ吸い込まれた。

物語はまだ、表面を撫でただけだ。

真の衝突は、もっと深いところで待っている。


時計の針がカチリ、カチリと

静かに、世界が進み始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ