第肆話 「優しさの空洞」
昼下がりの光が校舎の窓を揺らしていた。
体育祭の準備期間に入ったせいか、教室の空気はいつもよりざわついている。色とりどりの声が、ひらひらと紙吹雪のように宙を舞う。記人は机に肘をつき、プリントの隅を静かに折りながら、その騒がしさをどこか遠くに感じていた。
「記人、放送係と委員会の兼業結構忙しいぞ〜?」
真後ろから、仲巻の軽い声が降ってくる。
「まあ……原稿書くのは嫌いじゃないから」
「いや、好きだろ。むしろ楽しんでるだろ」
仲巻が笑い、ペンのキャップをカチカチ鳴らす。
その音に紛れて――
ふっと、記人の視界の端を黒い影が横切った。
蝶が一羽。
生徒たちの間を縫うように飛んでいき、跡形もなく消える。
まるで記人にだけ見える“印”のように。
胸がわずかに疼いた。
けれど仲巻の声がすぐに現実へ引き戻す。
「そういや午後、渚さん見かけなかった?珍しく校門の方にいた気がするけど」
「……渚?」
「おっかしいなぁ見た気がすんだけどなー」
仲巻の言葉に、記人の手が止まる。
渚の名前。その響きだけで、空気が細く張りつめる。
目を伏せた瞬間、教室のざわめきが遠のいていった。
――あの白い波紋の気配。
――渚の佇む“冷えた空気”。
理由もなく、背筋が静かに震える。
「もしかして…恋?キャー」
仲巻はおちゃらけたように笑うが、記人の心はどこか別の方向へ沈んでいた。
黒い蝶を見た後の、あの異様に静かな間。
何かが動き始める前の、世界の息をひそめる気配。
「……仲巻、ちょっと外の空気、吸ってくる」
「あいよー。戻ってこなかったら、俺が先生に『記人は異世界に旅立ちました!』って言うはー!」
仲巻の飄々とした声を背に、記人は教室を出る。
廊下に出ると、光の粒がゆっくり流れていくように感じられた。その一瞬、階段の踊り場の影で、白い靄のような揺らぎが見えた気がした。
気のせいにして歩いていくと――
校門近くの歩道に、ひとりの少女が立っているのが見えた。
白い息を吸い込み
空を見上げるように立つその後ろ姿。
剥原渚。
彼女は記人に気づいていない。
ただ、遠くに向けて冷たく澄んだ視線を投げていた。
その視線の先に――
夕日に照らされ、ゴミ拾いをするひとりの男性の姿があった。
清潔なシャツ。穏やかな笑顔。
通行人に会釈しながら、丁寧に落ち葉を拾い上げている。爽やかで、優しげで、誰が見ても好印象。
だが、彼を見つめる渚の目だけは凪いでいなかった。
白い光が薄く揺れ始めている。記人の胸がざわつく。
“何かが始まる”。
その直感に、声が出なかった。渚のすぐ横に、公正がいる。イヤホン片手に、スマホを見せながら、淡々と言葉を落とす。
「裏アカ、昨晩更新されてた。妻の投稿だ」
「外では善人。家の中は無反応の怪物。……だそうだ」
渚はわずかに息を吸い込む。
「確認して……
それでも偽ってるなら」
白い波紋の前触れ。
空気が静かに凍りつく。
「――第二段階で裁く」
その瞬間、記人の心臓が跳ね上がった。
渚の言葉が風のように溶けていく。
偽善断罪。
“笑顔の下の空洞”を暴く裁き。
遠くで、黒い蝶が一羽、ゆっくりと落ちていった。
夕暮れの色は、優しさの皮膚を纏ったように柔らかい。けれどその下で脈打つものを、渚だけは見逃さない。
ターゲットの男──
40代前半、課長職。
近所では“爽やかな善人”として知られ、今日も小さなトングで落ち葉を拾っていた。
「お疲れさまです」
「いつもありがとうございます」
通りすぎる人々が声をかけるたび、男は微笑む。
その笑顔は、光を取り込んだように温かい。
記人はただその場面を見ただけで心が緩むほどだった。
けれど渚だけは違った。
「……目が死んでる」
小さく呟き公正が横でうなずく。
「外で“完璧な優しさ”を続けてる奴ほど、中で壊れる」
スマホをひねりながら、淡々と続ける。
「裏アカに書いてあったよ。
“夫は家で私と子どもに一切の表情を見せない。
怒鳴りもしない。ただ、冷たい無反応だけ置いていく”ってさ」
公正が投稿の一部をスクロールする。
《外では別人みたいに優しい。家に帰ると、まるで空洞みたい。
私、怖い。子どもが怯えてる。助けて。誰か気づいて。》
淡々と読み上げる声が、夕空の底に沈んでいく。
渚は目を細め、男をじっと見つめた。
拾い上げたゴミを丁寧に袋へ入れ、猫に優しく手を振る。その仕草は美しいほど自然で、どこにも“悪意”がない。
けど。
「……優しさに酔ってる」
渚の声は氷の欠片のようだった。
「本当の優しさじゃない。これは“他人の目”だけに捧げる善。家族という最小の世界を見て見ぬふりする癖がついた人間の特徴」
記人は息を飲む。
渚は一歩、男に近づいた。
空気が、静かに震える。
「確認するね」
男が気づき、微笑む。
「ああ、どうも。お手伝いですか?」
声は柔らかく、どこにも嫌味がない。
けれど渚はその笑顔の奥を覗くように、無言のまま立ち止まる。
男の微笑みが揺らいだ。
一瞬だけ──
ほんの一瞬だけ──
温度のない影が走った。
渚は、迷いなく囁く。
「外だけ“善”を積む人。
中身だけ腐っていく人。
どっちが罪が深いと思う?」
「……え?」
男の表情に小さなひびが入った瞬間。
世界の色が淡く沈んだ。
白い波紋が──渚の足元から、ゆっくりと開く。
水面でも光でもない、静けさそのものが広がるように。記人は息が止まる。公正はポケットに手を入れたまま、僅かに口角を上げた。
渚の声が落ちる。
「偽善断罪──
外で作った“優しい自分”に酔って、一番守るべき場所だけ見捨てたね。その逃げ……今ここで終わりにしよっか。」
空間が反転するように揺れる。男は言葉を返せない。
声がこぼれない。鼓動だけが暴れるのに、身体が動かない。渚が指先をすっと動かす。
「あなたの善は“外向き”に偏りすぎた。
だから──折れる方向を、こちらに合わせるね」
波紋が、男の影を呑み込む。
沈む。吸われる。
音のない深海に、善だけが凝固していく。
男の瞳から、怒りも恐怖も抜け落ちていく。
残るのは――過剰な“善性”だけ。
どこかでカツンと小さく折れた音がした。
渚が囁き落とす。
「外側で作った善行。
今度は家の中だけに閉じ込めて返してあげる」
第二段階は終わった。だが静けさだけが残った。
男はそっと立ち上がり、まるで壊れた玩具のような穏やかさで頭を下げる。
「……ありがとうございます。
……もっと……善い夫に……なります……」
その声は優しすぎて、逆に人間味が死んでいた。
公正がぼそりと言う。
「やべぇな。これ、家族の方が先に壊れんぞ」
渚はわずかに微笑む。
「壊れるべきは“偽り”の方。
家族はそのあとで、本当の声に気づくよ」
夕風が通り抜ける。白い波紋は跡形もなく溶けていた。記人の胸に、黒い蝶がひとつ落ちるような感覚があった。胸の奥が、不気味にざわついた。
玄関の鍵が回る音は、いつもと同じだった。
けれど、家の空気はまるで違う“密度”で迎え入れた。
「ただいま」
その声は優しかった。優しすぎた。
リビングから現れた妻は、一瞬表情を曇らせた。
いつもは気楽に「おかえり」と言えるのに、今日は喉の奥が固まって出てこなかった。夫は微笑む。
いつもの外面と同じ、整った、爽やかで柔らかい笑み。だが、その笑みに“呼吸の温度”がない。
妻は思わず子どもを庇うように立つ。
「……あの……どうしたの?今日、疲れてる?」
「いや、何もないよ
もっと……善い夫に、なろうと思って」
その声の柔らかさが、耳を刺すように怖い。
夫はエプロンを取り出し、手際よく料理を始めた。
いつもはしないのに。調味料の位置もよく知らないのに。それなのに、ひとつひとつの所作が“妙に完璧”。
包丁がまな板を叩くリズムは心地よいはずなのに、妻の心には冷たい汗だけが流れる。子どもが小さく震え、袖を掴んだ。
「……ママ、あのひと、ちがうよ……
パパじゃないよ……」
その言葉が胸に突き刺さる。
夫は振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。
善いことを、たくさんするよ。
今日からずっと、ずっと……」
声の調子は優しいのに、そこに“人間のゆらぎ”がなかった。まるで外で見せる善意だけを濃縮した、人工的な優しさの仮面。夕食の時、夫はずっと笑っていた。
ひと口食べるたびに「美味しいね」「幸せだね」と優しく言う。けれど頬の筋肉の動きが途切れない。
笑みが止まらない。瞬きの間隔が異様に一定。
妻はもう涙が出そうだった。
「ねえ、ほんとに……どうしたの……?」
「善い夫に、なるんだよ。
家族のために。
君たちのために」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか妻は直感した。
──“偽善”が壊れている。
その夜。妻は布団に潜り込んで震えながらスマホを握りしめた。裏アカに投稿する指が、冷たく震える。
《今日の夫、怖い。
優しすぎる。何か、違う。
子どもが怯えて泣いてる。
誰か助けて。何が起きてるの?》
送信。投稿した瞬間、
画面に“誰かが既に読んだ”という通知が走る。
──閲覧1。
その数字に、不気味な既視感。
【平良公正】
“新着投稿”
“異常報告”
暗い部屋に、その文字だけが灯った。妻は知らない。
公正がその投稿を読み、画面の向こうでひとつ息をつくことを。
「……渚、始まったぞ」
彼は静かに立ち上がった。家の中では、夫が寝室のドアの前で、微笑んだまま佇んでいた。
「まだ眠らないよ。
家族のために……もっと、善いことをしたいから……」
ドアの隙間から漏れたその声に、
妻は声を殺して泣いた。
夜風が細い糸のように流れていた。
駅前のロータリーにはまだ、人々の足音が名残のように漂っている。記人は学校帰りの荷物を肩に抱えながら、静かな道を歩いていた。渚の裁きの“気配”は、まだ身体に薄く残ったままだ。
白い波紋が広がった瞬間の、あの胸のざわつき。
黒い蝶が一羽、肩先をかすめたような幻覚。
世界の色がたった一拍だけ沈んだような感覚。
理由は分からない。でも、そのすべてが記人の心を落ち着かなくさせていた。歩道の街灯がぽつぽつと続く。その光の粒に、何かが紛れ込んだ気がした。
──ふわり。
また、黒い蝶。
一羽だけ。
風に乗ったように、記人の前を横切る。
記人は足を止めた。喉が乾く。
鼓動がゆっくりと速くなる。
「……澪……?」
声にならないほどの小さな呟き。けれど、どこにも返事はない。静寂がひとつ、濃く落ちる。
そのときだった。
遠く。歩道橋の上。人影が一つ、夜の縁に立っていた。光と闇の狭間。輪郭が溶けるような距離。
なのに、記人は理解した。
──澪だ。
黒い長髪が風に揺れている。
制服のスカートの影が、夜気を裂くように揺れた。
ただ立っているだけなのに、空気の密度が変わった。
記人の背中を、冷たい針がゆっくりと這い上がる。
瞬きした。
次の瞬間、影は消えていた。
音もなく。
痕跡もなく。
ただ、世界が一度呼吸を止めたような余韻だけ残して。
記人は歩道橋を見上げながら、胸を押さえた。
──見られている。
直感だけが鮮明だった。
“澪は渚の動きを知っている”
“そして記人の記録も、見ている”
その事実だけが、夜の空気を冷やした。
帰宅してノートを開く。
震える手で白い波紋の記述を写し取っていく。
だが。ページの右下。そこに、小さな黒い点が滲んでいた。インクではない。
記人の意識が書いていない“余白の侵食”。
「……黒……?」
その点は、蝶の羽の鱗粉のように見えた。
次の瞬間、記人の背中に戦慄が走る。
黒い蝶の跡。澪の“観測”の影。
白い波紋と黒い蝶が、まだ触れ合ってはいない。
でも、確実に近づいている。
カチリとページを閉じる音が、夜の家に響いた。
その瞬間。窓の向こうで、蝶の影がふっと横切った気がした。記人は息を呑んで動けなかった。
それでも──
胸の奥で震える小さな言葉があった。
「……澪……」
ただの囁き。誰にも届かない、ひとりぼっちの声。
けれど、その声は確かに夜の静寂へ吸い込まれた。
物語はまだ、表面を撫でただけだ。
真の衝突は、もっと深いところで待っている。
時計の針がカチリ、カチリと
静かに、世界が進み始めた。




