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利己ノ澪  作者: 夢叶 藍
3/4

第参話 「交錯する四影」

昼休みのチャイムが、校舎の壁にじんわりと貼りつくように響いた。季節は初夏の手前。窓から流れ込む湿った空気が、ゆっくり教室を満たしていく。

花折記人は、自分の机に置かれた紙を二度見した。


『体育祭実行委員:1年B組代表 花折記人』


「……なんでこうなるんだよ……」


記人がぼそりとつぶやくと、

後ろの席から椅子を引く音がした。


「お、記人〜!実行委員おめでとうございます!」


仲巻勇士が、にやりと笑いながら顔を覗かせる。


「めでたくないから。そもそも俺、立候補してないし」

「だれか書いたんじゃね?記人って便利そうだし」

「便利って何……」


仲巻は相変わらず軽い。けれどその明るさの奥に、どこか“沈黙”のようなものがあるのを記人は知っていた。


(この違和感……最近よく感じるな)


――あの日。黒い蝶を見てから。

考えまいとしても、記憶の端に必ず影がちらつく。

仲巻が身を乗り出す。


「ま、記人なら余裕でしょ!

俺も裏方ぐらいなら手伝うって」

「ほんとに?言ったな」

「おうよ!」


その瞬間――

教室の外を、一羽の黒い蝶がすっと横切った。

風もないのに、蝶の羽が不自然に“揺れた”。


「今……蝶、いた?」

「え?虫?どこ?」


仲巻は本当に何も見えていない顔で首をかしげる。


(やっぱり……俺にしか見えてないのか)


胸の奥に、小さな棘のような感覚が残る。授業が終わり、帰り支度をする。記人は観測ノートを開いた。

……黒い滲みが増えている。書いたはずの文字が薄く溶けるように消えていた。


(今日も……か)


ノートの端に、じっとりと広がる黒。

深呼吸し、記人は階段に向かった。

仲巻がいつもの調子で後ろをついてくる。


「なあ記人、帰りコンビニ寄らね?新作アイス売ってるらしいぞ」

「今日は……落ち着かないから、いいや」


「そうか?元気ねえな〜、お前」


仲巻の明るさが、今日は妙に遠く感じた。

階段を降りると――蛍光灯が、カチッと瞬きをした。


「あれ?今日は暗い気がするんだけど……」


記人が呟くと、仲巻は不思議そうに眉をひそめる。


「ん?いつもと同じだろ」


いや、違う。明らかに今日は光が弱い。

だが記人は言わなかった。

“言ったところで信じてもらえない”と直感したから。

二人は地下通路へ。そのときだった。


――タッ……タッ……


足音が、ひとつ遅れて響く。

記人の足音だけが、0.5秒遅れて“追ってくる”。

ゾクリと背筋が震え、記人が立ち止まる。

仲巻も止まる。だが遅れて響く“もうひとつの足音”も、ワンテンポ遅れて止まった。


(まるで……“誰か”が後ろにいるみたいだ)


記人は無意識に、観測ノートを開いた。

紙が、ざらりと波打つ。前に見た現象と同じ。

黒い蝶の描かれたページが――湿ったように、歪んだ。

(何が起きて……)


そのとき、記人の視界の端を誰かが横切った。

スーツの男。

肩に名札――“係長”の文字だけ見えた。


(……少し前に駅でぶつかりかけた……あの舌打ち男だ)


男は柱にもたれて息を荒げていた。異様なほど肩で呼吸している。記人が息を飲むと――


空気が、静かに“ねじれた”。


白い波紋が広がる。だが揺れている。震えている。

仲巻の近くほど、波紋は酷く歪んでいた。

記人は背筋を凍らせた。


(仲巻の近くだけ……波紋が乱れる?)


その理由は、もちろんまだ分からない。

係長の男は、柱に手をつきながら震えていた。

声を出そうとしている。けれど――喉が“潰れたように”、音が出ない。口の形だけで、助けを求める悲鳴が読み取れた。記人は喉がひきつる。


(声が……出ない?なんで……)


次の瞬間。

男の背後で――“影”が立った。


ゆらり


暗がりに長い黒髪。無音で揺れる制服のスカート。

右手には刀身。何も言わずただそこにいる“執行者”。


斬島 澪。


記人の心臓が跳ねた。


(やっぱり……来た……)


澪はゆっくりと男に近づき、

まるで“音そのものを殺す”ように空気を沈める。

男の肩が震える。足が動かない――“逃げようとした瞬間”に、凍りついたように。


澪は静かな声で囁く。


「あなたの罪を確定します──正義執行」


瞬間。


世界が、しん、と黙った。


地下通路の空気ごと“呼吸を止めた”ような沈黙。

男の身体がびくりと震え、胸を押さえてその場に崩れ落ちた。血は流れない。刀は抜かれていない。

ただ――心だけが折れたような倒れ方。

同時に、黒い蝶が一羽ふわりと舞い上がる。

その軌跡は美しかった。緩やかな放物線を描き、仲巻の近くを横切った瞬間。蝶は、まるで“存在を拒まれた”かのように、ぱりんと音もなく砕け――黒い粉となった。記人の背骨に氷の水が流れこむ。


(……仲巻の近くで……消えた……?)


その現象が意味するものは、まだ誰も知らない。

澪は倒れた係長を見下ろすこともなく、

罪を確認するように一度だけ視線を落とし、

踵を返した。歩き出す足音はゼロ。

影だけが静かに揺れ、記人たちへ伸びてくる。

記人は息をするのを忘れた。

胸の奥が、冷たい手で握りつぶされるような感覚に締めつけられる。


(なんで……“知っている”気がするんだ……?)


壱話での記憶の欠落。

ぶつかりかけた瞬間に感じた嫌な予感。

その断片が、今日の光景で輪郭を帯びはじめていた。

だが――澪の背後に黒い蝶が一羽浮かんだ瞬間。

記人の観測ノートが、じり、と歪んだ。

ページの端に黒い滲みがじわりと増える。


(また……書けなくなる……)


怖い。

でも目をそらせない。

観測者である限り、見続けなければいけない。

ノートを開いた瞬間――


シャッシャッ

書いてもいないのに、ページの上に“二重線”が走った。


「……っ!」


まるで“記録を拒む”ように。


(どうなってるんだよ……)


その時、仲巻が記人の肩を軽く叩いた。


「おーい記人、大丈夫か?なんか青いぞ?」


完全に“いつも通り”の声。

地下通路の真ん中で、普通すぎる。

それが恐ろしい。


「……うん……なんでもない……」


記人の声は震えていた。揺れる蛍光灯。

地下通路の奥に伸びる暗闇。

その向こうで、澪の影が静かに溶けていく。

男が倒れた柱の隣。黒い粉――砕けた蝶の名残だけが残っていた。記人はその粉を見つめた。


(これが……“第二段階の裁き”……?)


胸がざわついた。恐怖だけではない。

言語化できない“何か”が、心の奥で蠢いていた。

地上へ続く階段を上がる。薄暗い地下から一歩抜けると、夕暮れの赤がじわりと視界を染めた。

記人の心臓はまだ落ち着かない。脈が、いつもより速い。仲巻はというと――


「アイス買わね?」

などと、まるで何も見ていないかのように軽い。


(どうして……仲巻はあれだけの光景を前にして、

 何ひとつ揺れないんだ?)


疑問が胸に刺さる。

言いかけたその時、


「ねえ、花折くん」


背後から名前を呼ばれた。

記人は反射的に振り返る。

そこに立っていたのは――


剥原 渚。


白いシャツの袖を風に揺らし、光のない瞳だけがやけに印象的だった。


「今日、地下で倒れてた人……見た?」


記人は喉がひくりと動いた。


「……見て、ない……です」


「そっか」


渚はごく自然に微笑む。

だがその目の奥は、完全に“凪いで”いた。


「気をつけてね。ああいう人、最近多いから」


そう言って渚は去る。

風に髪を揺らしながら、校門の外へ。


「今の、剥原さんだよな?」

仲巻が訊く。


「……うん。同じサークルの」


「へぇ〜。あんま喋ってるとこ見たことねーけど。記人、意外と顔広いじゃん」


「……そうでも、ないよ」


記人は言葉を途中で止めた。

胸の奥に、またひとつ棘が刺さったような感覚がする。


(なんで、渚さんの声……あんなに“落ち着いてる”んだ?)


何かを知っているような、

記人の“先”を歩いているような……。

その違和感は、まだ小さい。

しかし確実に、膨らんでいた。


渚は校門を出て少し歩き、

夕日の色に包まれた路地の角で立ち止まる。


その視線の先に――

黒縁メガネの男が立っていた。


平良 公正。


薄いコートに無精ひげ。

どこか疲れたような、しかし鋭い観察者の目。


「渚。……で、どうだった?」


公正が尋ねる。

渚はポケットに手を入れたまま、横目で記人と仲巻の方を見た。


「“観測者”だったよ。

 記録しようとして、ノートが揺れてた」


「やっぱりな。あの子は稀少だ。“見る側”の人間だ」


公正はタバコに火をつけ、煙を吐く。


「最近動きが多い。澪も近くにいたんだろ?」


渚は少しだけ口角を上げた。


「うん。地下の裁き、しっかり“視た”。

 あの程度の男なら澪の裁きで十分だね」


公正は鼻で笑う。


「お前も興味深そうに見てたじゃねぇか」


「興味じゃないよ。確認してただけ。

 ――澪の正義の軌道が、どれだけ“揺らいでるか”」


「揺らいでる、ね」


「ねえ、公正」


「なんだ」


「澪の裁き、少し乱れてたよね」


「気づいたか」


公正が煙草を踏み潰す。


「仲巻勇士。“あいつ”が近くにいたからだ」


渚はつぶやくように笑う。


「……本当に厄介。

 あいつを見てると、こっちの正義の方が間違ってる気がしてくる」


「お前が苦手な“無”。

 そして澪が揺らぐ“空白”。

 そこに奴が居続ける限り……

 正義は崩れるぞ。間違いなく」


「でもまあ、今日のところは“ただの観察”でいいだろ」


「うん。澪もまだ正義の軌道に乗ってる。

 ――でも、もうすぐ歪むよ」


夕日は長い影を落とした。

その影が路地の奥へ溶けていくとき――

渚の声が風の中に溶けた。


「……正義は壊れる。

 壊れた後で、私が全部……“導く”から」


夕暮れの残光が伸びる通学路。

記人と仲巻は並んで歩き、その少し後ろに――

いつの間にか、斬島 澪がいた。足音はない。

影も、風も、揺らさない。ただ“存在だけ”が世界を冷やす。記人は振り返り、息を呑んだ。


「……澪、さん……?」


澪は答えない。

ただじっと、記人の観測ノートを見ているようだった。


(さっきの……裁きの続き……?

 でも、なんで……僕のことを……)


胸がざわつく。

言葉にならない恐怖が喉に張りついた。

仲巻はまったく気づかないまま、イヤホンをつけて歩いていた。その瞬間――


世界が、一秒だけ止まった。


風が止まる。鳥の声も途切れる。

街灯の点滅が、ひと拍遅れて固まった。

記人の視界に、白い波紋がゆっくり広がる。

水面を逆再生したようなねじれた円。


(また……この感覚……!)


心臓が跳ねる。


そして――

向こうから、二つの影が歩いてくる。


剥原 渚。

平良 公正。


二人の影が長く伸び、

澪と記人の影と重なる直前。


――ひび。


記人の胸の奥で、

小さく“割れる音”がした。

理由は分からない。

ただ本能だけが叫ぶ。


(なんだこれ……今すぐに逃げ出したいのに体が動かない……!)


渚が記人の方を見る。目には色がない。

海面の底のように、凪いでいる。

公正は澪を見て、軽く眉を上げる。


「ずいぶん乱れてるじゃねぇか、澪」


澪は返さない。ただ渚のほうを、静かに見ている。

白い波紋が渚の足元で揺れ、

澪の影から一羽――黒い蝶がふわりと浮かぶ。

蝶は渚に向かって飛ぶ。

渚は目を細め、声を出さずに囁いた。


「……来ると思った」


蝶が渚の眼前に来た瞬間――

“逆流する風”に巻かれたように軌道がぶれる。

黒い羽が震え、波紋の縁に触れた途端――


パァンッ


乾いた音を立てて、黒砂となって崩れた。

記人は息を呑んだ。


(……また……砂……!

 なんで……渚さんに近づくと……)


渚は、消えた蝶を見送りながら、

ほんのわずかに微笑む。


「観測者。

 またすぐに会うよ」


それは、記人には聞こえないほどの小声。

しかし澪には届いた。

澪の肩がほんのわずかに震える。

公正は“天秤の目”で3人を見比べ、

タバコの火を指先でつぶしながら言った。


「さて……今日は、ここまでかね。

 これ以上は均衡が崩れる」


その瞬間。止まっていた世界が、ゆっくり溶けるように動き出した。光が揺れ、風が戻り、鳥の声が再生される。記人は膝が震えた。


(なに……今の……

 あれは絶対、ただのすれ違いなんかじゃない……)


澪は公正たちを一瞥し、

影を引きずるように通り過ぎた。

胸の奥に残った違和感は、消えないままだった。



自宅に戻ると、記人は机の前に座り、ノートを開いた。震える指で文字を書く。


『黒い蝶が砂になった。

 地下通路で、波紋が乱れた。

 渚さんと公正さんと澪が……』


シャッシャッ。


書いた瞬間、

二重線が勝手に走り、文字を“殺した”。


ぞくりと背筋が冷える。


(また……だ……。

 どうして……僕の記録だけ……)


ペンを握り直す。


――ページが、勝手に揺れた。


黒い蝶の絵があるページがめくれ、

そこに“知らない文字”が浮かび上がる。


『観測はまだ浅い。

 深く覗けば、正義は形を失う。』


記人の呼吸が止まった。


(これは……僕じゃない……誰が……)


そのとき。


――視るな。

――まだ、お前の心は耐えられない。


声がした気がした。性別も距離も分からない、無機質な忠告。記人は震えながらノートを閉じる。

もうこれ以上は書けない。胸の奥で、黒い蝶が羽ばたく音がする気がした。



その頃、街灯の薄い光の下。

渚と公正は静かな路地裏に立っていた。

渚はさきほど蝶が崩れた地点を見つめ、表情ひとつ動かさず言う。


「……澪の“正義”、少し濁ってたね」


公正が鼻を鳴らす。


「分かってるさ。

 原因の半分はアイツ――仲巻勇士だろ」


渚は目を伏せる。


「空っぽなの。あれ。

 触れても、読もうとしても……

 何も感じない“白い無”。

 ……裁く基準すら持てない」


公正はタバコの火を指で消しながら言った。


「澪も、あいつの近くでは乱れる。

 波紋が揺れ、黒い蝶が“形を保てない”。

 ――正義の執行が壊れる予兆だ」


「壊れていいよ。

 そのあとで、私が全部“導く”」


渚の声は静かで優しい。

しかし、底が抜けている。

正義を導くという言葉に宿るのは、慈愛ではない。

“欠落した者の確信”だ。夕暮れの残光が二人の影を伸ばし、そのまま遠くへと溶けていった。



記人はベッドに座り、窓の外をぼんやりと見つめていた。世界がいつもより少しだけ歪んで見える。


「……僕は、本当に……大丈夫なのか……?」


弱い声が漏れた。


そのとき。


窓の外の電柱に――

黒い蝶が一羽、ふわりと止まった。

羽が震え、

影がわずかに揺れる。

次の瞬間、蝶は――

砂のように崩れ、夜へ溶けた。

記人は気づかない。

その現象こそが、

“正義の均衡が裂け始めた”兆しだということを。




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