第弐話 「日常と違和感」
雨の降った翌朝、駅のホームは湿った空気をまとい、
線路のきしむ音が遠くから響いていた。
花折記人は改札を抜けた直後、胸の奥がざわつくのを感じた。
――何かを失くしたような。
――けれど、その“何か”が思い出せない。
昨夜、ノートを書いている途中で手が止まった。
ページの中央に、黒いインクを落としたような“染み”だけが残っていた。文字を書こうとするたびに、なぜかペン先が震え、線を引くとその上に“二重線”のような黒が滲み出て、文字を呑み込んでいった。
(……まただ。前回と同じ。
まるで誰かに“書くな”と上書きされているみたいだ。)
静かに息を吸い、前を向く。
すると目の前で、スーツ姿の中年男性が
大きく肩を揺らしながら、こちらに向かって真っすぐ歩いてきた。
(あれ……この人、どこかで……?)
ぐしゃと胸の奥で記憶の粉末がかき混ぜられたような感覚が走る。その瞬間、足が硬直した。
ぶつかる――そう思った。
だが、次の瞬間“すれすれ”で進路が変わったように見えた。まるで“何者か”に肩を掴まれて動かされたかのように。男はそのまま通り過ぎ、舌打ちをしなかった。記人の胸は鼓動を強め、喉が乾く。
(……何だ、今の。)
無意識に背後を振り返る。
――いない。
そこに、“少女”の影はなかった。
だが、脳裏のどこか深い層で、黒い蝶が羽ばたく気配だけがした。その瞬間。記人の視界の端に “黒い羽が一片だけ、すっと溶ける” 光景がよぎった気がした。
翌日
一限目のチャイムが鳴る五分前。
1年B組の教室は結露のようなざわめきで満ちていた。
後ろから声が飛んでくる。
「おい記人、席替え最高じゃね?
前にお前、後ろに俺。授業中でも話せるじゃん!」
仲巻勇士。
天然のようで計算が立たない、しかし妙に明るい男。
記人は肩越しに振り返る。
「仲巻……朝からテンション高すぎ。
まだ眠いってのに。」
「眠いって、昨日も夜更かししてたろ?」
勇士は机に頬杖をつきながら笑う。
「教科書に“黒塗り”とかしてただろ。お前の悪い癖。」
「……あれは癖じゃなくて……」
言いかけて、口を閉じた。本当は“黒塗り”ではなく、“黒が勝手に滲んでくる”のだなんて言えるわけがない。
勇士は気にせず話題を切り替える。
「そういや体育祭の準備どうするよ?
俺リレー出たいけど、お前も走んない?」
「走る以前にクラス委員が決めるでしょ……」
「いいじゃん!走れって言われたら走れよ!
マジで俺か記人のどっちかが決めたら勝てる気する んだよなぁ。」
相変わらずテンションが軽い。
ふざけて見えるが、なぜか彼は人に嫌われない。
それが、時々不自然に思えるときがある。
(……何も考えてないように見えるけど……
本当に“何も”考えてないのか?)
黒い部屋のような無機質な“何か”が、記人の脳裏をよぎる。しかしその正体は、まだ名前が付かない。
放課後。
記人は、図書館横の倉庫を間借りして作られた
“心理研究サークル”へ向かっていた。部員は三人。
記人、勇士、そして――
「花折くん、昨日わたし達が話してた“認知の歪み”の本、持ってきた?」
扇風機の前で髪を結び直していた少女が声を上げる。
剥原渚。
記人のクラスとは別の1年A組、
冷たさと柔らかさが同居したような、不思議な雰囲気の少女だ。
「持ってきたけど……
今日はやけに機嫌良さそうだね。」
「うん。いい“観測結果”をもらえたから。」
観測――?
喉がわずかに震えた。渚は記人の反応を気にすることなく、机に本を並べながら続けた。
「ねえ花折くん。人ってさ、
“本当に見たいもの”しか見ない生き物だって思わない?」
記人は答えられず、手が止まる。
渚の瞳の奥に、夜の水面のような揺らぎが見えた気がした。勇士が後ろからふざけて話に割り込む。
「渚ってたまに怖いよな!
深いこと言ってるのか、ただの変人なのか分からん!」
「勇士くん、静かに。」
渚は笑った。
しかしその笑みは、どこか薄氷のようだった。
(……この人は、何を“観て”いるんだ?)
胸にうっすらとした不安が灯ったまま、記人はその日の活動を終える。だが――
この後、あの雨の日の記憶が“形を伴って”蘇るとは、
まだ知らなかった。
学校が終わり帰宅途中。夕焼けの光がアスファルトを赤く染め、街路樹の影が伸びていく。記人は信号を待つ間、ふと胸にざわつきを覚えた。
――あの日と同じ“前兆”。
耳鳴りのような、黒い羽音のような。ただ、確かな形を持たない“違和感”。
(……思い出す……いや、思い出させられている?)
信号が青に変わる瞬間、脳裏に“映像”が落ちてきた。
水が滴り落ちる薄暗い駅の通路。床に広がった雨水の反射。そして――
舌打ちをして女性にぶつかる中年男の姿。
(……この男……)
そこから記憶は、滑るように“その先”へ進んでいく。
男が怒鳴りながらコンビニへ入ろうとした瞬間。
“黒い影”が男の背後に立っていた。制服姿。
濡れた前髪。手には一本の刀。
その刃先に、黒い蝶が一羽、すっと舞い降りて――
溶けた。刃が淡く黒く染まっていく。
風もないのに、少女の髪だけが揺れる。
「……あなたの罪を確定します」
空間が一瞬だけ、沈んだように静まり返る。
男が振り返る。そして、光景は真っ二つに裂けるように“暗転”。記人はその場に膝をつきそうになる。
(これ……澪……?前回と違う……
今回は第二段階だ……なんで覚えて……?
いや、なんで今、浮かぶ……?)
胸の鼓動が激しくなり、呼吸が浅くなる。
だが、その混乱を引き裂くように、
突然、肩を“すっ”と撫でる風が通り抜けた。
“誰か”が横に立っている気配。
(まさか――)
記人がゆっくりと横を見る。
――いない。少女の姿も、黒い蝶も。
だが、地面の上に黒い小さな欠片が落ちていた。
指で触れようとした瞬間、
その欠片は“塵”となって消えた。
(……仲巻が近くにいないから……消えた?
いや、偶然でも……必然でも……
嫌な予感しかしない。)
震えが、骨の奥から湧き上がってきた。
駅を抜け、家までの帰路に入ったときだ。
通りの向こうから、
二つの影がこちらへ向かって歩いてきた。
男――スーツ姿。手には黒い手袋。横顔は見えない。
そして、その隣を歩く少女。スカートの裾が揺れ、
水たまりを踏まないように軽やかに進む。
剥原渚。
(……渚?なんで……この場所に……)
信号を挟んで向かい側。
彼女の視線が、わずかにこちらへ向いた。
ふっと、笑った。だがその笑みは、サークルで見せる柔らかいものではなく――どこか“観測されている側”のような、冷たい含みを帯びた笑みだった。
隣の男が、記人の方をちらりとも見ずに歩を進める。
隣を歩くその男──細身のスーツ姿。
声も名前も、もちろん知らない。
けれど、どこか “空気が薄い場所にだけ立っているような” 不自然さがあった。
一瞬だけ、記人の視界の端で周囲の音が遠のく。
風景から輪郭だけが切り抜かれたように、男の存在がふっと色を失った。
彼の靴音は、周囲の雑踏よりも妙に重く響いた。
目線が交錯した刹那、胸の奥で何かが“ぱちっ”と弾けた。頭のどこかがしびれ、視界が少し揺れる。
渚は記人から目を離し、黙って歩き去る。
彼女の背中から、“白い波紋”のような空気が微かに揺らいでいた。
(……まさか……渚も……“あちら側”……?)
記人の喉は乾ききり、声が出なかった。
家に着いてからは真っ先に部屋の机に座り、記人はノートを開いた。そこには、駅で見た情景を脳が勝手に書き起こそうとするように、手が震えながらペンを走らせていく。『中年男性 コンビニ前 黒い少女――』そこまで書いたところで、ペン先のインクが一瞬で黒く拡張し、文字の上を“塗りつぶして”いく。
(……来た……また……!)
黒いインクは蝶の形を作り、そのまま“崩れ”、
ページ全体に滲むように広がり記人の手が止まる。
(まるで……記録するな”と言われているみたいだ……
でも、今は書かなきゃ……忘れたくない……)
だが、書こうとすればするほど、
文字は勝手に“二重線”で消されていく。
その瞬間――窓の外で、風が微かに揺れた。黒い蝶の影が、ノートの上にひとつだけ、そっと落ちたように見えた。記人は震えながら、ノートを閉じた。
翌朝。
記人は教室に入る前、無意識に胸を押さえた。
(……昨日のあれ。本当に見たんだよな……?
でも……もし全部、勘違いだったら……)
黒い蝶。
渚と公正のすれ違い。そして、駅での裁き。
どれも鮮明なのに、どこか“輪郭が曖昧”。
ピントの合わない写真みたいに、少しずつぼやけていく。席についた瞬間、仲巻勇士が声をかけてきた。
「おはー。昨日さー、駅でやばい都市伝説見たって言ってなかった?」
「……言ってないよ。」
「言ってたって。ほら、“黒い蝶が舞う女の幽霊”とかさ。」
記人は背筋が凍る。
(いや……言ってない。そもそも勇士に何も……)
「誰だよそれ。
蝶とかいたら逆にみんな写真撮るだろ。
少女?いやいや、駅にいたら絶対バレるって。」
その軽い調子が、逆に恐怖を深めた。
(嘘だろ……僕が見たのは……夢?それとも……)
勇士は笑いながら、机に突っ伏した。
「マジで記人はさ〜、疲れてんじゃね?
ほら、体育祭も近いし。俺ら、心理研究サークルで
“集団妄想”とか扱ってるじゃん? そのせいだっ て。」
記人は俯く。
(いや……違う。 僕は確かに……見た。
“黒い刃”と“黒い蝶”、そして……澪。)
その瞬間、視界の隅で“黒い何か”が揺れた気がした。
だが、見たときにはもう消えていた。
昼休み
購買でパンを買った帰り、A組の前を通ると
渚がひとりで廊下に立っていた。
記人に気づくと、薄く笑った。
「花折くん。昨日、駅で倒れそうになってたよね?」
記人の腹の底が凍りつく。
「……見てたの?」
「見てたよ。
あなた、ああいう光景に弱いタイプなんだね。」
(“光景”……?)
彼女は続けた。
「ねえ、花折くん。昨日の“黒い影”、まだ覚えてる?」
「っ……!」
なぜ知っている。言っていないのに。
渚の声は淡々としているのに、
記人の心臓は強く脈打っていた。
「人はね、自分の都合の悪い景色だけ
“忘れるようにできてる”んだよ?
たとえどれだけ鮮明でも。」
「……渚……君は……」
問いかけようとした瞬間、
渚は小さく首を傾げ、囁くように言った。
「でも忘れられない人間もいる。
観測してしまう側の人間とか。」
“観測”――
その言葉に反応して、背中が冷たい汗で濡れた。
渚は何かを知っている。記人よりも、深く。
恐らく澪の存在すら。
「また放課後、サークルでね。」
そのまま教室に戻っていった。
残ったのは、記人の中の“黒いざわめき”だけだった。
その日の夜
再びノートを開き、記人は一日の記録を始めた。
『渚が“観測”に言及
駅 黒影 蝶
記憶のずれ……』
書き進めるたび、
黒いインクがじわりと滲む。
そのたびに記人の胸が冷えた。
(また……か。これを消してるのは……誰なんだ……)
ページをめくると、
前日の“黒い染み”が更に広がっていた。
そこへ――
“コツッ”と窓が小さく鳴る。
反射的に振り向く。
……何もいない。
だが、視界の端で黒い蝶が“はらり”と舞ったように感じた。記人は立ち上がり、窓の外を覗く。
街灯の下、二つの影が並んで歩いていた。
ひとりは黒いスーツの男--公正
もうひとりは---渚
会話は聞こえない。
だが二人の歩調は完全に揃っていた。
(……やっぱり……渚は……“あちら側”だったんだ……)
その瞬間、黒い蝶が一羽だけ、記人の部屋へ舞い込んだ。光に触れた瞬間、砂のように崩れて消えていく。
記人は震える声で呟いた。
「……違う……
これは……きっと、まだ序章にすぎない……」
椅子に座り込み、ノートを閉じる。その指先には、
かすかな黒い粉が付いていた。記人は知らなかった。
この日を境に、自分の周囲の“観測”が歪み始めていくことを。
黒い蝶は記人を選び、
白い波紋は渚を呼び、
そして“裁けない者”は
ゆっくりと幕を開けようとしていた。
第二幕は、
静寂の底から始まる。




