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利己ノ澪  作者: 夢叶 藍
1/1

「観測者と、黒き蝶」

人が消えると、街の音は少しだけ優しくなる。

ざわめきの減った通学路、汗ばんだ制服の襟元、

蝉の音の残響だけが耳に刺さる。

そんな静寂を割って、カツン、カツンと規則正しい 足音が響いた。


その足音は、まるでこの世界に溶け込まない異物のようだった。いや、違う。世界の方が彼女に逆らえないのだ。そう思わせるほどに、その少女は静かに歩いていた。


斬島澪――。

名を知る者は、ほとんどいない。

彼女を見た者も、翌日には思い出せない。

この街に棲む、正義の化身。

あるいは、審判の亡霊。


今日もひとつ、裁きが執行される。

それを、僕だけが知っている。


「なあ記人、聞いたか? また都市伝説、更新されてんぞ!」


放課後の教室で声をかけてきたのは、仲巻勇士。悪戯好きで、少し軽いが憎めない親友だ。僕――花折記人は、その日、窓の外をぼんやりと眺めていた。


 「都市伝説って……また”黒蝶の少女”か?」


 「そうそれ! 今回は駅の構内で、女がヤバい中年にぶつかられてたのに、男がその後突然震え出してさ、次の日には別人みたいになってたんだと!」


 「そんなことあるわけないだろ、所詮噂だ」


興味ないふりをした。けれど、本当は知っている。

僕は“観測者”だ。彼女の裁きを、唯一、記録できる存在。この世界の理から少しだけ外れた、ただ一人の傍観者。


駅構内。平日の午後、帰宅ラッシュには早い時間帯。人々が足早に通り過ぎるなか、スーツ姿の中年男性が、無造作に前方を歩く女子高生の肩にぶつかった。避けようとすれば避けられた距離。だが、男は微塵も減速しない。


 「チッ……邪魔なんだよ、女のくせに」


小さな舌打ち。

相手が女子高生だから。年下だから。

抵抗しないと 踏んだのだろう。

だが、男は知らなかった。


目の前の少女が――

斬島澪であることを。


 「あなたの罪を確定します──正義執行」


その言葉と同時に、黒い蝶が一羽、音もなく舞い降りた。

人々はそれに気づかない。だが男だけは、次の瞬間、ガクンと膝をついた。


 「ッ……! な、なんだ……身体が……!」


男の全身に、冷たい汗がにじむ。呼吸が荒くなり、鼓動が速まる。視界が歪む。何かに見られている。何かに裁かれている。


澪は男に背を向け、再び静かに歩き出した。

黒い蝶は、彼女の刀の刃先に溶けて消えた。


その姿を、僕は見ていた。

校舎の屋上から、そっと、遠くの駅を望遠鏡で覗きながら。今日もまた、彼女は“正義”を執行したのだ。


帰宅後、僕はいつものようにノートを開いた。

罫線の上にペンを走らせ、今日の“観測”を記録していく。


 『2025年5月17日 16時43分。駅構内にて、澪による裁きが実行。対象:中年男性(30代後半〜40代前半)。故意による接触、性別への攻撃的言動。裁きは第二段階に相当。発動時のセリフ「あなたの罪を確定します──正義執行」。黒蝶一羽確認。罪花の名:三途の裁き。』


僕は、黒い蝶に密かに名をつけている。

誰に言うでもなく、ただの記録として。

 “罪花”と呼ぶそれらは、澪の刀に溶けるとき、まるでこの世界から罪を切り離しているように見える。


翌日。学校に着くと、勇士が興奮気味に近づいてきた。

 「なあ記人、昨日言ってた駅の件……マジでやばいって!」


 「また何かあったのか?」


 「いや、ぶつかった男な。駅員にすげぇキレてたやつらしいんだけど、今朝、近所の清掃ボランティアに参加してたってよ」


 「え……性格、変わった?」


 「しかも寄付もしてたらしいぞ? “社会の役に立ちたくて”とか言ってたらしいが、あの人がそんなこと言うはずないってさ」


勇士の目は期待と興奮で輝いている。

彼はまだ気づいていない。この都市伝説が、現実に根を張っていることに。


昼休み、僕は屋上で弁当を広げながら、ふと背筋に寒気を覚えた。風が止み空気が重くなる。誰かに見られている――そんな錯覚。


 「……澪?」


校舎の影に、一瞬だけ制服姿の少女が見えた気がした。けれど、次の瞬間には誰もいなかった。


いや、そうじゃない。澪は“いなかった”んじゃない。

“記憶から消えた”のだ。


僕はまた、記録する。

記憶に抗うように。存在をつなぎ止めるように。


 『斬島澪、視認記録。距離約30m。観測成功。痕跡なし。校舎影にて確認。接触なし。』


帰宅後、ふとスマホを開くと、ニュースには何の異常も報じられていなかった。“中年男性が突然人が変わった”という怪奇現象も、“女子高生による異質な現象”も、ネット掲示板にすら残っていない。あるはずの出来事が、なかったことになっている。


「……まるでこの街が、澪に順応してるみたいだな」


僕は思わずつぶやく。

その言葉に、自分でもゾッとした。

夜、布団に潜りながらも、澪の姿が脳裏から離れなかった。

ぶつかった瞬間に見せた、男の怯えた表情。

それとは対照的に、無表情で歩く彼女の横顔。


 「斬島澪……君はいったい、何者なんだ」


彼女の“正義”は、誰のためにあるのか。

何を基準に、誰を裁くのか。


翌朝、僕はふとした違和感で目を覚ました。

寝ぼけた頭で、机の上のノートに目を向けると、そこには昨日書いたはずの観測記録が何もなかった。

真っ白なページ。

インクの染み一つすら残っていない。


「嘘だろ……書いたはずなのに消えてる……!?」


急いで他のページをめくる。日々の観測記録が、ことごとく消えている。


 だが、そのとき――


 ペンが勝手に動き出した。


否、手が、勝手に記録を始めたのだ。

記憶が、脳に焼きついた情報が、まるで深層から浮かび上がってくるように。


『罪花:三途の裁き──これは、存在しないはずの記録である。されど、確かに記憶している』


ペン先が止まった瞬間、僕の手に黒いインクの染みが広がっていた。滲んだそれは、まるで澪が残した“観測の代償”のようだった。


次の日、学校に向かう途中、ふと改札前で立ち止まる男の姿があった。あの男――駅で澪に裁かれた、あの中年。


彼はコンビニの前に立っていた。まるで何かを思い出したように顔を歪め、何かを言いかけて……そして、静かに口を閉ざした。目だけが、怯えていた。フラッシュバック。あの瞬間の“記憶”が、彼の中でこだましていた。彼は何も言わず、募金箱に小銭を入れて立ち去った。まるで、それが自分を守る唯一の手段だと言わんばかりに。


放課後、屋上でノートを広げた僕は、ある“名前”を記した。


 『一輪の罪花』『三途の裁き』『無明の蝶群』


黒い蝶たちに、僕は密かに名をつけていた。

観測者として、彼女の裁きがどれほどこの世界に影を落としているのかを記録するために。


僕以外の誰も気づかない。

彼女が存在していた痕跡は、観測できない限り、世界から完全に抹消される。


でも、僕だけは知っている。

彼女の“正義”は、まだ終わっていないことを。


学校からの帰り道、ふと商店街の奥に目をやると、一人の女子生徒が立っていた。こちらに背を向けて、どこか懐かしい佇まいで。風が止む。空気が張りつめていく。


彼女はゆっくりと、こちらを振り返った。


 ――斬島澪。


だがその瞬間、視界の端にもう一人、別の少女の姿があった。


すれ違いざま、僕と視線が交錯する。

制服のスカートが風に揺れ、髪がひと房、唇をかすめるように流れた。見覚えのない顔。でも、なぜか目が離せなかった。


彼女は、澪の裁きを“目撃していた”。


 ……それなのに、笑っていた。

 その口元には、笑みが浮かんでいた。


 ――それが、“渚”の始まりだった。


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