出雲碧は中学生のフルート吹き (学生オーケストラ団員の箱詰めをどうぞ ~大学オーケストラ団員の恋愛事情~)
「フルートパートへようこそ。えっとー」
「出雲碧です」
碧はぺこりと頭を下げた。
「出雲さんね。よろしく」
碧の担当になった一つ上の先輩東山真一と初めて会ったのは吹奏楽部に入部して希望したフルートパートに入ってからだった。
「とりあえず、フルートパートを案内するよ」
真一は楽器置き場とフルートパートの練習に使っている教室に碧を連れて行き、先輩達とすでに練習を始めているもう一人のフルート希望だった一年生松山遥を紹介された。
遥は小学生からの経験者だったので先にフルートパートに配置されており、もうパート練習に参加している。碧はそれを見て自分も早くフルートを吹きたいと思った。
「出雲さんは全くの初心者だよね」
「はい」
「じゃあ、最初はこれで音を出す練習をしよう」
渡されたものは500mlのペットボトルだった。碧はがっかりした。
「あの、これは」
「そう、ペットボトル。最初はこれでコツをつかんでみよう」
真一はそう言うと自分の持っているペットボトルを自分の口に持って行き、音を鳴らして見せた。
「こんな感じで音を出して見て」
碧は見よう見まねでもらったペットボトルに息を吹き込むが真一の様には音が出ない。顔を真っ赤にして吹いてみても息がむなしく風切り音になるだけとなる。
「ちょっと借りるね」
真一はそう言うと碧のペットボトルを持って口に当たっている位置を調整した。
「これでどうかな」
碧は再度息を吹き込んでみる。今度は一瞬だけボーっと音が出たが、少しクラクラしてきた。
「そうそうそんな感じ。音のなるポイントは人によって違うから、自分で探ってみて。じゃあ僕はパート練習に行くから、しばらくこのまま続けといて。椅子は教室の使っていいから」
碧は廊下でペットボトルを吹き続けた。初心者の一年生はみな廊下で音を鳴らす練習をしている。同じ階にはクラリネットとサックスもいて鳥の鳴き声のような音が廊下に響いている。
しばらくやっているうちにだんだんとコツは分かって来て、ボーっと音が鳴らせるようになって来た。
休憩になったらしく真一がやって来た。
「あ、意外にコツつかむの早かったね。明日以降は10秒くらい音が鳴るのを目標にしてみよう。今日はこの後初心者全員で複式呼吸の練習をするから、一階の校舎裏に集合することになってるから移動して」
「はい」
「副部長が担当だからついていけば大丈夫だよ」
「わかりました」
一年生は横一列に並んで指導を受ける。
「じゃあ、まずは鼻から息を吸ってー。口から吐いてー。もう一回吸ってー。吐いてー。腹式呼吸ができていれば、吸うときに胃がゴロゴロする感じがあると思う」
確かに、息を吸うと胃がゴロゴロする。
「みんな出来たかな? わからない人は? 大丈夫だね。じゃあ次の段階。吐く息をコントロールします。みんな手のひらを顔から20センチくらいのところに置いて、そこに息を吹きかけます。ゆっくりたっぷり息を吸って、4秒かけて手のひらに息を吐き続けるように頑張ってください」
最初の頃はこういった基礎練習の日々が続いた。
碧は一か月ほどで楽器を使って練習ができるようになり、梅雨になる前には簡単な曲が演奏できるようになった。
「順調、順調」
真一はいつも褒めてくれた。
「ありがとうございます。 遥ちゃんが居るから教わりやすいです」
「経験者がいるとありがたいよねー」
真一はうんうんとうなずいた。
「この調子でいこう」
「はい」
碧はこの頃フルートの演奏が楽しくなり始めていた。徐々に出来なかった事が出来るようになり、音域も広がった。それに、「音が良い」とも言われるようになった。もちろん経験者の遥や先輩たちに比べるとまだまだなのだが、周りから褒められることの少なかった碧には嬉しかった。
ある日の夕方、碧は練習を終えて帰っていると、見知った人影を見つけた。真一だった。
(あれ? 東山先輩の家は私とは反対方向だった様な)
「ねえ、東山先輩じゃない?」
並んで歩いていた遥が言った。
「そうみたい」
「先輩ん家、こっちだったんだ」
「記憶違いじゃなきゃ……逆方向じゃなかったかな」
「そうだっけ? じゃ何でだろう。声をかけてみようか」
碧は嫌な予感がした。
遥は駆け出して真一に声を掛けた。
「先輩!」
真一は声に振り返ると遥をみて微笑んだ。
「あー。松山さんと、出雲さん。帰り道こっちなんだ」
真一は少し遅れてやってきた碧も見つけた。
「はい。先輩もこっちなんですね」
「あ、いや。家は逆方向なんだけどね。今日はおばあちゃんの家に行く用事があって」
「そうなんですね。じゃあ途中まで一緒でもいいですか?」
「ああ、うん。いいよ」
碧の目の前で、遥と真一は仲良さそうに歩いている。その姿を見て碧の胸がチクリと痛んだ。
翌日、練習初めにたまたま碧と遥は二人になった。
「あのね、私やっぱり東山先輩が好きみたいなの。昨日、はっきりそう思っちゃって」
「そうなの」
「うん。ね、応援してくれるよね」
「もちろん」
碧は明るく返事したが、気持ちはモヤモヤしていた。
その日以来、遥は真一に積極的に話しかけるようになった。
門までだが、二人で帰っている姿も見た。
碧はモヤモヤする自分の気持ちには気づいていたが、初めての事なので自分自身戸惑うばかりだった。
パート練習の休憩時間にたまたま真一と二人になった。
「出雲さん、だいぶ上手になったね」
「そうですか」
「いやいや、初心者から始めて半年くらいでこれくらいできるのは、才能あるんじゃない」
「いやー。それほどでも」
碧はおどけてみせた。
「あはははは」真一は声を出して笑った。
その時、遥が教室に戻って来た。
「ねえ、協力してくれるって言ったよね。何で先輩と仲良くしてるの」
「違う、たまたま話をして」
「やっぱり、先輩は碧が好きなのよ」
「ええ? そんなことは」
「先輩、ちっとも私に振り向かないもの」
どちらかと言うと、碧より遥の方が美人だ。少なくとも碧はそう思っていた。
自分の気持ちは別にして、東山先輩が自分になびくとは夢にも思っていなかった。
「そんなこと。だって遥の方がかわいいし」
「うそ。そんな事思ってないくせに」
「本当だよ。本当にそう思ってる」
「じゃあ何で、先輩は……」
「それは、私もわかんない。でも、応援してるのは嘘じゃない」
と言って、どうすれば良いのかは分からない。
「……わかった。信じる」
「うん。本当に応援してるから」
それから、3人の関係は変化は無かった。
碧は自分がちょっとふざける事が意外に周りを楽しませる事に気が付いて、その系統で売り出していた。そのうち、ちょっと毒を入れることも覚えた。
特に誰かと特別仲がいいというわけではなく、全体に仲良くなって行った。
しかし、それだと当然真一とも打ち解ける事になる。
遥からはずっと疑いの眼差しを向けられていた。
けれども、どうしようもできない事なので気にしないように努めた。
翌年の春、真一は親の仕事の都合で転校することになった。中学最後の年なのに転校することとなり残念がっていた。
「最後の年なのに、みんなごめん」
「謝らなくていいよ。東山君のせいじゃないし。でも寂しいわー」
フルートの3年生の先輩たちは特に残念がった。
「決めた。私告白する」
「うん。頑張って」
遥は意を決した様だ。
その結果はよくなかった。
終業式の日、練習を終えて碧は吹部の友人と帰っていたが、楽譜を忘れた事に気が付いて一人部室へ戻った。楽器置き場に入ると、まだ鍵が開いており、中に真一がいた。
「先輩も忘れ物ですか?」
「うん。いや、忘れ物が無いか確認してた」
「引っ越しはいつですか」
「来週」
「そうですか」
「俺さ、出雲さんたちが後輩で良かった。人に教えるの初めてだったし正直不安だった」
「二人とも、うまく育ってくれて良かった」
「私は、経験者の遥ちゃんがいたからラッキーでした」
「そうか。でも、」
その時、ガラッとドアが開いた。
「やっぱり」
遥だった。
「え? ち、違う」
「何が?」
「松山さん」
「二人とも、こそこそして!」
「違う、そんなんじゃない」
「じゃあ、何で二人でここにいるの!」
「それは、たまたま……」
「何なのよ、一体」
「遥。誤解よ」
「そうだよ。本当に偶然なんだ」
「私にはそんな偶然は起こらなかった。なんで、何で碧なの」
「遥。聞いて、本当に偶然なのよ。私はたまたま楽譜を忘れて取りに来ただけ。先輩は最後の忘れ物確認をしていただけ。それだけなの」
「何でなの、碧は人気者で、先輩とも仲良くて、ずるい」
「私はずるしてない」
碧は遥に向き直った。
「私は、遥みたいにフルートが上手でも、美人でもない。羨ましいのはこっちの方よ。男子に遥の事紹介して欲しいって言われたこともあるし。何言ってんの、むかつく」
「い、出雲さん?」
「確かに、私は東山先輩のことが、好きなのかもしれない。でも分からない。恋したことないもん。私は遥みたいに大人じゃないもん。いつもモヤモヤしてる」
「ちょっと、もう止めなよ二人とも」
真一は一息吸って話し始めた。
「松山さん、僕も松山さんはきれいな人だなと思ってたよ。告白も嬉しかった。でも、転校してしまうし、何しろ僕も恋愛経験がないので、いろいろと自信がないんだ。だから、今はだれとも交際なんて考えられないんだよ。松山さんだからという事ではなく。だから、今、喧嘩はやめて欲しい。今日最後の日だし、二人とも僕の後輩だし……」
碧ははっと息を飲んだ。
「ごめんなさい。私、先輩を悲しませるつもりは……」
「私も、すみませんでした」
「よかった」
真一は涙ぐんだ目で微笑んだ。
「二人ともこれからも仲良くしてほしい」
「東山先輩、碧ちゃん、ごめんなさい。私……」
「ううん。私も言い過ぎたみたい。ごめんなさい」
「もう帰ろう」
真一は鍵をかけて、職員室へ向かった。
昇降口で待ち合わせして校門まで3人で歩き、門を出ていよいよ先輩後輩のお別れとなった。
「それじゃあ。笑顔よろしく」
真一は右手をぶんぶん振ると、くるりと向きを変えて背中を向けて歩き出した。
碧と遥は角を曲がって見えなくなるまでその背中を見つめていた。
姿が見えなくなると二人は向きを変えて無言で歩き始めた。
やがて分かれ道となり、お互いに「また明日」と声を掛けて各々の家路についた。