聞書 うまれいづる娘 壱
今から記すことは、わたし自身の記憶によるものではない。
ポロチセ館に向かう、わたしが出会った親子、オウルフ・ユチさんと、その子どもたちである兄妹――特に、妹のユカラちゃんの出生にまつわる話を聞書したものだ。
狼を殺した父と、狼に殺された母、そして、その狼達の長を、もうひとりの母とするユカラちゃんの話を、この国に生きる民の姿を映す記録のひとつとして残しておくべきだと、わたしは思ったのだ。
――わたしは“子護り”の師である、婆様から、ユカラちゃんは、古くから草原に暮らしてきた遊牧民全てにとっての神獣、白銀の狼テングリの娘だ。と、聞かされた事がある。祭りの酒の席での話ではあったが、子護り衆の長であるヤヨスラ婆の言葉には、当時、ヤヨスラ婆の庇護を受ける、駆け出しの子護り役であったわたしにとって、笑って聞き流せないほどの、重みのあるものだった。
「・・・・・・あの子ほど、深い呪いと恵みのもとに生まれ落ちた赤子はおるまいよ――そして、それを見守るこの婆の命は、炉の隅に残るわずかな埋み火のようなものじゃ。ウルよ、おぬしにあの娘を託したいが、どうかね?」
「なんと!? 婆さまはあの子を、半人前の働きがやっとの者に、預けなさるおつもりか??」
「それはなんともお気の弱いことじゃ。婆様は、たとえ骸になろうと、ユカラに喰らいついてゆくかと思うたが?」
ドッと笑い声が上がる中、子護り衆に酒をついで回っていたわたしは、傍らのヤヨスラ婆の杯に酒をつぎ、姿勢を正すと頭を下げた。
「婆様。あの・・・・・・皆の言うとおりですよ? ボクは婆様から、まだまだ、たくさん学ばなきゃならないことが、あるんですから」
「なぁに、子護りが学ぶことなど、片手の指を順繰りに折れば足りる。そんなことよりもな、この婆はおまえさんにユカラの末を見届けて欲しいのだよ。このとおりだ。老いぼれた婆の願いを断るもんじゃないぞ。な? ウル坊よ?」
ヤヨスラ婆は、皺だらけの節くれ立った手でわたしの胸に触れ、髪を撫でながら、落ちくぼんだ瞳でじっとわたしの顔を見つめた。
「ユカラはな、特別扱いをして育ててはならぬ子だ。父と兄とともに、草原と都を行き来し暮らしていくことが、あの子の、ふたりの母の望みでもあろうよ。 よし。今からな、婆が、ユカラの生まれた時の話をしてやる――ああ、酒なんぞは飲みたい者が勝手に飲むわ。放っておけ」
ちいさな身体で円座の上に座り直し、煙草に火を点け、旨そうに煙を吐くと、ヤヨスラ婆は燃えさかる炎を見つめ、瞳を細めた。
「・・・・・・あの夜のことは、今でも忘れられぬよなぁ。深い闇に覆われた草原を渡って、産屋に向かう馬車の中でも、風に混じって、狼達の騒ぐ声が遠くから聞こえていた。雷が鳴るばかりで雨は降らず、鈍く黄色に染まった山向こうの空から、次々と黒雲が押し寄せてくる。産屋に向かうのを馬達が厭うて厭うて、なかなか脚も、進まなんだ」
――ヤヨスラがようやく草原の産屋に着いた頃、既に先着していた娘のポポリが、出産の仕度を調えているところだった。
「ああ、母さん! もう二日目なのよ? 奥様が辛そうで、わたしどうしてお慰めすれば良いのか・・・・・・」
「子を産むでもないおまえが、そんなに死にそうな顔をしていたら、メノワが心配するだろう。さあ、しっかりおし。熱い湯を途切らせちゃいけないよ」
産褥に備えた仕切りの天幕をよけると、ヤヨスラは床伏している、メノワの傍らに座り込んだ。
「まぁ・・・・・・婆様、すみません」
「ああ、動くな動くな。楽にしていなされ。子は動いているかね?」
ヤヨスラの姿に、身を起こそうとしたメノワを制して、ヤヨスラはメノワの衣を捲ると、腹に手をあてた。
「ええ・・・・・・でも、なかなか、顔を見せる気になってくれませんの」
「ふむ。余程、そなたの腹は、居心地が良いらしいのぅ」
疲労の影が滲むメノワの、ふくらんだ腹の赤子をあやすように、ヤヨスラは皺を濃くして笑った。
「まあ。母親としては、とても嬉しい言葉だけれど、早く顔が観たい・・・・・・ん・・・・・・っ!!!」
ヤヨスラの言葉に微笑んだ途端、メノワは疼痛に顔を歪めた。
「痛みは少しずつ間近になってきているんです。母さん、そろそろお願いできない?」
傍に控え、メノワの手足を湯に浸した布で拭うポポリの声に、ヤヨスラは頷いて立ち上がった。
「どれ、あまり急いても良くないが、このままではメノワも辛かろう? 仕度をするから、ユチにしっかり見張りを頼んでおいておくれ」
「それが・・・・・・旦那様は、まだお戻りにならないのよ。その・・・・・・狼達が、すぐ傍まで来ているって、大層お怒りになられて、先程、追い払いに出て行ってしまったの」
口ごもったポポリに、ヤヨスラはちいさく頷いた。
「やれやれ。ことがことだけに、産屋から遠ざけたい気持ちも分かるが、今は、狼どもを追い散らすより、湯の番などしてもらった方が、よほど役に立つだろうにのぅ。仕方あるまい、好きなだけ追わせておけ。男はここにいても気を揉むばかりだ。追うのに飽いたら、いずれ戻って来るだろうよ」
「婆様・・・・・・狼達が、この産屋の近くまで、来ているのですか・・・・・・?」
痛みが去り、ひと息ついたメノワが身を起こそうとするのを、ポポリが慌てて駆け寄った。背を支え、身を起こす間に、火に掛けられた鍋からヤヨスラは温めた山羊の乳と麦粒を混ぜた粥を皿に掬い、メノワのもとに運んできた。
「メノワや、これを飲みなさい。少しは腹に入れておかねば、おまえさんも赤子も、これからが山場だからね。ふむ・・・・・・狼どもが、人間の産褥の場にこれほど近づくとはな・・・・・・?」
「――婆様。この子が生まれた後も、わたしは・・・・・・この子から離れずにいられるでしょうか? こうしてお腹の中にいても、この子が・・・・・・どこか、遠い所に行ってしまうような気がして・・・・・・ならないんです」
自らのふくらんだ腹を愛おしげに撫でて呟くメノワの手を、ポポリは両手で包み込んだ。
「まさかそんな! お子様はきっと、奥様のお手元で立派にお育ちになりますよ。さあ、お子様のためにも、少しでもお召し上がりになりませんと、お身体が負けてしまいます。母もわたしも、おふたりのお側におります。どうぞご安心なさってください」
「ええ・・・・・・そうよね。ありがとう。ポポリ」
微笑んで頷き、ポポリの勧める粥の椀を手にしたメノワの姿をじっと見つめていたヤヨスラは、天幕を潜って隣の部屋に移り、静かに腰を下ろすと、懐から布と玉石を取り出した。
パチリと枝の爆ぜる音とともに、焚き火の明かりがトシカの天幕を揺らしている。
握った玉石を軽く投げるように、布へと放ったヤヨスラは、口の中で何ごとかを呟きながら、玉石を動かし始めた。
「母さん、旦那様がお戻りになられたわ。狼達は、もう近くにはいないそうよ」
「ふむ・・・・・・そうか。ユチには、このまま外を見張るよう伝えておくれ」
「ええ。でも、旦那様が、母さんに会いたいって」
「――今は、手が離せない。いずれにしろ明日の陽が昇るまで、狼どもは落ち着かぬよ。おまえは戸口で、自分の家族をしっかり守れと言っておやり」
草原の彼方の山並みに陽が落ち、風の吹き荒れる夜がやってきた。狼を射る弓矢を傍らに、じっと深い闇に向かって目を凝らしていたオウルフ・ユチは、時折聞こえてくるメノワの苦しむ声にとうとう腰を上げ、勢いよく天幕を捲り上げてヤヨスラの籠もる産屋に足を踏み入れた。
「どうなんだ、婆様?」
「まぁ、お待ちよ・・・・・・どれ、ようやっと見えてきたか・・・・・・?」
幾分疲労の増したように見えるヤヨスラの後ろ姿に、ユチは焚き火の向こう側、ヤヨスラの対面に回り込みどっかりとあぐらを掻いてメノワの産褥が設えられた隣室を苛立たしげに指差した。
「もう丸二日は経ってるんだぞ。いくらなんでも遅すぎるんじゃないのか?」
ゆったりと手を動かし続けるヤヨスラは、ちいさく息をつき、減り続けてゆく玉石の中のひとつを手に取ると、じっと見つめた。
「ふたり目とはいえ、女にとっては命を賭けた大仕事だ。男が魚を釣るようにそんなに簡単にボコボコ生まれるわけがないだろう・・・・・・狼どもがやけに騒ぐね。そろそろ産み時に近づいたか、それとも母親の命を獲りに来たか・・・・・・」
「母親!? 占手は何を示したんだ? メノワは、メノワはどうなる!?」
ヤヨスラに詰め寄らんばかりの勢いで大声を上げたオウルフは腰を上げかけ、隣室から聞こえてきたメノワの悲鳴混じりの呻き声にハッと我に返ると、やるせない心の内を吐き出すように溜息をつき、再びヤヨスラの対面に腰を下ろした。
ヤヨスラはたったひとつ残された玉石を手にすると、深く瞳を閉じた後、ゆっくりと対面に座すオウルフを見つめた。
「――オウルフ・ユチよ。よくお聞きな。わたしたちは狼の庇護と呪いからは逃れられない。あんたはメノワのために狼を殺した。ひとつしかない自分の命を守るためだ。例え神獣とはいえ、仕方あるまいよ。だがその狼は、決して手を出してはならない腹に仔を宿した雌だった。狼どもはもうじきここにやってきて、おまえのメノワを喰らうだろう。命は命で繋ぎ、身勝手に断ち切ることは許されない。これが占手の示した道だ」
ヤヨスラから告げられた言葉にオウルフは顔色を失い、はじけるように腰を浮かせた。
「そんな・・・・・・!! ポポリ! ポポリ!!」
隣室から疲労を濃くした様相のポポリが現れ、涙混じりにオロオロとゲルの中を行き来し始めた。
「随分と難儀されておいでです。ちっとも子が降りて来てくれません」
ポポリの言葉を耳に、ヤヨスラは広げていた布の上に玉石を集め、くるむように畳むと懐にしまい込んだ。
「自分が母体の外に出れば、まもなく母との別れがやってくる。それを感じているのだよ。身動きひとつせずにいつまでも眠っておれば、悲しい目にも遭わずに済む。だが、生まれる気のない子を長く腹に留めておけば、これもまた母体には障るだろうよ」
「――母さん! なんとかならないの!?」
ポポリの悲鳴混じりの声に、ヤヨスラは表情を変えずに淡々と言葉を返した。
「一度心を決めた狼が、聴く耳を持つものか。生まれるまでは手出しをしまい。生まれた子から母を奪うためだけに子を生かし、自分達の仔を殺めた母を喰らうのさ」
「殺したのは俺なんだぞ! なぜ俺を狙わない!?」
激昂するオウルフをヤヨスラは静かに見つめ、懐から羊皮紙を取り出すと、床にひとつ残されていた黒い玉石を包んで握り締めた。
やがて開かれた手の上で粉々に崩れた玉石は地面に散り落ち、後に残された紙には、黒々とした狼の横顔が浮かび上がっていた。
「・・・・・・占手は赤子の未来に、狼を示したのか・・・・・・? なぜ・・・・・・??」
「“狼”の名を持つおまえさんは、それだけでこの草原と狼達の庇護を受けておる。たとえ丸腰で草原に立ち、手足を全て喰いちぎられようと、それでもユチの名を持つおまえさんの命は奪えまい――恨みは、その者の最も大切な者に向かう。それが業というものだ」
「業を受けるのは俺だけじゃない! エオはまだ、たったのみっつだ! 今も母親を恋しがってメノワの衣にくるまったまま泣きどおしだ。俺はエオに、母さんと生まれて来る子を連れて帰ると約束した。婆様、俺にはもうどうする事もできないのか!?」
悲痛な叫び声を上げるユチを前に、ヤヨスラは落ちくぼんだ瞳を小さくしばたかせると、黒々とした狼の影を映した羊皮紙を炎にくべた。
「ここでただメノワと子の死を待つか、子を残して逝かねばならないメノワの苦しみを、ともに負って生きるか、選べる道はどちらかしかない。狼達は優しいよ。選ぶ自由をおまえさんに残してくれた――さあ、どうするね?」
「・・・・・・・・・・・・」
きつく拳を握り、唇を噛み締めて項垂れるオウルフの背後で、そっと涙を拭っていたポポリは、ハッとしたように隣室に飛び込んだ。
ちいさな問いかけの後、再びポポリは姿を現した。
「オウルフ! メノワがあなたを呼んでいます。どうか傍に・・・・・・声を掛けてあげてください」
ポポリの声に、オウルフは衣の袖で頬を伝う涙を拭うと、立ち上がった。
「婆様。狼が与えた自由を・・・・・・俺は選ぶぞ」
「ああ、それでいい。メノワもきっと喜ぶだろうよ」
ヤヨスラの静かな声にオウルフは唇を噛み締め、メノワの床伏せる産褥との狭間を仕切る天幕に手を掛けると静かに隣室へと入っていった。