其ノ陸**見習い書記官の特命
「・・・・・・―――わ、わわ・・・・・わた・・・・・・っ、に・・・・・・か、か・・・・・・、い・・・・・・っっ!」
「・・・・・・にかい?」
茶の入った器を震える手で包み込んだまま、めがねの奥で目を泳がせているわたしに、クコル尉官は首を傾げ、ああ。と、納得したように頷いた。
「そうですね。編纂の準備に使っていただくには、この書庫では手狭でしょう。寝泊まりもできるようにしておいた方が便利ですし、この楼閣に一室、あなたの仕事部屋を――」
「い、いえ! ・・・・・・あの、そうではなく・・・・・・尉官。先程申し上げました通り、わたしはそういったことには一度も携わった経験がありません。ついこの間まで、ヒツジやヤギとともに野歩きをしていたわたしのような者に、じっ・・・・・・次代の、王帝陛下様の國歌編纂など・・・・・・あまりにも、荷が勝ち過ぎます」
・・・・・・つ、つまり、先程の“にかい”とは、わたしには荷が勝ちすぎますので、今一度、お考えを改められた方が――と、言いたかっただけなのです。
あまりの出来事に顔を強張らせ、口の中でモゴモゴと言い募るわたしに、クコル尉官は微かな笑みを浮かべると、静かに腕を組んだ。
「ナタネさん」
「は、はい」
「じつは、あなたが文官の試験のために初めて登城され、お会いしていろいろとお話を伺った際に、既に老師とわたしは、あなたにこの件をお願いできればと、そう考えていたのですよ。
次代の國歌の物語の編纂に携わる者については、出自が学者や貴族の名家とは異なる者――つまり、この国を支える多くの民の日々の生活の苦楽を深く知り、彼等の心をそのまま國歌に映す事のできる者でなければなりません。次代の國歌の物語の編纂に必要なのは、文官としての深い知識や身分ではなく、民と同様の“目線と経験を持つ者”なのです。これは次期国王となられる、現王子殿下のご内意でもあります」
――お、王子殿下の・・・・・・ご内意?
王子殿下といえば、確かご幼少の頃に一般の国民から現王のお跡目に選ばれ登城された方だと、妹が以前に話していたような気がする。噂では、いわゆる王族の御方としては、少々変わったところがおありの御方なのだと・・・・・・たまたま、わたしがその“目線と経験”の条件に合っていたとしても、それこそどこにでもいるような、平々凡々としたヒツジ飼いあがりの見習い書記官などに、そんな重大なお役目を任せようなどと、皆様は本気でお考えなのだろうか?
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙しているわたしをどう思われたのか、尉官は机の上に積まれていた文献を手に取ると、最後の頁を開き、黙ってわたしに差し出した。
随分と長い時を経て開かれたのだろう、その古い頁には、文献を編纂した担当者の名と、家族――おそらく妻であり、子であろう者達の名が、連ねられていた。
「確かに、クニノウタは国民の心をひとつに纏め、その時代の国の歴史そのものを映し出すものでもありますから、それを纏めるにあたっていろいろと困難な事も出て来るでしょう。ですが、わたし達のように城の中で人生の大半を過ごす者は、例え職務上であっても、街に出て、民衆の生きる姿を知ることそのものが、彼等の警戒を呼び、王帝陛下や王子殿下への不信感を招くことにもなりかねません。
役人が必要以上に街中をウロついて、民に無用な誤解を与えない為にも、街中を歩き、民達の中にあっても不審に思われることのない、あなたの助力が必要なのです」
「こちらは・・・・・・編纂を担当された方が、書かれたものですか?」
クコル尉官の差し出す文献を手に取り、その古びた頁に綴られた言葉を眺めるわたしに、尉官は静かに頷かれると言葉を続けた。
「ええ、そうです。おそらく、この方は最後まで、御自分が國歌の謳い替えに携わっておられたことを、ご家族に伝えることができなかったのでしょう。同じ思いのもと、この本に携わる者の目にしか触れない場所に、せめてもの形にと、このような言葉を書き残されたのだと思います。
この任は、国家の内情に触れる部分も大きく関わって来ますので、編纂にあたり、ナタネさんにも守秘義務を担っていただかなくてはなりません――ナタネさんのご家族は、妹さんおひとりでしたか?」
「ええ。で、ですが、わたしの場合は家族の・・・・・・妹の助けなしには、とても編纂の作業はできないのではないかと思います。集めた資料から覚え書きを作り、実際に文献を書き起こす時も、わたしに知識や経験が不足している分、同じ立場で物事を見ることのできる他者の視点は不可欠になってくるでしょう。それに例え、お役目のためとはいえ、妹をひとりきりで家に残したまま、わたしだけが城に留まるわけにも参りませんので・・・・・・」
「わかりました。ではその件は、わたしから老師に伺っておきましょう。後は、ナタネさん御自身のお気持ちですが・・・・・・」
「・・・・・・尉官や老師様や、お役人の方々のご事情は承知致しました。
わたしが編纂に当たるとなれば、こういった作業に慣れておいでの文官の皆様よりも、御指南いただかなくてはならないことが、きっとたくさん出て来るでしょうし、ご迷惑をお掛けすることも多いかと思われますが、わたしが適任であるとお考えの上で、お声掛け下さったのでしたら、ぜひ、その・・・・・・喜んで、勤めさせていただきたいと思います」
尉官が差し出された文献の最後の頁には、家族の名前の後に感謝を述べる言葉が綴られていた――できることなら直接口伝えにしたかったであろう思いが滲み出てくるようなその言葉達を眺めているうちに、例え力不足でも、自らの努力でそれを補えと――父や母なら、そう言ってくれるのではないかと思えたのだ。
「そうですか! よかった。わたしも老師も、あなたならきっと、次代の王帝陛下の御世に相応しい國歌の物語を、編纂して頂けるだろうと期待しています。
・・・・・・ああ。あなたの仕事の手を止めてしまいましたね。では、作業の詳細については、また後日にでも話しましょうか」
「は、はい――よ、宜しくお願い致します」
クコル尉官は微かに笑って頷かれると、静かに書庫を後にし、一礼して尉官を見送ったわたしは、尉官の後ろ姿が扉の向こうに消えた途端、どっと気が抜け、ヨロヨロと傍らの長椅子に座り込んだ。
―――なんてことだ。どうしよう!?
い、いや。今更、どうしようだなんて、言ってはいられないのだが。
何だかとんでもないことに・・・・・・もし、老師の許可が降りなかった場合、いくら守秘義務があるとはいえ、あの勘の鋭い妹に隠し事だなんて、このわたしにできるんだろうか・・・・・・これはまずい、非常にまずいぞ!!
“わたしには隠し事があるが、それが何かは聞いてくれるな!”
そうスッパリと言い切れたなら、どれだけ良いだろうか?
「・・・・・・はぁ」
まだ、老師様からの返答が出ていないにも関わらず、妹の反応に気を揉んで、額に汗を滲ませたわたしは、ひっそりと溜息をついた。