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聞書 うまれいづる娘 参



 産後の肥立ちが思わしくなく、産屋の床に伏せたきりのメノワは、外を賑わす馬車の音に気付いてゆっくりと目を開けた。


「奥さま、旦那さまと坊ちゃんがいらしたようですよ。見てきましょう」


 身の回りの世話にあたっていたポポリがメノワに声を掛け、産屋の天幕に手を掛けた途端、弾けるような声とともに、ちいさな塊が産屋の中に飛び込んで来た。


「マア! マア! どこ? あっ! マア!!」


 まだ幼い少年は、メノワの声と姿を目にした途端、嬌声とともに傍に駆け寄り、布団に覆い被さるようにして母に飛びついた。


「エオ、マアはここよ・・・・・・おっと。あらあら、元気なひとが来たわね?」


「エオね、良い子だったよ。だからポルの馬車に乗って来たの」


 母の顔を覗き込み、再びぎゅっとメノワにしがみついた幼い息子の姿に、メノワは微笑んでエオの柔らかな髪を撫でた。


「うん。とっても良い子にしてるって、ポルがマアに教えてくれたわ、エオは偉いね。マアもエオに会えるまで、泣かないで良いマアでいるように頑張ったわ」


 ポポリに手伝って貰いながらメノワが布団の中から身を起こす間に、傍らに置かれた乳母籠をエオはじっと覗き込んだ。


「わあ、赤ちゃんだ。ちいちゃいねえ。僕の“いもうと”でしょう? ポルが女の子だって言ってたよ?」


「そうよ。あなたの妹のアヌ・ユカラよ」


 母の声に、エオは小さく首を傾げた。


「アヌ・ユカラ・・・・・・“夕焼けの詩”?」


 息子の仕草に母は笑い、彼の頭を撫でた。


「ええ。あなたと同じお空から名前をいただいたのよ。いい名前でしょう?」


 エオは母の布団の傍らにあぐらを掻いて座り込むと、乳母籠を覗き込み、手を伸ばして妹のアヌ・ユカラの頭を撫でた。

 ポポリは母子の対面に安堵の表情を浮かべ、そっと席を外すと産屋から出て行った。


「ボクが昼間のお空で、ユカラが夕方のお空だね?」


「ええ。あなたは“蒼天”ね。あなたが生まれた時、草原の上にはとてもきれいな青空が広がっていたのよ。マアが抱っこしたあなたの瞳には、深く澄んだ青空が映っていた・・・・・・本当に、きれいだったわ」


 手のひらで何度もエオの赤い頬を撫でる、少し疲れたような母の様子に、エオが心配そうに尋ねた。


「マア? まだ病気なの? ポルが都から薬草を持ってきたからね。飲んで早く元気になったら・・・・・・あ、ポル!」


 エオが振り返った産屋の入り口からオウルフが姿を現し、エオの隣にあぐらを掻いて乳母籠の中を覗き込んだ後、メノワの頬に指先を伸ばした。


「今日は随分と顔色が良いな。具合はどうだ?」


「ええ。なんだか今日はとってもいいの。もうすぐ起きられるかしら」


 微笑んだメノワの様子に、オウルフは頷いてエオの頭を撫でた。


「無理するな。しばらくの間ここでゆっくりするといい」


「ごめんなさい。家のことは大丈夫?」


「マア、早く帰ってきて。お家の中がぐちゃぐちゃだよ」


 エオの情けない声に、一同は笑い声を上げた。

 オウルフにうながされたメノワは再び床につくと、産屋の天幕を見上げ、ふわりと微笑んで話し始めた。


「あなた・・・・・・わたしね、この子をお腹に授かったばかりの頃に・・・・・・夢を見たの。産まれたばかりのちいさな赤ちゃんを抱いて、草原に立っていたわ・・・・・・可愛い女の子よ。わたしの前には・・・・・・たくさんの狼が集まっていた。その中に一匹だけ真っ白な狼がいて・・・・・・とてもきれいな、雪のように白く輝く毛並みを持つ美しい狼だった。その狼が言うの・・・・・・自分達の娘を、返して貰いに来たって」


「――白い・・・・・・狼!?」


 ハッとしたようにメノワの顔をみつめるオウルフに、ぼんやりとした瞳で天井を見上げていたメノワは、オウルフの顔を眺めて微笑んだ。


「そう言われた時・・・・・・腕に抱いたその子が、とてもとても遠いところに行ってしまうような気がして、思わずぎゅっと抱き締めたの。とても柔らかくて温かかった。初めてエオを抱き上げた時のことを・・・・・・思い出したわ。

 わたしね・・この子はわたしの、人間の子として生まれてくるから、あなたたちには渡せないって言い張ったの。そうしたら、白い狼がそれは違うって言うの」


「違う・・・・・・?」


 オウルフの言葉にメノワはちいさく頷いた。彼がメノワの手を取り両手で包み込むと、メノワは息切れしたように微かに息をついた。


「もう喋るな。少し眠ったほうがいい」


「いいえ、いいの。大丈夫よ。今話しておかないと・・・・・・わたし、忘れてしまいそうで」


 息を整えたメノワは、オウルフの顔を見上げた。


「“その子は自分たちの娘として産まれるはずだった仔”だって。その子を抱いているわたしに・・・・・・白い狼が近づいてきて、大切な娘だから見失わないようにと、名前を授けてくれたわ・・・・・・“ユカラ”と、必ずそう名付けなさいって。

 良い名前でしょう? ユカラ・・・・・・“叙事詩”よ。きっと素敵な女性になるわ。あの狼たちもこの子の誕生を待っていると言ってくれたから・・・・・・わたしも、もっと・・・・・・頑張らなくちゃね・・・・・・」


 メノワは産屋の天幕を見上げて微笑み、ちいさく息をついて瞳を閉じた。

 間もなく、どことなく妻の様子がおかしいことに気づいたオウルフは、頬を強張らせて身を乗り出した。


「おい・・・・・・メノワ? メノワ!? おい!! しっかりしろ!!――ポポリ! ポポリ!! 来てくれ!! メノワが!!」


 オウルフの叫び声に、薬湯を手にしたポポリが飛び込んで来た。生気を失い、ぐったりとしているメノワの様子に慌てて屈み込み、脈や呼吸を調べていたポポリは両手で口元を覆い、悲鳴混じりの声をあげた。


「奥様!? 奥様!! そんな・・・・・・起きて下さい!! 奥様!!」


「メノワ! ・・・・・・目を、開けてくれ・・・・・・!!」


 オウルフとポポリは、必死にメノワの名を呼び続け、やがてその場で泣き崩れたポポリを、エオは不思議そうに見つめて首を傾げた。


「ポル? マアはどうしたの? 寝ちゃったの?」


「・・・・・・――――っ」


「ねえ、ポル? マアはさ、もっとたくさん薬草を飲めば治って起きるんじゃないかなあ?」


 母の骸の傍らで無邪気にニコニコと笑顔を向けるエオの姿に、オウルフは大粒の涙を零しながら息子の頭を撫でた。


「エオ・・・・・・マアは・・・・・・狼達のところに旅立たなきゃならなくなったんだよ・・・・・・ポポリ、すまないが婆様を呼んで来てくれ」


 エオの問いに堪えきれず嗚咽を漏らしたポポリは、肩に置かれたオウルフの手に何度も頷き、前掛けで目許を押さえながら顔を上げた。


「・・・・・・ぅ・・・・・・うっ・・・・・・わかりました。ああ・・・・・・今朝は随分お元気なご様子でしたのに、まさかこんな事になるなんて・・・・・・母もきっと悲しむでしょう・・・・・・それでは、行って参ります。坊ちゃん、ポポリが出掛けている間、ポルと一緒にマアを守っていてくださいね」


「うん。ボク、ここにずっといるよ。ポポリも気をつけてね」


「ええ、ええ・・・・・・ううっ・・・・・・」


 エオの無邪気な様子に、ポポリは泣きながら産屋を後にした。馬車の動き出す音とともに、静かに眠っていたユカラが突然火が付いたように激しく泣き始めた。

 その声を聴きながら、堪えきれずメノワの前で膝折れ、号泣し始めたオウルフは、乳母籠から激しく泣き続けるユカラを抱き上げると、母を失った嬰児に為す術もなく、せめてもと我が子をあやしながら産屋の中を歩き回っていた。

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