聞書 うまれいづる娘 弐
隣室には母と生まれてくる子を励ますように、煌々と灯りが点されていた。
湯の沸かされた静かな音の中、オウルフは仕切りの天幕をよけ、床に伏せる妻の傍らに腰を下ろした。
背の後ろに布団を宛て、ふくらんだ腹をゆっくりとさすりながら時折波のように迫る陣痛を堪え喘ぐメノワの傍らで水に浸した布を絞り、そっと妻の額を拭った。
「・・・・・・あなた・・・・・・戻って来てくれたのね」
「遅くなってすまなかった。すごい汗だ・・・・・・辛いだろう?」
手を取る夫の瞳がわずかに赤く充血していることに気づいたメノワは、微笑んでオウルフの手を握り返すと、自らのふくらんだ腹へと導いた。
「そうね、今は大丈夫。随分元気の良い子なのに、なかなか降りて来てくれなくて・・・・・・生まれたらきっと忙しくなるわ。エオは喜んでくれるかしら?」
「もちろんだとも! おまえの顔が観られないと泣きじゃくってはいたが、この子の誕生はとても楽しみにしているよ。なんたって初めてのきょうだいだもんな。だからしっかりと気を持って、元気な子を産んでくれ」
「ポポリもね、もうずっと長い間眠らずにわたしの面倒を見てくれているし、婆様も傍について居てくださるから、大丈夫よ・・・・・・ん、っ・・・・・・痛た・・・・・・お父さんが来たのがわかるのね? ・・・・・・いい子ね、可愛い子。わたし達の・・・・・・っ、ああっ・・・・・・!!」
陣痛の波が押し寄せ、メノワの表情が苦痛に歪む。ポポリがメノワの腰をさすりながら開かれた脚の間を窺い始めた。
「奥様、お苦しいでしょうけれど、息をゆっくりと吸って、吐いて・・・・・・そうそう、お上手ですよ」
額に汗を浮かせ、身を捩っていたメノワはやがて陣痛が遠のき、大きく息を吐いた。
「産み時が近づいています。お子様も頑張っておいでですよ。もう少しですからね」
顔を上げたポポリは額の汗を拭うと、傍らの湯で手を清めなおし、メノワの背に手を伸ばした。
「だいぶ産み口が開いて来ました。メノワ、身体を起こせますか? 少しずつ・・・・・・オウルフも手を貸してくださいな。脇を抱えてあげて下さい。ゆっくりですよ」
ポポリとオウルフのふたり掛かりの介助で身体を起こしたメノワは、ゆっくりと仰向けから身を起こすと膝をつき、四つんばいの体勢になった。腹の中の赤子の重心が下がり、メノワは痛みに頬を歪めながらも、ふたりに笑顔を向けた。
「痛たた・・・・・・あぁ、でもこの方が、だいぶ楽だわ。仰向けのままでいるのはどうしても苦しくて。これなら息も充分に吸えるし、きっと・・・・・・もうすぐね」
「少しはお楽になりましたか? 奥さまは充分に耐えておいででございますよ。大丈夫、もうすぐですからね」
肩や背、腰をさすりながら励ますポポリの声に、メノワは間隔が徐々に狭まる陣痛に堪えるように悲鳴を上げながら、ゆっくりと肩で大きな呼吸を繰り返した。苦しむ妻を前に、居ても立ってもいられないオウルフは、腕組みをして落ち着きなく産褥の間をウロつき始めた。
「奥さま! 力んでは子が苦しみます。どうか、どうか力を抜いて・・・・・・そうです。上手ですよ」
必死に子の生まれる瞬間に臨んでいるメノワに声をかけ続けていたポポリは、あまりの壮絶な場に顔を青くしたままその場に立ち尽くしているオウルフを見上げ、大声を上げた。
「オウルフ、突っ立っていないで手を! 手を握ってあげて!! ・・・・・・あ、見えました! さぁ、いきんで、そう、もっともっとまだまだ・・・・・・今、頭が出ましたよ! さあ、わたしが受け止めますから力を抜いて・・・・・・短く息を、そうです、オウルフ! 奥さまの身体を横にして差し上げてください、ゆっくりと・・・・・・あら? 女の子ですね! 奥様、女の子のご誕生ですよ!」
元気な産声が響き、血にまみれ、泣き叫んで自身の肌を真っ赤に染めた嬰児が取り上げられた。ポポリの手で産湯に浸かり、手際よく真新しい衣にくるまれた赤子は、ぐったりと横たわるメノワの傍らに連れて来られた。
「女の子・・・・・・元気な子ね、良かった・・・・・・」
赤子のちいさな手をそっと握り安堵の表情を浮かべたメノワに、涙ぐんだまま何度も頷いていたポポリは、気を取り直すようにメノワに語りかけた。
「さあ、この子は母さんにお願いして、奥様も残り産をすませてしまいましょう。もうすぐ痛みも引きますからね、あと少しですよ。頑張って!」
ポポリの母を呼ぶ声に、仕切り幕の向こうから姿を現したヤヨスラはポポリから赤子を抱き受け、その頬と手のひら、足、額を順に指先で軽く擦り、祈りのまじないを唱えた。
「婆様・・・・・・どうなのでしょう?」
残り産を終え、床に横たわったままのメノワは、心配そうにヤヨスラを見上げた。
「ああ、とてもいい子だ。さすがは狼どもに魅入られただけのことはある。だが、この子の未来には人並み以上の困難が待ち受けているようだ。大丈夫、この子になら耐えられるさ。おまえさんもできるだけこの子の傍にいてやっておくれ」
「ええ、ええ。もちろんですわ」
慈愛に満ちた瞳に淡い涙を浮かべ、つぶらな瞳を開いた赤子の髪を撫でるメノワに黙したまま頷いたヤヨスラは、部屋の隅で腰を抜かしたようにへたり込んでいるオウルフを振り返った。
「さて。オウルフや、父親の仕事だよ。赤子の褥だ。さぁ、これを持っておゆき」
「・・・・・・ああ。婆様、ポポリも。俺が戻るまで、メノワと娘を頼む」
ヤヨスラは残り産で出された赤子の褥を布でくるむと、オウルフに差し出した。
「すぐに戻って来る。もう苦しくはないか?」
「ええ・・・・・・わたしの分まで、お祈りをお願いします」
微笑んだ妻の顔に頬を緩め、頷いて立ち上がったオウルフは仕切り幕を払いのけ、夜の帳が降りた草原へと姿を消した。
生まれたばかりの我が子の褥をくるんだ布を胸に抱き、灯りの零れる小さな産屋から出たオウルフは、脳裏に焼き付いた先程までの壮絶な出産に、思わずちいさく息を吐いた。暗雲の切れ間から差し込む夕陽に照らされた見事な朱色に染まる草原を眺め、足を踏み出そうとした彼は、一瞬、ギクリと動きを止め、小高い丘の上の黒い塊とその中に光る、一対の獣の瞳に強い視線を投げつけた。
「・・・・・・それ以上近づけば、おまえの骸を吊すことになるぞ」
低く呟き、松明の灯りを頼りに獣の待つ丘へと向かうオウルフの耳に、遠く狼の遠吠えが響く。
丘の上に辿り着いたオウルフは、膝を折って草原に布のかたまりを置き、布を開いた。
「血の匂いだ・・・・・・“大地に眠る深き力よ! 草原の民、オウルフ・ユチより我が嬰児の褥を汝らに捧ぐ。普く力を以て、我が娘、アヌ・ユカラの名と体に恩寵をもたらしたまえ!!”」
狼の遠吠えが宵闇の気配へと変わりつつある草原に響く。草原に置かれた赤子の褥を前に、祈りを献げ、大地に口づけた後、彼はその場に立ち上がり、叫んだ。
「テングリよ!! おまえはこれを待っていたのか!?」
一対の獣の瞳の光が消え、闇の中から白銀の被毛を纏った大きな雌の狼が現れた。闇の中に佇んでいるにも関わらず、妖しい輝きを纏うその美しい狼の姿に、オウルフは額に汗を滲ませた。
「――さては、無事に産まれたか。それは重畳。皆、おまえの妻の苦しみが和らぎ、我等の稚き娘が、健やかに生まれいづるのを待っていた」
柔らかな女の声に、オウルフは弾けるように言葉を叩き付けた。
「嘘だ! おまえらは俺を恨みながら関わりのない妻の命を奪おうとしているじゃないか!! なぜ俺ではなく、妻の命を狙う!?」
オウルフの問いに、テングリは白く輝く尾をゆるりと揺らした。
「 賞賛に目が眩み、軽率な行いで全てを手に入れたがる者ほど、手元にある唯一無二の者の姿は見えぬものだ――人間の身勝手な慰みのためだけに、仔を身籠もった狼を追い詰め殺したおまえの罪は、同じくおまえの子種を身籠もった妻の命で贖って貰う。それだけのこと。それが大地に生きる全ての者の則であろう?」
薄く笑むような匂いを含ませたその声に、オウルフは全身全霊の力を込めて低く言葉を放った。
「そうか、ならば仕方ない。あの産屋に少しでも近づいてみろ。俺がおまえ達のはらわたを切り裂いて、この草原をあの夕焼けよりも赤い血で染めてやる」
くすくすと笑い出したテングリは、一瞬のうちに女の人形へと姿を変え、ゆったりと腕を組んでオウルフの傍らに近づくと、草原に献げられた赤子の褥を静かに抱き上げた。
「・・・・・・これはまた随分と無駄に若く、浅はかな狼だ。我々は自らの手は下さぬよ。おまえの妻の亡骸は、おまえが自らの手で我等のもとにいざなう事になるだろう。我が嬰児の褥は確かに受け取った。おまえの娘は我等の娘――それを忘れるな」
松明の灯りを受け、微笑むテングリの姿を目にしたオウルフは愕然とした。
「おまえ、その顔は・・・・・・メノワ!? 待て! どういう意味だ!? 答えろ! ――テングリ!!」
凄まじい風が草原を吹き抜け、思わずよろけて身構えるオウルフが目を開けると、既にテングリの姿はなく、オウルフをあざ笑うかのように狼の遠吠えが遠く微かに響くばかりだった。