八、西行
西の城門で公孫桜と別れた後、四人が全員馬に跨ると、他の三人は視線を顧未離に向けた。顧未離は元々将領なので、出発前に指揮を任せられたのだった。
顧未離は余談をせず、すぐに指示を出した。「一騎が先頭を行き、肖先生は中を行き、他の二人は後押え、最後に並行する。毎日日が出ると出発、道が見えなくなると眠る。途中で休みたければ声を出して私を呼ぶ。問題あるか」
言い終わって顧未離は他の三人を見ると、皆異議を出さず、顧未離は頷いた。「良い、では出発だ。私が先頭を行こう」と言ってから、顧未離は手綱を引き、馬の向きを変えて走り出した。肖言は馬の腹を軽く蹴って従い、李残花と孟書楼もすぐについて行った。
暫く走って、顧未離は振り返って一目見ると、後ろの三人とも余裕そうに見えた。すると顧未離は段々加速し、他の三人も従って行った。間もなく四匹の馬は全速で疾行して、風のように広い平原を吹き渡った。
四人は城に着いても入らず、ただ西に向かって急行し、黄昏の頃、顧未離は川辺で馬を止まらせた。「ここで暫く休んで、食事を取ろう」と、顧未離は言って馬から降り、他の三人も近くで馬を止めた。肖言が降り立った時は少しよろめいたが、手綱に縋ってようやく立ち直った。馬が川辺で水を飲み、草を食べる時、四人は芝生に座り、顧未離は食糧を入れた布の包みを解いて、中から饅頭と干し肉を取り出して、水袋と共に他の三人に分けた。
食べ物と水を受け取ると、肖言はまず水袋を開けてがぶがぶと何口も飲んだ。顧未離は彼を一目見て聞いた。「肖先生はまだ耐えられるか」
水袋を下ろし、肖言は長い息を吐いて答えた。「あぁ、大丈夫だ」
「そう、なら良い」と言って、顧未離は手に持っている饅頭を一口噛み、広い草原を見渡して西の方を眺めた。そこに血のように赤い残陽があり、ゆっくりと地平線に沈もうとしている。
肖言は饅頭と干し肉を何口食べた後、水を一口飲んで喉に詰まっている食べ物を流し込むと、ため息をついた。「戦場にいる将士たちは、毎日こんなものを食べているかな」
顧未離は答えた。「あぁ、良い時はな」
肖言は聞いた。「では悪い時は?」
顧未離は言った。「悪い時なら、肉などもちろんない。時には水もなく、雪を食べるしかない。今の安陽では、恐らく米と麺も貴重なものだ」
「だったら、早く食べ終わって、日が沈んでいないうちにもう少し先を急ごう」
「それは良くない」顧未離は首を横に振った。「速さを求めすぎると反って遅くなるのだ。休む時はちゃんと休んでおく、この方が一番速い。しかもたとえ人が疲れなくても、馬も休ませておかないといけない。だから焦ることなく、ゆっくり食べよう」
「なるほど、勉強になる」と言って、肖言は再び饅頭を噛み始めた。
半刻経つと、顧未離と李残花は食べ終わり、川辺に行って顔と手を洗った。そして顧未離は馬の様子を見に行き、李残花は戻って来て、孟書楼の近くに座った。
孟書楼は食べるのがとても遅い、一口一口念入りに噛み、まるで食べ物から全ての養分を絞り出そうとしているようだった。彼が背負っていた長剣は解けられて、そばに置いている。
李残花はその長剣を暫く見つめて聞いた。「孟公子が持っているこの剣は、もしかして儒門双剣の一振り、垂露なのか」
孟書楼は口の中の食べ物を呑み込み、水を一口飲んでから応じた。「ほう、李嬢様はこれが儒門双剣だと分かるのはおかしくないが、どうして懸針ではなく、垂露だと思うか」
「それは」李残花は少し躊躇って言い続けた。「此の前、懸針が唐門で現れたから」
「何だと、本当か」と言った孟書楼の目付きが鋭くなって李残花を見た。「では懸針は今、誰が持っているのか」
「李祁という、詩意城の者だ」
「李祁か、聞いたことのない名前だが。詳しく聞かせてもらえないか」
「いいよ、実は懸針を見たのは私ではなく、唐嬢様だ―」と李残花は語り始め、孟書楼は食べながら耳を傾けた。李残花が語り終わる時、孟書楼もちょうど最後の一口を呑み込んだ。
「なるほど、儒門の名剣に詩仙の剣法か。教えてくれてありがとう、李嬢様」
李残花は聞いた。「ところで、儒門はいつ懸針を無くしたかしら」
孟書楼は暫く躊躇って答えた「実は無くした訳ではない、贈られたのだ、ずっと昔に」
李残花はまた聞いた。「贈られたと?誰に?」
「詩仙だ。本来ならこれは儒門の秘密だが、懸針が既に世に現れた以上、もう隠せないだろう」孟書楼はため息をついて言い続けた。「詩仙が在世の時、儒門の掌門とは親友だった。ある日、詩仙が儒門を訪れ、掌門と二人で山を登り、滝の傍らに詩を吟じながらお酒を飲んだ。そして盛り上がると、詩仙は剣を持って舞い興を添える。しかし飲みすぎたせいか、詩仙はうっかりして剣を手放し、滝に落としてしまった。すると掌門は自分が背負っている剣を詩仙に贈った」
李残花は聞いた。「その剣が懸針だろうな」
孟書楼は頷いた。「その通りだ。掌門が儒門に帰ると、名剣を勝手に贈ったせいで、長老たちに責められたが、彼はただははと高笑いして、全く気にしなかった。彼は儒門の中で最も地位が高い人なので、結局長老たちも仕方がなかった」
それを聞いて李残花はぷっと笑い出した。「この掌門はなかなか面白い人だな」
「彼が面白くても良いが、苦労するのはこの後輩たちだ」と言って孟書楼はため息をついた。「詩仙が逝去された後、懸針の所在も不明になった。儒門は何度も弟子を遣って密かに調べたが、結局見つけられなかった。今ようやく手掛りが出て、この件を済ませた後、拙者はすぐに儒門に帰って懸針のことを報告するのだ」
李残花は頷いた。「これで辻褄が合った。李祁は恐らく詩仙の子孫か弟子であり、詩仙の剣法と共に、懸針を受け継いだのだろう」
この時、顧未離は戻って言った。「お二人の話は済んだか、そろそろ出発だ」
「ちょうど今済んだわ。行こう」と言って李残花は立ち上がり、自分の馬に向かった。
孟書楼も立ち上がって長剣を背負った。「あぁ、行こう」
肖言は既に食事を済ませて馬に乗った。顧未離が馬を歩かせて近くに来た時、彼は草原を見渡して半分沈んだ夕日をぼんやりと眺めていた。
「肖先生は何を見ているか」と顧未離が聞いたのを聞くと、肖言は我に返り、微笑んで言った。「いや、ただ、この景色は実に美しいなと思ってね。『夕陽無限によし、ただこれ黃昏に近し¹¹』という詩句の真意は、今こそ分かった」
「そうか、まだ道が見えるうちにもう少し進みたいけど、大丈夫か」と聞きながら、顧未離は肖言を見詰め、彼の眼差しにある疲弊を見て取った。
「大丈夫だ、行こう」と肖言は笑顔を浮かべて答えた。
「分かった」と言ってから、顧未離は振り返り、他の二人にも聞こえるように声を上げて言った。「夜の道は険しいから、速さを控え、気を付けて進もう」
李残花も孟書楼も頷いたのを見て、顧未離は馬を西に向かわせて先に走り出した。
月が出た時、一行がまた大きな城に着いたが、顧未離は天色を仰ぐと、城に入らないと決め、城外を通って進み続けた。
また一時辰ぐらい進んむと、四人が林に入り、顧未離は馬を止めて地に降りた。「そろそろ子の刻だ、今夜はここで休む。これから薪と干し草を集めるが、李嬢様と孟公子は手伝って下さい」
「もちろん、拙者に任せて」と言って、孟書楼は馬を木に繋いで袖をまくった。
「拙者も手伝おうか」と肖言が言うと、顧未離は首を横に振った。「肖先生はこういう仕事にはなれないから、ここで私たちを待つが良い」
肖言はまた言った。「不慣れだからこそ貴重な経験だ、邪魔でなければぜひ拙者にも手伝わせて下さい」
顧未離は答えた。「分かった、それなら肖先生は私に従って、干し草を拾ってもらおう」
そして四人は散らばって、何回行き来すると、薪と干し草を沢山集めた。
「これで十分だ、私が火を起こす。あんたたちは干し草を敷いて寝台を三つ作ってくれ」と顧未離は指示を出すと、肖言は聞いた。「三つ?四つではないか」
「全員寝る訳にわいかない、夜警には一人が必要だ」と顧未離は言って、李残花と孟書楼を見た。「一人一時辰夜警する、まずは私、次は孟公子、最後は李嬢様、良いか」
孟書楼と李残花は頷いて承知したが、肖言は言った。「良かったら拙者も夜警させてもらおうか」
今度は李残花は笑って応じた。「肖先生、これは別にあなたに遠慮している訳ではない。あなたは武術に通じないから、もし危険に遭うと、声も出せずに死んでしまうかもしれない。そうなると、私たちの命も危険に晒されるのだ」
「その通り」顧未離も頷いた。「肖先生にとっての急務はきちんと寝て英気を養うのだ」
「分かった、ではお言葉に甘えさせて頂こう」と言って、肖言は草の寝台に横になり、間もなくいびきをかき始めた。
孟書楼と李残花も武器を解いて眠った。顧未離は腰に佩いていた雁翎刀を解いて胸に抱き、木に凭れて座り焚き火を眺めた。
翌日、日出時、李残花は諸人を起こした。焚き火を消し、簡短な朝食を済ませた後、四人はまた馬に乗って西に向かった。当日も四人は急行して、正午と黄昏の頃一刻休んで食事を取る以外、馬は全く止まらなかった。
月が中天に懸かる時、顧未離はまた林の中で馬を止めた。「今日も結構進んだ、皆さん、お疲れ様。今日はここで夜を過ごす」
馬を降りると、肖言の体がふらついて倒れそうだが、先に降りた孟書楼は彼の腕を掴んで体を支えた。
「肖先生は大変疲れているようだが、ここで暫く待っておこう。私たちは付近で薪と干し草を集め、遠くへ行かないから」と顧未離は肖言を見て言ったが、肖言は首を横に振った。「いや、拙者は大丈夫だ、もう慣れてきたんだ、手伝わせて下さい」
顧未離は少し考えて頷いた。「分かった。しかしくれぐれも無理しないでね」
暫くして、干し草で作る三つの寝台は三角に並び、肖言は一つの寝台で横になって三角の中心を見ている。そこに顧未離は集めてきた薪を積み上げて、火を起こす準備をしている。しかし火が付く前に、肖言は既に大きないびきをかいて眠り込んだ。
李残花は軽く笑って言った。「私すらちょっと疲れたわ、彼にとってはもっと辛いだろうな」
「ええ、しかし我慢した。宮廷出身の者としては十分偉いのだ」と言いながら、顧未離は薪の底に火を付けると、炎がまず枯葉と細い枝を包み、段々太い薪をも呑み込んで行く。薪をもう一本焚き火に入れて、顧未離は立ち上がった。「道程はまだ長い、お二人も早く眠って下さい」
三日目も一日中道を急いだ。夜、四人がある城の外に辿り着くと、ちょうど更鼓の音が聞こえた。
「どん――どんどん」
顧未離は馬を止め、他の三人に言った。「もう三更だ、今日はこの城の宿屋で泊まる。皆一夜ちゃんと休んでおこう」
李残花はほっと息を吐いた。「良かった。私はまず風呂に入るわ」
孟書楼は言った。「しかし、城門は既に閉じているではないか」
「また開けてもらえば良い」と言って、顧未離は懐から竜の模様がある真っ黒な令牌を一枚取り出した。
それを見て孟書楼は驚いた。「それは、まさか玄竜令か」
「そう、令牌を見るのは皇帝を見るのが如く。これを持っていればあらゆる官員に命令を下せる。京城で公孫嬢様が私にくれたのだ」
李残花も興味深そうにその令牌を眺めた。「ほう、まさかこんなものまでくれてやったとはな」
顧未離は城門に向かって、門番の兵士に令牌を示した。「至急の公務だ、城門を開けて下さい」
数人の兵士がその令牌を見たが、皆戸惑う表情を見せた。
「分からないなら県令を呼んで来い、時間を無駄にするな」と言った顧未離の声が別に大きくないが、逆らえない威厳がある。
「では通報するので、ここで待って下さい」と言ってから、一人の兵士は城内へ向かった。暫くして、馬蹄が地を叩く音が遠くから伝わってきて、城門に近づいた。馬蹄の音が止まると、官服を着ている男は出て来て、顧未離を見て言った。「下官がここの県令だ。閣下が持っている令牌、見せてもらおうか」
顧未離は何も話さず、ただ県令に令牌の正面を向けた。
令牌を見るやいなや、官服が汚されても全く気にせず、県令はすぐに跪いた。「吾皇万歳」
礼をした後、県令はまた立ち上がり、謹んで聞いた。「下官がお力になれることがあれば、どうぞ仰って下さい」
顧未離は令牌を収めて言った。「大した事はない。私たちを城に入れ、宿屋で一夜休ませてくれ。そうだ、風呂に入るので、お湯があった方が良い」
「畏まりました」と県令は答えた。「宜しければ下官の屋敷でお泊りしてはいかがでしょう。宿屋よりは心地好いでしょうし、もちろんお湯も用意できます」
顧未離は頷いた。「分かった、ではお邪魔します」
「いえいえ、下官こそ光栄でございます」
当夜、四人は風呂に入った後、雲のような柔らかい布団を掛けて眠り込んだ。
翌日の朝、卯の刻、四人が起きた時、朝食は既に用意済み、食卓には鶏も鴨も魚も肉もあり、酒も一甕あった。県令は近くに立っていて四人を待っていた。
「まだ道を急ぐから、酒は要らぬ」と顧未離が言うと、県令は家僕に言い付けた。「酒を下げろ」
家僕が酒を持って行った後、顧未離は食卓のそばに座って言った。「県令殿もご一緒にどうぞ、ちょっと聞きたいことがある」
「では失礼させて頂きます」と言って、県令も従って座った。
諸人が座った後、李残花は笑って聞いた。「こんなに大きな屋敷に住んでいるとは、県令殿はさぞかし賄賂を沢山受け取ったんだろう」
県令は微笑んで答えた。「はは、ご冗談を、これは下官が俸禄で買ったのです」
「無駄話は良いから」と顧未離は言った。「私たちの馬はちゃんと世話されているか」
県令は答えた。「はい、四匹とも草をたっぷり食べさせた。そして、食糧と水もお殿様の言った通り補足させて頂きました」
「ご苦労」と顧未離は頷いて、また聞いた。「ここから函谷関までの道程はもう長くないだろう」
「はい、皆様の馬が速いので、朝に行けば黄昏の前には着けると思います」
「分かった」と応じてから、顧未離は他の三人に言った。「では皆さん、早く食べて下さい。食べ終わると早速出発、私たちは本日函谷関を抜けるのだ」
午後、四人は函谷関に辿り着いた。
関門の前に、沢山の人が集まっていて、入関するのを待っている。関門の付近、一人の兵士は何かを叫んでいて、近づくと、その話し声が聞こえた。
「入関したい人はちゃんと聞け、函谷関は今入ることだけを許す、出ることは許さんぞ、入る前にちゃんと考えておけ」
顧未離は馬を降り、その兵士の近くに行って聞いた。「失礼、出ることを許さないのはなぜだろうか」
兵士は彼女に目をやって言った。「知らん、まだ出たいなら入るな、いちいち聞くんじゃない」
顧未離は他の三人のもとに戻って言った。「さあ、あそこに行って、入関するのを待とう」
李残花は聞いた。「ここは玄竜令を使って通してもらえないかしら」
顧未離は首を横に振った。「だめだ。函谷関は秦王の縄張り、玄竜令はもう通用しない」
四人が大きな馬車の後ろに並び、入関の順番を暫く待つと、肖言は言った。「しかし、一体どうして出ることが禁じられているのだろう」
少し考えてから、顧未離は声を殺して言った。「それは良い知らせかもしれない」
肖言も声を殺してまた聞いた。「と言うと?」
「出ることを禁じるのは恐らく情報漏洩を防ぐためだ。そしてこんなに大事に封鎖する情報の殆どは軍機だ」
それを聞いて孟書楼は言った。「もしかして、秦王は兄弟の誼に免じて、既に軍を出動させ、支援に来てくれたのか」
顧未離は答えた。「分からない。そうだったらもちろん良いけど、そうじゃないかもしれない。しかもたとえ本当に秦王の軍勢が動いたとしても、必ず支援に来るとは限らぬ」
李残花は言った。「でもこれはやはり良いことだ、秦王が東に来てくれるなら、私たちは蘭州まで遠出する必要がない、時間を沢山省けるのだ」
顧未離は目を輝かした。「そうね、まさに李嬢様の言う通りだ。もし途中で秦王に会えて説得できれば、安陽の包囲を破るのはとても有望だ」
希望が見えて、四人とも気力が湧いた。一刻経つと、四人は函谷関を通って関中の地に立った。
馬に乗って、眼の前に広がる一面の黄土を見渡し、顧未離は言った。「ここから更に西へ行けば、一日以内に潼関に至り、また二日進むと散関に着ける。皆さん、気を引き締めて進もう」
馬蹄が落ちると黄土が巻き上がり、四匹の馬はまた西に向かって走り出した。
顧未離が率いる一行が函谷関を通った当日の朝、卯の刻、京城の朝堂に百官が集まった。高い玉座に座っている皇帝は群臣を見下ろして、ゆっくりと口を開いた。「今日は朝議の日だ。用件があれば言ってくれ」
皇帝の話し声が消えるやいなや、一人の老者は前に出た。「臣には申したいことがございます」
その老者を見て皇帝は少し眉を顰めた。「左僕射、また例の件ではあるまいな」
左僕射は応じた。「はい、前回の朝議でも申しましたが―」
皇帝は手を振ってその話を遮った。「それなら朕は既に却下と言った、もう言わなくて良い」
左僕射は退かず、また言った。「しかし、これは国運に関わる大事なこと、僭越ながら、どうか陛下が深思してもらいたいです」
「太祖がここを京城と定めたのはなぜか、分かるか」
「それは、この城が北方にあり、狼族に直面し、ここに都を立てたのは、身を以て国を守る意です」
「分かっているならなぜ遷都なんか言い出すんだ。太祖から代々受け付いてきたこの都を、朕の手で捨てるなど、決してならぬ」
「これは捨てるのではなく、一時的な退避だけです。今の形勢が不利で、京城は既に守れぬ、しかし南方にはまだ長江の天険と襄陽の要塞があります。江南に遷都すれば、長江に拠って防御しながら兵を集め、機を伺って一挙反攻するこそ、上策だと思っています」
「はっ」と皇帝は軽く笑った。「紙上談兵の輩。長江が天険と言うなら、黄河も天険ではないか。黄河は守れなければ、なぜ長江なら守れる。国を守るには天険に頼るべからず、民に頼るべきだ。今黄河の北にある安陽城で、朕の臣民たちはまだ死戦している。朕が彼らを見捨てて先に逃げれば、それは亡国の挙動だ」
左僕射はまた言った。「しかし、陛下の無事こそ国の一大事、安陽城の将士たちも殿下が安全でいて欲しいでしょう」
皇帝は首を横に振った。「そんなことはない。朕もお前もよく知っているのだ、皇帝の代わりはいくらでもある。たとえ朕が死んだとしても、お前らはすぐに新しい皇帝を見つけてくれる。もう良い、他に用がなければ下がれ」
「そんな―」と左僕射はまだ話したいが、今回その話を遮ったのは女性の声。「左僕射殿、陛下は既に疲れている、これ以上しつこく言わないで下さい」
声を出したのは玉座の近くに立っている女性、腰の後ろに二振りの短剣が交差している彼女は、この朝堂にたった一人いる武器を持っている者だった。
左僕射は彼女を見て言った。「公孫桜、公孫嬢様。江湖では君は名声があるが、朝堂では君は護衛に過ぎぬ、口を挟める立場ではないぞ」
公孫桜は冷たく応じた。「私は今まさに陛下の護衛を務めているのだ。口で話すのは嫌なら、剣で話す方が宜しいかしら」
二人は暫く睨み合って、結局左僕射は一礼して群臣の行列に下がった。
その後、また数人の大臣が前に出て用件を言って、皇帝は一々指示を出した。諸事が済んだのは既に辰の刻になった。
大臣たちがぞろぞろ出て行った後、皇帝は公孫桜を見て聞いた。「今日、朕の対処はどうだったか」
公孫桜は答えた。「とても妥当だと思います」
「なら良い。顧嬢様の方からは知らせはあるか」
「はい、ちょうど昨夜、顧将軍からの伝書鳩が来た。それによると、今は函谷関に入ったはずです」
「そうか」と言って皇帝はため息をついた。「もう遅くないとは分かっているが、やはり早く帰って来て欲しいな」
¹¹「登樂遊原」——李商隱