五、決戦の日
唐敗は西宮と楚搖光を自分が住んでいる庭の前に連れて、一人で中に入った。暫くして、唐敗と李残花は共に庭を出て来た。
李残花は外で待っている西宮と楚搖光に目をやって、唐敗に聞いた。「どうだ、全て済んだか」
「あぁ、全部終わったのだ…」と唐敗は今起きた事を簡潔に言った。
「しかし、お前はなぜ唐嬢様と服を交換するなんて思ったか」と西宮が聞いた。
李残花は楚搖光に目をやって答えた。「昨日楚嬢さんの部屋から血染めの布団が運び出されたのを見た。聞いてみたら、楚嬢さんが薬を飲んだら血を吐いたと分かった」
西宮は聞いた。「だからその唐邪を疑ったか」
李残花は頷いた。「そう、唐三嬢さんの医術では、こういうことは尋常じゃないと思った。しかし私は医術が分からないので、唐嬢様と入れ替わって、翌日また薬を飲む時、唐嬢様が見てもらおうと思った。でもまさか彼女は今回毒を盛ったとは思わなかった」
「李嬢様の疑いは正しかった」と唐敗は言った。「楚嬢さんが受けた毒は最初の治療で既に大分除いた。昨日の薬はゆっくりと余毒を除くため、薬草の分量は一昨日より半減すべきだった。だが唐邪に変装した唐英はそれを知らず、前日と全く同じ分量の薬草を使った。その結果、楚嬢さんは一気に完治したが、体も強すぎる薬のせいで傷付いた。でも別に大した傷でもない、数日休めば自然に治るさ」
間を置いて唐敗は目を楚搖光に向けた。「それより、君は本当に詩意城の者なのか」
「ううん」と楚搖光は首を横に振った。「実は李さんは彼が詩意城の者だと言ったことがあ。私は冗談だと思って、じゃあ私も詩意城に加入させてと言ったら、彼は『いいよ』と答えた。こんなにあっさりと答えたから、私は冗談だと更に信じ込み、本気に取らなかった。でもまさか…」
唐敗は聞いた。「李祁は君が彼の妹だと言ったけど、それも嘘か」
楚搖光は頷いた。「はい。私はお兄さんを探すために家を出た。路上で李さんと偶然に会って、同行するようになった」
唐敗はまた聞いた。「君には兄さんがいるか、名前は?」
「楚玉衡だ。彼が今日本にいると李嬢様から聞いたから、私も日本に行こうと思っている」
李残花は止めた。「だめだ、君は日本語も分からない、一人で行くのは危ない。私がここのことを済ませた後、君を連れて行けば良い」
「でも…」と楚搖光が言うと、李残花はまた言った。「安心しろ、君の兄さんなら大丈夫だから」
楚搖光は少し考えて言った。「分かった、ではお願いします、李嬢様」
李残花は唐敗に言った。「彼女はただ利用されただけ、唐嬢様もさぞ彼女を咎めるつもりはないだろう」
唐敗は言った。「もちろん、だたこの借りは必ず詩意城から返してもらう」
「それなら私も手伝おう」と言って、李残花はため息をついた。「しかし残念、実に残念だ」
唐敗は聞いた。「何が残念だ」
李残花は言った。「李祁が一人を連れても唐嬢様の手から逃げられたとは、きっと抜群な武芸を持っている。それを見損なって、残念ではないか」
「確かに」唐敗は認めた。「彼が持っている剣と剣法、そして軽功は全て極めて珍しいものだ。その一つさえ足りなければ、決して逃げられなかった」
李残花は聞いた。「では彼の武術の来歴、唐嬢様は見破ったか」
唐敗は言った。「もちろん、彼は技を一つしか出していなかったが、剣光が三つになる剣技はなかなかない」
李残花は言った。「少なくとも、酔八仙剣には決してそんな凄い技がないとは分かっている」
「あの技は、『対影成三人⁸』だ」
「詩仙酔剣の中の絶技、対影成三人だと?」
「そう、前朝の詩仙が創った、既に失伝したと言われる剣法だ。酔八仙剣とは一文字だけ違うけど、その威力は雲泥の差だと言える。それに彼が持っている剣も天下屈指の名剣だった。剣身が特別な形をしているから、見ればすぐ分かった」
「その剣の名は?」
「懸針だ」
「儒門双剣の一振り、垂露と同じく名高い懸針だと?」
「その通り」
暫く黙り込んで、李残花は再び口を開いた。「儒門の名剣に詩仙の剣法、どうやら詩意城の実力は私の想像を遥かに超えているな」
唐敗は言った。「それだけじゃない」
「まだ何が」
「今言ったはず、彼の軽功だ。あの距離で私の暗器から逃れられる軽功は、この天下で一つしかない」
「天下で最も速い軽功と言えば」李残花は少し考えて続けた。「まさか、駆馬よりも速く、疾風の如く速やかと言われる、関山飛渡か」
唐敗は頷いた。「そう、まさにあの銀雀山兵甲府の関山飛渡だ」
李残花は言った。「兵甲府には武経が十三巻あり、その中の十二巻は公開されていて誰でも習えるが、一巻だけは秘伝となり、習得した者は三人の府主しかいないと言われている」
唐敗は言った。「そう、その一巻が関山飛渡という軽功、『兵は神速を貴ぶ』、ということだ」
李残花は言った。「それなら、李祁は詩意城での身分は決して尋常ではない。たとえ城主じゃなくても、大差がないはずだ」
西宮は聞いた。「なぜそれが分かったか」
李残花はため息をついた。「言うまでもないさ、無名の一兵卒にもそんな腕前があるなら、詩意城の城主はとっくに皇帝になったわ。でも唐嬢様のおかげで、ようやく手がかりを少し掴んだ」
唐敗は聞いた。「君たちは詩意城のことを調べるつもりか」
「そうだ、そもそも私が中国に帰って来たのはそのためだ」李残花は答え、唐敗を見てまた言った。「ただし、その前にまだ一つ済ませておくべきことがある」
「あぁ、確かに」と唐敗は答えた。
西宮は聞いた。「まだ一つ、それは何事?」
李残花は応じた。「私と唐嬢様、明日一戦を交える約束、忘れたと言うなよ」
西宮は驚いた。「しかし、その一戦はそもそも唐霊のことが故だろう。唐霊がいなくなった今、戦う意味がないではないか」
「意味ならもちろんあるさ」と唐敗は言った。「名が天下に鳴り響く花刀玉狐と兵刃を交えるなんて、これほど楽しいことはなかなかない。武者として、こういう機会を逃す訳にはいかない」
李残花も言った。「お互い様だ」
「そういうことなら、分からなくもないが」と西宮は言った。「唐嬢様は昨日こう言いました、拙者が真相を見つけるなら、唐門に貸しが一つできると」
「もちろん、先生の助力には感謝しているわ」と唐敗は言った。「欲しい物があれば、何なりと言って下さい」
西宮は言った。「欲しい物がありませんが、ただ、一つお願いしたいことがあります。明日の戦い、もし唐嬢様が勝ったとしても、李嬢様の武力を消さないで下さい」
「承諾した」と唐敗は答えた。
翌日、唐家堡の中心にある広い庭で、唐敗と李残花は向き合って立っている。二人の周りに、西宮と楚搖光、そして唐門の弟子たちが観戦しているが、唐敗の暗器に傷つけられないため、皆十数丈の間を置いて立っている。
唐敗は金線の手袋を取り出し、ゆっくりとはめながら言った。「李嬢様がたった四つの技で無数の名手を負かしたこと、前から聞いていた、ずっと一度拝見したかったわ」
李残花は笑って言った。「役に立つ技なら一つさえあれば十分、四つはもう少なくはない」
「同感だ」と話している間、唐敗は金線の手袋をはめて、右手を腰に下げる暗器袋に入れた。「さあ、行くわよ」
話し声が消えたところ、唐敗は右手を振ると、そこから数え切れない暗器が李残花に向かって飛び出した。
これが唐門の最も有名な暗器手法「漫天花雨」だと、周りで観戦している諸人は皆分かっている。これは武林の中でも最も有名な暗器手法かもしれないが、施せる者は数える程しかいない。そして片手でこんなに多くの暗器を一気に射掛けられる者は尚更、唐敗一人しかいない。
満天の暗器の中に、まっすぐ飛ぶ手矢があり、回転する金銭鏢もあり、更に名前が分からない奇妙な形をしているものも沢山あった。そして暗器が飛ぶ方向は、正面から攻めてくるものもあれば、両側に向かって退路を封じるものもあり、空中で叩き合って向きを変え側面と背後から攻めてくるものもあった。暗器の数が多いが、無駄遣いは決して一枚もなかった。
「良い技だ」と言って、李残花は避けようともせず、ただ刀を抜いた。「守勢其の二・百歩芳菲」
李残花は身を回して小太刀を振ると、身の周りに刀の編みを織った。キーンキーンと金鉄の叩き合う音が響き続き、あっという間に李残花に射掛けてきた暗器は全て払い落とされた。
そして李残花は刀を鞘に納め、地を蹴って唐敗に向かって飛び出した。唐敗に近づくと、銀鈴が響き、桜斬が再び鞘から出た。「攻勢其の一・千本吹雪」
刀の光が一閃し、刀の勢いが満天の桜華が舞うのが如く、唐敗に向かって襲ってきた。
唐敗は桜斬の鋒鋩を躱しながら、瞬きもせずに相手の攻勢を見据え、そしてふと目の前を覆う一面の桜華に右手を伸ばして、その花の枝を折ろうとした。
刀の光が突然消え、李残花は数歩退き、桜斬はいつの間にか鞘に戻した。今何が起きたか、交戦する二人以外誰も見えなかった。
唐敗は右手を顔の前に上げ、手にはめている金線の手袋に長い切れ目が入った、それを見て唐敗は軽く笑った。「技は良い技、刀もまた、良い刀だ。さあ続けよう」
唐敗がまた暗器袋に手を伸ばすが、それに対して李残花は小太刀から手を離して言った。「その必要はない。私は負けを認める」
唐敗は手を止めて眉を顰めた。「それはどういう意味だ。李嬢様の全力は決してその程度ではないぞ」
李残花は答えた。「それは唐嬢様も同じだ。しかし全力を尽くせば、恐らくただの勝負にとどまらず、殺し合いになってしまう。先程私の一振りは確かに破られた、だからこれ以上戦う必要はない」
「あんたの言うことにも一理ある、ではここまでにしよう」唐敗は手袋を外し、遠くに立っている西宮と楚搖光に目をやった。「あんたたちはこれから山東に向かうだろう。だがその前に、また唐家堡に数日泊まって、傷を治しておいた方がいいわ」
「それはありがたい。ではお言葉に甘えて、邪魔させて頂くわ」と答えてから、李残花は周りを見回して声を上げた。「お前ら、存分に言い触らせば良い、本日唐門の主が花刀玉狐を打ち負かしたとな」
唐門の弟子たちは暫く呆れてから、皆歓声を上げたが、唐敗はただ軽く首を横に振り、向き直って去って行った。
観戦の人集りが続々と散って行き、李残花が西宮と楚搖光のところに戻ると、西宮は聞いた。「今唐嬢様が傷を治すと言ったけど、お前は傷を負ったか」
「あぁ、これだ」と言って、李残花は右袖を捲って手首を見せた。その手首に指の形をしている赤い跡がある、まるで手首が強く掴まれたようだった。
「これは、唐嬢様が残したのか?」と西宮が聞くと、李残花は頷いた。「そうだ、今私が唐嬢様の手袋を切り裂いた時、彼女も私の手首を掴んだ。すぐに引き離したが、未だに痛く感じている。唐嬢様は暗器だけじゃなく、擒拿術にも精通していると聞いたけど、どうやらその噂は本当だ」
西宮はまた聞いた。「大事はないか」
李残花は袖を下ろして言った。「構わん、幸い骨までは傷ついていないから、数日休めば治るさ」
西宮はほっとした。「それは良かった。ところで、今唐嬢様が言ったけど、俺たちはこれから山東に向かうと、それはどういうことか」
李残花は答えた。「詩意城について、今私たちが掴んだ手がかりは李祁が使った武術と武器だ。詩仙酔剣の伝承が不明で、追いたくても追えない。だから残った二つの手がかりを調べるしかない」
「つまり、儒門の名剣『懸針』と、兵甲府の軽功『関山飛渡』か」
「そうだ、そしてこの二つの門派はどれも山東にあるのだ」
「なるほど、この二つの門派は江湖で有名なのか」
「あぁ、とても有名だ」と言って、李残花は楚搖光を見た。「楚嬢さんも知っているだろう」
楚搖光はすぐに答えた。「うん、もちろん知っているとも。いや有名というより、一二を争うと言った方が正しい。知らない方がおかしいわ」
西宮はため息をついた。「生憎だが、ここにはおかしい人が一人いる。詳しく教えてくれないか」
「もちろん、喜んで」話し始めると、楚搖光の口が止まらない。「二つとも長い歴史を持つ、春秋戦国の諸子百家が源流の門派。儒門の起源は儒家で、兵甲府の起源は兵家だ。千年間の戦乱を生き抜いて、今でも武林に屹立している。そしてその勢力は江湖にとどまらず、朝廷にも及んでいる。歴代の朝廷に、文臣の多くは儒門の出身で、武将の多くは兵甲府の出身だ。そして儒門の最も有名な伝説は…」
「はいはいそこまでにしよう」と李残花は口を挟んだ。「この二つの門派の物語を語ると、三日間話し続けても終わらない。まあとにかくとても凄い、これだけ知っておけば良い」
「なるほど、よく分かった」西宮は少し考えて、李残花に聞いた。「この中のどちらかが詩意城の黒幕だと思っているのか」
李残花は応じた。「或いは、両者ともだ」
西宮は苦笑した。「本当にそうなると、勝算が見えないな」
李残花は言った。「構わん、たとえ一つだけを相手にしても、勝算が見えないから」
「それても、お前は行くのか」
「そう、行くのだ。あんたは付いて来なくても良い」
「何を言っている、もちろん俺も付き合うよ」
「はっ、あんたが死んだら私のせいにするなよ」
夜、今夜の月は新月。
唐家堡の庭に、李残花、西宮慎、楚搖光の三人はその月を眺めている。
西宮はため息をついた。「たった三日前、俺たちは李祁とここに座り、お酒を飲みながら詩を吟じていた。今思えば夢のようだ」
「お酒なら今夜もあるさ、人が一人変わっただけだ」と言って、李残花は白い狐面を外し、盃を口に運んだ。
それを見て楚搖光はふと跳び上がった。「李嬢様、あなた、仮面を外した?いやその顔は、あの日緑綺荘で会った…」
酒を飲み干し、盃を皿に戻してから、李残花は言った。「なんだ、今更気づいたか。安心しろ、この顔も一枚の人皮仮面に過ぎない、あんたは私の素顔を見ていない。だから口封じのために殺したりはしない」
「それは、いいけど」と言って楚搖光はゆっくりとまた座った。
西宮は笑って言った。「はは、彼女はただ冗談を言っているのだ、たとえ素顔を見たとしても殺されないよ」
「ところで」李残花は楚搖光の腰の後ろに佩いている精巧な彎刀を見て聞いた。「それがあんたの武器か」
「そうだよ、これは十六歳の誕生日の時、兄さんがくれたの」楚搖光は彎刀の柄を撫でながら答えた。「それに、彎刀の技も一つ教えてくれた」
李残花は興味が湧いた。「ほう、どんな技かしら、見せてもらえないか」
「いいよ、私はまだ兄さん程上手く施せていないけどね」と言って、楚搖光は立ち上がって庭の中まで歩いた。
楚搖光は手を柄にかけ、前に数歩疾走してから、逆手で刀を抜いて猛烈な斬撃を放った。「弦月破雲断七星!」
彎刀の寒光が一閃し、新月の様な円弧を描いて、また鞘に戻した。
「悪くない」李残花は頷いた。「まだあんたの兄さんには及ばないが、この威力があれば、尋常な武者はあんたの相手にならない」
楚搖光は座ってため息をついた。「つまり一流の名手に会えば、やはり手も足も出ないか」
「気にすることはない、君はまだ若いから」と言って李残花は話を逸した。「それより、間もなく私と西宮は北上するけど、この旅の危険は君も知っているはずだ。君は唐門にいた方が安全かもしれない」
楚搖光は首を横に振った。「私はそうでもないと思うわ。唐枯を殺したのは私ではないけど、やはり関係がある、ここにいると私はいつか唐門の弟子に殺されてしまうかもしれない」
李残花は暫く考えて言った。「それもそうだな。では君も同行しよう。山東に行く前にまず京城に行って、我が師匠に一回会っておこう」
楚搖光は目を輝かせた。「李嬢様の師匠って、もしかして」
「あぁ、剣舞・公孫嬢様だ」
⁸「月下獨酌」——李白