二、唐家堡
唐家堡は山腹にある。その山の麓に町がある。
李残花、西宮慎、そして楚搖光を背負った李祁が今その町を歩いている。
酒屋・茶館・宿屋・飯屋・妓楼、あるべきものは全てある、もちろんその全てが唐門の産業だ。
酒屋には三十年物の竹葉青があり、茶館には清明に摘み取ったばかりの峨眉雪芽があり、飯屋には成都の天府楼に勝るとも劣らない料理があり、妓楼には蜀中で一番美しい女がいる。
歩きながら李残花は西宮に町を紹介しているが、ここまで言うと話を変えた。「だが、ここに来る殆どの人たちが本当に欲しいのは、これらのものではない」
「では彼らが欲しいものは?」と、西宮は聞いた。
「もちろん、唐門の暗器と毒だ。それはこの町で値段が最も高い代物」
「えっ、まさか唐門の暗器と毒って、買えるものなのか」
「買えるものはもちろん上品ではない、でも唐門では下品だとしても、小さな門派にとっては買い争う価値が十分あるのだ」
町には沢山の人がいる、その人たちの視線を浴びながら、三人は町を抜けて山登りの道に辿り着いた。三人の中で最も注目されるのはもちろん白い狐面を被った李残花だが、彼女はとっくに慣れたようで、脇目も振らず歩いていた。隣で歩いている二人が逆に緊張して、町を出ると互いに期せずほっとした。
坂道の入口に見張りが数人いて、三人が近づくと、李祁が先に話しかけた。「拙者の名は李祁、唐枯さんの誘いに応じて唐門を訪ねて来た、通して下さい」
しかし見張りは聞こえなかったように、返事もせず、李残花を見て逆に聞いた。「この方は、もしかして花刀玉狐、李嬢様ですか」
「そうだよ」と、李残花は答えた。「私はあんたたちの門主、唐嬢様に用があるの、通してくれないか」
この時、遠くから一人の男が素早く坂道を下り、間もなく目の前までやって来た。男は折りたたみ扇子を持っていて、昨日会った唐枯だった。
「やはりお二人は来てくれましたな、拙者はお待ちしていました」と、唐枯は微笑んで李祁に挨拶してから、李残花と西宮に向かってまた言った。「しかし、まさか李嬢様まで来るとは、実に驚いたな。そして、こちらの方は?」
「拙者は西宮慎と申す者、日本から来たのだ」と、西宮は拱手して言った。
「ほう、まさか海を渡って来た来客とは、これはなかなか珍しいぞ。日本と言えば思い出したが、うちの弟が日本にいた時、李嬢様のお世話になったな」
「私が今回唐門を訪ねるのは、まさにこの件を落着させるためだ」と、李残花は答えた。
唐枯は言った。「良い。ところで、西宮さんとは確か、昨日茶館で会ったな。それはつまり、もしかして、ありがたいことに、拙者は既に李嬢様の仮面の下の素顔を拝見できたということなのか」
「はっ」と、李残花は軽く笑った。「私の顔なら沢山あるよ、人皮仮面という物、あんたは聞いたことがあるはずだ」
「なるほど、やはりな」と言って、唐枯は扇を折り畳んで坂道を指した。「ではお上がり下さい、拙者が案内しましょう」
「では、ご苦労様」と言って、李残花は先に踏み出し、唐枯に従って行った。
山に登る途中、西宮は唐枯に聞いた。「唐公子はどうして俺たちが来たのが分かったか」
「そこから見たから」と言って、唐枯は扇で頭上を指した。
西宮が仰ぎ見ると、山腹に聳え立っている城が目に入った。「そんな遠いところから町にいる人が見えるなんて、すごい眼力だ」
李残花は言った。「暗器の使い手だから、眼力と聴力が良いのは当然のことさ」
唐枯は言った。「李嬢様の言う通りだ。これぐらい唐門の者なら誰だってできる、大したことではない」
唐家堡の城門にももちろん門番がいるが、唐枯を見るとすぐに道を開けた。
城門に入ると広い庭に着いた。庭に花が沢山植えられ、今はちょうど陽春なので、どこまでも咲き乱れている。
庭を囲む高い壁に、他のところに繋がる幾つかの門があり、それぞれに門番がいる。
庭の真ん中には東屋がある、その中に二人の女が座っていて、花を眺めている。入って来た唐枯一行を見ると、二人とも立ち上がった。
唐枯は前に出て、より年上の女に礼をして言った。「叔母さん、人を連れて来ました」
この言葉を聞いて、唐枯が連れて来た三人は期せずしてその女に目を向けた。唐枯に叔母さんと呼ばれる人はこの世に一人しかいない、つまり目の前にいるこの女が唐門の門主、唐敗お嬢様だ。
唐敗は既に三十歳を過ぎたが、相変わらず美人で、特に無邪気な目は少女のようだ。
唐敗は首を横に振ってため息をついた。「だから、他人の前では叔母さんではなく、門主と呼ぶべきだろう」と、口は責めているが、唐枯を見る眼差しには寵愛が隠せない。
唐枯ももちろんそれを知っていて、「あっ、うっかりしてしまいました、すみません」と謝ったが、顔には全く反省の色はなかった。
「では客人たちを紹介しましょう、こちらは―」と唐枯が李残花を見て言うと、唐敗はその言葉を遮った。
「その必要はない、その格好を見てまだ誰か分からないようでは、この目も使い物にならないのだ」と言って、唐敗は李残花に向いた。「ご高名は以前から聞いておりましたわ。花刀玉狐、李残花、李嬢様」
「それは大げさです」と、李残花は応じた。「唐嬢様こそ、江湖では知らない者はいない。私も昔から憧れていましたわ」
「それなら」と言って、唐敗は少し間を置いて続けた。「どうして李嬢様が我が唐門の者を傷つけたのでしょう」
「それは、唐霊公子の手出しが容赦なさ過ぎる故、やむを得なかったのでした。今回唐門を訪れるのも、この件の決着を付けるためです」
唐敗は李残花を直視して言った。「唐門の弟子が過ちを犯したとしても、それは門規によって裁かれるべきだ。他人が勝手に手を出せば、唐門の威信が地に落ちてしまう。だから、この借りは返さないといけない」
李残花も唐敗を直視して言った。「では唐嬢様はどうやって返すおつもりですか」
少し考えて、唐敗は口を開けた。「三日後、ここで、私とあなた、一対一の勝負でこの恨みを終わらせてやる。あなたが勝てば、あるいは相打ちになれば、この件は不問にする。私が勝っても、あなたの命は取らぬ、武力だけを消してやる。どうだ」
李残花は頷いた。「とても公平だ」
「ではー」と唐敗が言おうとした時、反対の声が響いた。
「待って」と言ったのは奥から庭に入って来た男、それが日本で武力を李残花に消された唐霊だった。
唐霊が唐敗の隣に来て言った。「叔母さん、彼女が唐門に来るのは、まさに自ら網にかかるようなものだ。唐門の弟子が一斉に袋叩きにすればすぐ済むことだ。叔母さんが危険を冒す必要はない」
唐敗は言った。「君が早く恨みを晴らしたい気持ちは分かるけど、それは決してだめだ。一斉に袋叩きにすれば確かに勝てるが、死傷も必ず酷くなる、私にはそうなって欲しくない。しかも、数で勝つなど、唐門はきっと他の門派の嘲笑を買うだろう」
「でもー」と、唐霊は言おうとした時、唐敗はまた口を開いた。「霊ちゃん、あなたは、私が李嬢様に勝てないと思うのか」
「それは、もちろんそうじゃない」と、唐霊は言葉に詰まり、暫くしてまた言った。「分かった、三ヶ月も待ったのだ、また三日待っても構わない」
「ではこれで決まりだ」と唐敗は言ってから視線を西宮に向けた。「閣下の服装は東瀛の物に見えますが、もしかして日本から来たのですか」
「ご明察です」と、西宮が答えた。「拙者は西宮慎と申し、李嬢様の友人です。日本で唐霊公子と会ったこともあります。その節はお世話になりました」
唐霊はよそに視線を向けて何も言わなかった。
唐敗は言った。「では今回西宮さんがここに来るのは、さぞ李嬢様に肩入れするためでしょう」
「それはそうですが、公平の決戦なら、拙者は手を出すつもりはありません」
「良ろしい、ではこの一戦は西宮さんに見証してもらいましょう」
「喜んで」
「では最後は」と言って、唐敗は李祁が背負っている楚搖光に目を向けた。「この嬢ちゃんが受けた鳶尾、枯ちゃん、あんたがやったのか」
唐枯は答えた。「はい」
唐敗はため息をついた。「あんたも知っているはずだ、最も毒と薬に詳しい冢ちゃんは今雲南の山で薬草を摘んでいる。あんたがこんな貴重な毒を使ったら、解毒するにはかなり手間がかかるのだ」
唐枯もため息をついた。「俺も使いたくはなかったのですが、修行が足りなくて、この李祁さんの鞘ごとの剣法に敵わぬとみて、やむを得ず、この下策を使ってしまいました」
「ほう、鞘ごとの剣法か、それは初耳だな」と言って、唐敗が李祁を見ると、そばに立っている唐霊と少女も李祁に目を向けた。
李祁は首を横に振った。「拙者は既に唐枯公子に説明したのです。これは鞘ごとの剣法なんかではありません、ただ剣身が折れて、抜けなくなっただけです」
「なるほど、事情は大体枯ちゃんから聞いたわ。とにかくまずはこの嬢ちゃんが受けた毒を抜いておこう」と言って、唐敗はそばに立っている少女を見た。「邪ちゃん、この件は君に任せてもいいか」
この言葉を聞くと、その場にいる諸人の視線がこのもの静かな少女に集まった。特に李残花、西宮、李祁は、明らかこの少女が唐門四傑の唐邪だとは全く思わず、皆驚異の目を向けた。
注目を浴びる唐邪は顔が少し赤くなり、口を開くと、その声も軽くて少し内気そうだった。「はい、鳶尾を抜く方法は冢兄さんから教えてもらいました。全力で試してみようと思います」
唐敗は頷いた。「冢ちゃんに教わった通りにやれば良い、君ならちゃんとできるわ。では、お客さんたちを客室に案内しよう」
「はい、皆さん、付いて来て下さい」と言いながら、唐邪は城門の方へ向かって先導した。
城門の近くに小さな門がある、そこを抜けると小さな庭に着き、左右両側に幾つかの部屋が並んでいる。
唐邪は振り返り、門に最も近い二つの部屋を示して言った。「唐門に泊まる間、お三方はどうぞこちらの二つの部屋を使って下さい。この庭の中で皆さんは自由に行動してもいいですが、唐家堡の他の場所はくれぐれも立ち入らないで下さい」
「ではうちの妹はー」と李祁が聞くと、唐邪は一番奥の部屋を指さして言った。「妹さんはあの部屋を使って頂きましょう、今すぐ診断します」
「お願いします」と言って、李祁は唐邪に従って一番奥の部屋に入り、注意深く楚搖光を寝床に寝かせた。
李残花と西宮が一目見合ってから、二人も続いてその部屋に入った。
一日経って、楚搖光の顔を染める赤色は大分色褪せて、段々白くなってきた。
唐邪は楚搖光のそばに座り、まずは彼女の顔色をよく観察してから、彼女の手首に指を当てて脈を取った。
暫くして、唐邪は立ち上がり、「ここでちょっと待ってて」と言い残して部屋を出て、間もなく薬箱を提げて戻って来た。
唐邪は薬箱からまずろうそくを一本取り出し、机に立てて灯した。
そして唐邪はまた薬箱から長細い銀色の小刀を一本取り出して、その刀身をろうそくの炎に入れた。暫く焼いて、刀身が雪のように白く輝くと、唐邪は楚搖光の腕を見て、すぐに針が刺さり込んだところを見つけ、小刀の切っ先をそこに向かって切り込んだ。一瞬のうちに、小刀はまた引き出され、小刀と共に、針も一本引き出された。
毛髪のように細い針、それがまさに唐枯が楚搖光の腕に射ち込んだ暗器だった。
唐邪は小刀と針を右手に持って、左手で薬箱から細長い綿布を取り出し、楚搖光の腕に数回回してから引き締めて、指を素早く動かし、片手だけで結び付けた。
小刀と針を机に置いてから、唐邪は振り返って三人に言った。「これからは毒を抜くために、針術を施しますが、この術は唐門の秘密なので、お三方は暫く回避をお願いします。山を下りるなら、戌の刻の前には戻って下さい」
先程唐邪のきびきびした手法を見て、三人とも感心した、元々この少女の腕前に疑念を抱いていた李祁さえもほっとした。唐邪の言葉を聞くと、李祁は答えた。「では我が妹はよろしくお願いします、唐三嬢さん」
唐邪が頷いたのを見て、三人とも部屋を出た。
「唐門の毒が凄いとは分かっていたけど、どうやら医術も精通しているようだな」と、西宮は言った。
それを聞いて、李残花はくすっと軽い笑い声を漏らした。
西宮は聞いた。「俺は何か可笑しいことを言ったか」
李残花は首を横に振った。「確かに可笑しいわ。薬と毒とは、そもそも同じ物、配合と分量が違うだけだ。毒を学ぶ前には必ず医を学ぶ、だから毒に精通している者は必ず名医でもある」
「はは、なるほど」と西宮も笑った。「やはりばかなことを言ったな」
李残花は言った。「私は今山を下りるけど、お前らは?」
西宮は聞いた。「山を下りてどうする」
李残花は答えた。「お酒を飲む」
西宮は言った。「今頃?飲みに行っている場合か。お前は三日後唐嬢様と決闘するんだろう」
李残花はため息をついた。「だからこそ、今飲まなきゃ、もし三日後私が負けたら、恐らく二度と再び飲めないのだ」
少し考えて西宮もため息をついた。「確かに、そう言えば一理あるな、では俺も付き合おう」
二人が李祁に目を向けると、李祁は苦笑して首を横に振った。「拙者は妹の体調が心配で、ここで待とうと思います、お二人でどうぞ」
李残花と西宮が離れた後、李祁は庭の門に最も近い部屋に入った。背負っている長剣を下ろして机に置いてから、李祁は机の隣に座り込んで、目を瞑って黙想しているようだった。
一刻後、李祁は付近の部屋の扉が開いて閉まる音、そして庭から離れて行く足音が聞こえた。唐邪が部屋を出たと分かるが、李祁は目を閉じたまま動かなかった。
また長い時間が経って、夕日が空を血色に染めた時、李祁は庭に入る足音を聞いた。その足音は李祁のいる部屋の前で止んだ。
部屋の扉が開かれる音が聞こえると、李祁は目を開けた。
時は既に黄昏の頃、扉の前に立っている人は夕日を背にして、床に長い影を映している。その人の顔も影の中にぼんやりしてよく見えないが、それは本日会ったことのない人物だと、李祁は分かっている。
影にいる人が口を開くと、柔らかい女性の声が響いた。「暗くなりましたが、お客様の灯りを点させて頂きましょうか」
李祁は暫く目の前の女を見て、妙な言葉を吐いた。「どうして、暗くなると灯りを点すか」
だがそれに対して女は全く驚かず、すぐ答えた。「暗闇には、殺意があるから」
李祁はまた言った。「しかし俺が感じたのは殺意ではなく、詩意だ」
女はふと詩を吟じた。「九天の閶闔宮殿を開き、万国の衣冠冕旒を拝す³」
李祁も詩を吟じて応じた。「総て浮雲の能く日を蔽うが為に、長安見えず人をして愁しましむ⁴」
女は部屋の中に入り、李祁の向かい側に座って頭を下げた。「影、参上いたします。城主の命を奉じて、ここで若君をお待ちしております」
李祁は女の顔を暫く見詰めて言った。「詩意城の人皮仮面を作る手並みはやはり天下無双だな。今の君は、誰なのか」
「唐門の女中、唐英と申します」
「ありきたりの名前、存在しないような身分、とても良い」と言って、李祁は唐英が両手で持っている木皿を見た。「これは?」
「唐嬢様の命を奉じて、若君に届ける夕食です」と言って唐英は木皿を机に置いた。
「ありがとう、では頂こうか」と言って李祁は箸を取った。「ところで、毒は盛っていないよな」
「はい、既に毒見はしておきました。毒はないはずです」
「冗談だよ、今唐嬢様が俺を毒殺する訳もない」李祁は箸で肉片を掴んで口に運び、よく噛んで味わった。肉を飲み込んだ後、李祁はまた言った。「それに、毒見なんか恐らく唐嬢様には通用しない。この一皿の肉は他の誰が食べても平気だとしても、俺だけが食べたら即死する。唐嬢様がその気になれば、これぐらい造作もないこと、君も分かっているはずだ。」
「はい」と唐英が言って、また何かを言おうとするが躊躇っている。
李祁はそれを見逃さなかった。「どうした、言いたいことがあるなら何でも言って構わん」
「はい、では率直に言わせて頂きます。これからの行動は、楚搖光を同行させない方が良いかと思っております」
李祁は全く驚かず、とっくに唐英の言うことを予想していたように、軽く笑った。「君は彼女が足手まといになると思うだろうが、俺には彼女がいてくれて助かったと思うよ」
「しかし、今回は彼女が詩意城の計画を危うく漏らすところだったのではありませんか」
「まさか、彼女は詩意城の計画なんか全く知らない、漏らすなど以ての外だ。それに俺が今唐門に入れたのは、まさに彼女のお陰様ではないか」
「それは、運が良かっただけです」
「その通り。だがこの世で一番得難い物は何か分かるか」唐英の答えを待たず李祁は続けた。「それが運だ。君は智将、彼女は福将だ。智将は万人に一人しかいないが、福将は万人に一人もいないのだ」
唐英はため息をついた。「しかし残念ながら、その福将は今猛毒に侵され、横になっていて、若君も唐門に目をつけられて動けません。次はどうするのですか」
「簡単なこと、動けなければ動かなくて良い。唐門が俺に目をつけているなら他の者には注意を払わない。こういう時は、影が動くべき時だ」
唐英は目を輝かした。「それはつまりー」
「そうだ、今こそ智将の君の出番だ。ずっと自分の腕前を発揮したかったと分かっている、今はまさにその機会だ」
唐英はすぐに答えた。「はい、決して若君を失望させません」
「良い、ただし君には、注意すべき人が二人いる」
「若君が言うのは、李嬢様とあの西宮慎という東瀛の者ですか」
「そうだ、彼らは我々の計画に翳りをもたらしてしまうかもしれない」
「分かりました」と言って唐英は立ち上がった。「ではそろそろ楚搖光嬢様に服薬と食事の奉仕をしますので、失礼いたします」
月もなく星もない闇夜、時は間もなく戌の刻。
李残花と西宮は唐邪に言われた通り唐家堡に戻って来た。
二人が客室のある小さな庭に入ると、庭の扉がすぐに閉じられ、外から施錠の音が伝わってきた。
庭に立っている李祁を見ると、西宮は声をかけた。「李さん、妹さんの具合はどうですか」
李祁は振り返って答えた。「お二人は戻られましたか。妹は先程目を覚ましましたが、薬を飲んで食事を取ってからまた眠りました」
西宮は言った。「ほう、それは回復しているのでしょう」
李祁は頷いた。「はい、唐邪嬢さんの話によると、明日と明後日また薬を二回飲めば全快するそうです」
「だったら、妹さんも私と唐嬢様の決闘を見られるね」と、李残花は言った。
西宮はため息をついた。「他人事みたいに言うな、お前にとっては生死の戦いだぞ」
「安心しろ、死なないよ。例え負けても、また奈良に行って花魁嬢さんに生花を習うだけの話だ」と応じて、李残花は右手に提げている酒甕を李祁に投げ付けた。「ほれ」
李祁はそれを受け取って聞いた。「これは?」
李残花は言った。「開けて嗅いでみて」
李祁は甕を開けると、鼻に近づけるまでもなく、酒の香りは既に庭に満ちた。目を閉じて暫く嗅ぐと、李祁は言った。「竹葉青、少なくとも二十年物です」
「ほほ、どうやら李さんもお酒の玄人だな。その通り、三十年物の竹葉青だ。その一甕はあんたの分」と言って、李残花が左手を上げると、そこにもう一つの酒甕を提げている。「これは私のだ」
李祁は聞いた。「お二人は先程既に飲んだのではありませんか」
李残花は首を横に振った。「まだ飲んでいないよ。お酒を飲むなら、もちろん人が多い方が楽しいだろう」
「いや…やはりお二人でどうぞ、拙者は…」と李祁が断ろうとしたが、李残花はすぐにその言葉を遮った。
「いいからいいから」と言って、李残花は李祁の腕を掴んで、否応なしに軒下まで引っ張ってから、彼の肩を押し付けてそこに座らせた。
西宮も従って来て、左手に提げている酒甕と右手に提げている油紙の包みを軒下に置き、微笑んで言った。「李さん、そろそろ観念しないか。李嬢様の誘いはなかなか断れるものじゃないぞ。それに、ここで心配しても、妹さんの為にはならないだろう」
李祁はため息をついた。「分かった。お二人のご厚意、これ以上断れば失礼だな、では頂こうか」
「はっ、そうこなくっちゃ、これこそ江湖男児だ」と言って李残花は甕の口を叩いて酒甕を開け、西宮に向かって言った。「ほらあんたも、早く開けて」
「はいはい」と応じて、西宮も自分の酒甕を開けた。
「夜はまだ長い、飲まずにどうする。さあ、乾杯だ」と言って、李残花は白い狐面を外して先に酒甕を上げた。
「乾杯」と他の二人が応じて、三人一緒に一口飲んだ。
「ふー」長い息を吐いて李祁は言った。「やはりいい酒だ」
西宮は酒甕を下ろして油紙の包みを開けた。中にあるのは黄金色に焼けた一羽の丸鶏と燻製した牛肉の大きな塊。
「あっ、やばい、店主に肉を切ってもらうのを忘れちゃった」と、李残花は言って、暫く考えて、腰に佩いている桜斬の鞘を掴んだ。「しょうがない、こいつで切るか」
「早くやめとけ、そんな名刀で肉を切られて堪るか」西宮はすぐに声を出してそれを止めた。そして西宮は懐から短刀を一振り取り出した。「これは俺の護身短刀だ。まだ使ったことがない、良かったらこれを使おう」
李残花は短刀を受け取り、牛肉を一枚切り離して口に入れた。
「うん、美味しい。さああんたもどうぞ」李残花は刃先を摘んで短刀を李祁に渡した。
李祁も短刀で牛肉を一枚切り下ろして食べた。「良い酒もあり、良い肉もある。人生の至楽と言えば、これぐらいのことだろう」
「俺の浅はかな考え方によれば、また詩を一首吟じてこそ、完璧だと言える」と西宮は言った。
李残花は笑って言った。「はっ、またあんたが覚えた漢詩を見せびらかしたいわけだね」
李祁は言った。「ほう、西宮さんは漢詩にも精通しているのか。それは興味をそそるな、是非とも一首拝聴させて頂きたい」
「そうですね、この場合に相応しい一首を考えると…あった」西宮は咳払いして、吟じ始めた。「花の間で酒壺一つ、友もなく一人で飲む。杯を挙げて明月を迎え、影も数えると三人になる…⁵」
西宮が吟じ終わると、李祁は頻りに称えた。「この詩は、前朝の詩仙の作だ。素晴らしい、とても良い」
だが李残花は首を横に振った。「良くない良くない、空を見ろ、明月なんかどこにある」
李祁は軒先の下に吊ってある灯火を指差した。「明月はないけど、この残灯があるからもう十分だ。拙者月と影を数えなくても既に三人いる。詩仙が独酌する寂しさと比べればずっとましだ」
「良く言った、明月がなければ残灯を眺めるのも良い、乾杯」と言って李残花は酒甕を持ち上げて一口飲んだ。「李さんも前朝の詩に詳しそうですが、一首吟じてくれないかしら」
「では、拙いですが、吟じさせて頂こう」と言って、李祁は酒甕を持ち上げて大口で二口飲んでから、袖で口を拭い、酒興を乗じて朗吟した。「噫吁戲、危いかな高い哉!蜀道の難きは、青天に上るよりも難し…⁶」
李祁の声は抑揚頓挫が巧みで、ときに激しく、時に悲しく、李残花も西宮も動きを止めて聴き惚れた。
李祁が吟じ終わった後も、二人は暫く無言のままだった。
西宮は感慨深く長嘆して、先に口を開いた。「君に問ふ、西遊して何れの時にか還らんと⁷。さすが詩仙、なんて素晴らしい詩句だろう」
「そうだ、西宮さんは故郷から海を西へ渡って辿り着いたんだったな、つい忘れていた。うっかりにも西宮さんの郷愁を誘ってしまい、罰として一杯飲もう」と言って李祁はまた大口で一口飲んだ。
「そうぐびぐび飲むなよ」と李残花は笑って言った。「あんたが自分の分を先に飲み干したって、私の分は分けてあげないからな」
「それにしても、この一首も詩仙の作だね」と西宮は言った。「俺は前にも聞いたことがあるけど、今夜李さんの吟詠を聞いてからこそ、この詩の真意を汲み取れた気がするよ。もしかして、李さんは詩人でもあるかな」
「はは、それは大げさだ」と李祁は笑って言った。「これぐらい大したことではない。特に詩仙の生きる詩意盛朝の時とあれば、王公から庶民まで、詩を吟じられない者も作れない者もいないのだ」
このまま三人は食べながら飲んで、飲みながら喋って、酒と肉が尽きるまで。
「私は常に酒豪と自負していたが」と、李残花は他の二人を見て言った。「まさかあんたたちもこんなに飲めるとは。もう一甕買っておけば良かったな」
「いいえ、やはりこれで良いと、拙者は思うよ」李祁は首を横に振った。「拙者たちが酒を飲むのは、別に正気を失って煩悩を忘却するためではないのだから。この酔い心地があれば十分だ」
「その通りだ。しかも実は俺、そろそろ限界だ、これ以上飲むと恐らくここで寝転んじまう」と言って、西宮は李残花をしげしげと見た。「ところで、俺も李さんも顔が真っ赤になったけど、お前の顔色は全く変わらないな。これはもう酒豪じゃなく、酒仙だろう」
李残花は笑って言った。「ははは、どうやらあんたはいささか酔っているな。忘れたか、私のこの顔は人皮仮面だ、顔色が変わる訳もない」
「それは無理もない」と李祁は言った。「李嬢様のその仮面は精巧過ぎる故、実はそれが李嬢様の素顔ではないかと、拙者は疑ったことがある」
「はは、よくできているだろう」李残花は得意げに笑った。「しかも綺麗な顔だし、私も結構気に入っているよ」
李祁は聞いた。「ちなみに、その仮面はどこから手に入れられたのだろう。できれば拙者も一つ買い求めたいな」
李残花は李祁を見て言った。「ほう、李さんは自分の顔に不満でもあるのか」
「そんなことはないけど」と李祁は首を横に振った。「江湖にいると、もう一つの顔があるのは、とても便利なことさ」
李残花は言った。「確かに。でも残念だ、この仮面は買えない。これは詩意城が作ったものだ」
「詩意城だと?」李祁は驚いてから、頷いた。「なるほど、道理でこんな上出来な代物な訳だ。しかし、それがまたどうして李嬢様の手に入ったのか」
李残花は答えた。「昔、うちの師匠が詩意城と戦った時、偶然に人皮仮面を数枚手に入れた。でも師匠はこんな物は卑怯だと嫌がって、使いたくないから、私と妹弟子にくだされたのだ。こいつのお陰で、私はこうして狐面を外し食事をすることができるんだ」
李祁はまた聞いた。「なるほど、しかし李嬢様が素顔を隠すのはまたなぜだろう」
「もちろん、素顔が醜いからよ」と李残花は答えた。
「はは、ご冗談を」李祁は笑った。「夜も遅いし、今夜はそろそろ、これでお開きとしませんか」
「そうだね、こんな闇夜は寝るのに最適だ。この酒興に乗じて寝ちゃおう」と言いながら李残花が立ち上がると、西宮と李祁も従い、三人は各々部屋に入った。
実は江湖人にとって、こんな夜に相応しいことは寝る以外にもう一つある、三人ともそれを知っているが、誰も口にしなかった。
月のない夜は、殺人の夜だ。
³「和賈舍人早朝大明宮之作」——王維
⁴「登金陵鳳凰臺」——李白
⁵「月下獨酌」——李白
⁶「蜀道難」——李白
⁷「蜀道難」——李白