一、緑綺荘
峨眉山の西の麓に、茶館がある、その名は「緑綺荘」。
時は陽春三月、暖かい春の風は開いている扉と窓から吹き込み、絶え間なく花の香りと鳥の囀りを連れてくる。
茶館の二階、窓際の座席に、一人の男性と一人の女性が座っている。
男の名は西宮慎、東瀛の装束、和式の刀を腰にかけてある、日本の剣士だ。
女の名は李残花、白装束、白い布に包まれる長い棒の様なものを背負っている、中国の刀使いだ。
西宮は茶碗を持ち上げ、まずは鼻元に近付けて、ゆっくりとその香りを嗅いだ後、茶碗を口元に運んで一口啜った。
茶碗を食卓に戻して、西宮は暫くその後味を味わってから、詩句を吟じた。
「蜀僧が綠綺を抱き、西の峨眉峰を下る。我がために手を振れば,萬壑の松を聽くのが如く¹」
吟じ終えると、西宮は長いため息をつき、向かい側の李残花に向かって言った。「俺たちは坊津港から日本を出て、泉州港から中国に入った後、何日間も止まることなくここまで駆けつけたのは、お茶を飲むためか」
西宮の言葉を聞いて、李残花はにこりとした。「もちろんそうじゃないわ」と李残花は言ってから、食卓の上の皿から茶菓子を一つ箸で挟んで口に入れた。それを呑み下した後、李残花は続けた。「お菓子を食べるためよ」
西宮はまたため息をついた。「あのな、お嬢様―」
「はいはい、真面目に話す」と、李残花は言った。「私たちが中国に来た目的が分かってるだろう」
「それはお前の師匠を手伝って、詩意城を相手にするためだろう」
「そう、でもその前にやっておくべきことがある」
「それは?」
「中国の武林の中で、最も強い暗器は何か、分かるか」
「はっ、それなら本当に分かるぞ」と、西宮は笑って言った。「昔、中国にいた頃、聞いたことがある。最強の暗器と言えば、それは一振りの飛刀だという人がおり、また一枚の鳥の羽だという人もいた」
李残花はお茶を一口飲んで、軽く首を横に振った。「それは間違ったわけじゃないが、どれも昔話だ。今この時、この質問に答えるには、一文字で十分だ」
「その文字とは?」
「唐」
「唐?」
「唐門の唐」
「唐門とは、確か蜀中にある武林の門派だな」
「そう、そして私たちが今いるところは、まさにその蜀中だ」
西宮はふと何かを思い出した様に言った。「そうだ、お前は日本にいた時、唐門の人を傷つけたことがあったな」
李残花はため息をついた。「その通り、詩意城に手を出せば、私が中国に帰ったという情報は間もなく江湖中に広がるだろう。唐門は蜀中にあるが、その気になれば全国津々浦々手が届くのだ、絡まれたらきりがない」
西宮は言った。「なるほど、確かにそうなると困るな。だから一層のこと、自らが唐門に出向いて、この件を済まておくつもりか」
李残花は頷いた。「そうだ、そしてそのためにまずは茶館に来るべきだ」
西宮は聞いた。「それはまたなぜだろう」
李残花は言った。「何をしても、まずは情報を集めることだ。蜀の人はお茶が好き、それにお茶よりもお喋りが大好きだから、最近の伝聞を聞くには、茶館に勝る場所はない」
西宮が辺りを見回すと、やはり茶館の中はとても賑やかで、江湖人物も沢山いる。あちこちから話し声が絶え間なく伝わってくる。
「おい、聞いたか、神剣宗の宗主が変わったって、そしてすぐに詩意城の麾下に入った」
「ほう、また詩意城が手を出したな、この調子なら、次は唐門の番かもしれんぞ」
「いやいや、さすがにそれはねえだろう」
「そうかなぁ、それまで詩意城が神剣宗に手を出すなどとは思ったことねえろう」
西宮が夢中で聞いている時、階段から二階に上がってきた二人が目に入った。
一人は剣客に見える三十代の男、粗布服は旧いがきれいに洗われている、背負っている長剣は服と同じぐらい旧くて、鞘に錆が浮いている。
もう一人は二十歳未満の活発そうな少女、丸くて大きな目は二階に上がった途端きょろきょろと周りを見ていて、腰の後ろには小さくて精巧な彎刀を佩いている。
二人はちょっと立ち止まってから、西宮と李残花が座っている席に向かって来た。
剣客は拱手して言った。「お邪魔してすみません、既に空席がないので、お二人と相席しても宜しいでしょうか」
西宮は李残花と一目見合い、笑って言った。「もちろん構わない、友達は多ければ多いほど良いものだ、どうぞ座って下さい」
「ありがとうございます」と言って、二人が席につき、剣客は店員に注文した。「峨眉雪芽を一つ、そして白糖糕を一皿下さい」
店員が離れた後、剣客は言った。「拙者の名は李祁、お二人の名前をお伺いしても?」
西宮は答えた。「拙者の名は西宮慎、日本から来たのだ」
李祁は驚きの色を見せた。「道理で、閣下の装束と佩刀も中国のものには見えないわけだ。しかし、西宮さんの漢語は全く異邦の人には聞こえないな」
西宮は言った。「実は少年の頃、中国に住んでいたことがあるから」
「なるほど」と、李祁は頷いて、李残花へ向き直って言った。「ではこちらのお嬢さんは?」
「私なら中国人だよ、名前は」と、李残花は一息おいて言い続けた。「李敗柳だ」
出鱈目な偽名を聞いて西宮は辛うじて笑いを我慢したが、李祁は表情も変えずに言った。「そうか、僕と同じ名字か、偶然だね」
李祁のそばに座っている少女は嫣然一笑して言った。「私の番ね、名前は楚搖光だ、皆さんよろしくね」
この名前を耳にすると、李残花は楚搖光が佩いている彎刀に目を向け、暫くして視線を戻して聞いた。「同じく彎刀を使う、楚玉衡という人と会ったことがあるけど、もしかして―」
それを聞いて楚搖光は目を輝かせた。「あっ、それ私の兄さんだけど、どこであったの、彼は元気でやっているのか」
「日本で会ったのだ、とても元気だ」
「それならいいけど、あいつ、私に黙ってそんなに遠いところに行きやがって」
西宮は話を逸した。「ところで、拙者が中国に来るのは久しぶりなので、今の武林の事情はよく分かりませんが、ちょっとお二人に伺っても良いかな」
楚搖光は即座に応じた。「おう、それなら私に聞くが良いのだ。なぜなら、私は江湖百暁生と呼ばれ、あらゆる武林の事情に通じている者だ」
「全く呼ばれてないだろうが」と、李祁は首を横に振りながら、笑って言った。
「うるさい」と、楚搖光は言った。「とにかく聞いてみれば分かるんだ、さあ、まずは何を知りたいか」
西宮は言った。「では蜀中の唐門のことから聞こうか。唐門の当主は誰だろう」
楚搖光は答えた。「それは武林の中で最強の暗器の使い手、しかも江湖中の四人のお嬢様の一人でもあり、唐敗、唐嬢様だ」
「唐敗か」と、西宮はその名前を繰り返した。
楚搖光は頷いた。「そう、敗北の敗だ」
西宮は驚いて言った。「こんな文字を名前に使うのか」
「唐門では、どの世代も最も抜群の弟子を四人選んで、わざと不吉な文字を使って名付けるのだ。例えば前代の四人の名前は凄涼破敗、唐敗嬢様以外、他の三人とも十数年前に死んだのだ」と、楚搖光は間を置いて続けた。「ちなみに、今の世代では、その四人の名前は枯冢邪霊だ」
「なるほど、勉強になったな」と言って、西宮はふと何かに気づいた。「霊…唐霊」
楚搖光は聞いた。「何、もしかして、その名前を聞いたことあるか」
西宮は言った。「あぁ、確かに覚えがあるような」
楚搖光は言った。「まあ、ありえなくもないかな。唐霊は四人の中で最も若いけど、特に武術の資質に恵まれている。まあ、それでも唐嬢様にはまだ及ばないけどね。元々は次期当主になると言われる男だった。しかし、彼は去年日本に行って、そこで誰かに武力を消されたようで、帰った後はずっと元気がなさそうだ」
この時、店員が先程李祁が頼んだものを運んできた。「ご注文の峨眉雪芽と白糖糕です、ごゆっくりどうぞ」
「ちょうど良い、沢山喋って喉が渇いたところだ」と言いながら、楚搖光は急須を持ち上げ、二人の茶碗にお茶を注いだ。
楚搖光がお茶を一杯飲み干し、白糖糕を二個食べた後、西宮はまた聞いた。「ところで、今、江湖中の四人のお嬢様と言ったが、それは?」
楚搖光は答えた。「それはつまり、江湖ではめっちゃ有名な四人の女のことだ。皆は彼女たちを尊敬してお嬢様と呼んでいるのだ」
「では、唐嬢様以外、他の三人は?」
楚搖光は言った。「他の一人は銀雀山兵甲府の二府主、顧未離、顧嬢様だ。武芸に優れるだけではなく、彼女は常に兵を率いて出征する、戦場を駆ける武将だ」
西宮は言った。「女武将とは、なかなか珍しいな」
「そうだろう、それも彼女が敬われる理由の一つだ」と、楚搖光は続けた。「そして残りの二人のお嬢様は一対の師弟だ。師匠の名は公孫桜、双剣を使い、天下無双の剣客だ。でも弟子の方は剣ではなく、刀を使い、いつも白い狐面を被っていて、名前は花刀玉狐李残花だ」
ここまで聞いて、西宮は李残花に目をやると、彼女はお茶を啜りながら、窓の外の景色を眺めていて、聞いているようないないような。
西宮は視線を戻してまた聞いた。「そうだ、先程言ったが、唐嬢様の他に、唐凄、唐涼、唐破三人とも十数年前に死んだとは、もしかしてその時何か起こったのか」
楚搖光は言った。「それはもう、とても大変なことが起こったとも」
西宮は興味深そうに聞いた。「ほう、それは詳しく聞かせてくれないか」
「ええっと、どこから話そうかな」と楚搖光は考えながら口を開いた。「今この蜀中には有名な武林の門派は唐門しかないけど、昔は他にいくつかあって、確か…二つか」
「三つだ」と言ったのは隣の李祁。「峨眉剣派、西南馬幇、そして金刀劉家だ」
楚搖光は頷いた。「そうそう、この三つだった。どれも唐門には及ばなかったけど、かなりの実力を持っていた門派だった。あの頃、唐門の主は長兄の唐凄、唐涼と唐破も江湖で名声を上げたが、一番年下の唐敗はあまり広く知られていなかった。最初はまあ平和だった、劉家のお嬢様は唐破に嫁ぎ、娘を生んだ。その子はつまり、今の唐邪だ。しかし唐破は唐凄に不満を抱えていた。彼は武力がより上の自分こそが唐門の主にふさわしいと思っていた。そしてこの不満は劉家に知られ、利用された」
楚搖光はお茶を一口飲んで、回想しながら言い続けた。「実は蜀中の門派は皆、唐門の勢力に圧倒され、ずっと唐門を取り除いてやりたかった。劉家の主、劉斌は唐破の不満を知ると、これは好機だと思って、裏で峨眉剣派や西南馬幇と連盟を結び、唐門を消す計略を練った。計略はうまくいった、唐門の主の地位を許諾したら、唐破は唐門を裏切った。唐破は唐凄と唐涼を待伏せのところまで誘い込み、そこで二人を捕らえた。唐凄と唐涼は残酷な刑罰を与えられても降参せず、最後は二人とも唐破の手によって殺された」
ここまで聞いて、西宮は首を横に振ってため息をついた。「酷い話だな」
「確かに、残酷だ」と言って、楚搖光は間を置いて続けた。「唐凄と唐涼が死んだ後、死体は唐門に運ばれた。そして葬送の当日、三つの門派の人と共に、唐破は唐門に帰って、主の座を継ぐつもりだった。その時、葬列を率いていたのは唐敗だった」
楚搖光がふと黙すると、西宮は耐えられずに聞いた。「その後は?」
「その日の後、人知れずの唐敗の名は、武林に轟いた」と、楚搖光はゆっくりと続けた。
十数年前、唐家堡の門前、門を出たばかりの葬列は止まった。
葬列の一番前に立っているのは白い喪服を纏うまだ十六歳の少女、それは唐門四傑に今残っているたった二人のうち一人、唐敗だった。
そのもう一人の唐破は、今彼女の向こう側に立っている。唐破の後ろには三人がいる。
一人は九環大刀を背負う髭が長い男、金刀劉家の当主、劉斌だった。
一人は長剣を背負う道人の装束を纏う女、峨眉剣派の当主、柳松翠だった。
最後の一人は斬馬刀を引っ提げる逞しい男、西南馬幇の当主、馬長空だった。
三人の更に後ろには、それぞれ十数人の弟子が従っている。
先に口を開いたのは唐破だった。「許せ、敗ちゃん、俺が帰るのが遅かった。まさか兄上と姉上が殺害されるとは。俺が門主になったら、必ず皆を率いて殺人者を探し出して、八つ裂きにしてやる」
唐敗は唐破を睨み付け、ゆっくりと言った。「お前は、門主にはなれない」
唐破は一瞬ぼうっとして言った。「お前は何を言っているのか」
唐敗は言った。「お前は権力欲に心を惑わされ、兄上と姉上を殺した。唐門の中で、お前に従う者はいない」
「だから何を言っているか分からないけど」と言いながら、唐破は頑張って口角を上げて微笑んで見せようとしたが、その表情は泣き面よりも醜かった。「敗ちゃん、流言を信じるな、俺がそんなことをする訳が―」
「これは兄上の遺体から見つかったものだ」と言って、唐敗は封書を一通取り出して唐破に投げ付けた。「読め、自分の筆跡くらい分かるんだろう」
唐破は封書を受け取り、中の手紙を取り出して広げた。一目見て、唐破は血相を変えた。それは前に自分が劉斌に送った、唐凄と唐涼を死地に誘う計画を書いた手紙だ。
唐破は振り返って劉斌を見ると、相手も意味深い微笑みを浮かべて自分を見ている。この手紙を唐凄の死体に置いたのが誰かは、もう言うまでもない。
唐破は歯軋りして言った。「貴様、俺を売ったな」
劉斌は近寄って小声で言った。「まあ、そう怒るな。早かれ遅かれ知られることさ、これもお前に決意させるためだ。お前がこの唐敗嬢さんも始末してくれれば、俺たちは三派の力を合わせて、お前に不服がある者を一掃して新たな唐門を作ってあげる。どうだ、悪くない取引だろう」
間を置いて劉斌はまた言った。「それとも、唐門の裏切り者になったお前は、今更俺たちを敵に回すつもりか」
唐破は表情を数回変えて、ようやく心を決め、再び唐敗と向き合った。「既にやってしまったら、最後までやるしかない。我が妹よ、俺を恨むな、これは唐門を更に進めるために、やむを得ないことだ」
「お前、本当に救いようがない」と言って、唐敗は腰に下げる鹿革の暗器袋から長細い飛刀を一枚引き出した。「柳葉飛刀の手法を教えてくれたのは、お前だ。今私は柳葉飛刀でお前の命を奪う。お前は泉下に行って、兄上と姉上に謝るが良い」
唐破も自分の暗器袋から柳葉飛刀を一枚引き出し、笑って言った。「はは、なら勝負しようではないか。お前がどこまで学んだか、見せてくれ」
二人は同時に一歩進んで、距離が一丈余りに縮まった。
暫く対峙して、唐破は先に飛刀を投げた。銀白の光は稲妻が如く唐敗の喉に襲って行く。
唐敗が少し頭を傾けると、飛刀は首を掠めてちょうど避けられた。
観戦の人たちの視線は唐敗に集中して、その身動きの素早さに驚いた時、唐破は突然倒れた。
唐破の両手は喉を押さえ、指の隙間から血が湧き出している。よく見ると、彼の喉に飛刀が刺さっていた。また唐敗の手を見ると、そこに持っていた飛刀は既になかった。
しかしその飛刀はいつどうやって唐破の喉に刺さったか、その場にいる人にそれを見えた人は誰一人いなかった。
死に際、唐破は自分に殺される前の唐凄が笑って言った言葉を思い出した。「我が妹は、きっとこの仇を討ってくれる」
唐破は何かを言おうとしたようだが、言葉にならない声だけが漏れ、暫く足掻いてとうとう目を大きく開いたまま死んだ。
これを見て三派の当主は皆意外な表情を浮かべて顔を見合わせ、一時黙り込んだ。
最初に口を開いたのはやはり劉斌だった。「唐門四傑の中で、唐破が一番武芸に優れていると思っていたが、まさか唐敗お嬢様が相手なら児戯同然とはな」
唐敗は三人を睨んで、金線の手袋をはめながら、冷たく言った。「お前らはどうするつもりだ?戦うなら付き合う、三人でかかってきても構わん」
劉斌は他の二人に視線を向けた。「お二人はどう考えますか」
峨眉剣派の当主、柳松翠は言った。「先程唐破が言った一言は正しかった」
劉斌は聞いた。「と言いますと?」
「既にやってしまったら、最後までやるしかない」
西南馬幇の当主、馬長空も言った。「一人の後輩を相手に、三人で戦うのは恥知らずだが、これは武芸の勝負ではなく、門派の存亡に関わる闘争だ。ここはやむを得ず、江湖の決まりを一時無視するしかない」
唐敗は冷笑して言った。「ふん、口実はそこまでか、なら来い」
三人とも武術の名手、眼差しを一度交わすと既に戦法を決めた。
三人は同時に武器を手に取って、柳松翠は立ち止まったまま、劉斌と馬長空は左右に分かれ唐敗の後ろまで進んだ。唐敗の神出鬼没な暗器を憚って、三人は包囲態勢を取ってまずその手法を見極めようとした。
柳松翠は他の二人が止まったのを見て、先に技を仕掛けた。長剣を唐敗の胸に向かってまっすぐ差し出し、しかしこの技はただの見せかけ、相手の動きによって、十数種の変化が隠されている。しかも唐敗は動けば、両側にいる劉斌と馬長空も必ずその隙を狙って攻めてくる。
だが唐敗は動かない、ただ迫ってくる長剣を見て、右手を上げて鬢髪を整える余裕さえあった。
それを見て、柳松翠は手首に力を入れて、見せかけを実の技に変え、一気に唐敗の胸を刺し通そうとした。
この時、唐敗の左手は素早く胸元に上がり、まさに長剣の刃先を掴んだ。その手にはめた金線の手袋はよほど強靭で、刃から手を守る上に、相手の武器も拘束した。
同時に唐敗が右手で鬢髪を掻き上げると、耳の下に吊るしている星の形をしている飾りが現れた。そして唐敗が右手の中指を弾くと、その耳飾りは流星となって飛び出し、一瞬で柳松翠の額を射ち抜いた。
これを見て劉斌と馬長空が前に出て助けようとしたが、既に間に合わず、柳松翠は長剣を手放して倒れ込んだ。
「小娘め、殺してやる!」、仲間の惨死を見て馬長空は怒りを抑えられず、怒鳴って斬馬刀を唐敗に向かって振り下ろした。唐敗は相変わらず余裕を持って、軽快な身ごなしで斬馬刀を躱し、一歩踏み出せば馬長空の身近まで迫った。
技の隙を補うため、馬長空は片手を刀から離して唐敗を掴もうとしたが、その手首は逆に唐敗が伸ばした左手に掴まれた。そして唐敗は右手を上げて馬長空の喉を掠り、その動きは恋人の愛撫のように優しかったが、その指の間にはいつかもう一枚の飛刀を挟んでいる。
この時劉斌は近づいて,金刀を振り回して唐敗を数歩退かせたが、馬長空は既に地に倒れた。間もなく馬長空の喉に赤色の線が顕現して、そこから血が湧き出した。
あっという間に、三人の中の二人が死んだ。
唐敗は生き残っている劉斌を見て、すぐに手を出さず、顔に笑みを浮かべた。その笑みに全く嬉しさがなく、逃げ場のない鼠を弄んでいる猫を思いつかせる。
金刀を握っている手は震えて止まらず、背中に冷や汗が出る、劉斌は自分がまた過ちを犯したことが分かった。眼の前の少女の武力は自分の想像を遥かに超えている、彼女の存在があれば、唐門を瓦解させる計画など最初からただの笑い話だ。
暫く対峙して、劉斌は口を開いた。「唐嬢様、今回の件は全てわしが企んだのだ、わしが自裁で謝罪しよう。今日で金刀劉家は武林から除名する、門下の弟子は全部解散、もう唐門の敵にならないから、どうか彼らの命だけはお助け下さい」
「だめだ!劉家の者は生死を―」と、劉家の行列にいる若い弟子が叫んだが、劉斌は怒鳴って話を遮った。「黙れ!殺人の罪は命で償う。わしの仕業だ、その罪は自分で背負う。お前らは覚えておけ、絶対に唐門を恨むな、絶対に復讐なんか考えるな」
そして劉斌は唐敗に向かって土下座して改めて懇願した。「どうか、どうか、ご慈悲を、お願いします」
「分かった、許すわ」と、唐敗は言った。「じゃあ自裁して」
「かたじけない」と言って、劉斌は金刀を高く持ち上げ、自分の首に向かって振り下ろした。
頭が地に落ち、血が泉のように迸る。
唐敗は三派の弟子たちを見て言った。「この仇はここまで、お前らは主の屍を拾って良い。不服がある者は今ここで私に挑戦しても良い」
不服を唱える者はいなかった、三派の弟子たちは各々当主の遺体を運んで去って行った。
それを見送ると唐敗は振り返って、唐門の弟子たちに言った。「唐破の屍は用意しておいた棺に入れて、ついでに葬ろう」
唐門の弟子は殆ど唐敗より年上だが、今は皆この少女を神の如く敬う。間もなく唐破の屍は棺に入れられた。
「行こう」と、唐敗が金線の手袋を外して言うと、葬列はまた進み出した。
「その後、もちろん唐敗嬢様は門主の座を継いだ。そして三派が次々と滅び、蜀中の武林は唐門が独占した」と、楚搖光は物語を終えた。
西宮は聞いた。「劉家は約束通り解散しただろう、他の二派は唐門に滅ぼされたのか」
楚搖光は首を横に振った。「いいえ、少なくとも表向きには唐嬢様は何もしなかった。峨眉剣派は唐門の報復を恐れて自ら解散した。西南馬幇は次期当主の座を争い、内訌が起こって自ら滅ひたのだ」
「なるほど、さすがに江湖百暁生だな、いい勉強になったよ」と言って、西宮はお茶を一口飲んだ。「ところで、最近は詩意城が唐門に手を出そうとする噂も聞いたが、それは本当かな」
「ええ、本当だよ」と、楚搖光は即答した。
「こんこん…」隣の李祁はお茶を一口飲んだばかり、それを聞いていきなりむせて激しく咳をした。
西宮も驚いたようだった。「えっ、なぜ分かる?」
楚搖光は答えた。「だって、私が詩意城の者だから」
楚搖光がこの言葉を口に出せば、賑やかだった周りの座席はふと、針の落ちる音が聞こえるほど静かになった。離れたところにいる客人たちもこちらを振り向いて、何があったか確かめようとしていた。
「ははは、バカを言え、そんな訳あるか」と、李祁はわざと大声で言ってから、立ち上がって西宮と李残花に拱手した。「今日はお二人に会えてとても嬉しかったが、拙者たちはまだ用事があるので、これで失礼します」
言い終えると、二人の返礼を待たず、李祁は楚搖光に言った。「ほら、行くよ」
「ええ?でも―」と、楚搖光は何か言おうとしたが、李祁はすぐに遮った。「いいから、行こうぜ」と言いながら、李祁は半ば強引に楚搖光を引きずって階段を下りて行った。
西宮と李残花は一目見合って、二人の心が通じ合い、すぐに次の行動を決めた。
「店員さん、勘定頼む」と、李残花が声をかけると、店員がすぐに近寄って応じた。「はいよ、ええっと、お二人が頼んだものは、銀二銭になります」
李残花が銀を払った後、二人が階段を下りて茶館を出ると、先に離れた李祁と楚搖光が見えた。
李祁と楚搖光は少し離れたところで立ち止まっていて、止まった原因は、折りたたみ扇子を持っている男が二人の前に立って、道を塞いているのだ。
男は三十ぐらいに見える、先程茶館にいた一人だ。
李祁は言った。「貴殿はどなたですか。なぜ道を塞ぎますか」
男は抱拳して言った。「拙者は、唐門の唐枯だ」
李祁は言った。「唐門四傑の頭である唐枯?私たちは唐門に悪いことをしていないはずだが」
「まだしていないけど、恐らく間もなくするのだろう」と言って、唐枯は手を振って扇を折り畳み、扇で楚搖光を指して言った。「先程この嬢さんが言った話、聞き捨てならないな」
扇が折り畳まれた時、金鉄の《きんてつ》が叩き合う音がした、その扇は明らかにに風を起こすに留まらず、更に唐枯の武器でもあるのだ。
李祁は苦笑して言った。「拙者は既に説明したはずだが、その話はこの小娘が適当に言った冗談だ。気にしないで下さい」
唐枯は言った。「冗談としてはちょっと笑えないな。それにただの冗談なら、慌てて離れるのはなぜだろう」
李祁はため息をついた。「どうやらもう説明できないな。では貴殿はどうするつもりか、ここで拙者たちを殺すか」
唐枯は答えた。「まさか、俺は理屈が通じない人間じゃない。ただお二人を唐門に招待して、数日泊まって欲しいだけだ。本当に冗談だと判明次第、俺はお二人を安らかに送り出す上に、お詫びとして銀百両を差し上げよう」
李祁は言った。「それは実に大金だな、できれば頂きたいけど、拙者たちには用事があって、とても付き合えないのだ」
唐枯は言った。「だったら、力尽くで行かせるしかないけど、悪く思うな」
「搖光、ちょっと下がってくれ」と、李祁は言って、背負っている長剣を抜いた。抜いたとは言え、剣身が鞘から出ず、鞘ごと抜いたのだ。よく見ると、その剣の柄と鞘は二つの鉄の鎖で繋がっている。
それを見て唐枯は言った。「ほう?こういう鞘ごとの剣法は聞いたこともないな。それとも、俺が相手なら、まだ剣を抜くまでもないか」
「もちろんそうではない。実はこの剣は家伝のものだが、剣身は折れている。修理できる匠人はまだ見つけていないので、鞘に封じておいたのだ。でもまあ、こういう剣を振るうのも慣れたから、手加減は無用だ、来い」
「そもそも、手加減なんかするつもりないけど」と言うが早く、唐枯は近づき、手に持つ扇子で李祁の胸にある経穴に向かって突いてきた。
李祁はふと酒酔いのように足元がふらついて、その勢いで扇子を躱しながら、鞘ごとの長剣を唐枯の腕に向けて振った。
李祁の姿勢を見て西宮は李残花に聞いた。「このふらふらした足捌きはどういう技か、珍しいな」
李残花は首を横に振った。「全然珍しくないわ。どこにでも見られる酔八仙剣だ。でも彼がこういう剣法をここまで発揮できることは実に驚くべきだ」
唐枯の扇は突いたり叩いたり縁で斬ったり、一呼吸の間に何度も技を仕掛けた。李祁はふらついて避けたり、剣で食い止めたり、ただ抑えられて反撃の余裕がないように見えるが、相手の攻勢を一々打ち消した。
唐枯は扇を折り畳み、一歩退いて言った。「まさか貴殿がこんな実力を隠しているとは、俺の目に狂いがあったものだな」
「いえいえ、唐さんが手加減してくれたお陰だ」と、李祁は答えた。
「手加減したかどうか、俺自身が一番分かっているのだ」と、唐枯はため息をついた。「もう良い、俺の修行が足りないのだ、今日はこれで失礼する、また会おう」
言いながら、唐枯は拱手すると、手に持つ扇の尾でちょうど後ろに下がった楚搖光の方を指した。唐枯が頭を下げて礼をする時、突然扇の尾から細い針が一枚射ち出された。
「危ない!」と、李祁は叫びながら剣で阻もうとしたが、既に間に合わず、針が楚搖光の腕に刺さり込んだ。
「あっ」と、楚搖光は驚きの声を漏らして、腕を上げて傷口を見ようとしたが、体は既に地に倒れ込んだ。
「解毒したければ、唐門に来るが良い、拙者はお二人をお待ちしています、ははは...」笑い声を残して、唐枯は軽功を発動して高く飛び、それを数回繰り返すと既に遠ざかっていた。
李祁は唐枯が去って行く方を一目見て、追い付けないと分かり、大急ぎで楚搖光のそばに駆け付けて彼女の様子を見た。西宮と李残花も同時に駆け付けて来た。
楚搖光は気を失っていて、顔が紅潮していたが、幸い呼吸は穏やかに続いている。
「ちょっと見せて」と言って、李残花が手の甲で楚搖光の頬を軽く触ると、見た目に反してひんやりした手触りだった。「やはり、鳶尾だ」
「鳶尾って、花?」と西宮が聞いたら、李残花は首を横に振った。「いや、唐門の毒だ。最初は顔が赤くなり、一日経てば白くなり、もう一日経てば黒くなる。顔が真っ黒になれば息絶える」
西宮は驚いた。「それなら、早く医者を探さないと」
李残花は再び首を横に振った。「無駄だ、唐門の毒を除くことは、唐門の者しかできない。たとえ解毒の腕を持つ医者がいたとしても、恐らく唐門を敵に回す度胸がない」
李祁はため息をついた。「その通りだ。こうなった以上、唐枯の言った通り、唐門を訪れるしかあるまい。幸い唐門はここから遠くない、馬車を使えば一日で着けるはずだ」
言いながら李祁は両腕を楚搖光の体の下に差し込んで抱き上げようとしたが、李残花はそれを止めた。
「待って、彼女をあまり動かさない方がいいわ、毒の回りが速くなるから。あんたはここで彼女を見守って」李残花は西宮に向き直って続けた。「西宮、あんたが茶館に戻って馬車を借りて来て」
「分かった」と西宮は答えて、茶館の方へ急いだ。
西宮が離れたら、李残花も立ち上がった。「私もちょっと失礼するわ、お姉さんを呼びに行く」
李祁は自分の耳を疑った。「お前のお姉さんを呼んでどうする?」
李残花は答えず、ただ微笑んでから、鳥が森に飛び込むように、優雅で速やかな動きで道端の林の中に消えた。
暫くして、林の中からちりんと一つ、澄んだ鈴の音が響いた。鈴の音に次いで響いたのは詩句を吟じる女の声。
「相見が難く別れも亦難し、東風無力百花残²」
そして李残花は林の中から歩き出した、相変わらずの白装束だが、顔が白い狐面に覆われ、背負っていた長い包みがなくなって、その代わりに、手には小太刀が現れた。小太刀には鍔がなく、柄も鞘も白木製、柄と鞘の分け目に桜の花びらが描かれ、柄頭に銀鈴が綴ってある、先程の鈴の音はここから出たのだ。
「何でいきなり詩を―」と言って、李祁は李残花の方を見ると、ふと何かを思い出した。「待って、その格好、まさかお前が花刀玉狐、李嬢様?」
李残花は頷いた。「ああ、事情は妹から聞いた。唐門を訪れるだろう、私が付き合ってあげるわ」
「いやいや、李嬢様に妹がいるなんて聞いたことない。そもそもお前の服も声もー」
李残花は李祁の話を遮った。「李さん、あんたも江湖に慣れているように見えるから、ある二つのことは知っているはずだ」
「と言うと?」
「一つは、李嬢様の顔を見た人はいない、少なくとも、見たという生きている人はいない。もう一つは、知ることは多ければ多いほど良いとは限らず、時には知らない方が身の為だ」間を置いて、李残花は続けた。「では、改めて名乗らせて頂きますわ、初めまして、李残花です。先程、うちの妹がお世話になりました」
李祁は躊躇なく答えた。「これはこれは、伝説の李嬢様と会えるなんて、光栄の至りでございます。初めまして、拙者は李祁と申します。まさか先程の嬢さんが李嬢様の妹だなんて思いも寄りませんでした、お二人は全く似ていませんからね」
この時、西宮は馬車を操って戻って来た。
李残花を見て西宮は少し呆れた。「お前、もうその格好をしているのか」
「恐らく刀を抜く時はすぐ来るからね」と、李残花は答えた。
李祁は西宮に聞いた。「もしかして西宮さんはとっくに彼女が李嬢様だと分かっていたのか」
「まあな、それより、早く馬車に乗ろう、急がないと」
「そうだね」と言って、李祁は注意深く楚搖光を抱き上げ、馬車の座席に寝かせた。
李残花も馬車に乗り込むと、李祁はまた聞いた。「では、李嬢様の顔を見た人がいないとは、もしかして偽りか」
「偽りに決まっているだろう、噂って常に大げさだ、私の顔を見た人を一々殺す暇などあるものか。でも、あんたが私の顔を描き出して江湖で流すなら、やはり殺すわ」
「まさか、拙者はそんなに恩知らずではない、ご安心を」
「良いか、行くぞ」と、御者席に座っている西宮はそう一声かけると、手綱を持ち上げて馬車を駆った。
¹「聽蜀僧濬彈琴」——李白
²「無題」——李商隠