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桜見酒

作者: 森山孝明


朝までラジオを点けながら大学ノートに落書きをしていた。去年の失敗事、今年やりたいこと、趣味に使えそうなアイデア、簡単な日記のような駄文など。机の下のゴミ箱の中には、コーヒーを淹れた後のかすが見えており、ほんのりと香ばしい香りがした。茶色い滲みの付いた濾紙の上に、机の隅で見つけた埃を捨てる。2017年元旦。風呂場しか大掃除をしなかったので、年が明けた実感がない。キッチンのシンクには蕎麦を湯がいた後の雪平鍋が放り込まれたままだ。


俺は冷蔵庫までゆっくりと歩き、缶ビールを出してステイオンタブをこじ開けた。顎を上げて黄金色の液体を胃に流し入れる。ぶるっと身体が震えた。部屋の電気を消し、カーテンを開けると外の方が明るかった。牡丹雪が降っている。夜明け前から降り出したのだろう。路にはふっくらと白い雪が積もっていた。二階から眺めるとそれは洋服の生地のような白色で、実際に触れると冷たいのだろうが、まるであたたかそうに見えた。


去年の六月に別れた女の子を思い出した。名前は彩音。苗字は思い出せない。三月にイタリアンレストランで一緒に食事をした。その日に白いファー・コートを彼女が着ていた…。


…彼女はいつも神経質そうな表情をしていた。そして、…テーブルの上でピタピタと何度も指をつけたり離したりするのが彼女の癖だった。


クリスマスイブの夜はアジアの王室のようなホテルの部屋で過ごしたっけ。それを思い出すと少し頭が痛くなった。…たしか、その夜、テレビを点けると小田和正が若いミュージシャンと共演していた。観ながら彼女は、ビールジョッキを持った両の手の指をピタピタしていた。


「ふうっ」


思わず溜め息が淀んだ声となって出た。暗い気分になるほど思い出が鮮やかに甦ってくる。参ったね。


俺は重たいライダースジャケットを羽織り、ベランダに出ると煙草を吸った。湿気った落ち葉焚きの煙を吸い込んだときのような痛みを喉に感じた。目が潤んだが、もう一度深く吸い込み、もっと遠くへ吐き出した。エアコンの室外機の上にいくつかの鉢が置いてある。鉢植えの紅梅の蕾はまだ固そうだが、少し膨らんで来ているようだ。石付き盆栽に仕立ててある皐月は枯れて見すぼらしくなっていた。


俺はポケットからスマートフォンを取り出し、その枯れた皐月の写真を撮った。シャッター音が、静かな朝なので、とても大きな音に思えた。


徹夜明けなので目蓋が重い。残りの缶ビールを飲んでしまって友達に写真を送信した。続けてメッセージを送る。




あけましておめでとう


良いお年を




ピロリーンと着信音が鳴った。友達は起きているらしい。彼にはすごく悪いが返事を読む気がしなかった。


部屋の中に戻ると、ラジオからフュージョンが流れていた。朝にぴったりの選曲だった。しばらく聴いていたが、俺はラジオを消し、柔らかいパジャマに着替えると、ベッドに潜り込んで寝た。




目を閉じるとすぐに意識が消えていった。そして、しばらくすると夢を見ていることに気付いた。その夢の中では、知らない場所に俺は居た。そこは外で、何人かが黙々と作業をしていた。屋根から垂れ下がっている大きなつららをハンマーで折り取り、発泡スチロールの箱に詰めていた。俺は作業服を着ていて、そのラインの中に居た。俺も周りにならって作業をしてみる。何本かのつららを箱に入れたとき、一人の男が来た。彼の格好からすると、俺たちのマネージャーらしかった。50代くらいだろうか。立派な髭を蓄えているが、痩せ型で服がどうしようもなく似合っていなかった。ただ、彼のその目は職人の目の純粋な輝きを放っていた。




俺が取ったつららを点検して彼は言った。


「これじゃあ駄目だよ。もっと丁寧にやらないと。商品にならない」


男は、俺のつららを一本一本検品しながら捨てていった。


俺が黙っていると、その男は他の作業員が詰め終えた箱を台車に載せて何処かへ運んでいった。




目を覚ますとひどく寒かった。掛け布団が布団カバーの中で片寄っていたらしい。シーツだけを被って眠っていたようなものだ。身体が冷え切っていた。


俺は布団を整えると身を縮ませて包まった。片方の手を自分の頰に当ててみると、もう温度を取り戻さないんじゃないかと思うほど冷たかった。




さっき夢で見た光景を鮮明な映像で思い出すことが出来た。何か意味がありそうに思えた。つまり、予知夢のような不気味さがあったが、気のせいだろう。少し落ち着くと、部屋の空気が悪いことが気になった。


「年モ明ケタコトダシ、掃除デモシヨウカナ」と頭の中で、なんだか、ぎこちないセリフを吐いた。意識ははっきりとしているが、頭がまだ完全には起きていない。


年末に掃除機を買いたかったのだが、何かと金を使い込んでしまったので部屋にはホウキとチリトリしかなかった。


1秒ほど力を溜めると俺は「ヨシ!」と声を出し、布団から勢いよく出た。


雑多な物を大雑把に片付けると、掃き掃除をした。ハンク・ジョーンズのアルバムを本棚から抜き取り、掛けた。掃除をするときはピアノを聞くと気分が盛り上がっていい。


給湯器のスイッチを入れて、バケツにぬるま湯を溜めると、寺の小坊主のように床を拭き上げた。


思いつくままに掃除をしていくと、部屋がとても綺麗になった。年末に終わらせておけば、違った気分で新年を迎えられたかも知れない。




置き時計の針は三時を指していた。


朝からビールを飲んだだけだったので腹が空いていた。冷蔵庫を開けてみたが、腹の足しになりそうなものは、玉ねぎと、冷凍庫に食パンがあっただけだった。


フライパンを火にかけ、くし切りにした玉ねぎを多めのバターで炒めた。オーブンレンジでこんがりとトーストした食パンに炒めた玉ねぎをのせる。


慌ててかじると指まで噛んでしまったが、とても美味かった。空腹のときは何を食べてもごちそうに感じる。


腹に物が入り、惚けた時間を過ごしていると、スマホの着信音が鳴った。画面を見ると知らない番号からだった。一瞬出ないでおこうかとも思ったが、誰からなのか興味もあったので出てみた。




俺は黙って相手の声を聞いてみる。誰だろう。少し間を置いて「もしもし?」と、相手は男の声だ。はて、誰だったか。特徴のない声で誰だか判らない。


間抜けに思えたが「誰ですか?」と俺は尋ねてみた。




「ジュンです。永井ジュン。分かりますか?」


申し訳ないが名前を聞いても思い出せない。俺が黙っていると、永井ジュンが、


「去年、上川のイタリアンバルで一緒に飲んで…名刺を渡しました」


と続けた。


そうだ、思い出した。永井ジュン。あれは…六月の雨の日だ。なんとなく仲良くなって、別れ際に名刺を交換したなぁ。




その六月の雨の日、或るイタリアンバルに俺は行った。オープンしてから何度か来店していた。ミニ寿司やおばんざい等、和風の肴もメニューにあって楽しいが、なんといっても、職人が目の前で焼いてくれるステーキが絶品だった。オープンキッチンの中を覗けば、綺麗な銀色の鉄板を眺めることが出来た。


その日も俺はとりあえず生ビールを飲みながら、肉が焼かれるのを見ていた。店内はローリングストーンズが流れていた。店員の女の子に聞いたら、奥には座敷もあるようで、若い女性客が談笑する声が聞こえていた。


俺はカウンター席で飲んでいたのだが、一枚板のカウンターの奥には伏せて寝ている男が一人いた。後で分かるがそれが永井ジュンだった。最初は気にならなかったのだが、カウンターの、その男の前に割れた眼鏡が置いてあったのに気付いた。それから、その寝息を立てている永井ジュンのことが気になり始めた。しかし、大した興味ではない。そのうち店員の子が起こしに行くだろうから、どんな顔の男かちょっと見てやろうかなと思っただけだ。


そんなことを思っていると俺の頼んでいたタンのステーキが焼けていた。いつもこの店ではタンのステーキを注文している。(いつもハラミのステーキを注文するのだが、俺が行く時間帯には毎回売り切れていた)


職人が丁寧にカットして盛り付けてくれる。付け合わせは来るたびに変わる。気が利いているのだ。その日の付け合わせはトマトとジャガイモとズッキーニだった。


温めたオーバルの鉄板に盛り付けて出してくれる。ジュージューと肉の焼ける音がしており、実に美味しそうだった。はじめは塩で頂いてみようと思った。ナイフで切って、ひときれ口に入れる。よく切れるナイフだった。飾る言葉さえ邪魔になるほど、美味かった。柔らかくとてもジューシー。ビールをおかわりした。


付け合わせの野菜も良かった。下ごしらえがきちんとされていた。ジャガイモなんかは一度ローストしてから揚げてあった。




彩音と別れてから、あまり自炊をしなくなってしまっていた。料理は好きな方だが、作る気が起こらなかったのだ。この頃はスーパーの中食で済ますことが多く、外食も増えていた。うちではウイスキーばかり飲んだ。



「最近、アナタの考えてることが全く分からない。嫌いになった訳じゃないけど、少し離れる期間を置いた方がいいと思う。2か月とか必要ならもっとかなぁ? 一旦別れたい」


たしか、そんな言い方をされたと思う。夜中にデートをして、帰りの車の中で急に告げられた。




「俺は別れたくないけど、彩音がそうしたいなら仕方ないね」


と俺が言った。俺のセリフには、観念したという雰囲気が出ていたと思う。泣いても謝っても彼女の決意は変わらない気がした。


「…一杯だけ飲んで帰らないか?」




遅くまでやっている雰囲気の良いバーを知っていたのだが、結局コンビニで買って飲むことになった。俺は500mlの缶ビールを買い、彼女は紙パックのオレンジジュースを買った。


頭のネジが外れてしまったようで、何も思いつかなかった。何か話した方がいい気がした。


「怒ってる?」


と彼女が目を合わさずに言った。


「別に…怒ってないよ。ただ、びっくりしただけ」


俺は彼女のまつ毛を見つめながら言った。頭の中でルー・リードのウォーク・オン・ザ・ワイルドサイドが流れ始めた。人生の夕暮れが近づいて来たようだった。ビールが一瞬で無くなった。喉が渇き過ぎていた。




彩音と別れた日のことを思い出していると、また空腹を感じた。少し時間も経っているからか、失恋の思い出が食欲に作用していた。頭と体が切り離されたような感覚で、全身の筋肉がタンパク質を欲しがっているのをぼんやりと感じた。ステーキの次のひと切れを食らった。


俺は独りでステーキを食っていた。顔面の肌細胞が死んでいるみたいだった。手の甲を眺めていると心なしか血色が悪いように見えた。まだ精神的にやられているのだった。記憶に残るあの日の映像に、現在の時間が奪われていっていると感じてはいた。しかし、俺にはどうしようもなかった。




視界の端で「男」が起きた。麦とポップの余韻が口内に残っていたが、俺はひとまずビールを飲んだ、体勢を立て直そうといった具合に。


そして俺は、「割れた眼鏡の男」の方を見た。




綺麗な顔をした男だった。きめ細かい肌に整った眉毛、目には力強さがあり、男は歌舞伎役者を思わせた。


その男の首には、まだ新しい切り傷があった。眼鏡のレンズで切ったのかも知れなかった。




男は俺と目が合うと、笑って会釈をした。とても感じの良い挨拶だった。男と俺の間には4つほど席があったが、カウンターには俺たちの他に誰もおらず、全部空いていた。男が俺に話しかけて来た。


「それ、美味しそうですね」


「牛タンのステーキです。美味いっすよ。いけますいけます」


普段のトーンよりやや声を張って返事をした。


(ややこしい人間かも知れない。適当に会話をやり過ごそう)と俺は思った。酒の席で赤の他人と仲良くなることはあった。それは酔っ払い同士の、その場が楽しければいいというひと夜の友達関係だった。そこには酒の奢り合いなんて文化も存在した。元が見ず知らずの他人なので、或る意味、リスクは何も無い。即ち、会社の愚痴なども話せてしまうし、むしろ、自分の知らない方面の知識を得られたりもするので、波長の合う人と巡り会えたらラッキーな場合もある。しかし、そんな風に出会った人の話には大抵、小さな嘘が織り交ぜてあった。




俺は嘘が嫌いだった。少し誇張した話を聞いたくらいでドブの臭いを想像するくらいに。初めて会った相手に自分のことをさらけ出すのは、馬鹿げているとしても、見栄をはる必要なんてどこにある?と何度も思ったものだ。自身の虚像を作ったって、心のどこかで虚しくなるだけなのに。




俺は身構えてしまった。会話が進めば、きっと相手から「嘘」が飛び出すに違いないと考えた。人には人を傷付ける能力がある。長年の付き合いのある友達だって、時に嘘を交えて話をしたりする。俺が気にしすぎなのかも知れないが。「嘘」に対してはセンシティブな大人に成長してしまった。俺はしばしば、自分に対して思うことがあった、まるで湿地帯の苔みたいだ、と。適度な光と適度な風通しが無ければ枯れてしまう苔。伸び過ぎれば光が強すぎて焼けてしまうし、コロニーが無ければ乾燥して死んでしまう。自分を取り巻く環境は、変えないに越したことはない。そこには成長も発見もないかも知れないが「死んでしまう」こともないだろう…。




彩音…。失恋してから、俺は平凡を装って生きることに決めた。彼女が俺に求めていたものは、平凡かも知れないと思ったからだ。


他人と違うところ、変わった性格などは隠せるものではないかも知れないが、マイノリティの中で楽しくやるよりは、大多数の平凡な人たちの中で息を潜めている方が良い。出る杭は打たれる。出ない杭は打たれない可能性が高い。




割れた眼鏡の、首に傷のある男は、こちらにやってきた。なんというかギラギラした目をしているように見える。


まるで、ファーブルに発見されてしまったスカラベの気分だ。出来れば、今夜は一人で牛の糞を転がして居たかった。




店内のBGMはジェファーソン・エアープレインのホワイト・ラビットに変わっていた。


「この男との『マッド・ティー・パーティー』でも始まるのだろうか?」などと考えさせられた。


俺はこのとき、酔い始めていたのだろう。見ず知らずの男との会話の切り口を探していた。




「なにか飲みますか?」


と聞いてみた。


「紅茶リキュールを使ったカクテルが飲みたいですねー」


と言って彼は女の子を呼び注文をしようとしたのだが、残念ながら紅茶リキュールは置いていなかった。結局、彼はジャックダニエルの紅茶割りを頼んだ。


「僕は永井ジュンと言います。私立高校で数学の教師をしています」


「教師をやっておられるんですね。僕は森山孝明と言います。紳士服屋で働いてます」


紳士服屋というと、商業施設の服売場でスーツとかネクタイを売ってると思われるが、僕が働いているのはオーダーメイドスーツの老舗で、同い年の間では稼いでる方だった。


「首から血が出てますよ。大丈夫ですか?」


僕は、高校生のときの数学の先生を思い出してみた。

首の怪我は、教師という仕事とは関係なさそうだった。


「帰りの電車でちょっとしたトラブルがありまして、警察沙汰にはならなかったんですが、本当だ。怪我してますね。多分そのときに眼鏡が割れてしまいましたから、眼鏡の破片か何かが当たったんですかね」


「トラブルですか」


女の子がジャックダニエルの紅茶割りを持ってきた。


「喧嘩です。僕は本を読んでいたのですが、近くに居た乗客が喧嘩を始めまして、その人たちの鞄の紐が当たったんです。紐に付いてた金具が目に飛んできたんでしょうね。騒ぎになりそうだったのですぐに退散しました。仕事帰りとかじゃなくて良かったですよ、生徒に見られたりしたら面倒ですから」

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