9. Over(4)
唇はしっかりとユキを捕らえていた。ユキが必死にもがくがイリヤは離れない。両腕も頭も体も壁際に押しつけられユキの力では抗えなかった。
アルス!! アルス!!
ユキは心の中で叫んだ。その叫びは心の中を飛び出して、歯ぎしりのように口の中で弾けた。
『アルス!!』
イリヤの表情が歪んでユキから顔を離した。口元に手をやり見ると、血が滲んでいる。
ユキは力一杯イリヤを押しやり立ち上がると、部屋の入口へと走った。
ノブを捻るがカチャカチャと音だけが空回りする。ドアには知恵の輪のような複雑な形の掛け金が留められている。ユキの見た事の無い鍵でどこをどうやれば開くのかわからない。
振り向くとイリヤが立ち上がっているのが見えた。イリヤが手を開いてゆっくりと近づいてくる。
「もう何もしません。すみません。ユキ様……」
「来ないで!!」
ユキの身がすくむ。
仕方なくイリヤとは逆の方から窓辺へと逃げた。
外を見ると地面は遠く、堅そうな石畳が続いている。大きな窓だがとてもここからでは逃げられない。
目線を上げると明るい蒼空だけが突き抜けるように広がっている。
どうしたらいい?
どうしたらいい?
どうしたらいい?
ユキの心臓は今にも爆発しそうだ。
「ユキ様……」
イリヤがユキのいる窓辺の方を向く。
ユキは震える手でパテロの腰ひもに挟んでいたナイフを取り出し、イリヤに向けた。
「来ないで!!」
イリヤがナイフを目にし、唖然とする。いつの間にユキがそんな物を手に入れたのかと我が目を疑った。
ユキは昨日の夕食時、自分のテーブルから周囲にわからないようにステーキで出されたナイフをポケットに潜ませたのだった。
イリヤはいつもの柔和な笑みを浮かべる。
「ユキ様。危ないのでそれをおろして下さい。あなたが怪我をしてしまいます」
イリヤがジリジリと近づいて来る。
「やめて! これ以上近づかないで!」
ナイフを持つユキの手が震える。
ユキにはわかっていた。
結局イリヤにナイフを向けたところで、自分には何もできない。
近づかれたらお終いだ。
イリヤに敵うはずもなく、ただナイフを取り上げられるだけだ。
イリヤが寂しげに微笑む。
藍の瞳に暗い光が宿る。
「……あなたに刺されるなら、それもいいかもしれません。国が沈んだ時に、自分も一緒に滅びるべきだったのです」
そう呟くと一歩一歩とユキに近づいて来る。
ユキは息を深く吸い込むと、まっすぐにイリヤを見た。
そのナイフをパッと自分の首筋に当てる。
「近づいたら、自分の首を切るわ!」
イリヤの顔色が変わる。ピタリと足を止めた。
「そんな事……止めて下さい。怪我では済まない」
「そうよ。そんな事わかってる。あなたが私に無理強いするなら死んでやる」
「女神はそんな事では死にません。病気や怪我で亡くなることは無いのです。普通の人間のそれよりも長く生きるのですから」
「あなたは全てわかっているとでも言うの? 女神は死なない? 自分の手で首を掻き切って生き残った女神の記録でもあるわけ?」
ユキの手が震える。
こんな事の為に自分はこの世界を選んだのでは無い。
怖いよ!
アルス……助けて!
ピィィィィィィィィ
鳥の声がしている。
ピィィィィィィィィ
「ユキ様。お止め下さい。あなたにはそんな事できません」
ピュリピュリピュリ
甘えたような鳴き声がすぐ側で聞こえた。目だけを外に向けると窓辺に佇む美しい鳥が目に入った。
……サイ……!
「……そうだね。私にはできないわ。痛そうだもの」
そう言うとユキは笑顔を浮かべ、背後にある窓から下を覗いた。
「アルスーーー!!!!」
ユキは手に持ったナイフを捨てると窓枠によじ登り、そのまま空中へと一歩踏み出した。
イリヤが慌てて窓辺へ走るが、その手は黒髪を掠めただけで、ユキの体に届く事はなかった。
「ユキ!!!!」
アルスが落ちてくるユキを抱きとめた。
ユキがアルスにしがみついて泣き崩れる。アルスもユキを抱きしめる。
アルスの腕が震える。
サイの声に空を見上げると、ユキが降って来たのだ。
自分が都合の良い夢を見ているのではないかと思った。幻を抱きしめているのではないかと疑った。
「……ユキ? 本物か?」
ユキがアルスの胸に顔を埋めて号泣する。
「顔を見せろ」
ユキが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「本物だ。お前はいつも上から降って来るな」
アルスが笑って、確認するようにユキの頬の涙を拭った。
「アルス……バカ! 遅いよ!」
アルスがユキをギュッと抱きしめた。
「ごめん。ユキ。怖い思いをさせた……大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
アルスが慌ててユキを見る。
「怪我でもしたか? 何か……酷いことでもされたのか?」
ユキが赤くなった目でジッとアルスを見上げる。
「少し熱出てきちゃった。凄く疲れたんだもの」
アルスがホッとした顔をする。
「そうか。良かった」
「良くないよ!」
ユキが顔をしかめる。
「ダーシンは? ダーシンは無事?」
アルスが微笑む。
「ああ、無事だよ。額をザックリ切っているがピンピンしている」
「ヘレムも?」
アルスが笑って頷く。
ユキの目から涙が零れた。




