4. your name (7)
階段を上るアルスに、後ろからクロムルが声をかけた。
「今日はユキ様がお元気になられて良かったですネ」
アルスが足を止めて振り返る。
「……サマルディア語を話せるのか?」
驚いて敬語を使わず話してしまったことに、アルスは気づき口を押えた。一護衛兵が屋敷の主にこんな口のきき方はしない。
「お気になさらないで下さイ。そのままで」
その様子に気づいたのかクロムルが微笑む。
「一応貿易商の主なのデ、近隣国ノ言葉は少し学んでいるのデス」
確かに言葉は通じるが、端々のイントネーションはアカンティ語特有のものである。
「あなた様が私の思う方であれば、まるでアカンティの女神の物語を読むようだと思いまシタ」
アルスはアカンティの女神の物語を読んだことは無い。幼い頃におとぎ話として聞いたような気もするが覚えていなかった。
不思議そうな顔をするアルスに、クロムルが続けた。
「我が家はアカンティ以前の王朝である、コーシンティ王朝に代々仕える軍司令官の家系でシタ。エリ様はその総司令であるセラートに嫁いだのデス」
ここで話を止めたクロムルは、その先を言おうか少し躊躇する。
「昨日ユキ様があなた様のお名前を呼ばれていたので……」
アルスが驚いた。
一般に皇族の名前は民に知らされることは無い。
それが他国の、それも身分としては商人に過ぎないクロムルに名前が知られていたのだ。クロムルは断言しないが、アルスへの丁寧な言葉遣いに、アルスが何者であるのか把握していることが分かる。
「……すまない。身分も明かさず、黙ってあなたの世話になってしまった。お許し願いたい」
アルスが頭を下げようとすると、クロムルは慌ててそれを押し止めた。
「こちらこそ非礼をお詫びいたしマス。あなた様が隠されている事を不躾にお話してしまい、恥じ入るばかりデス。ただ……昨日のお姿がまるで、時代を超えてエリ様とセラートを見ているような気がしてしまって。口に出さずにいられなかったのデス」
アルスは少し顔が赤くなった気がした。
「アカンティ王家を通さずに、こちらが無礼なのはわかっていたのだが、どうしても時間が無く、このような手段をとってしまった。あなたにも迷惑がかかるだろう。……このまま何も気づかなかったフリをしてはもらえないか?」
アルスがまっすぐにクロムルを見た。
「お気遣いありがとうございマス。そうさせていただきマス」
クロムルが深々と頭を下げた。
また階段を上がるアルスが足を止め、クロムルを振り返った。
「どうして俺の名を……?」
アルスは実は自分の名前は、国内外に知れ渡っているのではないかと少し気になったのだ。
「私は仕事柄他国とのつながりも深く、そのおかげで……。いいえ、これは家系的要素が一番デスね。女神の子孫と言うことも有り、アカンティ王家の公務をお手伝いさせて頂く事も多いのデスよ。実はあなた様の立太子式に、私は王の侍従としてサインシャンドの深碧の宮殿を訪れた事があるのデス」
なるほど。
それならばアルスの名前を知っていて当然である。アルスは胸をなで下ろし、また階段を上がった。
地下の保管室では、ユキとサルクが作業を続けていた。ユキが十分に注意を払い、英語で書かれた原書をめくる。数字を目で追う。サルクには合図してエリの書をめくってもらう。
2つの書の劣化の差は顕著だ。
ほとんど変わらない時代を過ぎてきたはずなのに、英語の原書は今にも崩れ落ちそうだ。
美しい文字が羅列し、紙も薄く均一な現代の本は、大量生産されたせいなのか、そもそも原料が違うからなのか、時代を飛び越えてまで活躍する事は難しいらしい。
その点、エリの書はこの国の厚手の紙に書かれていて、手書きだし紙も均一とは言い難い。それでも紙の縁が少し黄ばむ程度で、ほとんど劣化していないのだ。
二人は慎重に作業を進める。一時間ほど経つと既にエリの書の最後の部分まで来てしまった。
「終わりました」サルクが答える。
しかしエリの手元の英語の原書は、まだ最後の第7章の3節がまるまる残されていたのである。
「見つけた! これだわ」
まだ10ページ程あるのだが、その部分は何一つ訳されてはいない。
「クロムル様とアルス様をお呼びします」サルクが急いで階段を上がって行った。
「やはり未完でしたか……」
クロムルが呟く。
「ええ。最後の第3節が全て排除されています。内容としては……詳しくはわかりませんが、訳されているもの同様、造船についての記述なので、必要無いものだから書かれなかったとは思えません」
ユキが本から顔を上げ、クロムルを見つめる。
「クロムルさん。どうしてエリはこの書を完成させなかったのでしょうか? なぜ未完にしたのでしょう? 何か伝わってはいませんか?」
「いいえ。特別に何か伝わったものは無いのです。その理由もわかりません」
ユキの表情が沈む。
結局、「未完」と言う事実がわかっただけで、ユキもそれに倣うしかなさそうだ……。
「ユキ様。特別に子孫に何か伝わっているわけではないのですが、実はエリ様の日記があるのです」
ユキが目を見開く。
「それを見る事はできますか?」
「もちろんです。しかしこれも……原書と同じ言葉で書かれているのです」
奥の書棚から桐箱に入った本をクロムルが持って来た。
確かに英語で書かれている。ページはあまり多くは無い。
日記としてはとても少ないように思えた。
さらさらと数ページ見てみたが、専門書とは違い、見覚えのある単語も多い。
これなら私にも翻訳できるかもしれない
「クロムルさん。できるかどうかはわかりませんが、これを自分で訳してもいいですか?」
「はい。ユキ様の思うようになさって下さい」
昼食の休憩を挟んでから、ユキは「エリの日記」の翻訳に取り組んだ。
始めてすぐに気付いたことは、これは日記というよりも、エリの感じた事、思った事をそのまま綴ったものだということだ。
なぜならこの書には日付や時間などが一切出てこなかったからである。
自分はこんなにも英語ができただろうか?
ふとユキはそんな風に考えた。
大学の外国語選択は英語を選んでいたが、得意かと問われれば至って普通としか言えない。
可もなく不可もなくといった具合の成績だった。
それが自分が勉強してきた単語の意味を、スラスラと思いだす事ができるのだ。
この世界のいろんな言葉を話し、読むことを続けるうちに、自分の脳細胞が活性化されたような気がした。
そして、「今大学受験をしたかった」と悔しく思ったのだ。




