1. 現実主義(1)
赤い大理石で作られた、暁の宮殿は、このサマルディア皇国の皇太子アルス・ブレングルの居城だった。
その宮殿に居候しているのが、藤城雪だ。
日本の普通の大学に通うユキは教室からドアを開け、廊下に出るといきなり荒野のど真ん中にいるという、にわかには信じ難い体験をした。
どうやらここは、元居た世界とはほんの少し違う世界の様で、ユキはここでは、〈月の女神〉と呼ばれていた。
『女神は我らの知らぬ知識を持って、あらゆる言葉を司る』
確かにユキはこの世界で言葉に困ることは無かった。そして偶然日本から持ち込んだ本を、こちらの世界の言葉に翻訳することになったのだ。
――――女神はこの世界の光。水面を揺らす一滴のしずく。叡智を備え国を潤し、その美しさで民を照らす――――『新・月下天人物語』より
◇ ◇ ◇ ◇
滞在中だったサマルディア皇帝の別荘が火事になり、危ない所を皇太子であるアルスに救われたユキは、彼の宮殿に戻ってきていた。
「先生。ユキの具合はどうですか?」
扉の前で診察が終わるのを待っていたアルスが、部屋に入ってきた。
「まだ少し咳がでるようですが、じきに治まるでしょう。一週間くらいはゆっくりと過ごされて下さい。後程、薬湯を届けさせますよ」
ヒリク医師の言葉を聞いて、アルスはホッとした顔を浮かべた。
あの火事の時、ユキの心臓は一時動かなかった。アルスはそんなユキを抱えて、自分の心臓も一緒に止まるような心地を味わったのだ。
ユキが咳き込む度にドキリとしてしまう。
いつから自分がこんなにも臆病になったのかと、考え込んでしまう程だった。
そんなアルスの顔を、ユキがいたずらっ子のような顔をして覗き込んだ。
「どうしたのよ、アルス。言ったでしょ? だから大丈夫だって」
「よかったな。ヒリク先生の咳止めは良く効くぞ。めちゃくちゃ苦いからな」
アルスが自分の不安な気持ちや、安堵した気持ちをユキに悟られないように、軽口を叩く。
「げっ、ヤだな。せめて錠剤にしてくれないかなあ……?」
そんなユキを見てアルスは笑った。
「他人事だと思ってるんでしょ? もう!」口をとがらせるとユキも笑った。
一週間、ユキはとにかく何もしなかった。
〈女神の書〉作成はもちろんの事、本すら何も読まなかった。
愛馬のスノウのお世話も埃っぽいので止められていたので、厩舎に会いに行っては、遠くからスノウを眺めるだけだった。
日がな一日、ご飯を食べて、日向ぼっこをして、ヘレムとサラナとおしゃべりをして、宮殿の周りを散歩して過ごしていた。
そして驚いたことに、そのほとんどをアルスも一緒に居てくれたのだ。
この人がこんなにこの宮殿に居るのを初めて見るわ……
ユキは心の中でこっそり考えていた。
自分の家なのに忙しくてほとんど居ないし、居ても仕事に追われているばかりだった。
ここに居てゆっくりしているアルスを見ると、なんだか変な気分だ。
「……ねえアルス。その……言いにくいんだけど、こんなに私とゆっくりしていて大丈夫なの? 後で仕事が大変な事になるんじゃない?」
「なんだよ、迷惑なのか? 一緒に居て」
ぶっきらぼうにアルスが答える。
「だから違うったら。心配してるの。旅から帰った時はあなたとんでもなく忙しかったでしょ? 体壊すんじゃないかと思ったんだから」
「それなら大丈夫だ。多少忙しくなるだろうが、あそこまでじゃないだろ。なんせ優秀な連中に直々に仕事を振ってるんだからな。とりあえずここに居るのとあの時みたいに居ないのとでは雲泥の差が出るんだよ」
「……なるほどね」
ユキの頭にはぽよんとして、大声で早口のググンの顔が浮かんだ。
そういえば別荘の火事で、ググンの大切なコレクションである「女神関連の本」を全て灰にしてしまったことを思いだした。
「ググンに謝らなくちゃね。大切な本をダメにしてしまったし……」
「陛下直々の命令で、女神の書関連本は国内外を問わずに集められている。つまり国費で金に糸目を付けず収集できるという訳だ。ググンの奴、張り切って買い漁っているからな」
張り切るググンを想像するとなんだか可笑しかった。
〈女神マニア〉と言われているググンには、またと無いチャンスである。
「それでもググンが頑張って集めた、大切な本だったしね。それに…………」
火事の話はユキの耳には何一つ入ってこなかった。
でもその前後の自分を取り巻いていた状況を考えると、放火だったのではないかと考えてしまうのだ。
――――決して口にはしなかったが。
ユキには自分のせいで本が燃える事態になってしまったのだと、申し訳ない気持ちが有った。
罪悪感は拭えない。
これを話すと、アルスは余計に心配するだろう。そう思うと何も言えなくなってしまうのだ。
ユキの言葉がくすぶってしまうと、アルスが口を開いた。
「あの火事は野火の類だったと、調べが付いている。雨期とはいえサインシャンドは乾燥が厳しいからな。火事が多いんだ。……だから心配するな。気に病む必要は全く無い」
何も言わないのに、どうしてアルスには通じてしまうのだろう……?
ユキが顔を上げると、空色の瞳が心配そうに揺れている。アルスがそっとユキの頭を撫でた。
この話が本当かどうかユキにはわからない。
ユキを落ち着かせるために、アルスが嘘を付いたのかもしれない。
それでも……
もし嘘だったとしても、ユキはその優しい嘘に身を委ねたくなった。
一週間後ヒリク先生の診察があった。先生はユキの回復に太鼓判を押してくれた。
咳止めはアルスの言う通り、ユキが経験した事無いほど苦いものだった。
その苦味を隠そうとする甘ったるいココという実の果汁が余計にユキの気分を悪くした。
ゲンナリしながらその薬湯に耐えると、咳は一週間とかからずに、二日ほどで収まってしまったのだ。
ユキの回復を聞いて、アルスがお祝いをしようと提案してくれた。明日からはアルスもユキも通常業務に戻るのだ。
『仕事は大丈夫だ』と言っていたけれど、きっと明日からアルスとゆっくり過ごす時間は無いのだろう。
それはユキにも簡単に想像がついた。