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「まったく、アパレル業界の人間にこんなもの注文するなよウィリアム」
新宿西口のスターバックスでウィルと席を挟む黒のムートンレザーのジャケットに身を包んだ男。 彼はテーブルの下で“こんなもの”を足でノックしながら呆れた口調と共に溜息を漏らした。
「悪かったね。 でも僕以上にハードウェアが強い人間となると、この世界で心当たりがあるのはトーマス・ウェルスリーに限られちゃうからさ。 ん、やっぱりこのカフェモカフラペチーノは美味いなぁ」
特別悪びれもしない対面に座っていたウィルは恍惚とした表情を浮かべながらしみじみと言った。
「はぁ……。 まぁ、誰にだって得手不得手はあるもんだ。 とは言っても、お前だって時間さえかければ組み上げられただろうがな。 あと、昔みたいにトムでいいって」
トムは御世辞でも何でもなく、本心を口にしてアメリカンコーヒーを手に取った。
「どうかな……。 餅は餅屋っていう諺が日本にはあってね、何事も専門分野はスペシャリストに任せた方が良いって言うしさ」
「スペシャリストね……。 それはいったい何年前の事だったかな」
互いに口の端を吊り上げて笑う。 遠い過去に思いを馳せるも、青春と呼べるほど鮮やかな思いでがあるわけでもない。 加えて、二人には現在充実した日常がある。 ウィルもトムも、過去には一切未練は無かった。
「一度身に付いたものは、そう簡単に忘れないものさ。 自転車の乗り方を忘れないみたいにね」
「……かも知れないな」
ウィルは生き方が変わったとはいえ、今もキーボードを叩く毎日。 しかし、トムは違う。 彼は今、服の型紙と生地を持ってファッション界の戦場にいる。 何かを創造する事に置いて、トムの力は多方面に発揮された結果でもある。 実際、現在の職に就く前は建築業界に籍を置き、その前は家電メーカーでその才能を発揮していた。 今はこの仕事が気に入っている様で、当分離れる気は無いらしい。
そうなると問題は、ブランクという技術レベルの低下がどの程度かという心配だが、しかし、ウィルの言う通り一度身に着いた技術はそう簡単には失われない。 研鑽の果てに培った発想と技術は忘れてしまったかのように見えて、しっかりと感覚として手に残っている。 少なくとも、ウィルはそう信じ、トムは要望通り答えてくれた。
「トムはまだこっちには居られるのかい?」
「いや、明日の展示会が終わったら、すぐイタリアに戻る。 こう見えて多忙なんだよ。 この後もホテルに戻って打ち合わせだ」
自嘲気味に鼻で笑っているが、トムは満更でもなさそうに片眉を吊り上げた。
「そうかい、残念だな……。 なんなら今夜食事でもと思ったんだけどね」
「やめてくれ。 どうして地球を半周してまで最終日のディナーをファーストフードで締めなけりゃならないんだ」
もはや、ウィルという男を知る者についての共通認識は、大のファーストフード好きという点だ。
「いやいや、意外と馬鹿にならないもんだよ。 最近冬季限定のポテトに付けるソースが絶品なんだ」
ウィルは眼鏡をきらりと光らせて大真面目に言うが、トムの方は話半分に聞き流した。
「まったく、本当に変わらないな、ウィリアム」
「そうでもないさ。 お互い、年相応に変わったよ……」
確かな事は、共に活動していた当時、今の自分を想像できたかと言えば、恐らく掠りもしないだろうという事だ。
「そうか……そうだな……」と言いながらトムは席を立った。
それに合わせて、ウィルも立ち上がり、互いに手を差し出した。
「久しぶりに会えてよかったよトム。 仕事頑張ってくれ」
「ああ、だが今度はファッションアイテムの注文を頼むぞ。 引きこもりのお前にも俺が直々にコーディネートしてやる。 なんなら、またオーダースーツを作ってやろうか? もちろん生地はイタリアブランドだ。 カノニコでもゼニアでもいいぞ」
ちょうど走ってきたタクシーにトムは手を挙げ、慣れた感じで乗り込んだ。
「へはは。 分った。 その時はまずネットでポチる前に君の所へ連絡するよ」
ドアが閉まりきる直前に「あぁ」という返事が聞こえた気がした。
しかし、意識は胸元で鳴り出したスマホの着信音に引っ張られ、目線でトムを見送りつつウィルはディスプレイに表示された相手の名前を確認して通話アイコンをスライドさせた。
「はいはい。 どうしたんだい季人?」