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思いのほか本日の作業が早めに終了したこともあり、季人はウィルの部屋からの帰り、まだ日も落ち切っていない時間という事で、新宿駅西口から少し離れた高層ビル街の一角で時間を潰すことにした。
読みかけのオカルト誌を開き、耳に引っかけてあるヘッドセットから小さく流れるヒーリングミュージックを聴きながら、吹き抜け風になっているテラスでテイクアウトのコーヒーを飲む。
今いるテラスの周囲は水が流れるモニュメントとなっており、水のせせらぎと中地下という立地が都会の喧騒を僅かばかり忘れさせてくれる。
「……?」
本に視線を落としていた季人だったが、周囲の空気が異質に震えたのを感じ取った。 季人と同じようにブレイクタイムを堪能していた人達のざわめきの原因、その気配の方へと目線を向け、季人は驚きのあまり顎が落ちた。
「……マジかよ」と開きっぱなしとなった口から洩れる正直な心境。
何故なら、中世の上流階級を思わせる紅のドレスに身を包んだ金髪ウェーブの少女が、バックにメイドを三人従えてテラスへと歩いて来ているのだから無理もないことだった。
これはまたとんだステレオタイプだなと季人は内心感嘆しつつも、余りじろじろ見過ぎるのは向こう方にとっても気分のいいものではないだろうと思い、再び視線を手元の本に向ける。
ただ、集団の先頭を歩く金髪の主と思わせる少女が、他に席が空いているというのにもかかわらず、自分の席の正面に座った事で、いやがおうにも意識せざるを得なくなった。
これではまるでやくざと視線を合わさない様にしている一般人にパンチパーマの厳つい男がオラついているいるかのようだと季人は連想した。 そして突然の様に降って湧いたこの状況を大いに面白おかしく歓迎していたが、同時に現在自分の置かれている状況がどう転んでもおかしくないと、若干の緊張感を持って少女の着席を本の端から覗いていた。
「都会の中にありつつも、喧騒から切り取られた箱庭のような一角。 ここはいい場所ですわね」
優雅な語り口調。 リラックスした声色から、本当にそう思っていることを季人にうかがわせた。
「そうだな。 その守られた静寂が壊されない限りは、本当にいい場所だと思う」
「はい。 私もそうある事を望みます」
そこで季人は初めて目線を隠していた本を膝に置き、笑顔で自分に話す少女をまともに見た。
太陽の光に煌めく金色のウェーブがかった髪。 彫刻から移植したかのような整った顔立ち、上流階級を感じさせる細かな所作。
そんな場違い極まりない存在が、どういうわけか自分に意識領域を割いている。
とりあえず、先方は会話をご所望の様だと判断し、季人は自身が取り留めもないと判断した言葉で対応する。
「ならいい方法を教えようか。 お連れのメイド達を帰らせることだ。 少なくとも、それだけで俺にまで向けられている奇異の目線だけは避けられる」
季人の言うことにも、少女の後ろに控えるメイド達は微動だにしない。 皮肉を言っているつもりも無かったが、そうとらえられても仕方が無いと思った季人だったが、どうやら彼女ら《・・・》は自分達の領分も周囲からの反応も弁えているようだった。
「なるほど。 貴殿の仰る事も分ります。 確かにこの場には不釣り合いな情景でしょう。 なので、従者を下がらせるにあたって、私からも一つ提案が……」
「と、言うと?」
メイドを引かせるのに釣り合う提案とはなんだろうか? という疑問を処理するまもなく、「今日お会いしたばかりの方に、このようなお願いをするのも大変失礼な事だと恐縮しているのですが」と少女は満面とは毛色の違う、底冷えのする様な微笑を季人に向けた。
「貴殿が現在お持ちになっているケースを渡してくださいませんか?」
それは、一瞬の静寂。 季人の耳から、一瞬だけ都会の喧騒がノイズキャンセルされたかのように消失した。
「……それは任意なのかい、お嬢さん?」
本をテーブルの上に置き、両手を膝の上におろした季人。
今の状況は客観的に見ても……楽観的に見ても窮地と呼べるものだろう。 心拍数は数分前とは違い、火事を知らせる警鐘の如く胸の内で響いている。
しかし、今彼を満たす身体的反応はそれだけだ。
このケースの中身が一体どれほどの意味をもたらすのか……。
窮地に立たされているかもしれない今の状況よりも、その事だけが今の季人の思考を占める全てだった。
「同意してくだされば、事は穏便に済みます。 お望みなら、希望する報酬をお渡しいたしますわ」
恐らくはったりではないだろう。 どこぞの人物かは分らないが、適当に書いた小切手の金額ぐらいは直ぐに用意してくれそうだ。 少なくとも、それだけのはったりは利いている。
「俺の希望は、君の名前と目的だフロイライン《御嬢さん》。 それを教えてくれたら、要求を飲むこともやぶさかじゃない」
「残念ですが、貴殿の身に危険が及ぶ可能性があるので、申し上げることは出来ません」
その少女の言葉に、季人は思わず噴き出した。
「まさに今の状況は危機的状況にあるといっても過言じゃないと思うんだけどな。 主観だけど……」と季人がテーブルに乗せていたスマートフォンを持ち上げた。
「動かないで下さい」
少女の硬い声で季人は全身の動きを止める。
「そのまま動かず、ゆっくり両手を上げてください」
有無を言わさない雰囲気のせいで、従わない未来が容易く想像できたため、季人は少女の言に大人しく従う。
「そう神妙になるなよ。 ちょっとBGMでも流して気分を落ち着けようと思っただけだ。 それ位構わないだろ?」
顔の位置まで上げられた両手。 その右手からクラッシック・ミュージックが流れ、緊張に包まれた場の空気を僅かながらに緩和する。
「私の連れている者達は、次に貴殿がその電話で何かをする前に拘束する事が出来ます。 おかしな考えは持たない方がよろしいかと」
「……そうか。 どうやらお気に召さなかったようだな」
少女の意思は固く、雑談に興じる隙も一切見せない。 どうやら、この件に関して彼女は本気のようだった。
「渡して、頂けますわね?」
後ろに控えている三人のメイド。 これまで後ろで一言も発さず両手を正面で重ねていただけだったが、今はそれを下ろしている。
恐らく、最後通告なのだろう。
もしも断れば、一体どんな事になるのか……。 季人はそれに関して興味は尽きない。 だが、そんな冒険もまた御免だった。
「肩すかしで悪いが、先制攻撃に成功したのはこっちだ」
余裕を湛えた季人の笑顔に違和感を感じた瞬間、少女の視界は曇りガラスの様に焦点がズレた。
幾ら好奇心で体が動いている季人とはいえ、クライアントからの預かりものであり、親友から頼まれた物をそう易々と明け渡す選択肢は彼のフローチャートに存在しなかった。