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「―――」
流れ出したのは、美しい笛の音が響く壮大なクラッシック。 五感の一つ、聴覚から脳が認識したのはセレンの奏でる旋律だった。
緊急時に音が流れる仕様。 傍から聞けば理解出来ないその機構。
しかし、セレンという存在がその常識を覆す。 彼女による演奏だという事実が分かる者だけが、その真意を理解する。
「―――ぁ」
そして、水越季人の変化は一瞬で起こった。
瞳孔は一瞬にして引き絞られ、神経には電流が奔り、空間認識は浮かぶ塵さえ感じ取れる。
全身が流氷の海に放り込まれたかと思えば、瞬く間に溶岩へと突き落とされたかのように熱を感じる。
本来であれば、自意識を手放しても何ら不思議ではないその感覚の変化。 常人であれば発狂してもおかしくは無い。
事実、まだ試験中だったものを見つけた季人が初めて緊急ボタンを押した際、酔っぱらった人形遣いが操るマリオネットの様に狂った。
壁にぶつかり、床をのた打ち回り、最後は胃がひっくり返って全てを口からぶちまけた。
「―――ぉ、ぁ、ぁ」
脳と神経、筋肉と感情のオーバードライブ。 聴く者の、それこそ全てを増幅するサウンド・ドーピングマシン。 人を超えるために、人の限界を外す。 人体が自身を守るために設けた、セーブされなければならない垣根を全て吹き飛ばす笛の旋律。
故に緊急用。 故に――セレン・ドライバー。
本来であれば、それだけ危険な物をウィルは採用しない。 何よりも使用者である季人の安全を最優先する彼ならば、装置として組み込むはずがない。
しかし、それで組み込んだのは――何故か季人が自我を保っていられたからだ。
普通であれば考えられない身体変化の暴風。 それでも台風の目に自分を置いていられた理由が判明した時、ウィルはセレンが傍に居るにもかかわらず、大声で笑い続けていた。 そして、同時にこれ以上ないほど納得していた。
――それもそのはず。 未体験への歓喜が、水越季人を繋ぎとめていた要因だったのだから。
だがそれは、一歩間違えれば麻薬中毒者と変わらない。 事実、セレンの母親は同様の症状が原因で最終的に死亡へと至った。
それを懸念したウィルとセレンが季人に対し質疑応答を試みたが、季人はその全てに、多少昂ってはいたが明確な受け答えで返していた。 よって、制限時間付きという条件で採用された。
まさに、こういう時の為に。
「マリアン」
未だに四肢の痙攣が落ち着かない季人を若干怯えた目で見ていたマリアンはビクリと肩を震わせる。
「は、はいっ」
こちらを振り向かない季人に、その感情を悟られない様に返事をした。
そんな気も知らずに帰ってきた声は、気さくでどこか掴みどころのない、自分のよく知っている青年のものだった。
「サポート、よろしくな」
返事を待たずに駆け出した季人に、マリアンは自身の能力をもって送り出した。
「は、はい! お任せ下さい、水越様」
何とも面白い光景だというのが、ガーランドの率直な感想だった。
二人同時にかかってくるのかと思いきや、突然痙攣しだした男。 これから戦闘を行おうという人間には到底思えないのも無理はない。
少なくとも、戦闘直前にこういった奇異な行動をする者はガーランドの経験上ごく少数だった。 ゼロではなかったのが現状の動揺を最小限に抑えている要因とも言える。
そして、闘うと決めた対象が目の前にいる以上、気を張っているのだから注意深くもなる。
互いの力量差を考えても、恐らく極短期勝負となることは予想できる。
季人の予想できない引出しに警戒しているとは言っても、手の内が明かされていくにつれて有利になるのはガーランドなのだ。 様子見など恐らくない。 初手から全力は間違いない。
目視で確認できる武装は盾と手に嵌められたグローブ状の格闘用装備。
頭部に装着されていた機器に触れた瞬間から痙攣が始まったように見えたが、それはあくまで不確定要素として認識しておく。
「むっ……」
話しはついたのか、季人の視線がガーランドに届いた。
人が変わったような―――人をやめた目が、自分を見ていた。
「くっくっ」
人は何かに臨むとき、意識が別人のように切り替わる事例はよく知られている。
ハンドルを握るとき、釣竿を握るとき、筆を握るとき。 そして、武器を手にした時。
まさに、目の前の男の変化がそれに該当するとガーランドは自分の目に狂いが無かったことを確信した。
「やはり戦いの素人ではなか―――っ!?」
予備動作も無く、季人はガーランドに向かって飛び出した。 にも関わらずその初速はこの機関室で初めに見せたそれとは雲泥の差だった。 それは、緩慢な動きだった野良猫から、捕食者動物である豹の如き俊敏さへと変わっていた。
短期決戦でくるとは予測していたが、ここまで物理的に速度が跳ね上がると、想定していたものから生じる差異のせいで余計に早く見える。
だが、それは季人にとってもまさに必死であるからこその突撃だった。
「―――っ!!」
季人は自分の体だというのに、まるで暴れ牛に跨るロデオだと悪態をつきたくなった。 加減や調整といったことが全く出来ない。 右に少し舵を切ったかと思えば、全力で操舵輪を回しているような扱いにくさ。 唯一救いなのは、その舵を切った瞬間に反対方向へと舵を切れる反射神経と判断できる思考が自分の意識下にあるという事だ。
そして、HUDに映るマリアンのヴィジョンズがもたらす未来の映像。 少しでも役に立てばと思って拝借したが、これが中々の曲者だった。
未来映像と現実を同時に処理するという事がこれほど困難だとは思っていなかった。 それが約一、二秒後の近未来だという事がそれに拍車をかけている。 まるで映像と音声がずれた気持ちの悪い映画を見ているような感覚だった。
使いこなせるのならば確かにこれ以上に戦闘におけるアドバンテージは無いだろう。 だがそれは、使いこなせるのなら……だ。
あと一歩で交戦圏内という瞬間。 その未来の映像を、季人は“自分の背後”から見ていた。
マリアンの能力、ヴィジョンズは自身の見た風景の未来を映し出す。 それはつまり、マリアンからの視界が起点となる力だ。
今の季人はTPS、三人称視点で自分自身を見ているようなものだった。 それは、自分を意識的に俯瞰で認識する季人の特殊技能とは全く別物の扱いにくさだった。 寧ろ、HUDを装備していることが障害となっている可能性すらある。 限定的ではあるが、現在の季人が行使できる能力に見合っているものかどうか、疑問を挟む余地がある。
だが季人はHUDが必要だと判断し、走り出したのだ。
自分だけの力だけでは届かない。 友の力を借りても張り合えない。 勝つにはもっと力が必要だと。
だから手を伸ばした。 もっとも身近にあり、可能性という光を見せてくれるであろう能力(力)に。
その決断を信じている。 振り回されるか制御するかは自分の問題なのだ。 そして現在、自分の意識が加速しているせいからなのか、周りの景色とHUDからもたらされる未来映像がやけにゆっくりと動いて見えることが、未来視に何とか振り回されていない要因でもあった。
「―――っ!!」
一瞬にして両者の距離がゼロになった。
放たれるガーランドの掌打をシールドで受けた季人が最初に感じ、想像させたのは大型動物の狩猟に用いられるスラッグ弾だった。
ジュラルミンの装甲を通して衝撃が盾を持つ腕の骨を軋ませる。 当然激痛がもれなくついてくる。
しかし、ここまでは観えていた。
歯を食いしばり腰から拳までを最大限に加速させたスタンナックルをガーランドの顔面に放つが、その前に腕で円を描くようにして弾かれる。 残念だがこの結果も観えていた。
「くっ」
分かっていた事だが、未来が見えてそれに対応して動いても、自身以上の反応で対応されたのではジリ貧なのだ。
やはりというべきか、季人がセレン・ドライバーで身体強化をしたとしてもガーランドのスペックには届かなかった。 付け焼刃でも刃が付いているだけマシだと思ったが、打ち合う対象が業物の名刀ではそもそも同じ土台にすら立てていない。 悔しいが、認めざるを得ない事実だった。
しかし、それは逆を言えば未来視が見せる未来に対応できなければ、致命的な一撃をもらうことでもある。
だからこそ、攻勢の手を緩めればそれ相応の未来が映し出されてしまう。 それは避けなければならない。
結果、高速で展開される泥仕合に突き合わなければならなかった。
現状では第三者視点から季人の死角をカバーする装置としての方が役割的には強い。
限定的な身体能力でがむしゃらに打ちこんでいく季人と積み重ねられた経験で的確に撃を放ってくるガーランドの相反する両者の攻防は、傍から見ているマリアンにとっても異世界の戦闘だった。
「すごい……」
能力を使うために戦闘を注視している彼女からして、既に季人がガーランドと闘えていること自体が驚愕なのだ。 季人が飛び出す直前に全身を痙攣させていた時から、既に自身の知っていた世界から逸脱し始めていたが、まさに目の前で繰り広げられている死闘はその延長だ。
だが、マリアンの思考はそれとは別に、もう一つの懸念を抱いていた。 それは今まさに人が変わったかのように戦っている季人のことだ。
目に見えて身体能力が跳ね上がっているのは確認できる。 今季人と勝負をしたら、結果がどうなるかわからないと思える程度には、青年の戦闘力を過小評価していない。
しかしだからこそ、その様な戦い方が長時間続くわけが無い。 身体能力を激変させるような要因など、ノーリスクであるわけが無いのだ。
だからこそ最初から全力で向かって行ったのかもしれない。 自分でその事を理解しているからこそと。
そして、マリアンの認識は正しかった。 今の季人は、許された制限時間の中でトップギアを維持し続けたまま戦っている。
ウィルが設定したセレン・ドライバーの制限時間は――三十秒。
その内、自身の変化が完了するまでに七秒から十秒。 よって、実質二十秒間が水越季人に許された戦闘時間だった。
それ以上の使用は肉体と精神の両方に異常を起こす可能性があるため、制限時間が終了した瞬間、興奮状態を強制的に鎮静化させるヒュプノ・サウンドが脳を支配する。
これはセレンドライバーの主旋律の裏側で同時に流れている。 よって、セレン・ドライバーの使用は鎮静化までがワンセットとなっていて、回避する事は出来ない。
「――っ」
交戦の最中、加速した思考の中で季人は残された時間に余裕がないことを把握していた。
恐らく十秒も残されていない。 しかし打開策が出てこない。
ガーランドには一片の隙も無い。
こちらが先読みして攻撃を行っても、それに対応した動きを季人以上の反応で対処する。
殆どセオリーを無視した季人の動きだが、それでも場数を踏んできたガーランドにとっては珍しすぎるという事も無いのだろう。 これまで培ってきた経験が体を動かし、その研鑽によって得られた技術を信じているからこそ出来る芸当だ。 しかし季人は違う。
自分の力量を信じても仕方が無い。 この場で最も信頼性の低いものが自分なのだから。
故に、結局、数秒先に死が待ち受けていたとしても、自身が信じられるもの、信頼できるものは、音楽で
自分に力を貸してくれるセレンと、ヴィジョンズを使いながらも棍を手にして立ち上がろうとしているマリアン。 そして、ウィルが昔の友人に頼んでまで作ってくれたこの――。
――音声認識を利用して即座に動かせるようにしてある。 はい、これがそう。
「―――!?」
セッテピエゲに一片の意識を向けた瞬間、季人は導くようにして変化した未来の映像に全てを託した。
スタングローブを振りぬいたままガーランドと体を入れ替え、マリアンを正面に捉えたままシールドを背後へと突き出した季人は人差し指を引き絞り、セッテピエゲから電磁石ワイヤーを飛ばす。 背後から追撃をかけようとしていたガーランドはそれを目視した瞬間、体位を左へと逸らして交わし、横をすり抜けていったワイヤーのフックは壁のパイプを先端の爪と電磁力でがっちりとつかんだ。
「それは前に見たぞ」
一度目と同様に大して意表を着けなかったワイヤー攻撃は完全に見切られている。
ヴィジョンズを通して見ていた季人にも、それは確認できているし、分っていた。
「ティラーレ《引け》!!」
セッテピエゲから手を話してそう叫んだ瞬間、固定されていなかったセッテピエゲにワイヤーが高速で巻き取られていく。 それはつまり、ジュラルミンのシールドが質量体となってワイヤーの先端へと飛んでいくということだ。
「む――っ!?」
持ち前の反射神経によって見切ったガーランドの頬をシールドのエッジが掠めていく。
そして、僅かに体勢が崩れのを季人は見逃さずに追撃に入る。 腰を軸に半回転させ、加速が十分に乗ったスマッシュがガーランドに迫る。
だがガーランドも身に沁みついた防御姿勢が脳の命令を待たずに実行される。
どのような達人も、初見の武器、意表を突く攻撃には必ず怯みや隙が生じる。 そこを狙った季人の判断と動きは何も間違っていない。 しかし、それでも作り出せた隙はあまりにも微小だった。
だが、それが立て続けとなればどうなるか――。
“その未来”が見えていた季人は、攻撃態勢に入っていた動きを緊急停止させ、口の端を吊り上げながら頭を真横に倒した。
「なに!?」
ガーランドの視界には、季人が傾げた頭のすぐ後ろから。 点が迫ってくるように見えた。 それは飛んでくる弾体とも認識できる。 しかしその正体は、それを放ったものを確認して直ぐに判明する。 季人の背後で、棍を投擲してそのまま地面へと伏していくマリアンの姿だ。
その棍が狙っていた顔面に直撃する瞬間、ガーランドは両腕を交差するように振り上げて弾き上げた。
しかし投擲されていた棍の速度と、それによって生じた威力は、崩れかけていたガーランド経験を完全に突破した。
「いっくぜぇぇぇ!!」
季人の視界からヴィジョンズが見せていた未来が消えた。 マリアンの集中力が切れたのだろう。
だが、ここまできたらもう必要ない。 進むべき未来、取るべき手段はもう一つだけなのだから。
「だぁぁぁぁ!!」
今打てる全力。 文字通り限界を超えて放たれた季人のスタンナックル。 一切の反応、対応が許されないガーランドの左頬に突き刺さり、衝撃と共に高圧電流が送り込まれる。
「が―――っ!?」
巨体が崩れる。 それも当然。 常人はその身に高圧電流を浴びれば、意思とは無関係に筋肉はその自由を殺される。 しかもそれを頭部からともなれば、普通意識は簡単に吹き飛ぶ。 人である以上、それは絶対に抗えない法則のようなものだ。 だが……。
「っく、みずこ、し……き……」
その瞳は、まだ闘志を湛えたまま季人を睨みつけていた。
「ぅああああああ!!」
恐怖を覚えそうになる瞬間に、それを振り払うためにさらに脇腹へ。 その根源を取り払うために鳩尾へ。 そして季人はさらに追撃を――。
「っぐ、なに……、まさか……」
全身を一気に襲う脱力感と疲労感。 そして強烈な頭痛。 それは、制限時間が来たことを知らせる体のシグナルだ。
顔を顰め、折れそうになる膝に力を込めて倒れそうになる体を何とか持ちこたえさせる。
途端に呼吸が乱れ、肺は酸素を求める為に全力で横隔膜を動かす。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
霞む視界。 その先で、今まで死闘を繰り広げていた男は倒れていた。
呼吸はしているようだから、生きてはいるだろう。 だが、それを分っていても、近づきたくは無かった。
ホラー映画の様に突然飛びつかれでもしたら、恐らく今の自分なら心停止するだろうと本気で思ったのだ。 だから歩み寄るのならば、後ろで一緒に戦ってくれていた少女も下だと鼻で笑い、壁にぶら下がっていたセッテピエゲを回収してから季人は踵を返してその傍らに膝をついた。
「助かったぜ、マリアン」
季人が声を掛けたマリアンも、その顔には疲労が色濃く見える。
それもそのはず。 能力を常時使用しつつ、痛めた体であれだけの投擲をしたのだから。
「やり、ましたわね。 さすがです、水越様」
「ああ、マリアンのお陰だ。 本当に助かったよ。 ありがとうな」
「い、いえそんな。 私がしたことなど、水越様に比べたら……」
「それこそだぜ。 俺がしたことなんて、皆の力を借りただけだ。 俺自身は別にすごくもなんともない」
それを聞いたマリアンは流石に謙遜が過ぎると思った。 あれだけの戦いをしておいて、自分は何も凄くないなど、過小評価も甚だしいと、自分でもよく分らない苛立ちが沸々と湧いてきそうになる。
だが、季人本人が本気でそう思っているのだろうという事も、ことここに居たってなんとなく理解していた。
水越季人は、そういう人なのだという事が、少しだけ分った気がした。
「これを着けてろ。 楽になる。 代わりにセレンが今着けてるヘッドセットを貸してくれ」
季人はセレンの耳から小さなヘッドセットを外し、変わりにセレン・ドライバーを着けさせ、外側のボタンを操作する。
「ヒーリング・ミュージックが体の疲れを癒してくれる。 セレンの音楽はガチで効くぜ」
「ありがとうございます。 ですが、水越様の方が辛そうに見えますが……」
「ああ、別に俺はどこも痛めたわけじゃないから大丈夫だ。 それより、思った以上に時間を食ったな。 これは機関室をどうにかする時間もなさそうだ。 結局、本丸をめざすしかないな」
実際、かなりオリジナルから手を加えられているように見える。 下手に触れて、カルディアが暴走し、結果ERBが発現して終了……ともなりかねない。
「ともかく、上に上がろう。 あいつも、しばらくは動けないだろう」
最後にもう一度、体を地に預けているガーランドを見て、早くここから離れたい気が余計に強くなり、マリアンの肩に手を回してから足早に機関室を後にした。




