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エルドリッジ機関室。
余剰圧力から逃げ出した蒸気が音と共に噴き出しているそこは、オリジナルのエルドリッジ機関室から改修がなされているのか、人の導線となる部分は広く設けられており、鉄パイプが張り巡らされている天井部分も上のフロアを取っ払い、圧迫感を感じない程度に高くなっている。 やはりここにエルドリッジを用意するにあたって余計な物は取っ払ってあるという考えは間違っていないのかもしれない。
もしかしたらフィラデルフィア実験の時には既に今のような空間に改修されていた可能性もあるが、それでもここに設置された本当の心臓部は変わらずそこにあった。
ディーゼル機関を四基。 電動機を四基搭載し、その出力は六千馬力。 それが、この駆逐艦を最大二十一ノットで航行させるほどの速度を生み出している。
そして、今回はその動力が生み出すエネルギー全てがERBを発現させるためにもう一つの心臓であるカルディアへと送り込まれる。
「ウィリアム様、動力室に着きましたが、それらしいものは見える範囲にありませんわ。 ……ウィリアム様?」
応答が無いウィリアムに再度応答を呼びかけるマリアンだったが、返事が返ってくる事は無い。
「電波が悪いのでしょうか……」
だからと言って、ここで探索をやめる理由にはならない。 周囲を警戒しつつ、明るいとは言い切れない機関室を進む。
現代の技術に合わせてオートメーション化が施されているのか、細かな部分をよく見ると、コードが幾重にも伸びた操作基盤が取り付けられているのが見て取れた。
恐らく、この船に現在乗船している人間はごく少数。
本来駆逐艦を動かすには多くの人間が必要だ。 そこで融通を聞かせようと思うのであれば、どうしても機械に頼る必要がある。 ここにある機材は、その裏付けとなるものだ。 少人数、ひょっとしたら独断での運用すら可能なしようとなっているかもしれない。
しかし、機械だけでは人為的要因への保険としては不十分だ。
攻勢防犯装置……セントリーガン(自動火器)のようなものがあればそれはそれで驚きだが、ここは実験における重要ブロック。 そんな危険を主導者としては冒せない。
であれば、より柔軟に対応できる駒を配置していると考えるのが妥当。 つまり―――。
「こちらにはお前が来たか……」
「―――っ!?」
体が反射的に後退動作をしつつ、声がした方を警戒する。 それと同時に棍を構え、HUDを作動させるマリアン。
「ガーランド・ハリス……ですわね」
「そういうお前は、マリアン・ロズベルグだな」
ディーゼル機関の陰から現れるロングコートの男。 博物館で出会った時と同じく、そこに居るだけで威圧感を感じるその出で立ちは、大型の捕食動物を想起させた。
「私の名を?」
「強い女の名前は覚える。 ここへ何をしにきた? と問うのは愚問か。 だがここにはお前が求める物は無い」
「……では、どうしてあなたはここにいるのですか?」
「そう依頼されたからだ。 誰にも荒らされるなと」
カルディアはここに無くとも、重要な場所であることは間違いないとガーランドの言で胸に落とし込む。
それも当然。 カルディアはあくまでソフトウェアなのだから、それを動かす為のハードウェアが壊されては元も子もない。 船とはその発電能力を機関室のディーゼル機関より生み出している。 ここを破壊されるという事はすなわち、全能力を奪われるに等しい。
「では、決して無駄足では無かったという事ですわね。 ここを無力化すれば実験そのものが立ち行かなくなるのですから」
「その通りだ。 だからここに俺が配置されたんだろう。 まずその心配は無くなるからな」
ガーランドは無手。 周囲に重たい空気が纏わりついているかのようにゆっくりと距離を詰めてくる。
「……」
マリアンの棍を持つ手に力が入る。 それでも、手の震えは止まってくれなかった。
手合せしたのはほんの数刻前。 ほんの一合。 それだけでも、互いの力量は把握している。
ガーランドはマリアンを強い女と評価した。 だが、それは相対的に自身の方が弱いと言っているわけでは無い。 これまでに戦ってきた者たちの中では強い方だとカテゴライズしたに過ぎない事はマリアンも十分承知している。
自分の力、ビジョンズを最大限に生かして戦ったとしても、勝てる未来に到達できるか分らない。
「……ふぅ」
だけど―――とマリアンは口を結ぶ。
今この瞬間、皆が戦っている。 戦場は違えど、任された持ち場で全力を尽くしている。 ならば、ここで引く事などできようはずがない。 もとよりそのつもりなど微塵も無い。
ここが私の戦場。 例え戦力差が明白であっても、初めから諦めるようでは、ロズベルグ家の次期党首とは名乗れない。
時間は無い。 これ以上の上場すら必要ない。 ならば、する事はもう決まっている。
「マリアン・ロズベルグ、参ります!!」
初速から最速を生むためにマリアンは地を蹴る足に全力を込めた。
瞬間、彼女は敵に向かって駆け出した。
同時に、それを迎え撃つガーランドは防御態勢を取るのではなく、逆にマリアンへと駆け出した。
一呼吸の間に両者の距離はゼロになる。
下から掬い上げるようにしてガーランドの顎へと走るマリアンの棍。 しかしそれを僅かに動体を右に動かしてかわされた。
人間として、反応速度が速すぎる。 だが、その結果は既に“観えていた”。
一歩踏み込み、体を視点にして遠心力を蓄えた棍がガーランドのこめかみに迫る。 それを右腕を上げて受け止めた。
「……!?」
防がれることは見えていた。 しかし、その際に伝わる硬質な感触と金属音は予想外のものだった。
砕いたと思っていた右腕がマリアンの頭部に迫る。 その剛腕が直撃したら、一撃で戦闘不能になる事は観る事も無く予想できる。
「っく!!」
棍をヴィジョンズが見せた拳が通る予測線の進路へ置く。 途端に奔った全身を貫く衝撃。
博物館の焼き直しの様に、マリアンの体が容易くピンボールの様に吹っ飛んだ。 壁にぶつかり、地に転がったが即座に立ち上がり、再び棍を構えて飛び出していく。
腕に何か仕込んである事は把握した。 恐らく両腕。 暗器の類か、それともプロテクターか分らない。
しかし、それが分かったとしても、攻勢に出なければ押し負ける。 力量を考えても、防御に回ったら一気に押し込まれてしまう。
「はっ―――!!」
突進の勢いをそのまま棍に乗せた一撃。 何の飾り気も無い、ただの……渾身の一撃。
だが、それは対象からしたら点にしか見えず、突進速度と全身のバネを駆使して繰り出されれれば、もはやそれは弾丸と称されるものだ。
「む―――!?」
ガーランドが初めて構える。 その初動をマリアンが先読みした。
両腕を前に添える。 防ぐ為の構えではない。 逸らすつもり……いや、打ち落とすつもりなのだ。
手の甲から腕に仕込まれた硬物で、上から棍を叩き付けて―――。
「―――っ!!」
未来を見る余裕なんて無い。 ただ、この一撃を届けることしか、届かせるための願望しか……マリアンは観ていなかった。
これまでの研鑽と、今この瞬間に全力を掛けるために、未来など必要ない。
その思いが、ガーランドの反応を僅かに上回った。
「ぐっ!?」
鉄壁に思われたガーランドの両腕をすり抜け、吸い込まれるように鳩尾へ直撃を果たした。
巨体がぐらつき、たたらを踏んでいるガーランドが、初めて後退した。
衝撃を伝えきったマリアンはその場で慣性を失い、勢いを止めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
だが、本当に自分の攻撃が通ったのか、マリアンは不思議だった。 棍から伝わった感触、まるで分厚いゴムタイヤを突いたような感触だった。
鉄板で防いだわけじゃない。 威力は十分だったはず。 なのに、その感触は不安をかきたてるには十分すぎる物だった。
未来視へと意識を集中させる。 HUD越しに彼女が観たのは、その不安が的中した未来だった。
「裂帛の気合がもたらした打突。 見事だった。 しかし、突進技に必要なものが、残念ながら備わっていなかったな」
両腕を下げ、仁王立ちしたまま俯いていた表情から僅かに覗かせた眼光。
「女にこう言うのもなんだが、お前には重量が足りない」
巨岩と化したガーランドがマリアンの突進にも劣らない速度で迫る。
防御は叶わないと判断したマリアンは全力で横に跳んだ。 ディーゼル機関の上部に乗り上げ、反対側に転がり落ちる。
即座に体勢を立て直し、顔を上げた。 目の前には一秒後に迫るストライカー張りのローキック。
「―――っく!?」
跳ね起きるようにして後方へと跳び退るが、その判断が誤りだったことを、未来視が見せてくれた。
ガーランドの脚がマリアンの頭部があった部分を通過し、そのまま距離を詰めてくる。 だがマリアンは回避行動をしたばかりで、しっかりと地に足がついていない。 瞬発力を活かせない今、ガーランドの攻撃を防ぐ事は出来ない。
「はっ―――!!」
マリアンの首へと伸ばされる“予定”のガーランドの腕を受け身も考えずに棍で弾く。 手に届く硬質な感覚は変わらない。 しかし、その予測進路は希望通りに逸れてくれた。
だが、それが精一杯だった。
ガーランドは地に足を強く踏みつける震脚から、爆ぜるような肩からの体当たりを放つ。 中国拳法で言うところの靠の技。
単体で使われる機会は多くは無いが、初撃からのつなぎとして次段が最も効率よく発生できる補助的手段の一つ。 しかし補助と言えど、功夫を詰んだものが放てば、それは必殺が籠められた一撃となる。
「っぐ!?」
受け流すことが出来ずに直撃を受けたマリアンは殆ど水平に壁まで吹き飛ばされ、肺の中の空気を全て吐き出した。
続けて自身を襲う眩暈と頭痛。 靄のかかる視線の先で、敵は追撃の体勢を取っている。
掌に棍の感触がある。 手放してはいないが、それだけだ。 手のひらに力が入らない。 ただ触れているに等しい。
集中が乱れている今、未来視は未来を見せてくれない。 だが、能力に頼らずとも、予測できる自分の未来は……行動不能に陥る自分自身。
「―――」
悔しさからマリアンは奥歯を軋ませた。 自分の役割さえ満足にやり遂げる事が出来ないのかと。
戦意はまだ確かにあるのに、首から下が動いてくれない。 それが余計に、不甲斐なさで顔を歪めるマリオンの精神に拍車をかける。
あふれ出そうになる涙は、おぼろげに映るガーランドを睨みつけることで何とか抑えきった。
もとより、勝算があったわけでは無かった。 実力差は博物館で一合交えた瞬間に解りきっていた。 例え一手先が見えていようと、それを覆すことは叶わぬことくらい理解していた。
だが、それでも届く可能性が一縷あったかもしれない。 そこに自分の全力を賭け―――結果、何もできなかった。
「かはっ」
ようやく一回、肺が動いてくれた。 たった一回だったが、手の平は戦うための力を取り戻してくれた。
今対峙している男は、こと戦闘に置いて余分は挟まない。 ここで敵を見逃すという判断は絶対に下さない。 あと何秒、自分が生きていられるか分らないけれど、棍を握る事が出来るのなら、自分に出来ることはなさねばならない。
壁に背を預けながら――擦りつけながら立ち上がる。 脚がわらっている。 上半身の体技だけでどこまでできるか分らない。 気を抜けば、たちまち腰が落ちそうだ。
自分がここまで来たのは、アンティキティラ・デバイスの存在と秘密を守るため。 ロズベルグ家の関わるキャビノチェ達の命を守るため。 これから先、同じ厄災が起こらぬようにするため……。
掲げる大義に不満も不足も無い。 ノブレス・オブリーシュ《高貴なる者の義務》に恥じない教養を受けてきたこの身が、それを拒絶する事などありえない。 それを行使する下地だって用意してあった。
守るために、退けるために、戦うために身に着けた武術。 役にも立たたないと思っていた、未来視の力。
この場で使えるカードは総動員している。 自分にとって、もっとも強い手札を。
あと残されているものがあるとすれば、自分の尊厳しかない。 それを出さずして、全力だなどといえるはずがない。
「……っ……それに」
せめて、勝てないまでも後につながる働きをしなければ――。 迷惑ばかりかけて、まだ何一つ返せていない彼に申し訳が立たない。
彼らには彼らなりの責任を感じて行動を起こしているのは、初めに説明してもらった。 もとより、協力してもらう形になったのだ。
そして、水越季人にも目的がある事は十分承知している。 博物館から離脱するときに、ウィルから言われた、到底他人からは理解されないであろう――どうしようもない彼の性分のこと。
「うっ……づっ……」
しかしそれは、自分がここで膝を折っていい理由には決してならない。
「見事だ。 マリアン・ロズベルグ」
死が迫ってくる。
絶命間際、一矢報いようと思えば、腹も座る……。 そう思ったが、自分の短い生でも、未練は相応に頭の中を駆け巡る。
それを振り払う事は出来なかった。 だったら、それを抱えたまま、これまでの生涯と共に立ち向かうだけだ。
向かい来るガーランドを睨みつけ、同時にヴィジョンズが発動する。
たとえどんな未来が見えようとも必ず一撃を――。
「……え?」
だからこそ、少女は息を飲んだ。 そこに、視界の外から飛び込んできた、信じられない未来を見てしまったから。
――それは、ガーランドと自分との間に飛び込み、見事に……自分の隣に吹き飛ばされた季人の幻影だった。




