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季人とマリアンは長い吹き抜けの階段を下っていく。 各所に独立した非常用の蛍光灯が設置されているが、その底までは照らしきれない。
奈落というものがあるのなら、目の前に広がる光景にかなり近いのかもしれない。
季人は足元と背中を歩くマリアンに意識を向けながら、一段ずつ確実に、しかしペースを速めて下っていく。
「……?」
かなり深くまで潜ってきたその時、季人の耳に違和感とも言い切れない、ノイズのようなものを感じた。 どこか聞いたことのある、それでいて心身を落ち着かせるような――。
「水の音……でしょうか」
「マリアンも聞こえたか。 なら、もう近くまできているはずだな」
二人のペースが上がる。 そして、耳に入ってくるのは水の音というより、その量を増した波の音になってきた。
階段の途中に、明らかに途中から突貫で作られたかのような横道があり、二人はその通路を進む。
―――そして、本来あるはずのない、巨大な船体が目の前に現れた。
「これは……」
写真で見たそれよりも、細部が幾分“削られている”印象がある。
だが、その迫力、その圧迫感……そして、歓喜に震えるこの手、全身が、間違いなく本物だと訴えかけてくる。
「すげぇ……」
こんな時に不謹慎かもしれない。
もっとまじめにやれと後ろ指刺されても、文句など言えない。
だが、同時に安心する。 自分は……水越季人は正常だ。
いつも通りの自分でいることが、何よりも大切だ。 それでこそ、自分のこれ以上凡人なレベルを下げずに済む。 これが恐怖や不安で塗り上げられていたら、それこそこの場面において一大事だった。
「護衛駆逐艦、エルドリッジ。 本当に、こんな所に……」
マリアンも巨大な船体を見下ろしながら、信じられないものを見る様に呟いた。 ひょっとしたら同型の船体かもしれないが、正直そんな些末なことだった。 ここに、船はあったのだから。
『限りなく当時を再現する為に船体を浮かべる水量が確保でき、かつ船が丸々収まるだけの空間を必要とし、事象の際に外部に光や音が洩れる事がない』
実際に実験が成功した時、エルドリッジは閃光と共に消失する。 その事象が他者に観測されることも、この場所なら防ぐ事が出来る。
「まさにうってつけの場所だな。 埼玉の外郭放水路は一般公開の日に行ったことはあったが、ここは初めてだ。 いやぁ、実際に見るとやっぱり広いな。 護衛艦が丸々一隻収まっちまってるよ。 ……ぎゅうぎゅうに」
まさに、ギリギリ入りきっている。 船の喫水を無視し、ただ船を押し込めた中に水を流し込んだといった形だ。 この国の、技術の粋を凝らせた治水設備が、まさか歴史的実験に使われようとしている。
それに季人にしてみれば、実際軍艦に乗船するなど初めての経験だった。 見る者すべてが真新しく、今この瞬間だけは、新大陸を発見した海洋冒険家と同じ心境を味わっていると確信できた。
上部甲板へと続く簡易な連絡橋を渡りながらも、様々な考えが季人の頭をよぎる。
「この開けた感じは……船体の後部か」
「そのようです。 カルディアは機関室か、そこに近い場所にあるはずですわ」
『オーケー。 エルドリッジの見取り図と機関室へのルートを送るよ。 フィラデルフィア計画の際、生き残った者たちは機関室に居たし、カルディアがある可能性は機関室が有力だ。 ただ、外観にもかなり手が入っているみたいだし、内部はもっと変わっているかもしれない。 だから、あまりあてにしないでね』
突貫によって組み上げられたエルドリッジだ。 ウィルの言う通り、その施工に融通を聞かせている部分があるはず。 視界に収まる範囲においても、砲塔や機銃といった類は見えない。 必要なもの以外は、全て取り外されているのだ。 おそらく船底や装甲版なども、簡易な継ぎ接ぎで構成されている可能性がある。 そうでなければ、この短期間で船を用意する事などできるはずがない。 実際、本来の防御性能や航行性能は必要ない。 であれば、形さえ整っていれば問題ないのだ。
「分った。 上は大丈夫か?」
『うん、あれから誰も入ってこないよ。 これから先は、分らないけどね』
「そうか。 なら俺達は」
季人は横に居たマリアンを見て「はい。 進みましょう」と返ってきたのを確認してからウィルが送ってきたルートをなぞって進むことにしたのだった。
静まり返った艦内。 周りには始めて見る物ばかりで一層興奮を隠せなくなりつつある季人だったが、さらに曲がり角を覗きこむ度、心拍は平常時を軽くオーバーフローしていた。
日の落ちた校舎の中を歩くのとはまた違う、閉鎖空間独特の雰囲気が外連味たっぷりに季人の神経を刺激する。
「制御室と機関室へ行くには、ここから分れるみたいだな」
目の前に進んでいくと制御室が見えてくるはずだが、機関室に行くには脇に逸れた場所にある階段を下っていく必要がある。
「ん~。 手分けするか?」
「その方が効率がよさそうですわね」
「よし、俺は制御室に行く。 マリアンは、機関室を頼む」
「分りました。 どうかお気をつけて」
時間的制約が無ければ数的有利な立場を捨てたくは無かったが、この際仕方が無かった。
『もしカルディアを見つけたら、解体可能かどうか確認してくれ。 不可能だと分ったら……破壊だ。 それで少なくとも、ERB発生は阻止できるはずだよ』
「わかった」
「分りましたわ」
返事を返したあと、階段を下っていくマリアンを目で追い、その姿が階下に消えたのを確認してから季人は正面に向き直る。
足音が響かない様に下半身のクッションを最大限に使い、セレン・ドライバーの集音機能も最大限にあげて制御室を目指し、そして時を置かずしてたどり着いた。
分厚い鉄扉は開いており、季人はその中を覗き見る。
「……」
人気がないことを確認してから足を踏み入れると、制御盤や計測器。 加えて、本来その船には設置されていないはずの機材が大量に置かれている。 液晶モニター、ラップトップ。 それに繋がれている大小色取り取りのコード。
ホワイトボードに張り付けられた大量の資料に、設計図や写真。
ざっと目を通してみただけでも、エルドリッジやカルディアに関する物だという事が分かる。
「すげぇな」
例え詳しいことが分らなくても、別の世界へ行くための膨大な情報なのだ。 素人目に見てもワクワクしてこない方がどうかしている。
ここにある者すべてが、季人にとって美術館にある世界的な絵画よりも見ごたえがある。 時間が許すなら、足がそこに根を張るほど動かずに見続けるだろう。
だから、意識は周囲への警戒に向けられず、結果的に部屋の隅に現れていた気配が自分から話し出すまで気付く事が出来なかった。
「予想より早かったな」
それが言い終わる前に季人は高速で背後に振り返った。
そこに居たのは、まるでここへ来ることが分っていたかのように闖入者を見るトラヴィス・サルバトーレ。
倉庫のような施設で拘束中に相対してからそう時間を置かない再開だった。
「ああ、模範囚だったから、美人の看守が出してくれたよ」
震えそうになる声と手足。 だが、それが表に出る前に虚勢というペルソナを被った。 自分を俯瞰し、客観的に見下ろしたのだ。 水越季人という役割を演じている人間を、自身が観ているかのように。
「そんなに急がずとも、特等席なら空けておいたのだが」
「招待状も渡さずに良く言うな」
「エスコート役を残してきただろう。 どうやら置き去りにされたようだな」
互いに距離は詰めることが無い。 もとより季人はそのつもりはない。 逃げ出すつもりがあるなら、こんなところにきてはいない。 そしてトラヴィスにも、動く気配が無かった。 互いに出方を伺っている様な雰囲気がそこにはあった。
「それで、ロズベルグのフロイラインはどうした? また先に逃げ出したわけじゃないだろう」
「……知ってたか」
「当然だ。 君達だけが優秀な人材を囲っているわけじゃない」
「まぁ、そりゃごもっともだ」
というより、トラヴィス自身が優秀な人間にカテゴライズされているだろうことは流石に季人も理解している。
用意周到な作戦ともなれば、こちらが目の届かないところに手を入れていてもなんらおかしくは無い。
この艦内、もしくは来る道中に侵入者を知らせる物があったという可能性は十分考えられる。
「君が邪魔しないなら、別にここに居てくれてもいい。 なんなら艦長室を案内しようか? 当時の完全再現とまではいかなかったが、一応部屋だけは用意してある」
「普段の俺だったら是非行ってみたかった。 だが、今はそれ以上に気になるモノがこの船にあるはずだからな」
気になるモノ、それに対する両者の認識は合致している。 数時間前、それのやり取りをしたばかりなのだから当然だ。
「もちろん、君達の目的としている物はここにある。 カルディアの為にこのエルドリッジは用意したのだから当然だがね。 だから、ここまで来て不確定な要素は好ましくない。 出来れば、フロイラインがどこに行ったのか教えてほしい。 まぁ、単純に考えて機関室といったところか」
コチラの目的を分っているのなら、相手がどう駒を動かすのか簡単に分かるだろう。
ここに一人、季人がいるという事はもう一人が向かうのは高確率で機関室だと分析する事は当然の帰結だ。「分かってないな。 大人の役目は、若者が進もうとしてる道を黙って開けることだろ。 あまり干渉しない方がいいと思わないか?」
季人は軽い調子で肩をすくめ、世間話の様に口にして眉尻を挙げた。
「私から見れば、君もまだ子供だ。 水越季人君」
「ならそこを通してくれよ。 黙って……な」
季人は手にしているセッテピエゲを持つ手に力が入る。 あともう少し日々先に力を入れれば、瞬く間にゼロハリのバッグはシールドに変形するだろう。
「試練の一つもないと、達成感に欠けるだろ。 未知への探求者よ」
「そんな主観的な問題は観客がどうこう言う問題じゃないんだよ」
――「だったら、これから始まる舞台に観客は口を出さないでくれたまえ」
二人の会話に突然介入してきた第三者の声に季人は反応してセッテピエゲをシールドへと変形させ、正面に構える。 だが、警戒していたほどのことは起こらなかった。
トラヴィスの背後から白衣を着た老人が顔見た瞬間に緊張していた体は力が抜けだ。 そしてここで初めて顔と声が一致した。 ラーキンだ。
「トラヴィス、そろそろ移った方が良い」
「……分った」
入れ替わるようにして出ていくトラヴィスが最後に季人の方を見たがただ一瞥しただけで直ぐに視界から消えた。
「どこに行ったんだ?」
季人はトラヴィスが出て行った方を目線と顎で示す。
「もうすぐカルディアが動き出すからな。 ERBが発現した時、より事象を観測しやすい場所に行ったのだ」
「安全な場所……じゃないのか?」
「博物館でも言ったが、エルドリッジ艦内で乗員が凄惨な死を迎えたのは、装置が不完全だったからだ。 今回はその心配はない。 船外については、保証しかねるがな」
つまり、こちらが安全だと考えていた機関室に居なかったとしても、俗に知られている被害は受けないという事になる。 ラーキンの言っていることが本当ならばの話だが。
『季人、ラーキンに聞いてほしいんだけど――』
ウィルからラーキンへと中継してほしい内容を確認した季人は、特別脚色せずにその疑問を伝えた。
「ちなみに聞いてもいいか。 当時、ERB発現で予想できる影響はどれくらいのものだったんだ? 広範囲だから、海上で実験を行ったのは、間違いないのか?」
それは季人も確かに気になる部分ではあった。 今まで考え無かったが、次元転移に伴う周囲への影響が、ただ光を発するだけなのか、他にも何かあるのか。 自分達は、事ここに居たってもまだ知らないことだらけなのだ。
「影響か? そうだな……半径数十メートルから数百メートルが、エルドリッジと共に転移するだろう事は間違いない。 それを考慮して実験が会場で行われたという考察も正しい」
「……一緒に転移? その範囲っていうのは、水平にか?」
「まさか。 垂直にもだ。 エルドリッジを含めて、球体状に広範囲が転移する事が予想されていた。 結果、その通りだったわけだ」
「……」
流石にそれを聞いて、季人も次の言葉が出てこなかった。
エルドリッジを中心として球体状に最大数百メートル。 それが消失する。
恐らく地上の施設はすべて消滅するだろう。 そしてそれが球場ともなると、広範囲にわたって地盤が削り取られ、広範囲にわたって地盤沈下が起こり、東京都に原因不明のクレーターが出現する事になる。
「俺が認識していた不完全な実験結果と、これから起こる完全な実験成果にはちょっと異を唱えたくなるな。 結局被害がでてるじゃねぇか。 しかも、今回は船を中心として局地的で甚大な被害が」
実際にそれが起こった場合、死傷者が一体何人となるのかなど、考えたくも無い話だ。 だが、ラーキンにとってはそのようなことは些末な事だと思っているようだ。
「それは私が与り知るところではない。 当時実験によって懸念されていたことは、船内の乗員が次元転移に耐えられるかどうかだった。 それにだ、ERB発現に伴う周囲への影響と間接的影響を調べるためにこの場を選んだのはトラヴィスだ」
『なるほど、地下神殿の方じゃなくて、この場を選んだ理由はそれか』
季人と一緒にラーキンの話を聞いていたウィルが反応した。
『聞く限り、次元転移する際に生じる周囲への効果はTNT爆薬の比じゃない。 影響する範囲の物を塵一つ残さず消滅させ、証拠も残らず、放射能だって残さない。 クリーンな爆弾てやつだね。 その影響を計るには、より都市区画で行った方がデータとして貴重だ』
「結局、軍用目的の兵器開発に直結するわけか」
軍需産業というのは商品単価がべらぼうに高い。
カルディア単体の軍需価値だけでも相当なものだが、それを元にされた応用兵器も十分な商品価値がある。 兵器としての転用を考え、今回の件に投資したトラヴィスにしてみたら、国を潤わせるに十分すぎる富を手にする事が出来るだろう。 それに元は企業家と話していたのだから、表には出ないルートから軍需産業に介入できる手段は持っているはずだ。
本国に知られず、他国にも知られずに、独自の金策ルートを……。
「……?」
そこまで季人が考えた時ふと思考の構築に引っ掛かりを感じた。 だが、それをまとめる前に、ラーキンの方が怪訝そうな声を上げた。
「兵器開発? 私は純粋に、この実験の結果がどうなるかを知りたいだけだ。 他の事などどうでもいい」
「あんたがそうだとしても、出資者はそうじゃなかったんだよ」
「私は科学者だ。 至る過程に倫理的な問題があろうと、それが求めるものに至る為に必要な事ならば、私は躊躇などしない」
生粋の科学者気質というか、目的の為ならば手段を選ばないというのは物事に熱中する者としてはある意味尊敬に値する部分もあるが、季人はふと、この計画を考案したニコラ・テスラの自伝書の冒頭を思い出した。
彼はこう言っていたのだ。 「科学とは、人々の生活を豊かにするためにある」と。
それを思うと、残念ながらフィラデルフィア計画はフォン・ノイマンとラーキンの二人へと引き継がれたが、その精神は継承されなかったようだ。
ただ、その計画に賭ける執念は本物だ。 そして実際にERBを発現させた功績は、実験の成否問わず人類史に多大な影響を与えることは間違いない。 だからこそ、季人自身、共感する部分があったのは否定できなかった。
「一度は頓挫した計画……。 ここまで再興させたのは、素直にすごいと思うぜ。 それこそ、国を動かし、軍艦も用意させ、ありとあらゆる手を尽くしたんだろう」
全てのプラン進行がラーキンの主導ではないかもしれない。 トラヴィスと意見がぶつかった事もあるだろう。 それでもここまで舞台を整える事が出来たのは、求め続けたからこそ。 決してあきらめず、予断を許さずに時と実験を重ね、実を結んだ結果だ。
「人の執念が起こす力。 少し前にも、目の当たりにしたことがある。 その時は世間知らずの少女が起こした奇跡だった」
思い浮かべるのはワールドアパートのスポンサーであり新メンバー。 管楽器一本で大手医療会社を相手取り、自分の尊厳を掛けて立ち向かったセレンとの一件。
「そういうの、俺は嫌いじゃない。 夢とか野望の為に、生涯を賭ける。 そういう生き方には憧れるんだ。 ていうか、夢が広がるよな。 ERBシステム。 過去も未来も、それどころか、何処にでも、別の時空にさえも行けるっていうんだから、とんでもないよな。 もう、ロマンどころの話じゃないだろ。 SFっていうか、現実と空想の垣根をぶっ壊すほど、壮大な代物だ」
気付けば手に汗を握り、語る口にも熱が入っていた。 季人自身は気付いていなかったがその瞳は夢を語る少年そのものだった。
しかし、それはなんらおかしなことではない。 むしろ、ここで熱を上げないような男であれば、それは水越季人の偽物だ。 もとい、それが男子たる者の共通認識であろうと本気で季人は思っている。
「最高だよな……出来る事なら、行ってみたかった。 今じゃない時空ってやつに……」
視線は中空から床へ。 嘆きにも似たトーンと共に溜息が洩れる。
熱のこもっていた瞳は徐々に熱を失い、クールダウンしていく。
「ここじゃなければ……俺の日常があるこの町の真下でなければ……と、今でも思ってる」
「場所などどこであろうと同じだろう。 なら、これが別の街だったら貴様はこの状況を容認したのか?」
ラーキンの率直な問い。 それに季人は一切の迷いなく答えた。
「ぶっちゃけ、したかもしれないな。 他の街には、俺の日常は無いんだから」
「ほう……」
「俺は、非日常ってやつに心底焦がれている。 それを得るために、時には目の前の事態を割り切ることだって必要なことだと分ってる。 だが、それは日常があってこそだ。 自己満足にも種類があるだろう? あんたはそれに関して自己完結している。 だが俺は、共有したいんだ。 冒険したって、土産話をする相手がいないと面白くない。 人生楽しい方が良いだろう」
「楽しいなんて感情は主観的なものだ。 君の面白くないは、私にとっての楽しいでもありえる」
「まさにそこだ。 俺達が絶対に相容れない存在だっていう証明だな」
季人が笑みを浮かべると、ラーキンもそれに釣られて苦笑を漏らした。
「ならば、これ以上平行線をたどる会話は無駄というものだ。 そろそろプロジェクトも最終フェイズが始まる。 私はそろそろカルディアの元へ戻らねばならないから失礼するよ」
ラーキンは踵を返して制御室を出ていこうとするが、季人はそれを見送る前に一言付け加えた。
「急いでも仕方ないだろ。 今頃カルディア《心臓》は引っこ抜かれてる頃だ」
それを聞いて、動きを止めるラーキン。 しかし、その表情に変化は見られず。 別段焦るしぐさは見られなかった。 それは、例えブラフだったとしても季人にいやな予感をさせるのに十分すぎる。 だが、ラーキンの様子を見て、それは確信に変わる。 ……カルディアは、そこには無いのだ。
「機関室に向かったロズベルグの女か。 残念だが無駄足だったな。 しかし、それでも機関室はこの計画において軽視していい場所ではない。 だから、当然保険は掛けてある」
「……ウィル」
『マリアンからの返事が返ってこない。 彼女の周辺は電波感度が極端に低いのかもしれない』
前の実験の際、次元転移から戻ってきた船員の中で唯一無事だった人間は機関室にいた数人だけだった。 厳重な場所だからこそカルディアがあるとみていたが、それは同時に、外界からの影響も受けにくい場所なのかもしれない。
もともと、フィラデルフィア計画は船体から電磁波を消失させるものだった。 であるならば、生存者が残っていた場所というのはつまり、電磁波に関わるものの干渉を遮る機構が採用されているのかもしれない。 電波が届かないという理由には十分すぎた。
「その保険て、それどれくらい安心できるの? 掛け金が安くて済むとか?」
「ふむ、その場ですぐに対応してもらえるのが売りだな」
「あぁ……」
思い当たるのは一つしかない。 この場にあの男がいないのだから、保険といえる存在は奴だ。
マリアンからの連絡が未だに無いというのも。 もしかしたら、電波だけの問題では無く、既に交戦中だからかもしれない。
「さて、どうする? 私の予想では、ロズベルグの女が保険に勝てる可能性は極めて低い。 不確定要素を吟味したとしても、ポテンシャルの差は歴然だ。 実験の開始にはまだ時間があるが、女の犠牲を許容できるなら、私を追ってくるかね?」
機関室へ行くには後ろの扉へ。 ラーキンは正面の通路で立ち止まっている。 どちらを取るか、選択肢を提示している。
「……はは」
考えている暇はない。 だが、端から季人はそんな事を悩む様な性分じゃなかった。
「さっきの話聞いてた? 決まってるだろ」