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「起きろ」
聞き覚えのない声と同時に頭に被せられていた布が取り払われ、気つけに頬を叩かれる。
「こう短期間に何度も誘拐されるとは……」
季人の第一声は、自嘲が含まれていた。
ただ、ロズベルグ邸との明確な違いは座っている椅子に革ベルトで拘束されているという事だ。
両腕と両足は血が止まる一歩手前まで締め付けられ、例え手首の関節を外そうが砕こうが、外れるような気配はない。
「流石にあの場で長話も出来ないだろう。 ここならばゆっくり話せる」
今度は聞き覚えのある声だった。 そして、徐々に視界の明暗とピントが合ってくる。
「なにせ、君との対話はこちらこそ望んでいたものだからだ」
トラヴィスは季人の正面に立ち、その横には恐らく部下であろう男が控えている。 恐らく、自分を荒っぽく起こしたのはこいつだと認識する季人。
軽く視線を周囲に向ければ、何とも味気ないどこかの一室。 コンクリート打ちっぱなしで、天井からは蛍光灯の明かりがあるだけ。
簡素な折り畳み式のテーブルが部屋の隅に置かれてあり、その上にはセッテピエゲが確認できた。
「水越季人君。 君はどうしてあの場に?」
「そんなの、もう分ってるだろ。 あんた等に渡したデータを元に作られたカルディアを、返してもらいに行った」
もう分りきっているだろうと半分投げやりに答えた。
何せ、実際保管室からカルディアを持ち出した現行犯としてトラヴィス達に確認されているし、結局奪い返され、こうして拘束されているのだから。 とはいえ、捕まる様に立ち回ったのは自分自身なのだが……。
「あれは正式な依頼だった。 それを後になって、クライアントの依頼した物に口を出してくるというのは、職業倫理に反するのでは?」
「その通りだ。 いや本当、おっしゃる通り。 だからこっからは余所様の別件の依頼だ。 いや、ぶっちゃけちまえば個人的な問題なんだ」と、拘束されたまま肩をすくめる季人。
「確かここに来る前にも、そんな事を言っていたな。 一体どういう意味なんだ?」
「なんて言うか、複雑なんだよ……心情的にな」
トラヴィスの問いに、季人は視線を床に落とすと、一度大きく息を吸い、乱雑に吐いてから鼻で笑った。
「意外に思われるかもしれないけど、俺って、モラルより個人的探求心が常に上回るからな。 だから今回の件。 その、フィラデルフィア計画の再興とか、それがもたらす事象とを考えるとさ。 何か気になっちまって……。 だからなんて言うか、 どちらかと言えば、俺はきっと、いや、間違いなくあんた等側の人間なんだろうよ」
現代では既に教養レベルで誰もがタイムマシンという存在を認知している。 時間という概念を人の手によってコントロールする為の装置であり、故にSFにおける定番の舞台装置。
それは時に乗り物であったり、転送装置であったり、はたまた意識だけが時を超える場合が在ったりと形態は様々。
その存在は良い方向へと転がる事の方が少なく、むしろ、トラブルを引き寄せるためのファクターとして使われることのほうが多かった。
故に、その顛末の多くは装置の破壊という形によって締めくくられるのが殆ど。 生まれてきてはならなかった……存在する事は許されないという教訓と共に、抹消される運命だ。
フィクションであり物語であるからこそ、話の組み立てとして、ドラマとしてそういった要因になるのがタイムマシンという存在の宿命。 次元転移の闇を浮き彫りにさせることが、構成の着地点として程よくまとまる手法なのだ。
――しかし、もし本当に、そんなものが存在するのだとしたら?
自分の存在するこの世界に、そんな空想上の産物が、目と鼻の先にあるのだとしたら……。
加えて、都市伝説として語り継がれているレインボープロジェクト、フィラデルフィア計画の明かされていない事実を知る機会が、目の前にあったとしたら……。
水越季人が行動を起こすには、十分すぎる材料が揃い過ぎていた。
もし、あの場でマリアンと共に離脱していたのだとしたら、一生後悔しただろうということは、決して誇張しすぎではない。
「だから、マリアン達を騙したみたいな形になったのが、俺的にちょっと引っかかってるんだ」
今回のカルディア奪還作戦を開始するにあたり、初めからそれを考えていたわけでは無い。
ただ、ラーキンという老人が話した当時行われた実験の話、トラヴィスの語った運用計画。 その話に少なからず惹かれ、心が動いたことは間違いない。
「ただ、それでも一度は拝んでおかなきゃと思ったわけさ。 まぁこんな待遇じゃ観れそうにもないから、せめて話だけでもとは思ってるんだけど」
拘束された手足に力を込めるが、解ける気配は一切ない。 むしろその行為は、身に受けている処遇を互いに認識させるためのものだ。
「かと言って、予測も出来ないほどの被害を許容できるだけの覚悟を、あんた達みたいに持てない。 あんた等との違いと言えば、多分それ位だ。 実験に対して唱える異議の理由ってのは」
そして、重要度としてどちらに比重があるのかといえばおそらく、その被害度合いによっては簡単にバランスを崩してしまうだろう。 良くも悪くも、どちらに対しても。
「なるほど……。 流石、彼が友人と呼ぶだけある。 聞いた通りの男だったようだな」
「……?」
初めは何の事かと思ったが、それがウィルの事だと直ぐに思い至った。
トラヴィスはウィルと面識がある。 そして、ウィルに依頼するだけの下調べは済んでいただろう。
「本来なら、彼にもこの計画に乗ってほしかった」
「……へぇ」
「ウィリアム・フレイザー。 彼は杞憂な才能を持っている。 だが彼は君としか組む気がない」
それが、今自分が生きている理由。 自分は交渉材料としての価値を見出されているからこそ、拘束されているに留まっていると察した。
季人はトラヴィスから都市伝説の真相を聞きたかったが、素直に事が運ぶとは端から思っていなかった。 だが、自分にそこまで踏み込ませることを許す価値があるとすれば、それは自分では無くウィルにある。
独断とはいえ、国の再興を掛けた計画に、全く関わりの無かった人間を誘い込むことになった件を考慮しても、まだウィルの能力に対して未練があるとみていいだろう。
「だから俺を引き込もうってか? 俺の相棒はどこに行っても人気者だねぇ。 うらやましいよ本当」
ウィルの能力が傍から見ても常人のそれとは一線を隔すものだという事は分っている。 その評価はどうやら間違っていないらしい。
「私としては、そんな彼と組めている君がうらやましくて仕方がないんだがね」
その声色は務めて軽いものだったが、実際、そこに含まれている感情は本心だったろう。
「実際、彼がいたからこそカルディアの完成を間に合わせる事が出来た。 その点については、あの癖の強いラーキンでさえ認めているほどだ」
ラーキンという男についてほとんど知らない季人にとってはその話に同調する事は出来なかったが、トラヴィスが癖の強いと評価しているくらいだから、余程のことなのだろう。 そんな男が評価しているのだから、やはり自分の相棒はただ者じゃないなと再確認する事が出来た。
「そうかい。 ところで、次元観測装置のことをカルディアっていうのは、どの世界でも共通なのか?」
季人が疑問に思っていた事に、トラビスは「カルディアとは、ギリシア語で心臓という意味であることは知っているな?」と確認した。
それに頷いた季人に「そうか」と一拍置いてからトラヴィスは話し始めた。
「君は、エルドリッジが退役後に何という名で就役したかご存知かな?」
「いや、勉強不足でな。 生憎知らない」
「Leon。 獅子という名だ。 その心臓部を担うからカルディアというわけだ。 それがいつしか、実験の中枢を担うという由来へと変わっていった。 まぁ、呼び方など些末なことだがな」
「それって、レオン・ハートじゃだめだったわけ?」
「それではあまりにひねりが無さすぎる。 ネーミングセンスを疑うな」
確かに、ひねりが無いというのは分かる気がする。 だが、トラヴィスは分かっていない。 自分達が欲しているウィリアム・フレイザーという男が、どれだけネーミングセンスが絶望的なのかを。 どんな天才も欠点の一つや二つはある。 その内の一つが実害を及ぼさなかっただけまだましと言えるかもしれない。 そんな男を引き込もうというのだから、季人からしたらジョークにしか聞こえなかった。
「水越君、君は非日常に焦がれているんだろう?」
「……まぁ、そうだな」
唐突に話題を振られた季人は別に何をはばかることなく正直に答えた。 それは水越季人を構成する上で重要な要素だ。 それなくして、自分自身はあり得ないと言うほどに。
だからこそ、続けて言われたことに反応せざるを得なかった。
「我々なら、毎日それを提供できるぞ」
トラヴィスの言は、きっと間違いない。 季人もその点は疑ってすらいない。 きっとそこには、非日常で、しかし常に闇を見続ける日々が待っているだろう。
しかし、季人の性分について、トラヴィスは一点だけ履き違いをしている。
「分かってないな。 日常との境界を明確に持っていなければ、それを体感する事なんてできやしない。 もし理解できないっていうなら、この国の有名な時代劇のオープニングを聞いてみろ、至言が歌われてるぜ」
非日常を謳歌するには、相対する何の変哲もないただの日常が決して欠かせない。
楽しい事もあれば、苦しい事もある。 人生そう都合のいい事ばかりではないが、それを受け入れる事こそが世の常。
納得し、割り切り、這い上がる。 そんな日々に想像もできない事象が降って湧くからこそ、その普通という日常からのふり幅を楽しむ事が出来る。 それが、意外性という名のスパイスとなるのだ。
「それに、少なくとも俺は、誰かに許しを請うような事はしてこなかった」
咎に対する認識は人それぞれだが、後ろめたさを持ったままでは、何をするにしても充足感や楽しみは半減してしまう。
感性のネジが多少外れていると自他ともに認めている季人でさえ、トラヴィスの進む世界ではそれが得られないと分かっている。 世間一般の常識に照らし合わせてみても、トラヴィスのやっている行為は、テロとほとんど同義だ。
例え大義を掲げたとしても、他者の平穏であった日常を冒してまで得る非日常など、季人の望むそれでは決してなかった。
「良心の呵責かな? まさか君からその様な言葉を聞くことになろうとはな。 道徳心など、水越季人と相反する理念だと思うが」
「まぁ、それはこの国の教育レベルが道徳に対しても力を入れている証だ。 おかげで、まっとうな人生をおくれてるよ」
ウィルが聞いたらまっとうという意味をこんこんと語ってくれそうだが、人の道を踏み外さない最低限の感性は持ち合わせている。
そのことを最近周囲が忘れてしまいそうになっていることを、季人本人はまだ気が付いていない。
「なるほど。 だが物事を成す為には、それ相応の覚悟と代償が付きまとうのも、人生を送る上で道理だとは思はないか? 過去、偉業や覇道は犠牲無くしてあり得なかった。 この計画もそうだ。 既に巨額の資金が投資されている。 私としても、今更引くことは出来ない。 とは言っても、引く気など更々ないのだが」
歴史上、後世に名の残る偉人というのは皆、自身に困難を課し、また他者の人生代償として築いてきた。
その舞台は科学であったり、医療であったり、また戦争で合ったり、宗教であった。
人の手に雷の力を降臨させ、人々の生活を豊かにした者や、人体の構造を解明し、冥界へと連れられる命を繋ぎ留めた者。
ある者は偉業を成すために多くの死を積み上げ、ある者は偉業を成したことにより、多くの生を守り抜いた。
人々の生活を便利にするという思いは有史以来存在し、その過程、結果によって人類史が作られてきたと言っても過言ではない。 それは効率化を追求し続けてきた結果であり、時には戦争によって生み出された技術が流用され、インフラに組み込まれたものも存在する。 便利という言葉は、人を潜在的に惹きつける。 欲求に対して形振り構わない人の姿勢は、古今東西変わらない。
「私は政治家ではあるが、元々は企業家だ。 だから彼の言うことにイノベーションを確信し、投資もした。 これくらいの事でもしなければ、我が国は緩慢に壊死するだろう」
「それで、選んだ起死回生の手段がこれか? 随分と思い切りがいいな」
「どんな国でもそうだが、政とは、何かを成そうとする時に全会一致とはならない。 EU圏ともなれば、他国を無視するわけにもいかず、多方面にお伺いを立てる必要もある。 それこそ、時間など幾らあっても足らん。 よって、早急に誰かが立たねばならなかった。 そこで、起死回生の……会心の一撃とも言える話が耳に入ったのは、丁度その時だ」
「フィラデルフィア計画か」
「その通り。 当然私も端から信じていたわけでは無い。 しかし、夢物語に思えていたそれも、確かな検証の下で現実の下に引きづり下ろされているのであれば、転じて一縷の望みとなった。 それくらい我が国は追い詰められ、それ位の事が無ければ、既に立ち行かぬところまで来ていたのだ。 情けない話だがな。 だが、ラーキンから提示されたものは、賭けるに値する情報量だった」
実際、国の存続を都市伝説に託すことなど、普通はあり得ない。 タイムマシンなど、フィクションの代名詞ともいえる、あくまで空想上の産物だ。
数々の理論が提唱されていようと、あくまで机上の空論でしかない。 だれも現実として立証した者はいない。 だからこそ、どこまでも真実味があろうと疑念が晴れる事が無い。
そこに現れたのは、空想を現実のものとしたことがある一人の科学者。 彼の者は、次元を観測する為の装置を作り上げていたある島民の科学者達が、後世に残した力を具現化したことがあると嘯いた。
「そして、裏をとればとるほど、レインボープロジェクトの真実が浮かび上がってきた。 世に広まった情報はカバーストーリーであり、本当は歴史的偉業がなされていたのだと。 それは行動を起こす十分な理由だ。 結果、万人を救うために、数人犠牲になってもらった。 偉業を成し、国救うためにな」
季人は顔を上げる。 気付けば、トラヴィスは季人を見下ろしていた。
「停滞は何も生まない。 行動こそ、利益を生む。 私は行動を起こし、今まさに、それが実を結ぼうとしている。 国が生き返るのだ。 それに、技術的な立証がなされれば、人々の生活ですら一変する。 興奮するなという方がどうかしているだろう?」
「ああ、確かにな」
それがトラヴィスの野望。 偉業をなすプロセスであり、着地点はもう目の前。 すでに目の前には滑走路が見えており、ランディングアプローチに入っている。
誰もが出来る事ではない。 他人には分らない苦労や葛藤もあったはず。 一国を救うために立ち上がるという覚悟。 空想上の産物の裏を取らせるということは、藁にも縋りたいということの裏返しだ。
一般常識という物差しでトラヴィスを計ることは出来ない。 一国を背負った男にとって、その道が正しいと信じた結果、今があるのだ。
だが――それは所詮、どこまでいっても対岸の話だ。
トラヴィスの計画によっておこった不幸。 これが全く関係のない、地球の裏側で起こった事であれば、ただその出来事に同情し、しかしそれ以降、感傷に浸る事は無いだろう。 顔も見た事のない人間にたいして自身の内面を消耗するほど、思いを馳せる事は無い。 もとより、よほどの善人か聖人でもなければありえないだろう。
トラヴィスの言う万人は、季人にとっては他人であり、自身の日常に関わる人々と比べるまでも無いほど無関心な存在だ。
季人は自分に正直に生きてきた。 これからもそれは変わらない。 非日常を求めるということは、何よりも日常を疎かにしてはならないという事。 それを、例えその時に気付かなかったとはいえワールドアパートは疎かにしてしまった。
トラヴィスが行動を起こした要因の一つに自分達の検証結果が当てはまっていた間違いない。 アンティキティラ・デバイスの調査を依頼された時に渡したデータも、まだ帰ってきていない。 これからどのような実験が行われるのか、規模はどれほどのものか、これ以上ロズベルグ家を含め、犠牲者が出ないのか、分らない。
トラヴィスと関わりを持った以上、日常と非日常の均衡は容易く崩れていくだろう。
実験が成功したら、再び接触してこないとは断言できない。
だからこれは、そう難しい話ではない。
――ただ、水越季人にとって、トラヴィスという人間が邪魔なだけのことだ。
「すげぇよ。 本当にすごいと思う。 ただ、俺は行動を起こすにしても、もう少し命に対して敬意を払う」
例え他人に無関心だとしても、自分の性分を貫くために、人の命……尊厳を奪う事には抵抗がある。
これからも、そうでありたい。 いずれその時が来るのかもしれないが、少なくとも今ではない。
「コラテラル・ダメージというやつだ」
必要な犠牲と言い切るトラヴィス。 そして、その事に対して特別な憤りや恐怖を感じない辺り、やはり所詮は他人の命なのだと自分を納得させる。
これがもし、自分の見知った者たちなのであれば、きっとそうも言っていられないだろうが……。
「さて、もしかしたらと期待したのだが、君の協力を得られないとなると、得られるよう手段を講じなければならないな」
トラヴィスは季人から視線を外し、扉の方へ爪先を向ける。
「まずは君を交渉の材料に、ウィリアム・フレイザーへ協力を要請してみよう。 彼が早々に協力的な返事をしてくれれば、片方の爪だけで済むかもしれないな」
ドアが開き、トラヴィスと入れ替わる様に入ってきた男の手には、人を面白おかしく調理できそうな器具を乗せたトレーがあった。 そうやら、これから起こる事には同席しないらしい。
「この俺も、流石に拷問だけはワクワクしないな……」
部屋の片隅に、ファラリスの雄牛が置物としてないことが、せめてもの救いだった。