303
カルディアを手にした季人と、棍を手にしたマリアンが保管室を後にする。
楽観的に見積もっても、トラヴィスが異変に気づき、行動を起こすのはそう遠くない。 恐らくものの数分でここに関係者がなだれ込んでくるだろう。
二人とも気持ち早歩きで、しかしはやる気持ちを抑えながら来た道を戻る。
静まり返った博物館に足音が響く。 薄暗がりの空間、壁に立てかけられた絵画からの視線。 柵で区切られた彫像からの視線が、一組の男女を見つめ続ける。
「カバーリの言う通りだったな」
「はい?」
「確かに、マリアンは思っていた以上に頼りになった。 さっき見せた技術はどこで習ったんだ?」
季人は先ほど見せた棒術の事がずっと気になっていた。 男は大きい乗り物、生き物、そして、強さへの渇望には抗えないというのが持論だった。
「ロズベルグの人間は何かしら護身用の技術を叩き込まれます。 私の場合、それが棒術だったというだけです」
「マジで? やっぱり、名前が売れてる家柄ってのはアグレッシブなアプローチが多いのか?」
「基本的にはロズベルグの名が身を守ってくれますが、つねにその加護があるとは限りません。 かと言って、その瞬間に何もできないようでは、ロズベルグの名は名乗れません。 名を守るという事はすなわち、自身を守る事でもあるのです」
「……」
ロズベルグ家というのがどれだけ世に影響を与えているのか、今の季人には分らない。 時計に関して
常人が知りえることといえば、だいたい有名ブランドの各種モデルや、仕組みの違いくらいなものだ。
それを取り巻く業界の話や時計誕生の秘話、オートクチュールモデルに対するキャビノチェの話などは普段の会話の席で話題にも上らない。
「ああ、その通りかもな」
マリアンの技術は、その世界で生きていくために研鑽を積んだ結果なのだろう。 ただ自分の名に縋るだけでなく、脅威を払いのけるために身に着けた力。 教養だけでは生きていけない道を定められた者の宿命といっても過言ではない世界でマリアンが選んだ矛。 それが、彼女にとっては棍だったのだろう。
感慨とは違う、感心に近い納得をした季人。
その時、声は降ってきた。
「怪盗というには些か装飾に掛けるな。 となると、単なる強盗になるが、広義的な意味ならどちらも似たようなものか」
中央の広いホールに出た二人に、頭上から声が掛かる。 振り返り、吹き抜けとなっていた二階部分を仰ぎ見ればそこには――。
「君とは初めてだったな。 水越季人君」
初めてだという男の顔を、季人は何度も見て把握していた。 それは向こうとて同じだろう。
トラヴィス・サルヴァトーレ。 ギリシア外務次官であり、今回の騒動の発端。 各地のアンティキティラデバイスに関わったキャビノチェを誘拐、もしくは殺害し……ワールドアパートの元クライアント。
「初めましてトラヴィス。 シルクハットかタキシードでも着てくれば良かったか? ギリシアじゃ違うのかもしれないが、人の物を無断で拝借することを、この国では窃盗っていうんだ。 それを返してもらいに来ただけんだよ。 あぁ、心当たりがないなら教えてやる。 超絶機構の組み込まれたかっこいい懐中時計さ」
「当然把握しているよ水越季人。 しかし解釈の違いだ。 あれらは鑑賞するために作られたのではない。 生まれてきたのなら、目的のために使われるべきだ。 作られたまま、ただ鑑賞されるためにだけしか使用されない機械など、存在に対する冒涜以外の何者でもない」
「あんた芸術って言葉を知らないのか? だったらせっかくの機会だ、ゆっくりと展示品を見て行けよ。 ここに置いてあるのは、かつては武器だったり、家具だったり、装飾品だったりしたものだ。 だが今は鑑賞するという目的に置いて十分人の役に立ってる。 きっとこいつら《・・・・》も喜んでくれているだろうぜ」
少なくとも、倉に埋もれ、海に沈み、破壊されることを逃れた遺物たちにとってこの処遇は申し分ないはずだ。
「納得いかないか。 では、例外として……そうだな、核兵器を上げよう。 各国の所有する核兵器は抑止力としてりっぱに機能している。 誰もが完成形を知り、その威力を理解している。 アインシュタインが発見した核エネルギー。 それを兵器として発展させたアメリカが君の国を標的として全世界にその存在を知らしめた。 その後も実験は様々な形で行われ、その機構が生み出す現象をあらゆる形で観測したからだ」
極論、強大な殺戮兵器の威力を目にしたことによって、今の平和があるとトラヴィスは言っているのだ。
それは決して間違ってはいないが、例題が極端だとも感じた。 それを隣で聞いていたマリアンが前にでた。
「ええ、だからこそ慎重になる。 使った時点で、終末が待ってると、みんな知ってるからですわ。 あなたがやろうとしていることが……ERBの発現がそうでないと言い切れますか? 私たちは、あなたが言うところの核兵器の使用を止めるために来たのです。 言わば、私たちは抑止力です」
「何を抑止しようというのかな? 私がしていることは歴史の淵源を作る事。 すなわち新時代の起源を生み出すことだ。 終末とは全く真逆のベクトルだ。 そうだろう、ロズベルグのご令嬢よ」
此方の素性はお見通しらしい。 一体いつから感づかれていたのか、調べはついていたのか……。
思い当たるのは、ウィルとの通信が途絶えたあのタイミングだ。 現在も、ウィルからの応答は無い。 どう考えても、意図的な妨害が計られている。
「分かるだろう、ウィリアム・フレイザーの盟友よ。 質量の転移、時間の跳躍、次元の横断。 これらが全て、そのERBシステムで可能となるのだ。 その為に、アンティキティラ・デバイスは存在するのだ」
「……」
口を閉ざしたままだが、季人の眉は僅かに反応した。
「想像してみたまえ。 フィクションでしかなかった事象を起こすための装置が、目の前にあるのだ。 常識と言う枠から外れた力は、それ即ち神の力と同義だ」
「……水越様?」
先ほどから微動だにしない季人に訝しんだマリアンに、しかし袖を引かれた本人は気付かない。
「いいかね? 世界を変えるどころの話ではない。 この力は、この世の森羅万象、原初から終焉に至るまでを手にする事が出来る。 もし、その力が現実として自分のものになるのだとしたら……求めない方がどうかしているとは思わないか?」
季人はマリアンとトラヴィスを交互に見て、鼻をかく。
そして、その二人から目線を外した……。
「あぁ? まぁ、そう、だな。 そりゃ思うだろ。 流石に、そうは思わない! とは言えないな」
「水越様!?」
マリアンの寸頓狂の声で自分の性分が漏れ出た事に気付いた季人。
「あ、いや、だって、なぁ……」
「……忘れてました。 水越様のプロファイルを見た時、趣向面に記載された内容、わたくしは最初誇張されていると思ったのですが……本当だったのですね」
ジトッとした目で季人を見上げる少女。
それをこめかみに伝う冷や汗を感じながら甘んじて受ける青年の図は、なんとも情けない。
「それ、何て書いてあったんだ?」
何となく先は読めていたが、ここは聞き返すことがマナーと思った。
「オカルティズムに心酔し、思想、行動理念はその一点に集約されると」
「……ソフトに表現してくれてありがとうマリアン」
「水越様、フィラデルフィア計画の結果はご存知ですよね? エルドリッジほどの船体を転移させるほどのエネルギーが発生した場合、その周辺に及ぼす被害は想像もできまん。 ご理解いただけておりますわね?」
「も、もちろんだ。 当然だろ。 大丈夫、大丈夫だから、な? そう迫ってくるなよ」
物体が消失する際のエネルギーとはどれほどのものか。
それがこの国のどこで発生するのか分らないが、もとより自分はそれを止めるために、カルディアを回収しに来た。 それは忘れていない。
残すはウィルが渡したというフラッシュドライブの在り処だが、今はそれを気にする余裕はないことも分っている。
このままトラヴィスが自分達を見逃す事は無いだろう。 まさに今、一触即発を地で行く展開だった。
季人はカルディアを持つ手とは反対、ウィルから手渡されたセッテピエゲに意識を向ける。
使わないに越した事は無かったが、持ちうるカードを切らぬまま勝負を投げ出すわけにはいかない。
取っ手のボタンに指を掛け、そしてボタンを押すその瞬間。 自分達の背後から声が掛かった。
「御言葉だが御嬢さん、あれは制御できなかったが故の結果だ。 本来であれば、もっと別の形で実験は成果を出していた。 いや、正確には裏切者のせいで、あれだけの被害が出たのだ。 それを棚に上げてもらっちゃあ困る」
声はトラヴィスの隣から。 そこには客観的に見て余程の高齢者。 長髪も蓄えられた髭も真っ白で、顔のしわも随所にみられる。 だがその声には衰えを感じさせず、張りがあった。
突然の来訪者に、しかしマリアンはその老人に言われたことの方に反応した。
「裏切り……? いえ、それよりも棚に上げるとはどういう事なのです?」
老人は鼻で笑い、マリアンに向き直る。
「そうか、聴いていないのか。 まったく、都合の悪い事は墓場まで持っていくつもりかあの女は」
年齢を感じさせない足取りで歩み寄ってきた老人は言葉を続ける。
「いいかね? これから行われる実験は1943年10月28日当時の続きであり、約束されたはずの成果を奪われた私の悲願。 そう……そこの青年が言う奪ったという言葉を借りるなら、事の起こりはあの瞬間、ロズベルグが初めに奪ったのだ」
老人の声色には明確な怒気が含まれていた。 それも指向性を持って、マリアンにぶつけられていた。
「何を……何を言っているのです?」
混乱と疑問が晴れないマリアンはたじろいでいた。
傍から見たら大人に叱咤されている子供の図だが、そこに怨嗟が混ざればもはや恐嚇だ。
「分からないか? あのエルドリッジの暴走は技術的な問題から起こったのではない。 当時の主要メンバーの一人であったロズベルグが起こしたものだと言っているのだ」
その言葉には季人の方も関心を向けるに十分だった。
フィラデルフィア計画の詳細は関係者からの密告、匿名による発覚など諸説あるが、そのどれにも、ロズベルグ家が関わっていたという記述は無い。
隠蔽が図られたのか、それとも目の前の男の狂言なのかは分らないが、少なくとも外連味のある現在の状況下で口にしたことは、どれもが信憑性が高く感じられた。
「そこまでにしておくんだラーキン博士。 これ以上の情報提供は、チケットを持たずに入館した彼らには必要ない」
トラヴィスの声に呼応して周囲から人の気配が増えた。
曲がり角の先、柱の陰、展示品の裏。 少なくとも十人弱。
かすかに見えた一人の手元には、明らかに人を殺傷することが出来る飛び道具が握られていた。
「……」
季人は黙ってその様子をうかがう。 拳銃の存在感やそのフォルムから受ける印象は、超能力や魔法なんかよりもよりシンプルだ。 第六感なんか無くとも銃口には殺意という目に見えない力を感じることが出来る。 それが向けられているというだけで、一瞬にして生命の危機を全細胞が警告する。 身の危険てやつをダイレクトに味わえる。 それだけ、銃というアイテムは強烈なイメージを持っている。
その内の一人……だと思われるトレンチコートを着た男がゆっくり、季人とマリアンの前に歩み出る。
『季人、聞こえる?』
「ああ、やっとつながったか」
ようやく聞こえた相棒の声。 ウィルは状況を早口で話す。
『ごめん、ジャミングされてて、バイパスを作るのに時間がかかった。 現状は監視カメラから確認してる』
「ああ、もうあらかた博物館の展示品は堪能したから、そろそろ帰ろうかと思って。 そしたら、警備員に止められた」
『まぁ、入るときに持っていなかったものを出るときになって手にしていたら、そりゃ声くらいは掛けられるでしょ……って、まずいね』
それは確かに、こういう施設では当然の采配かもしれない。 だが例え素直に手にしているものを返しても、穏便とは程遠い処遇を受けるだろう。 そう考えていた季人に、ウィルの口を覆ったかのような籠った声が届く。
「ん? 何が?」
『今そこに居る人間、デスクワークに従事している様には見えないから片っ端から顔を照合していってるんだけど……』
「ああ、あの老人?」
素性は知れないが、トラヴィスはラーキンと呼んでいた。 少なくとも、季人に聞き覚えはない。
『違う、そのトレンチコートの男だよ。 有名人を乗せたデータベースに輪郭を認証させて出てきた。 ちょっと……いや、かなりやばい』
言われて改めて視線を送る。 その出で立ちは百九十センチはあろうかという長身からくる威圧感。 全身黒一色。 スキンヘッドで堀が深く、それが余計に強面感を演出している。
強そう……という印象のステレオタイプが目の前の男だ。
「何だ、早撃ちの名手とか?」
しかし、その手にも腰にも、それらしいものは装備されていない。
『銃は使わない。 ただ……』
「ただ?」
だらりと下がった両腕。 その手は無手。 あるとすれば、黒革のグローブしかない。
『彼は……ガーランド・ハリスは、銃器以外の戦闘におけるプロフェッショナルだ』
ガーランドは近くにあったギリシア神話の彫像、冥界の主として名高いハデスの傍らに来た時、その手にしていた二股の槍、“バイデント”のレプリカを取り上げ、刃とは反対側に位置する石突で地面を叩いた。
「みたいだな」
季人がその様子を見て納得したのを確認したかのように、トラヴィスが切り出した。
「さて、不法侵入した来場者には一刻も早くこの場から立ち去ってもらいたいが、その前に、持ち出そうとしたものをこちらに渡してもらおうか」
トラヴィスは手振りで季人の手にしているカルディアを示した。
「ありきたりの質問で悪いんだが、もし断ったら?」
「簡単な話だ。 拘束させてもらおう」
それが合図となった。
四方に居た男達が静かに季人達の方へと近づいてくる。
だが、その男達よりもさらに早く、瞬く間に距離を詰めてきたガーランドの一振りが、季人の目前に迫っていた。
その速度に一瞬気圧された季人は、しかし咄嗟にセッテピエゲのボタンを押す。
ジュラルミンの表面がスライドし、シールド形態への移行が始まるが、それが完了する前に矛先が季人を貫く絵が本人にも容易く想像できた。
突き出される二股の槍。 咄嗟に変形途中のセッテピエゲを正面に構える季人。
その矛先は硬質な摩擦音と共に、頬の数センチ先を掠め、風圧が僅かにその肌を撫でた。
「……?」
訝しむガーランド。 ぞれもそのはず。 正面には突き殺そうとした青年の姿ではなく、ドレス姿の少女が手にした棍によって槍の攻撃を受け流していたからだ。
「水越様っ、下がって!!」
軋みを上げている両者の武器。 だが単純に考えて、体重と筋力量に劣るマリアンが拮抗し続けるのは通りからして不可能だ。
季人は即座に二人から距離を取り、シールドの形態となったセッテピエゲを腕に構える。
「マリアン!!」
二股槍の薙ぎ払いをいなし、マリアンはその勢いのまま遠心力を溜めた長棒をガーランドの首元めがけて振り切る。
「……っ」
ガーランドは表情変化一つなくその攻勢を容易く受け止め、変わりに胴を十分に加速させた回し蹴りをマリアンに見合う。
「っぐ……」
それを棍の中央でギリギリ防いだが、マリアンの体は自動車に跳ね飛ばされたかのように宙を舞った。
「うぉ!?」
季人の方へと跳んできたマリアンは四肢をついて着地したが、膝が力なくガクリと地面に着いた。
「だ、大丈夫か!?」
「は、はい……」と苦悶の表情を浮かべるその様子は、とても大丈夫には見えなかった。 額には汗が伝い、 その手も痺れているように見える。
「後ろに跳んで威力を緩和したか。 その年にしては、よほどの修練を積んでいるようだ」
初めてガーランドが口を開く。
「先程の撃ちこみも申し分ない。 攻守のバランスが取れている。 まるで、こちらの動きを読んでいるかのようだった」
二股槍を逆手に持ったガーランドが季人に向けて槍を投擲する。
正面に構えたシールドに鉄球がぶつかったかのような衝撃を受け、それと同時に季人は地面を仰向けに滑る。
「はぁ……はぁ……」
冥界神の槍を受け、季人の心拍数は現在最高潮。
右腕は衝撃で痺れたまま。 僅かに傾斜させていたのが功をそうし、シールドは砕けず二股槍は後方に弾かれていった。
意識をおぼろげだった左手に向ける。
硬い感触を確認。 視線の先には、まだ目的だったものがある。
『季人!! 立つんだ!!。 いいかい二人とも、脱出ルートはDに変更だ。 五秒後に僕が一瞬機会を作る!!』
ウィルからの指示に、季人とマリアンは互いに目配せをして「了解!!」とだけ口にする。
周囲の男達が一斉に向かってくる。 事態は停滞を許さない。
「……」
一度だけ周囲を一瞥し、季人は深呼吸をする。
季人には特別な力などない。 ウィルの様な機械に対する才能も、セレンのような能力も。 今日出会ったロズベルグ家の二人のような、時を見通す力も持っていない。 隣の芝生は青く見えるというが、季人にとってはそのどれもが輝きすぎて見えた。 特別な、強烈な個性と呼べるそれらを羨ましいと思わないはずがない。
誰だって、自分にはない才は眩しく見える。 しかし、羨ましいと思う事は、妬むこととは違う。
それは先天的であったり、努力で合ったり、または偶然、手に入れてしまったりする。
だが、季人はそのどれにも該当しなかった。
どこまでも普通に生きてきた。 最近身内にまつわるトラブルがあったが、あえて上げるならそれくらい。
水越季人は自他共に未知、未開へ焦がれた男。 その執着心は常軌を逸し、時に命という対価を支払ってでもその先へと足を踏み出す。 それが自分では無く、他人の命であろうと……。
故に、周囲にこれだけ人知の最果てに位置する人間がいる現状は、普通に考えて嫉妬や羨望という意識が働くのが客観的に考えて当たり前の帰結だ。
「はぁ……はは」
ただ、その普通の人間と違う点がもう一つある。
それは、誰よりも自分が常人であることを理解していることだ。
季人にとって客観的に考えるという事は、明確にそういった人達と線引きをしている点。
初めから自分の能力に対して特別な期待はしていない。
そして、そんな自分が嫌いではなかった。
凡才だからこそ、焦がれる感情があり、未知、未開、非日常を期待する。
つまり、水越季人の武器とは、客観的に自分、事態、事象を認識する事が出来るという事だった。
「はは、ははは」
今、自身が非日常に置かれ極度の“興奮”状態にあってもそれは変わらない。
虚勢とも言っていいそれは、しかしこの場においては決して無価値ではない。
現在自分の持っている装備で利用できそうな道具。
右手のセッテピエゲ、左手のカルディアは確保できている。
すぐ傍でマリアンが立ち上がる気配。 彼女の戦力的価値は先ほどの攻防の結果を見ても、なんら疑問を挟む余地はない。
問題はむしろ自分だ。 しかしだからこそ問題ない。
自分自身を客観的に見るためのペルソナ《俯瞰視点》は既に自分を第三者の視点から眺めていた。
周囲の男達はもう目の前、周囲三メートル圏内。 接触までやく1.5秒。
―――0.5秒後、視界がブラックアウトした。
館内の照明が一瞬で落とされ、視界はほぼゼロとなる。
その瞬間まで見ていた男達の位置、逃走経路を把握している二人は駆け出した。
進行上どうしても邪魔だったその内の一人がいたが、しかし突然の暗闇に行動を停止し、季人はセッテピエゲを前面に構えたまま突っ込む。
「ごっふ!?」
耳元で肺から空気を吐き出す音が聞こえた。
僅かに体勢を崩しながらも、季人は勢いを殺さず走り続ける。
そして同時に、進行方向の廊下の一点が照明により光を取り戻す。 ウィルが逃走経路の目印に点灯させたものだ。
「追え!!」
背後から届く声、興奮の最中でそれが誰によるものなのかは分らないが、恐らくトラヴィスだろう。
しかし今はそんな事を気にしている場合じゃない。
季人は進行方向に向かって点灯していく目の前の廊下をなりふり構わず全力で走り続ける。
『左飛び出し注意!!』
ウィルが言い終わる前に先行していたマリオンが跳躍し、空中で目の前の空間を薙ぎ払う。
トラヴィスの仲間が顔を出すのと鈍い音がそこから季人の耳に入るのはほぼ同時だった。
「流石!!」
恐らくマリアンには既に見えていたのだろう。
咄嗟の状況に一拍の心構えと、瞬時の対応が出来る未来視の力。 本人は取るに足らない能力だと悲観していたが、その実、使いどころによっては頼りになる才能だった。
『って、まずいな』
「何が!?」
『ガーランドが来る。 陸上選手も真っ青な速度だ』
それを聞いて、季人とマリアンの必死度はさらに上がる。 気持ちの問題だが、多少は速度も上がったかもしれない。
「逃げ切れそうか?」
『ギリギリだよ。 君達の後ろは再び暗闇に戻してるけど、向こうのスピードは全然それを意に反してない。 まぁ、物理的に阻まれているわけじゃないからそれも当然だけど』
それでも、少しは怯んでほしいと思う季人。
目の前の階段を上がり、再び廊下を直進していく二人。
振り返ってはいないが、恐らく猛追してくるガーランドの姿を妄想すると、背筋に言い知れない信号が奔り、興奮の度合いがさらに増す。
「はぁ、はぁ」
もう間もなく予定ポイント。 このペース、確かにギリギリかもしれないと季人の脳裏を掠めていくその場面。
「……ウィル、マリアンが表に出たら、直ぐに防火シャッターを下ろしてくれ」
息を詰まらせながら、マリアンに聞こえない程度に声を抑える季人。
『分った』
その言葉に、何の疑問も挟まないウィル。
これは正規のプランじゃない。
しかし季人の相棒は、ただ了承の言葉を口にする。 こうなるだろうと、半ば予想は出来ていたからだ。
全力疾走の後に、通路の最深にたどり着く二人。 そこには扉や脇へと通じる通路は無く、ただ大きなガラス窓あるだけ。
月光が館内に入り込み、二人の姿をおぼろげに浮かび上がらせるところへ、これまで追随してきたただ一人の男が勢いを落としながら近づいてくる。
ガーランド・ハリスだ。
「そちらには出口は無いぞ」
その手には武器は無い。 だが徒手空拳でも容易く人を壊す事は出来るだろう。 殴り合いの喧嘩など殆ど経験が無い季人にしても、見ただけで互いの力量差が分かる程度には相手の存在感は一線を画している。
だが、そんな相手にだって、意表をつかせることは出来るのだ。
「ああ、今から作るからお構いなく!!」
窓際に飛び込み、両脇にしゃがんだ季人とマリアン。
その瞬間、窓枠と格子ごとガラス片が室内に向けて吹き飛んだ。
「お嬢様!!」
敷地内に入り込んだ黒塗りのクラシックカー。 その傍に立ち、無反動砲を担いでいるゼリアスが声を張り上げる。 無理やり逃走経路を作り出す、第二案にしてぶっちゃけ最終手段。
障害を乗り越える……もとい、物理でぶち壊すことによって、窮地を脱することが、ウィルの言う脱出ルートD。 ゼリアスの撃った無反動砲は弾頭先端にあるプローブ《突起》を伸ばさなければ、小規模な爆発だけで本来有している性能は発揮されない。
ちなみに、Aルートは来た道を戻るルート。 BとCは存在しない。
「逃がさん」
ガラスの飛沫と爆炎を浴びたガーランドはそれでもひるまず、二人に向かって疾駆する。 だが当然そう来ると分っていれば、二秒前から動く準備は出来ていた。
「そりゃ俺の台詞だって」
季人は前のめり気味にガーランドに向かって突っ込む。
「水越さん!?」
背後から聞こえるマリアンの声。 季人はそれを意に反さず、セッテピエゲを正面につきだす。
真っ正直に考えて、あらゆる面で劣る季人がガーランドに対抗できるはずがない。 この行動は軽トラックがスポーツカーに勝負を挑むくらい無謀な行動と言える。
しかし、それがスタートダッシュの瞬間に限った話なら、勝負はまだ分らない。 一度限り、車体の崩壊さえ厭わず、エンジンも使いきりと考え、ニトロエンジンを積んでいれば……可能性はゼロではない。
この瞬間の季人にそれを期待する事は出来ないが、意表という点だけを想定すれば……季人にも引き出しはある。 逆を言えば、意表という武器以外は何も無い。
達人であればあるほど、その意表という武器には慎重になるはず。
季人はセッテピエゲの握り手、その人差し指に当たる部分を引き金の様に引き絞る。
「……!?」
ガーランドに向けていたシールドの下部から三つ指の鉤爪がワイヤーを伴いながら射出される。
ウィルが部屋で話しかけていたセッテピエゲの最後のギミック。 ここに来る車中で改めて確認していた電磁式マジックハンドだった。
その本質は鉤爪でひっかけるのではなく、そこへ集約された電磁石。 電圧を上げる事により、その先端に引っ付かせて引き寄せるというもの。
―――いいかい季人、そのマジックハンドの有効運用射程は十メートル。 初速は30m/s。 時速換算で
100km/hくらい。 重さだとバッテリーの容量をフルで使って、大体五キロくらいの物まで引っ張れるよ。
射出するためのコンデンサの充電はチョッパ式で六秒かかる。 そこから加速コイルで加速させた……。
使い方さえ聞ければよかった季人は後半を流し気味に聞いていたが、事実それで問題なく仕えている。 本来の用途ではないが、ガーランドはそれを払うのではなく、除ける事によって対処する。
玄人にとってその速度は欠伸が出る様な物であろうと、接触による不確定要素を避ける為の対処だ。
そしてその横を駆け抜ける様にして位置を入れ替える季人は、ガーランドを挟んで反対側に居るマリアンに声を張り上げる。
「行けマリアン!!」
「で、ですが……っ」と、明らかに躊躇しているマリアン。 それもそのはず。 今の状況は、当初決めていたプラン通りではない。
「問答してる場合じゃねぇ!!」
ガーランドがその巨躯で突進してくる。 標的は、相対している水越季人。
カルティアがガーランドにとっての最重要目標であるのなら、当然の判断だ。 己の背後にいる少女には価値は無い。
季人は再びセッテピエゲを正面に構えながら目線を外さない。
ガーランドも一気に距離を詰めず、季人からの想定外の行動に警戒する。
それでも依然、季人の優勢指数は高くない。 最悪、掴まれるようなことがあれば勝負は瞬きを許す間もなく決するだろう。
季人が僅かに後退した時、両者の距離が一瞬にしてゼロになる。
初めから動きを目で追えないと判断していた季人は、正中線をシールドで覆う。 それと同時に伝わる衝撃。
「が……っ」
腕を伝わりその衝撃が胸から呼吸する手段を奪うガーランドのストレート。
無意識で追撃を恐れた季人が上げた左腕、次元転移装置がミドルキックによって吹き飛ばされる。
「っぎ!?」
同時に左腕を走る激痛。
ガーランドは奪還対象に対する配慮は無いのか、それを期待しての防御だったが、裏目に出た形となる。
背後に落下する次元転移装置。
しかし、その落下音は二つ。
「……」
視野で確認する。 はめ込まれた時計の内の一つが装置から外れ、離れた位置に転がっている。
季人はセッテピエゲの人差し指をさらに握り込み、伸びたままだったマジックハンドを引き戻す。
ガーランドはセッテピエゲのその機構に警戒し、一瞬にして距離を取った。
対して、季人は背後に向けて駆け出し、外れた時計を掴みとり、確認する。
それはワールドアパートが関わる事の発端となった懐中時計のオリジナル。 マリアンが何より奪還したかったミニッツ・リピーターだ。
季人は廊下の奥で未だに立ちつくし、月光を浴びているマリアンを見やる。
その手にした棍を握り直し、今にも加勢に加わりそうな表情をしていた。
それは、非常に困るのだ。
だから、先手とばかりに季人が機先を制した。
「マリアン、依頼を受けたのは俺の意志だ。 ここでクライアントを危険な目に遭わせるわけにはいかない。 それに――」
と、余計なことを言いそうになった口を一度閉じて、手にした懐中時計を握りしめた。
「大事なものなら、もう手放すな」
季人は足元のカルティアに足を引っかけ、ガーランドの頭上に向けて蹴り上げた。
弧を描いてマリアンの下に届くと思われたそれは、ガゼルの様に跳躍したガーランドの手によって阻まれた。
だが、その瞬間に長身の足元を滑っていく小さな銀燭。
マリアンが伏せて手にしたそれは、トラヴィスに奪われ、ずっと追い続けていたミニッツ・リピーター。
顔を上げ、季人を見てから何か言おうとしたマリアンだったが、その前に季人が声を張り上げる。
「行け!!」
その瞬間、季人のセッテピエゲから再びマジックハンドが飛び出す。
「なっ!?」
突然自分に迫った鉄の礫。
棍を構えて防いだが、それによってバランスを崩したマリアンが吹き飛んだ窓から勢いのまま落下する。 それを当初のプラン通り、下で構えていたゼリアスによって受け止められた。
「水越さん!!」
地に足をつけ、上を見上げて落下してきた場所を確認するマリアンだが、そこから季人が出てくる気配はない。
「お嬢様」
「ゼリアス、まだ水越さんが中に!!」
狼狽える主を前にして、しかしゼリアスは務めて事務的な声色で返す。
「はい。 ですが、今はお嬢様の身をお守りするのが最優先です」
「そんな……いけません!!」
「ご無礼をお許しください、お嬢様」
ゼリアスはマリアンを棍ごと抱え上げ、車の中に押し込むと扉を閉めた。
「ゼリアス、何をするのです!?」
その先を予測できるマリアンは気が気ではない。 いや、例え未来などその眼で見なくとも、察してしまうこの現状に声を上げずにいる事などできない。 それは、ここに季人を残して離脱するということだ。
「お捕まり下さい」
そして予想通り、ゼリアスは運転席に入ると一気に車を加速させた。
「引き返しなさい!! 早く!!」
怒気も含まれるその声に、しかし執事は務めて冷静に「なりません」とだけ口にする。
マリアンはドアに手を掛けるが、ロックされていて開く気配が無い。 パワーウィンドウも同様だ。
それならばと窓を打ち破ろうと決意した矢先―――。
『これ以上状況を悪くしてもしかたがない』
と、先程まで自分達をサポートしてくれていたウィルの声が耳のヘッドセットから届いた。
『今は、あなたが真っ直ぐ帰ってくることが、正しい選択だ』
誰よりも季人の安否を心配しているだろうと思われた彼の声は、努めて冷静であり、今ばかりはゼリアスが二人いるのではと錯覚してしまいそうになった。
「で、ですが……」
『大丈夫だよマリアン嬢。 正直、こうなる事も予想はしていた。 こうならなければいいと楽観的に思ってはいたんだけど、でも、僕としては想定の範囲内だ』
「ウィリアム様は、水越様が心配ではないのですか!?」
声を張り上げるようにして非難を訴えるマリアンに、それでもウィルは落ち着いていた。 その声色は、小さな子供に言い聞かせるかのように優しさが含まれていた。
『もちろん、季人の事を軽く見積もっているわけじゃない。 だから、僕は彼が望んだことは出来る限り叶えるスタンスをとっているんだよ』
「一体、どういうことなのですか? 水越様が、何を望んでいたと……?」
『それは当然、クライアントの安全さ。 そして、もう一つは――』
ウィルはマリアンに自分の推測も含めた季人が望んだ目的とも思い付きとも言えない行動の理由を説明した。 それを聞き終えたマリアン何とも言えない顔をしたまま座席に体を預け、強張っていた体を弛緩させた
「ありがとう。 季人も貴女くらい素直だといいんだけど、それじゃ彼らしくないか」




