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「それにしても……」
「はい?」
紅茶を口に含んで誰にともなく呟いた季人に、マリアンが反応する。
「ああ、いや、分ってはいた事と言うか、それでも地球は回っているというか……」
未知に焦がれているのであって、波乱万丈の日常に焦がれて居るわけでは無いが、先の出来事……セレンの件を挙げても、その発端が何かしらの不幸で始まるのが何ともやりきれない。 宝の地図を手にしてからのスタートがあってもよさそうな物なのだが、そもそも宝の地図が血みどろでなのがなんともやりきれない。 非日常である以上、最も分かりやすい形ではあるのだろうが……。
「最近立て続けに非日常に触れているなと思ってさ。 俺にしてみれば、本来は喜ぶべきことなんだろうけど」
水越季人にとって個人的に非日常と接触する分には興奮を覚えることなのだが、悪意ある他者の介在やそこに至るまでの不幸が直結していると、それを素直に喜ぶ事が出来ない……。
少なくとも季人は道徳に疎いわけでは無い。 他者の幸福を喜び、不幸を嘆くことは人並みにある感情だ。 自分が突っ走ってしまうのは未知未開が目の前にあるときだけ。
ダブルスタンダードというよりは、性分に従う方を優先させるが、それでも憂いが無い方がよりのめり込めるのだ。
「トラヴィス達が日本を計画の最後に持ってきてくれたおかげで今があると思うと、複雑な気分だ」
ワールドアパートへの依頼が、もし他のキャビノチェが襲われた件よりも先だったら、自分達を含めた周囲が血に染まっていたかもしれない。 そうなっていないのはトラヴィス達の気まぐれと、作業工程の優先順位が季人達への関心を上回っていただけに過ぎない。
「それにも理由があると考えています」とカバーリが言う。
「ん、日本を最後にした理由って事?」
「はい。 これまでの経緯から推察できる、この国を最後にした理由は二つ。 一つは、もっとも追跡を逃れにくいからです。 そして、その認識は正しい。 ロズベルグ財閥が現在この国に滞在している以上、国外への脱出などさせません。 だから、先に別件を済ませたかったのでしょう。 フランスとスイスの二国にあるアンティキティラ・ギアを手に入れるという目標の為に」
「……俺の理解力不足なのか、ちょっと分からないな。絶対に逃げられないなら、どうしてわざわざ自分達から捕まりにくるような真似をしたんだ」
トラヴィス達の捕捉にロズベルグ側が絶対の自信があるというのは理解した。 そしてそれは事実なのだろう。 事実、カバーリの能力は圧倒的だ。
トラヴィス個人に焦点をあわせなかったとしても、アンティキティラ・デバイスに関わる出来事に少しでも奴等が痕跡を残せば、即座に居場所が判明する。
しかし、ならば何故ロズベルグ家が日本に滞在しているこの機に、危険を冒してまで来日したのか……。
その季人の疑問には、カバーリではなくスピーカーの向こう側に居るウィルが答えた。
『逃げ切りが出来る可能性があるからだろう』
「フレイザー様のおっしゃる通りです。 このまま実験が行われ、ERBが発生し、観測機も正常に作動したら……何処に網を張ろうが捉える事は出来ません。 地球の裏側に一瞬で跳ばれてしまえば、こちらは手も足も出ません」
「なるほど……ここが最初でも二番目でも、そこで囚われたら他を回収できない。 だが、全ての準備が整っている三番目なら、まだ逃げようがあるって事か」
それに、最初と二番目では、まだロズベルグ財閥が警戒レベルを最高に持っていく前だ。 今回の計画を悟られる前に動くには順番が肝心だったということだ。
「しかし、どこでその実験を行うのかも問題です。 彼らがどの程度当時を再現するのかはわかりませんが、実験する際のエネルギー……ERB発生による周囲への影響がどれほど起こるのか、想像もできません。 当時のフィラデルフィア実験は、その影響も考慮して、海上で実験が行われたくらいなのですから」
それを突き止めるまでは、大っぴらに動くことは出来ないとカバーリは暗に告げていた。 アンティキティラ・デバイスの調査と強奪は、彼らにとって手段であり目的ではない。 その先に見据えたものを突き止めなくては、再び悲劇が繰り返されるかもしれないからだ。
「そして、エルドリッジという巨大な船体ごと、消失した」
カバーリは「その通りです」と頷き、視線を中空に……天井へ向けた。
「二つ目の理由ですが、アンティキティラ・デバイスに薀蓄があり、ミニッツリピータを含めた三つの機構を科学的に解析できる者が、この国に居たことです」
『僕か』
「はい。 水越様たちのワールドアパートで記載された検証資料には、私たちも舌を巻きました。 独力であそこまでの確度を持って調べ上げているのを見れば、彼の者たちが接触しようというのもわかります。 次元観測装置と銘打ったあなた方の検証結果を見た時、恐らく事情を知るキャビノチェ達は息をのんだことでしょう」
賛辞と受け取っていいであろう言葉に、恐らく嘘はない。 実際、それが元になって今の自分はここに居るのだ。
季人は、悪い気はしなかったが、やはり気分は複雑だった。 それはウィルも同様だ。
『まぁ、評価してもらえるのは嬉しい事さ。 それが真に迫っているのなら尚更だ。 ただ……』
「ああ、知らなかったとはいえ、今回の問題は俺達ワールドアパートがロズベルグ財閥、ひいてはアンティキティラ・デバイスに関わっていた者たちの物語に歪を生んだのは間違いないな」
ワールドアパートのサイトであの資料を見たからトラヴィスは今回動き出したのか、それとも、偶発的にワールドアパートの事を知り、接触を図ってきたのか。
季人は考えたくはなかったが、恐らく前者だろうことは想像に難くない。
かと言って人死ににまで責任を持っているのかと問われれば、それはそれで微妙な話だ。
バタフライエフェクトとまでは言わないが、手放した風船が空に舞い、偶々飛んでいたドローンと接触し、そのドローンが関係のない人の頭に落下したくらいの関係性だと思っている。
「それに、少なくとも一度は、命を救おうとしてくれていたみたいだしな。 取り越し苦労だったけどさ」
だが、もし神の気まぐれで駒の進め方が少しでも変わっていたら、盤上からふるいにかけられていたかもしれないのもまた事実。
『ミセスカバーリ。 今回の件、察するにアンティキティラ・デバイスに興味を持っている人間に、この件が大々的に広まるのは避けたいと受け取っても?』
「いや、敏感な連中なら、既に何らかの情報を入手している可能性もあるよな」
トラヴィス達以外にもアンティキティラ・デバイスを調査していた組織はあったはず。 そいつらが今回の騒動を関知していないとは考えられない。 ひょっとしたら、既に動き出している者たちすらいるかもしれない。
『これ以上、アンテナを張っている連中に情報が漏れる前に、事を収める必要があると推察するけど……あってるかな?』
だから、と言うわけでは無いが、今度は季人とウィルがこの話の先を促した。 当然、自分達が望む方へと。 それを察したのか、カバーリは首肯した。
「……本来、この件は当財閥にとってもトップレベルの秘匿事項なのです。 そして、アンティキティラ・デバイスの真の存在理由を知る者ともなれば、既に数える程です。 それが、思わぬ形で真実味を帯びた。 本当ならば、存在しない方が世界の安定は保たれ、争いの火種にもならず、水越様達にもご迷惑はかからなかったかもしれません。 しかし、それでもと、未来を憂う者たちが残してきたものをここで消失させてはならないと思い、キャビノチェ達は受け継いできました」
カバーリは季人の目を真っ直ぐに見据えた。
「運命に身をゆだねる事と、運命にあらがう事を天秤に掛けた時、我々は、抗う事を選んだのです。 しかし、それは個人としてのレベルではなく、もっと大きなもの……世界やこの惑星にとっての危機的状況を回避するための装置として、いつか必要な時が来ると信じ、代々守り続けてきたのです」
そう言ってロズベルグ家の当主であるカバーリは語った。
来るかどうかも分からない災厄に怯え、空想の産物に近い懐中時計に縋ること。 それが彼女たちの秘匿するところであり、奪われたものを奪還する名分。
抗うべき未来があるのか、これからそんなモノがくるのか季人には分らない。
時間の法則すら無視して感知できるカバーリだからこそそんな大それた事を言えるのか、分らない。
そして今、ロズベルグ家はその大義を裏付けるかのように動き、戦っている。
……それが、季人の琴線をヤスリがけた。
「正直、俺は感動してる。 別に冗談で言ってるわけでも、ふざけてるわけでもない。 俺はあんたらのその姿勢と、それを取り巻いてきた世界に本気で心を打たれたよ」
だから、まずは思った事をそのまま、飾ることなく口にした。
「言葉にするだけ陳腐になっていきそうだから、これ以上はもう言わない。 ただ、これだけは信じて欲しい。 俺はミセスカバーリに出会えたことを光栄に思う」
余りにも壮大で、現実的に考えれば荒唐無稽なことを連綿と受け継いできたロズベルグ財団。 非現実性の可能性に一身を託す事が出来るその思想。 一切疑うことなく守り続けてきたその信念に、感服という言葉しか思当たらない。
「ふふふ。 水越様は面白いお方ですね」
『それは分かる』と、カバーリにウィルが相槌を打つ。
「こればっかりは性分だからな。 それに話を聞く限り、もう事態は秒読み段階に入ってて、このままだと人類史に残る大事件が起こるってことだろ。 だから、俺達も協力……いや、尻拭いをしたいと思うんだが」
そしてようやく、季人は本題であり、自分達の意思を明確に伝えた。
言に嘘わない。 突端となったワールドアパートの活動の責任者としても、もっともらしく聞こえる。
例え、その裏側に様々な思いを張り巡らしていたとしても、カバーリ達の役に立ちたいと思った事に間違いは無い。 ただ、それが全てではないというだけの話だ。
「相手は目的の為なら手段を選ばない者達です」カバーリの視線は外れない。
拒絶の言葉でない以上、これは忠告というより、確認に近いのだろう。
「問題はそこなんだよ。 そんなやつらと関わっちまった以上、これから先に何も起こらないとは限らない。 もしくは、関連している事を嗅ぎつけられて別の奴らが接触してくるかもしれない」
季人が気にしている点の一つ。
一度接触を持った以上、一切のマークから外れたとは……正直思えない。
「こう言っちゃなんだが、俺達は未知に焦がれてはいるが、それはごく普通の平穏な日々があってこそだ。 毎日三ツ星の料理を食べれたとしても、俺は家庭料理だって食べたい。 どっちも食べ比べられるから楽しめるんだ」
その為に、どちらも欠ける事があってはならない。
『いや、僕は別にハンバーガーなら毎日でも……』
「だから、一緒に動きたいっていうのもあるんだ。 本当に俺達の日常に介入して来なくなる保障と確証を得るために。 まぁ拒まれたとしても、こっちは勝手にやらせてもらう。 自分達の未来がかかっているからな」
実際、ここで断られたとしても季人とウィルは独自に動く方針でいた。
というより、ここで動けないようでは自分達ではない。
カバーリの言う障害など、端から選択勘定には入れていないのだ。
「……分りました。 当方としましても、形振り構っていられる状況ではありません」
緊張した空気は依然変わらないが、幾分弛緩した声色であった。
「決まりだな。 まぁ、そちらとしては、俺の力よりウィルのスキルのほうが重要だろう」
事実、自分の働きよりも遥かにウィルの能力が重宝されることは承知している。 その事に対して季人は引け目など感じていないし、むしろ誇らしさを感じていた。 それだけ、自分の相棒はハイスペックなのだ。
「もちろん、フレイザー様のご助力も助かります。 ですが、水越様はもちろん、此度の件に力添えしてくれるのでしたら、いてくださるだけで心強いのです」
カバーリは儚く……嘆きの混じった笑顔を浮かべた。
「協力を頼める機関は限られます。 しかしこういった問題は、一笑に付されるが関の山ですから」
至極もっともで、納得するに足る十分な理由だ。
「確かに、真面目すぎるやつほど、信じられないだろうな」
唯でさえ現実離れした話が先行し、加えて秘匿性が重視されるのだから、それも仕方が無い。
『その点、季人は程よく不真面目だから適任だ』
「その分柔軟に対応できるってことだよ」
「頼もしい限りです。 水越様、フレイザー様、改めて宜しくお願いいたします」
カバーリ、マリアン、そしてゼリアスが揃って頭を下げた。 それに季人は手を挙げて答える。
「しかし、申し出た俺たちが言うのもなんだし、今更だけど、あんた等は俺達の事を信用できるのか?」
季人はそこまで言って、一拍置いてから尋ねた。
「……いや、観えたのか?」
彼女には、このやりとりが見えていたのか?
その疑問に、カバーリは微笑で返した。
「能力は使っておりません。 ですが、私の人を見る目は確かです」
現当主らしい、自信と共に納得させる響きを持つ言葉。 そう言われてしまっては、自然と張り切る気にもなってしまう。
「しかし、私共も無償で協力していただこうなどとは思っておりません。 この件が無事終了しましたら、水越様には当家で最も価値のあるものを差し上げましょう」
と、思ってもいなかったカバーリの申し出に季人は内心で真意を測り兼ねたが、ここでそれを考えたところで意味が無い事だと胸の内に落とし込み、それを消化した。
「それは楽しみだ。 俄然やる気が出てきたぜ」と季人が言う。
ただ、自分の性分に真っ直ぐでいる季人とは対象に、物事を俯瞰で見る事もできるウィルには一つ思うところがあった。
それは、セレン・レイノルズと関わったサウンドメディカルを巡る事件の時に端を発した、未知や未開に対する情報への渇望。 貪欲に、時にはその身を好奇心で躊躇なく賭ける在り方の危険性。
水越季人の根幹であるからこそ、そうそう容易く変えられる事ではないと承知はしている。 だから、今この場で口にはしなかった。
――季人、荒事が癖になると……抜けられなくなるよ。
そう、自室で天井を仰ぎ見ながら、ウィルはマイクを外して呟いた。