プロローグ
この作品は『ワールドアパート/ハムレットの笛吹き少女 』の続編になります。
――アテネ国立考古博物館。
ギリシア共和国のアテネに位置する博物館には、それこそ誰もが一度は聞いたことがあるものから、人目には早々触れることのないマイナーな古代の遺物まで、数多くの歴史が収蔵されている。
黄金で作られたアガメムノンのマスク。 ミノタウロスの胸像。 現在もゼウスかポセイドンで議論が続いているアルテミシオンの銅像。
他にも壁画や石像、装身具から生活道具までもがこの場に集められ、一般開放として展示されている。
古代ギリシア。 名だたる神々の生まれた地。 紀元前二千年より遥か昔、人々は身近に神を感じ、神と共に生きていた。
しかしそれはギリシアに限った話ではない。 今ほど文明が発達していない時代では、どの国でも、人々は神や精霊といった存在と共に生活していたのだ。 そしてそれは、生活する上で重要な社会システムとして完成されていた。 信仰という形であったり象徴であったり、また、身近な親類でもあった。
昔の人々は身姿を思い描くことが日常であり、想像することが常であり、創造することに長けていたのだ。
科学の発展により、目に見えない……観測できない存在に対して関心は薄れてしまったが、しかし、人々はその概念を観測可能な形として残した。 それは時を越え、遥か海を渡り、古代の遺物たちは国際交流の下で現在は黄金の国と呼ばれた極東の地に展示されている。
――東京都の台東区。 上野にある国立科学博物館。
心を落ち着ける場所という意味あいにおいて、博物館という施設は非常に利にかなっている。 たとえそれが、展示されているものに一切の興味が無かったとしてもだ。
鑑賞する為の空間作りが徹底されており、喧騒からほど遠く、空調は適度に整い、煩わしさを一切排除した空間。
よって、この場合は落ち着くというよりも、日常から距離を置ける場所と言う方が適しているかもしれない。 そういう意味でも、この機会を勧めてもらった自分は良い同僚に恵まれたと、村上晴光は数日前を振り返った。
数日前、職場である地下鉄で起こり、世間を賑わせた都庁前駅失踪事件。 その事実が明るみに出る突端を開いたのが晴光だった。 偶然見つけた失踪者の携帯ストラップから、あれよあれよと周囲は動き、気づけば事件への捜査協力の為に警察関係者と間断なく関わる日々。 しかもそれは昼夜を問わずだった。
有力な手がかりが無かった捜査当初は晴光の証言が最も有力な情報だった為に、メトロ職員としての職務そっちのけで協力を要請された。 実際、仕事などする暇は無かった。
数日が経って事件がひと段落する頃には、慣れない立ち回りのツケが回ってきたのか、体がやけに重く感じた。 ストレスから来るものだったのか、純粋な疲れから来るものだったのかは分らなかったが、どちらにしろ、晴光は心身共に参っていた。
そこで、端から見て気の毒と思った晴光の上司が気を使って心身の休養を進めてくれたのだ。 つまり、有給をとれと言われたのである。
「……」
展示されているものに特別な興味があるわけではない。 もとより晴光には歴史的古物にそれほど関心はなかった。 ただ、実際に実物の前まで来ると、自然と足が止まる。
語彙力に乏しいと自覚している晴光にはただ感嘆するだけしか出来ないが、言葉を飾るだけ陳腐になることに比べれば、本来圧倒されるものを目にしたときの反応としては正しい反応なのかもしれない。
そこには確かに歴史があった。 自身の目の前には当時を切り抜いた過去があると思うと、それほどこういったものに興味が無くても、何か感じ入ってしまう。
そして同時に改めて思う。 これは確かに、現在進行していた日常から気分を一新することにおいて最適の場所なのかもしれないと。 何しろ、ここにあるものはどれもがただ見るだけでも、遥か遠い過去をいやでも想起させるに十分だったからだ。
故に、自分の身近にあったことなど、この長大な歴史から鑑みれば些細なことなのだと感じることができればなお良かったのだが、晴光がそう思えるようになるにはもう少し時間が必要だった。
「……あれ?」
晴光が次の展示品を見ようと思ったときだった。 館内の照明が落ち、網膜に残像を残したまま視界があっという間に真っ暗となった。
周囲に数名いた人間のざわめきが耳に入る。 「停電?」とか「動くと危ないぞ」等といった声がそこかしこで上がり、誰もが予想外の出来事に動揺している。
それもそのはず。 実際目に見える明かりといえば非常灯くらいのもので、外部からの太陽光などは一切入ってこない空間なのだから。
しかし、トラブルは長く続かなかった。 ものの数秒で明かりは戻り、晴光自身そのことに安堵をしていた。
「……?」
艦内アナウンスで今のトラブルに関しての案内が流れている中、次の展示品の前まで来た晴光だったが、数回瞬きをするだけで展示品に視線を合わせることはなかった。 というより、正確には出来なかったのだ。
「あれ?」
それもそのはず。 ガラス張りのケースに覆われて、その中央に置かれている筈の展示品が無かったのだから。




