危機感がうすいとか、いわれても 5
――――な、なに、何、今の……。
赤いシルクシャンタンで打ち出されたクッションが、きらびやかで派手すぎて、常々大仰な乗り物だと思っていたのに、この時ほど壁面のふかふかの綿をありがたく思ったことはなかった。
……目をつぶって衝撃と動揺を耐えて、一瞬、ほんの一瞬だけ、気を失ったかもしれなかった。
そして今、意識はちゃんとある。帽子もまだちゃんと、被っているし。
――――無事だった。
馬車はおそらく横転している。
ふくよかなメラニー夫人に圧し掛かられるように、二人折り重なっているのは乗り口の側だ。
進行方向に向かって、左側が下。
扉の内側の取っ手を、セシルの裸足のかかとが踏んでいる。
……なんとか、多分、無事だった。
とっさにメラニー夫人の頭をかばえたのは、僥倖だったかもしれない。
セシルはメラニー夫人の頭を両腕でいつの間にか、抱きしめるようにしていた。
「メラニーさん、メラニーさん大丈夫?」
ぐったり力が抜けている夫人の体が、小柄なセシルには重くて、もぞもぞと身じろいだ。
頭の上にある飾り窓から、ガス灯の明かりは降り注ぐけれど、車内は暗い。
暴れる馬のざわめきを抑え込もうと、馭者が苦闘している。
手練れのグスタフさんらしく、賢明な判断だと思えた。車内に気を取られるより先に、興奮した馬を宥めてしまわなければ、おまけの被害も出てしまうかもしれない。
目抜き通りでのこの惨事に、人が集まり始めている気配も伝わってくる。
「メラニーさん」
気を失ったままの夫人にゆさゆさと呼びかけてみるけれど、反応はない。頭じゃなくても、そういえば背中や腰を打っても人体には危険なのだ。
「何が起こったの……メラニーさん、しっかりして」
本来なら、馭者への取り次ぎは彼女の仕事なのだけれど、今は火急の時だから仕方がない。
セシルは、いつもはメラニー夫人の頭の後ろにあって、触ることも許されない馭者席への小窓に手をかけた。
小さな金の金具を横にスライドさせれば、外の喧騒がぐんと近くなった。
「――大丈夫、大丈夫だよ、お前たち。もう怖くないんだよ」
普段は、馬たちを侯爵家のお馬様扱いをしている彼の、こういうところが好きだった。
セシルにも大事な友達だけれど、馬は時々は聞き分けのない子供みたいになる。
「――ご加勢しましょう」
「中に人はいるのか」
申し出てくれる人もいる。
通りすがりに迷惑だろうに、ありがたいことだった。
「お、お、お嬢様! お嬢様はご無事っ」
街の人たちの助太刀に、心の余裕もできたらしい馭者が、小窓口に真剣な顔を向けてくれたのを見て、セシルはやっと声を上げることができた。
「グスタフさん、私は無事よ」
「申し訳ありませんっ、お嬢様っ!」
小さな網越しの彼のアップは、汗と涙に濡れている。
ドリュー家の使用人らしく、いつもは口ひげをぴんと立ててそつなく振舞う人の安堵が、セシルを安らかにする。
……馬ほどじゃなくても、心臓はどきどきしていたのだ。
「だいじょうぶ、あなたに非はないし、私は平気よ。メラニー夫人はびっくりしていて声が出ないの」
今は彼を余計な混乱に陥れたくない。
セシルはことさらゆっくり言葉を選んだ。
「ご親切な方が助けて下さっているのね。私、皆さんにお礼を伝えたいわ」
「お嬢様……」
国の母であれ、と言われている。セシルに知識を授けるのは大抵お婆様と叔父様。
その二人が、イルーフとシンクレアの名のもとに、と言うのだ。
国民に礼を失することはできない。貴族というのはそういうものだと教えられた。
「お嬢様……っ」
「ほらほら、馭者殿、あなたがしっかりしなくては」
「そうですよ、大事な方がご無事でいらっしゃるのに」
気持ちの高ぶる彼を、街の人が宥めてくれている。セシルの頬も緩んだ。
「しかし、なんなんだい、さっきの乱暴な馬なし車は!」
憤りあらわな中年女性の声が、セシルたちのために怒っている。
「馬が落ち着いたなら、早く態勢を立て直さなくては。車輪は大丈夫なようですよ、長縄が二本もあれば」
美声と言って差し支えない、若々しい男性の声が、建設的な提案をしてくれたりもする。
横転をただ正すだけではなく、ロープを馬車に渡して引き起こすやり方は、車内の安全への気配りと思えた。
それから聞こえる、老年配の男性ののんきな声。
「いやいや、災難でございましたなあ」
まったくだ。
セシルは唇を尖らせる。
たまに杜から出ると、本当、ロクな目に合わないんだから!
森の外の現実世界は、いつだって世俗的な現実をセシルに突きつける。
馬なし、とくさしていた女性の憤りからして、馬車はあの自動車の隊列の一台にぶつかったものらしい。
後ろから当てられて、力負けした?
大通りを、馬と馬車と、自動車が入り混じって使っているのだから、これからもこういう事故は増えていくだろう。
お互いの身を守るためには境界か、あるいは何かの規則が必要だろうなとぼんやり考えながら、セシルは手際のいい街の人々が協力してくれながら馬車を起こすのを待った。
「お嬢様、メラニー殿、もう少し傾きましたらお身体を徐々に車の中ほどへ、ゆっくり、ゆっくりお移しくださいませ」
相変わらずきゅうとなって頼りにならない人を支えながら、セシルは馭者の指示通りに姿勢を変える。
「ふう……。ほんとに災難だわ」
天地が正された瞬間、思わず安堵のため息が漏れた。
慌ててメラニー夫人を、元座っていた場所に苦心してもたれかけさせ、苦し気に寄せた眉根に心配になる。
その口からううん、と言葉が漏れたことにセシルはほっとした。気を失っているだけみたい。
そして両側の窓から明かりが入るようになったことで、脱げてしまった小さめのミュールを探す。
一昨年作った靴は、お気に入りなのだけれど、もうだいぶ小さくなってしまっている。
靴を手探りみたいに一足ずつ足に履いたところで、内部には変化がなかったものの、横転の衝撃で多少歪んでしまったらしいドアがわずかに開いた。
「お嬢様……メラニー殿……」
「! グスタフさん、あなた、大丈夫だった⁉」
中にいたセシルとは違い、馭者台の彼には守ってくれるものがない。せいぜい両方のアームか、頭上のささやかな幌か手綱、そんなものだ。
「怪我はない? あなたは、馬たちは平気?」
「お嬢様、ご無事で何よりでございます……!」
汗と涙でくしゃくしゃに乱れた立派なおひげ。苦しげにゆがんだ口元。目元。
彼の努力と街の人たちの助力に、うわべや口先だけでない感謝をセシルは伝えたい。
「あなたも平気そうでよかったわ。あなたに何かあったら、馬屋にも私、遊びに行けなくなっちゃう。ありがとう、私は無事よ。あなたのおかげで助かったのよ。あなたがきっと上手にころんとしてくれたんでしょう?」
そして、今セシルの右手で気を失っている人のことも報告しなければ。
「グスタフさん、メラニーさんがね、気を失ってしまっているの。頭はきっと大丈夫よ。どこにも打ってない。腰や背中は心配だけど、私はぴんぴんしてるもの。多分びっくりしてしまっただけなんだと思うわ。ちょっと見てあげてくれる?」
「お、嬢様……、では、ではぜひ、失礼して」
気を失っているメラニー夫人の様子見のため、グスタフさんが中へ入ってこようとする。
「ああ、少し狭いわね。私、ちょっとお外へ出るわ。助けていただいたみなさんにも、お礼がしたいもの」
高い帽子は脱げてしまっているけれど、セシルの護衛役も兼ねるグスタフさんは長身で屈強な男性だ。
主にセシルとメラニー夫人しか乗らないこの馬車の中では窮屈だろう。
それに、いい口実になる。
セシルはどうしても街の人たちに感謝を伝えたかった。
セシルの提案にグスタフさんは一瞬渋い顔をし、首を横に振りかけた。
けれど、貴族であるが故の振舞いや矜持を、尊重してくれたのだろう。
乗り込んでくるより先にセシルに手袋の手を差し伸べてくれ、小さな靴に囚われたセシルの足から、外へ、石畳の上へ降ろしてくれる。
「ありがとう」
大丈夫よ、と馭者に微笑んで、メラニー夫人のことは彼に任せた。