危機感がうすいとか、いわれても 3
ますますセシルは家が気に入らない。世の中は気に入らないことだらけ。
セシルが素行不良を標榜したい理由だって実はそこにある。ローガンは優等生らしいからだ。
「ね、ルー様。今日はルー様のおうちにお泊りに行っていいでしょう? 政治思想学のお話を聞かせて? セシルがその気になるかもしれなくってよ」
「メラニー夫人を連れてかい?」
「メラニーさんは馬車で一人でおうちに帰ればいいもの。セシルはルー様の自動車に乗ればいいのよ。ルー様の『馬なし』に乗せてほしいの」
ひたすら家を避けたいセシルは、妙案を思いついて叔父様に提案した。
「残念だったね、セシル。今日の『馬なし』は二人乗りなんだよ。従僕が運転して僕が隣に乗車するだろう、すると君は幌の上だ。無理だね」
「じゃあ、馬車でヘイゲンのおうちまで走ってもらうわ、グスタフさんに。で、セシルはルー様のおうちで降りて、馬車はメラニーさんを乗せてオーレン街へ戻る」
セシルの実家、ドリュー侯爵邸はフィオーラ大通りから入る環状通りの一本を進んだ先、貴族の館が立ち並ぶオーレン街にある。ホテル・ドゥワイトとは、馬車でゆっくり半時ほど。
郊外のイルーフの森にあるイルーフ家のお屋敷にお婆様は戻られるが、オーレン街の実家より叔父様の住むヘイゲン公爵家の方がここからなら近い。
「いや、いい機会だがセシル、実に残念だよ。この後、史学協会の会合に顔を出さねばならないんだ。いや、実に残念だ。僕は予定を思い出してしまうしね。あまり楽しい集まりじゃない。なにしろお見えになるのはお年寄りばかりでね、聖フリーダの真実を討議する会だよ。教典通りの美男子なのかどうか、どうだい、聞くからにつまらなそうだろう」
「ルーパートさん、ご老人には敬信して接しなさいと……」
「ええ、ええ。おばさま。わかってますとも。ご忠告痛み入ります。……というわけでね、セシル。とても残念だよ、君に長いお話をする機会を失してしまうのは」
セシルは、思わず、うっと唸った。
ここで第二候補のイルーフのお屋敷へ、などと持ち出そうものなら、お婆様は静かな怒りをもってセシルを諫めるに違いない。
どうやら今夜は諦めて、昨夜のように実家へ戻るほかなさそうだ。
週末のドリュー侯爵家は騒がしい。
海士官学校の寮に暮らす書生の男の子たちも、揃って帰宅しているからだ。
そんなに元気いっぱいの男の子が大勢必要らしい、シシーとジェラルドには。
女の子のセシルなんて、いつも部屋の隅っこに追いやられてしまう。これでも、一家のお嬢様なのに。
もっと自宅で、セシルは大切に扱われるべきだ。セシルは声を大にして言いたい。
後見家庭にはだから、セシルは不満ばかりだ。
今週末、セシルにとって幸いだったのは、シシーとジェラルドが、両親が揃って家を空けている、という事実のみだ。
二人は、三日間の休暇を利用して、定期船で一日のドリュー領に視察に出かけた。
海辺の街で出会った二人。何の視察だろうなんて、セシルは今更考えたくもない。だって、シシーとジェラルドのすることだもの。
お婆様と、ルー様と。三人で聖人の日の聖餐を囲む間も、セシルはずっと不機嫌だった。
お砂糖とミルクと卵と麦粉で作られる、伝統的な『フリーダのプディング』が食事の最後に登場しても、気分は晴れなかった。
干しブドウや干しアンズやオレンジの皮がたくさん入ったそれは、セシルの好物の一つなのに、ちっともおいしいと思えなかった。
晩餐を終えて家路につく、セシルの肩は解りやすく気落ちして、誰の目にもそう見えたことだろう。
「セシル。背筋をピンと伸ばしてちょうだい。美しい心は美しい姿勢の中にこそ宿るものなのです」
お婆様はイルーフ女伯、学院長としては当然の叱咤をセシルの落ち込んでいます、と語る背中に投げかけた。
これが、落ち込まないでいられますか、っていうの……!
心の中で力なく反論して、セシルはお別れの挨拶とともにお婆様に抱き着いた。
「早く森に帰りたいです、お婆様」
「何を言っているの、あとたった一日半のことではありませんか。ほら、いい子、しゃんとなさい、マスキエフ女子爵」
「お婆様……!」
まだ正式に受け継いでもいない爵位を、当然のように呼ばれるのは苦しい。けれど、それこそがまた、お婆様のくださる愛情の一つだとセシルは知っている。
祖母と孫の間の交友を、杜の中では隠していなければならないけれど、それについてセシルは不便を感じていない。
ご自分の跡継ぎとなるべきセシルなのだ。そこにシンクレア女伯という余計なものがくっついてくるにしろ、お婆様にとってセシルとは、掌の珠のごとき大切な後継者に変わりはないのだと思う。
お婆様の熱心な教育や、柔らかな抱擁には、ちゃんと愛を感じる。愛されていると感じる。
お婆様はイルーフ女伯家の紋章入りの華奢な印象の馬車に乗りこまれ、置いてけぼりにされるかのように眉尻を下げたセシルの顔に、愛し気に微笑んだ。
「元気で森へお戻りなさい。あなたの門は、いつだってあなたに開かれているのですよ、セシル」
お婆様は言い置くと、さっとお一人で扉を閉められ、中から馭者に向かって出立を伝えたようだった。馬車が動き出す。
セシルは、後見家庭へ追いやられなければならない自分を哀れんだ。
「ルー様とは当分お会いしたくないわ」
「おや、それは僕には衝撃的だな。協会の会合は辞退しようか、これ以上君に嫌われるとつらいよ?」
セシルと並んでいれば、せいぜいそっくりな兄妹にしか見えない年若い叔父様は、ひそかにセシルの自慢だ。この若さで、学芸院の教授で、伯爵位を持っていて。何より貴族的な美貌が際立つ人だ。
当代一流の学識と教養、真に貴族的な立ち居振舞いを装填した人だ。
だって、あの先日の講堂の熱狂を見れば、誰にだってわかるはず。
演説の内容がああもひどくなかったら、セシルの好感度だってもっと上がっているはずだ。
「いいえ、ルー様はちゃんとご自分のお仕事をなさって。大好きよ」
セシルはお婆様にしたのと同じように叔父様に抱き着いて、お別れを告げる。
「来週はまた『帰宅しない権』を行使するつもり?」
ぎゅっと抱き返してくれながら、夢見るような淡い栗色の瞳でセシルを見下ろす。
おかし気に訊ねられて、セシルはいかにもセシルらしく口先の淑女を実践した。
「ええ。その予定がございます。何しろ積み上げた自罰に押しつぶされそうなほどなのですもの」
ここは『ドゥワイト』の馬車寄せだった。
お付きのメラニー夫人はセシルの背後で早く馬車を出したそうに待っているし、叔父様の『馬なし』自動車も発車の準備は万端整っている風だ。
長話もしていられない中で、叔父様はふふっと笑う。
「ああ、そうだった。君は極めて戦略的に自罰を積み上げている最中なんだった。……君の素行不良ごと、愛しているよセシル」
「セシルもよ、ルー様」
最後にもう一度きつくぎゅっとされ、額にキスを落とされ、セシルもうんと背伸びしてルー様の両頬に自分の両頬を合わせた。
微笑みを交わして、そうして別れた。。
叔父様は幌のついた自動車に乗り込み、運転席の従僕を促す。
ぶるんぶるん、と空気を震わせるような音を響かせて、まだこの国には珍しい『馬なし』が馬車寄せを出ていくのを、フィオーラ大通りを行き交うお祭り帰りの人たちが見つめている。