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眠れない夜のための音楽  作者: 枯枝折子
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小鳥とか杜の蝶とか、いわれても 2





「――リーヴィーです、院長先生。愚かな行いを悔いて参りました」


 わずかに間があって、扉を隔てた室内からお入りなさいとの声がゆっくり届く。

 よく聞き知った、イルーフの名そのものである人が発した、凛として穏やかなそれ。

 セシルは居住まいを正して真鍮のノブに手を掛け、ドアを引いた。

「失礼します」


 部屋へ進み入って音を立てずにドアを閉め、振り返ると絨毯の上、両膝を床に着く拝跪をして両手を胸の前で組み、正面奥の執務机の昔の美女に、ふと思いついた口先だけの自己処罰を伝えた。

「――――院長先生、粗忽なわが身の更生のために、次の週末は後見家庭へ帰宅せず、教会聖堂の銀器を磨きます」

「――――リーヴィー。あなたの信仰心と奉仕の心は立派です。銀器が輝きを増せば、私たちの神々もお喜びになるでしょう」

 

 前回は縫製部で制服の補修を手伝い、その前は森林地図の最新の測量作業を手伝った。

 信仰を掲げて、帰宅を回避する良案! と思ったのに。 

「けれど……あなたに甘く、たいそう便利な《週末のお楽しみ》なのではないかしら」

 そう上手く行かないものだ。それも人の世の理。

 とは、セシルだってちゃんと知っている、のだが。


「確か聖フリーダの日を含む今週末、あなたにはご後見家庭のお約束事があったのではなくて。例年の恒例行事なのではなかったかしら」

 イルーフ校の学院長であるリヴィエラ・イルーフ女伯は美しい銀灰の髪と、今もなおかつての美貌をとどめた落ち着いた容貌の持ち主だ。

 わずかに首筋や手の甲、頬などに年齢を重ねた人特有のしわは目立つけれど、それだって美しいとセシルは思っている。

 何しろこの女傑こそがイルーフの乙女の鋳型、そのものなのだ。

 代々母系から受け継いだ伯爵位を数百年に渡って守り続ける、イルーフの名にふさわしい人。


「――間違っていないわよね? 確かあなたにはお婆様や叔父君との会食の予定があったはずだもの、聖フリーダの休日に。それを反故にはできないはずだわ」

 セシルは、先ほどの講堂での不機嫌を引きずっていた自分を自覚した。

 失敗した。銀器磨きじゃ足りなかった。馬小屋や馬車小屋の掃除も加えて提案するべきだった。戦略ミスだ。  

 次の会食は遠慮したい、と心のどこかで忌避していたはずなのに。

 ぷう、とセシルは唇を尖らせ、頬を膨らませた。

「約束事を! 後見家庭の約束事を反故にしたい事情なら、十か二十はあります、院長先生。叔父にお会いしたくないんです。私、叔父に追い詰められているのです。威圧されているのです、振りかざされる権威の脅威に、晒されているのです」

 

 セシルは、来客用ソファの肘置きに、見覚えのある黒の上着が無造作にばさりと放置されているのに気がついた。それから、掃き出し用の両開きの窓がわずかに開いてレースのカーテンが風に揺れているさまにも。

 ――――姿はない。でも気配はある。


「聞いてください、院長先生。これ以上私たちのお友達を、王立学芸院へ追いやらないでください。みんな森の中でのんびりしていたいんです。だって、ここはあまりにも穏やかな理想郷ではありませんか! みんなが連れて行かれてしまう理由のえげつなさを、院長先生はご理解なさっているはずだわ。学芸院との提携プログラムがそれほど重要でしょうか。鉱物学や薬学を、私たちが学んで将来何に生かせるとおっしゃるのですか」

 みんなやがて家庭に入る。王宮の女官や教師になるのでもない限り、女性が一人で身を立てることなど難しい世の中だ。

 

 学院での生活で得られた知識も、家庭の中に収められるほどのものでなければ、婚家で煙たがられる。

 さすがはイルーフ校出身の妻、嫁、母と褒められるばかりではないのだ。

 これ以上一般的な女性の枠を超えてより賢くなってしまったら、高度な学術知識を得ることになってしまったら、これだからイルーフの『一つ身の乙女』はいけ好かないと評価が変わってしまう。

 学風が、なんだか最近は先鋭過ぎて、時代をいく周りも先取りしすぎているのではないか。

 この学舎に学ぶセシル自身が、そう思っているのだ。

 最近のイルーフ校は、革新改革の嵐だ。

 伝統的な校風が、王立学芸院との提携によってどんどん変わってしまっているのだ。


「イルーフ女学院の、イルーフ女学院たる校風も、学芸院の侵略の脅威に晒されています!」

 それを許している学院長にも、実は多少の不信感が募っていたのだ。

 尊敬する大人の一人だが、学院長の急激な変化が、セシルには少し怖い。

 何を考えて、校風までも変えてしまうおつもりなのか、理解できないものは恐ろしくてたまらない。


「リーヴィー。あのね、あなたの懸念はよくわかるつもりです。急激な変化を好まない、特にあなたには保守的な傾向が見受けられますね。決して悪いことではないのよ。伝統的であるということは、大きな流れの中で培ってきたもの。大きな流れを大切にしたい、あなたの気持ちもよくわかります」

「でしたら――――!」

 言いかけてセシルは、左手の掃き出し窓の外から滑り込んでくるような軽快な笑い声を聞いた。

 よく知る男性の声だ。女子生徒ばかりが学ぶ学院の最深部、教諭陣はほぼ女性ばかりだし、下働きや馬屋の男性たちはこのような場所には滅多に呼ばれない。

 けれど今日は別だった。他校からの人買いの一団が、訪れていたような日は。


「……いや、失礼。相変わらず君の弁舌の声というのは美しく凛々しいと思ってね。小鳥の『リーヴィー』」

 薄いカーテンを潜り抜けてきた人は、口元にうっすらと笑いを浮かべている。

 栗色の髪、同じ色の瞳。セシルのそれともたがわぬ色だ。

「……ヘイゲン教授。あまり良いご趣味ではありませんよ」

 ご自分より、よほど年若い他校の教授の不躾を咎めて、学院長は静かな怒りをその濃い青の瞳にたたえた。

「立ち聞きも、大きな笑いもです」


「これは失礼、女伯。でも聞こえてしまったのだから仕方がありません。楽しいものを愉しいと感じて笑うのも、美しいものを美しいと感じてつい賛美してしまうのも、ごくごく人間的な感情の発露ですよ。今の態度は私が人間であるが故の過ちです」

 常時そういう、持って回った気障な話し方をする人なのだ。

 余りにも貴族的な、世慣れしているようで浮世離れした男。

 今日は説明会のために学芸院から派遣されてやってきた、ヘイゲン教授。

 王国の最高学府の、化身のような男、とセシルはいつも感じている。

 大柄な男で、ゆったりとした学院長の執務室であっても、その存在だけで急に場が狭くなってしまったような幻惑にセシルは囚われる。


「やあ、『リーヴィー』? ごきげんよう、お過ごしのようで何よりだよ」

「ごきげんようございます、『ヘイゲン教授』。今日の演説も少女たちを誑かす、大変魅惑的で感動的なものでしたわ」

「うん、君に褒められるのは悪い気がしない。で、――――決心はまだつかないのかい」

「まあ、決心! 何の決心でしょうか。たとえば今日私が心を決めたのは、週末には絶対に後見家庭には帰らないというささやかなものです。心穏やかに日々を過ごしたいという願いは、まさに人間的な感情の発露がなせる業ですわ」

 

 男の言葉の揚げ足を取るごとく、堂々と言い返したセシルに、男はまた、あはは、と声を上げて笑った。

「君を釣り上げるための準備は実に楽しいものだよ、『リーヴィー』。君のかつてのお友達、『オードラ』の話題なんてどうかな。彼女が今取り組んでいる『ドリュー教授』の法学概論、先日研究課題を拝見できたが見事な報告がされていたよ。彼女は今、そうだな君の五歩先を歩いている、と言ったら少しは飢餓感も感じてもらえるかな」

「そうですか。オードラの向学心は素晴らしいですね。機会がございましたら彼女にお伝えください。私は元気で相変わらず素行不良の問題児です、と」

「……リーヴィー。素行不良を誇るのはおよしなさいと、何度お話したらあなたは解ってくれるのかしらね」

 あきれたような学院長の口調が、論戦の間に割って入る。


「おっ……院長先生、素行不良こそリーヴィーの誇りです。どうしてご理解いただけないのですか。素行不良であることは、大変便利なのです。私はそうやって監督生の立場をこの五年に渡って回避してきたほどなのです! これは誰にでも誇れる戦略的素行不良です」

 セシルは今十年生。十四歳。五年生からは各学年八十名ほどの中から、たった一人監督生が選ばれる。


 座学や試験、体力測定の席次はずっとトップを独走していて、他の追随を許さないほどのセシルだが、問題児である、という一点の理由で監督生に選ばれたことはなかった。

 たいてい席次が二位か三位の天敵の彼女が、この数年監督生を務めている。

「戦略的素行不良……!」

 案外と笑い上戸な最高学府の化身は、首や肩や背中を揺らして大爆笑している。


「ご覧なさい学院長、この賢い悪童ぶり。これこそが新しきイルーフの『一つ身の乙女』の目指すべき姿ですよ。どうですか、この見とれるほど斬新な悪辣さ!」

「なんて無責任なことをおっしゃるのです、ヘイゲン教授。このような子でこの学び舎があふれかえったら、それこそ我がイルーフ校の崩壊です! お分かりですね、このような有様の子を、学芸院にお渡しすることは到底できません。何よりも本人がそれを望んでいないのですからね」

 これ以上の議論は終了、もうやめて、と広げた両手で場を制するしぐさで、﨟たけて美しい学院長はセシルと『ヘイゲン教授』を黙らせた。


「……仕方がない。あまり時間もありませんけれど、次回の演説にかけるとしましょうか。彼女を口説き終わるまで、僕自身がこちらへ参りますよ」

 まるで宣戦布告のようなそれ。秋学期の終わりか冬学期の初めにでも、また彼はやってくるに違いない。

 そして笛を吹いて友人たちを連れて行くのだ。

 提携プログラムの受け入れ、編入生を学芸院へ送り出すことによってイルーフ校は、いくらかの助成金を教育省から受け取っている。

 だからセシルは彼らを人買いの一団、などと口汚く罵っているわけだが。


「ではそろそろお暇いたしましょうか。聖フリーダの休日を楽しみにしながらね。『リーヴィー』、さっき君は心穏やかでありたいために週末後見家庭に戻らないことを決心したなどと胸を張っていたが、どうやら叶えられない願いの様だ。学院長先生もそうお思いでしょうしね?」

「ええ、もちろんです」

「なっ……ひどいです、院長先生! 銀器磨きの他に、馬小屋のお掃除もいたします!」

「――リーヴィー。罰は来週のうちに解消なさい。銀器磨きと、馬小屋のお掃除ね。今週末は帰宅すること、寮監先生にも連絡しておきましょう。このお話はこれで終わりです。いいですね」

「そんな……!」

 

 セシルは愕然とした。これではまるで、学院長の思いのまま。

 ダメ押しで提案した馬小屋の掃除だったのに、寮を追い出されるのが確定ではセシルだけが大損だ。

 あははは、と大笑いしている男と、すでに別の仕事へ視線を移してしまっている学院長を見て、セシルは呆然とした。……大人には、子供は適わない。駄々も真摯な訴えも通じないのであれば。

 がっくりとセシルはうなだれたまま、学院長の執務室を後にする。軽やかな笑い声が、いつまでも頭に響いて悔しさを助長させる。

 

 悔しい。悔しい。自分の思い通りに事が進まないのは。

 肝が焼けるような思いはセシルの幼さゆえに他ならない。

 なによ、なによ、なによ!

 少しくらい、わがまま聞いてくれたっていいじゃない。

 いつもはそう、もっと物事は杜の中では大抵セシルの思い通りになるのに。

 どうして今日はこんな目に合うのよ!

 セシルはばたんと大きな音を立てて学院長室の扉を閉じた。なによ!

 そして幼さの暴れるまま、がつがつと足を床に打ち付けるように歩き出す。

 よく履きこんだ革靴はそれでも頑丈で、硬い石の廊下と足裏がぶつかる衝撃の緩衝にはなってくれたけれど、それにしたって苛立ちは治まらない。



「ひどいわ……おうちに帰らなくちゃならないなんて……拷問みたいだわ」

 セシルは絶賛、反抗期のただなかにある。



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