教育省の者ですとか、いわれても 3
セシルは、ごめんなさいと左わきに抱えていたコットンの大袋をジルに差し出した。
「教育省の特別表彰なんて、今まで聞いたことがなかったの。だから、あなたが来たんだってすぐわかったわ。ごめんなさいって、早く言いたかったの……」
セシルが教育省主催の季節の詩・百選の表彰者常連であることは、符牒にと教えた『リーヴィー』の名を少し調べれば簡単に分かったのだろう。正味五日で、彼はやってきた。
来週杜に用事があると言ったのも、セシルにコートを……手紙を預けるうえでの方便。
だから、それらしい理由を作り、教育省の者ですと森にやってきた。
ジル・トラヴィスとはこういう手段を用いることができる人物なのだ。だとしたら、どういった身分の人かは限定されて行く。
「家に着いたとき、あなたのコートは少し汚れていて、家人にお洗濯を頼んだの。キャンディやハンカチには先に気がついて……ハンカチも一緒に洗ってもらったのだけど……」
ジルの反応を注意深く覗いながら、セシルは言葉を紡ぐ。
「中に巾着が入っているでしょう、あなたのポケットの中にあったものは全部その中に入っているわ」
セシルの言葉に不穏なものを感じてか、ジルは多少乱暴な仕草で、大袋の中の巾着を取り出した。袋を開いて、そして彼は言葉を失った。
「――――っ」
「――――ごめんなさい、……お手紙が入っていたのね。気づいた者が火熨しを当ててみたようなのだけど……修復が難しかったみたいなの。本当にごめんなさい」
そのとき彼は、手紙と、それにかけた時間を喪った。
「大切なお手紙だった? 火熨しを当てて水気を切ったときに、印章も不鮮明になってしまっているでしょう? これがあなたの持っていたお手紙よと証明することもできないのだけど……本当にごめんなさい」
「――――いや、いや。これは……あなたのせいじゃない……悪いのは僕だ」
彼は、後悔や絶望を必死に隠そうとしながら、失敗していた。
悲しみに沈んだ瞳が、何もかもを物語るのだ。
セシルの胸もまた、兆した痛みに震えた。
これが乙女の復讐。……なんと心に響く痛みを伴うものなのだろう。
そして、何とも言えない薄暗い愉悦がある。
セシルは彼から、同じだけの時間を奪うことに成功した。セシルはあの夜の屈辱や痛みを忘れてしまっているわけじゃない。
たくらみは成功し、ジルはセシルをたやすく利用したせいで手紙にかけた時間を喪った。
セシルには、そして一つだけわかったことがある。
彼は『皇帝陛下へ』手紙を届けようとしていた側の人物であること。
ニーベルジュールに仇なす可能性のあったヘイスロワ皇帝への手紙を、あちらから奪った者で彼があるなら、もっと別の反応を示すはずとセシルには思えた。
となれば、彼があちらの国側の密使だった可能性がある。
この国の王都内か、少なくとも近郊に拠点を持つ、隣国の密使?
『R』か『P』の人物が書いた密書を、隣国へ届けるための使命を負っていた?
ニーベルジュールと敵対するかもしれない、国益に反するかもしれない彼。やすやすと、セシルを騙しおおせたはずの彼。
……そんな彼の絶望が、セシルの胸にも突き刺さる。
深い悔恨を、抱いているのは彼だけじゃない、ということ。
本当は、セシルの傷なんてとうに癒えていたのかもしれなかった。
あの、偽装の手紙が完成した時の、できた、やり遂げた、という満足感。あれだけで満足して、今日こんな意地悪を、復讐を、彼に返すことをやめられなかったのだろうか。
それが淑女のやり方だから、イルーフの乙女は泣き寝入りなんてしないから、と言って。
「ジル、本当にごめんなさい……」
心の底から絞り出したような声だった。
「リーヴィー。貴女のせいじゃない。……そんなに物寂しく、謝らないでください。実は……今日、杜に仕事が、と言ったのは、そうだな、ある女学生の調査のためです。探している人がいる……協力していただけるというなら、それで、なかったことにしませんか、この手紙への、慚愧の念というのは、お互い」
うん?
セシルは悲しみのあまり伏せていたまつげを上げた。
お互いが慚愧の念を捨て去るというのに、私だけが一方的に協力させられるの?
また、うまく利用されようとしている? 踏み台にされようとしている?
セシルは、誰にも知られない心の内で、ひそかに警戒した。
「それで、赦していただけるの……、私があなたに協力をしたら……」
「だって、この手紙は破損してしまっていて誰にももう読めないものになってしまった。もう、過去のものです。でも、僕がこれから行う調査というのは、輝かしい未来に向かう将来性のあるものです」
ううん?
セシルは二度、まつげをぱちぱちと瞬かせた。
この言い方、しゃべり方。誰かに似ている。というか、知っている。
……ルー様が、乙女たちを扇動するときのあの調子に、よく似ている。
彼が、それほどまでしてセシルを利用しつくすかのようにして行いたい、調査とやらに興味が湧いた。
「こんな名前の、女生徒を探しています。イルーフの森で。エリザベス、マデリーン……」
「……イングリッド?」
「まいったな、話が早くて助かります」
「だって、この国が興って、過去に三人いた女王陛下のお名前だわ……」
ニーベルジュールでは過去に三度、女王が立って王朝が変遷した。
「今も、女の子が生まれての名づけには人気の名前ですものね」
「そう、そういう名前の女生徒がイルーフの森にいませんか、多分髪や瞳は茶か、栗色。ちょうどあなたの瞳のような」
瞳の色、と強く言われて、セシルははっとなった。
栗色の髪と瞳を持つイングリッド、それはセシル自身のことでもある。
セシル・リヴィエラ・イドラ・イングリッド。
セシルは今頭衣をしていた。完全に髪は隠されていて、彼にセシルの髪色はわからないのだ。
「……ジル、残念ですけれど、協力は難しいわ」
「それは、なぜ?」
彼はイルーフの森の中の決まり事には詳しくないのだなとセシルは考える。
調査の足掛かりにとまたも利用されかけたようだけど、セシルには何もできない。
「髪や、瞳が茶色や栗色、という生徒は全体の四分の一ほど、褐色も含めると三分の一ほどになると思うわ」
協力的であるように装って、セシルは言葉をつづけた。
「その中で、例えば、リズやリサやべス、マディや、インジーやリディと呼ばれる子が何人いると思って?」
「え……?」
「ご存知なくていらっしゃったのね。森の中ではみな、愛称で呼び合う習わしです。今日、教育省の方から来られたなら、例えば詩の百選について私の名前を調べたりしたんでしょう、ここへ入り込む口実のために。政庁舎の方から来ましたといって、『今月の刺繍』の特別表彰のためと理由づけてもよかったかもしれない。受賞者の名前は、『イルーフの杜のリーヴィー』だったはずよ」
『イルーフの杜のリーヴィー』は、その界隈の有名人だ。
「あまり、親しく話したことはないのだけど、私の後輩に、リーヴィー・マディとリーヴィー・リディがいるわ。つまり、そういうことよ。みんな愛称で呼び合うの。本名は知らない。教え合ってはいけない、詮索してもいけない、そういう決まりなの。それに、髪の色や瞳の色も、杜の中では区別してはいけない決まりなのよ。そういう場所なの。お姉様たちがオールドガールでいらっしゃるなら……聞いたことはなかった? 杜では、外の世界の世俗的な個を区別することはしないの。ここは人間としての本質のみで、友情を築く場所だから」
セシルの言葉で、ジルは呆然としている。
「私のお友達にも、リサ・マタルやリズ・インジーがいるけれど、言ってしまえば彼女たちは褐色や茶色の髪よ。瞳もそう」
セシルはもう学芸院へ編入してしまったリサ・マタルの名前もあえて出した。近しい子だ、彼女もまた。
「先生たちも、私たちがどこの誰なのか、知らないはずよ。入学の前に当然事前の面接や審査があって、学院長先生はご存知だと思うけれど。秘匿事項だもの、院長先生を協力者にしない限り、接することのできない機密よね。ちなみに、私は杜ではリーヴィーと呼ばれているけれど、後見家庭では誰もそう呼ばないわ」
セシルのママ、シシーだってエリザベスだし、お婆様だってセシルだってイングリッドだ。
セシルは『後見家庭』においてはセシル以外の何者でもない。
まるでダメ押しのように『リーヴィー』すら本来の自分の『個』でないと否定すれば、ジルはよほどの打撃を味わったようだった。
また自分の『罪悪感』に付け込まれて利用される寸前だったセシルは、それを胸のすくような爽快感とともに見つめる。
これで彼について分かったのは、ヘイスロワ側の諜報員か何からしく、イルーフの杜にいるエリザベスかマデリーンかイングリッドを探しているらしいということ。でも、ニーベルジュール側の情報を利用して森に潜入することができた。役人のふりをして、ロッドウェル先生を懐柔してしまった、最低二人組の組織……? わけがわからない。
……この国の過去の三人の女王様の名前を持つ子を、森の中で探そうとしていた。……何の目的のために?
そしてその子は、茶系の髪や瞳。……セシルもその該当者の一人だ、というのは、セシルだけが知っている。
「そうでしたか……それは、どうも困難な仕事らしいと理解できただけでも……よかった」
ジルは明らかに、目に見えて落胆し、セシルの内心を喜ばせた。
「そうね。生徒同士、素性の詮索をし合うことはタブーです。私が協力できないのは、放校処分になれば他に行くところがないからよ」
「そうか、放校……とんでもない大事を、あなたにお願いするところだったわけだ。……申し訳ない」
「いいえ。ご存知なかったのなら、致し方ないことだわ。お気になさらないで。どうして女王様の名前を持つ子を、あなたが探しているのか、興味は尽きないけれどね」
「……残念ながら、それは。極秘なんです」
高い鷲鼻が、がくりと下を向き、鼻の下に濃い陰影を作るのをセシルは眺めた。
そして、ジルは、ぽつりと漏らす。
「――――百一夜……」
は、っ⁉
その言葉だけで、セシルの動悸は止まらない。呼吸もできなくなりそうだ。
何の脈絡もなく吐き出された、『百一夜』。
「『百一夜』、夏の気配のする話題ね」
努めて冷静に、セシルは淑女の仮面を上手に被る。
「今年の夏の音楽祭でも、演目の中の一つに、『百一夜』のオペラがあるそうね」
私はバレエの方が好きだわ。
セシルは注意深く言葉を選び、ジルの様子を観察しながら、のどがカラカラな自分を自覚した。
ここにはお客様用のお茶しか用意されていない。
「『百一夜』、貴女もご覧になったことがある?」
ジルはじっとセシルの目を見つめながら問いかける。
「もちろん、何度もあるわ。有名なお話だもの」
……というか、百一夜のなれの果ての私だもの。
「オペラなら私はジェラルドのお母様の嘆きの歌が好き。『大切な人の忘れ形見を』、よ」
アルトの独唱だ。つまり、イルーフのお婆様による、嘆き節。シシーにジェラルドのお嫁さんなんて無理! ……二人が突き抜けてしまったからこそ、セシルが今ここにいる、というのはわかっている。
「あとは、ジェラルドと親友のバラッドね。『鈴の音色の声持つ人に』」
そこまで言い終えて、少し饒舌すぎたか、とセシルは後悔した。
パパがママに恋したことを、友人の将校に打ち明けるシーン。これでもか、これでもか、とジェラルドはシシーを褒めたたえる。だから自分が恋に落ちたのは必然だと開き直る。ロマンティックではあるけれど、娘のセシルにとっては、憤死してしまいそうな恥ずかしさだ。
……でも、このくらいなら。とも思う。『百一夜』は女の子たちが大好きな恋の逸話だ。
「ごめんなさい。夏が近づくと、『百一夜』のお話で杜は盛り上がるの。話題の少ない場所でしょう、ついついおしゃべりしたくなっちゃうのよ。私ばかり、お話しているわね」
「いや、『百一夜』の恋物語は、あなたのような少女ならみんなお好きでしょう」
王都中の少女たちが聖フリーダの話題で半年は、と言ったのと同じ口調でジルはそう笑った。
これもまた、彼に侮蔑されるたぐいの話?
「バレエなら、やっぱり結婚のシーンかしら。フィナーレの華やかさに憧れてしまうわ」
これは虚言もいいところだ。あんな大団円、信じられない。どうして街のみんなに祝福されて終わるのか、セシルにはわけがわからない。
でも。どうも、ジルには素直に、蔑視に値する愚かなバカ娘と思われた方がいいような気がする。情報の少ない森の中で育った、無知な娘と、思われていた方がいいような気がする。
「貴女も、恋物語がお好きか。……では、これにも喜んでいただけるかな」
これにも、と言ってジルはソファの横に立てかけられていた大きな白い箱を、応接テーブルの上に乗せた。
「特別表彰の、ご褒美ですか?」
「……そんな気の利いた物じゃありません。貴女の無くした物の替わりです。それから気前よく、馬を貸し与えて下さった、そのお礼、かな」
そう言って差し出された白い箱には、赤いリボンがかけられている。
「開けてみても?」
そう促されているのだろうなと察して、セシルは尋ねた。
「ええ、どうぞ、リーヴィー」
セシルは赤いリボンを解いて、箱を開けた。
「まあ!」
白地に赤い刺繍や装飾の施された、帽子とミュールが収まっていた。
「コルネリウスのお靴とお帽子……! ルックブックで見たわ! この夏の新作だわ!」
杜の中のリーヴィーは、質素な白い制服を着て、聖堂で黒衣の聖衣を羽織ればそれで満足できる。
でも、世俗のセシルにはそれなりの物欲だってあり、素敵な靴や帽子にはどうしても心惹かれてしまう。
レダ・コルネリウスは年若い少女たちに人気のファッション小物のブランドであり、どれも職人の手作りで一つ一つを長く大切に使うタイプの品だ。
セシルがあの夜風に飛ばしてしまったミュールや帽子もレダ・コルネリウスの物だった。
普段はセシルは季節の始まる前に自分の足の木型に合わせた靴や、頭のサイズを何箇所も測って自分専用にあつらえられた品をオーダーする。
時間をおいて季節の初めにそれが納められるのだけれど、平均的な木型やサイズで作られた既製の物もそれなりのお値段がする。
「女性の、それも貴女ぐらいの年頃の方の好む帽子や靴なんて、本当はよくわからないんです。でも、貴女のあの夜無くした帽子や靴は、このコルネリウスの物だった。わかりやすくて助かりました」
帽子と靴がお揃いで対になっていて、それをドレスと合わせるように選ばれるんでしょう、と彼は微笑んで、セシルが目を輝かせるのを見ていた。
「姉たちもそうだったので、年代は違うけれど、まあなんとなくなら」
ジルにはもうお嫁に行った三人のお姉様がいるとのことだった。杜のオールドガール。
「素敵ね。素敵だわ……」
うっとりと魅入られて、セシルは頬ずりせんばかりに喜んだ。
この繊細な刺繍や、花飾りや、リボン、模造宝石の装飾がいいのだ。
「気に入って、使っていただけると嬉しいんですが」
「本当に、ナディアをお貸ししただけで、私、お靴やお帽子を頂いてしまってもいいの?」
確かに思い返せば、うまうまと利用され、また少女探しに協力させられようとしていた。
セシルの懐柔には、これは持って来いの品だった。
「馬は本当に、助かったので。手紙の件は忘れましょう。それに、危うくあなたにとんでもない無理を強いるところだったのも、重ねてお詫びします」
「いいえ、お手紙をひどい状態にしてしまったのは、私側の明らかな過失だわ」
セシルは慌てて言い募った。
その手紙だって本当は無事だ。寮の机の中で、ちゃんと出番を待っている。
ジルが隣国の皇帝陛下にあれを届けたかったなら、彼の願いはやがて叶う。
それが、どれだけニーベルジュールに不利な瑕疵であっても、セシルは手紙は必ず『皇帝陛下へ』届けられるべきだと考えていた。
これで、お互い、貸し借りなしの状態になるなら、この靴や帽子はありがたく頂戴しよう。
セシルの精神状態の安定のためにも、必要な措置だと自分に都合よくセシルは思った。
だって、靴や帽子に罪はなく、本当に素敵な仕上がりだったのだ。
セシルが拒否したら、この靴や帽子は行き場を失ってしまう。行き場所を失ってしまった挙句、他の誰かの手に渡ったり、たやすく捨てられてしまったりするのだ。
「これ……お靴とお帽子、私頂くわ。詩作の特別表彰のご褒美にね。だって、あなたは教育省の方から来た人だもの」
「そうだった。僕は今日、教育省の方から来たんだった」
ふふ、と笑みを漏らして、ジルは不可解に口元や眉根を歪める。
所属の詐称を、当然と思っているわけではないのだろう。やむにやまれずそうするしかなかったのかもしれない。
……けれどそれがすべからく、誰かを騙したり利用したりして成されるのは大問題だ。
彼には聖フリーダのように自分のついた嘘を大いに反省してもらわないと。
セシルが彼に翻弄された時間がすべて無駄になってしまう。
――――だから、自分が復讐を遂げるべきなのだと、セシルは自分がこれからしようとすることを強く肯定した。
とても合理的で実利的で、しかも倫理的、道義的な意義のあることだ。
セシルは自嘲的な彼に、盛大な笑顔を見せて微笑んだ。最大限、邪気なく見えるように努力した。まるで森の中の脳天気な娘のように。
「嬉しいわ。詩作の賞でコルネリウスのお帽子とお靴をもらえるなんて! これからももっと頑張ろう、って気分になるもの!」
いつもは表彰状と名誉だけなのだ。副賞でたまにこんな楽しい気分を味わったとしても、何の問題もないはずだ。なにしろ、教育省の方から来た人から頂いたんだもの。
「お手紙は本当に残念だったわ。私も、もっと注意深くポケットの中身を改めてからお洗濯に出そうって、強く思ったわ」
ダメ押しのようにセシルは彼の傷をえぐる。痛みを感じさせておいてから、さらに続けた。
「善い行いには善い行いが、悪い行いには悪い行いが巡ってくるというものね。私、今まで詩作の授業を頑張ってきたから、今日、こんなにいいことが起こったんだわ。さっきも一生懸命奉仕に励んでいたおかげかもしれないわよね」
自己処罰を、そんな風に奉仕と言い置いてセシルは告げる。
「何をなさっていたんですか。聖堂で?」
「スプーン磨きよ。まだ半分ほど残してきたの」
「そうですか。神々に祈ってあの手紙が返ってくるなら、……何だってしてみようという気にはなるかな」
「大事なお手紙だったのね」
「――――ええ。致し方ないことです。もう、過去には戻れない」
もし過去に戻れたなら、彼はセシルにコートを預ける彼を殴ってでも止めに行くんだろう。……本当に残念でした。……でもお手紙はちゃんと皇帝陛下に届くわ。
安心して、と心の中でセシルは呟く。内心の呟きだから、彼には聞こえたはずもない。
「女王様のお名前の子探しにはご協力できなくてごめんなさい。用がこれだけなら、名残惜しいですけれど私、聖堂に戻るわ、ジル。まだ何千本も、磨くスプーンが残っているから。きっと今日だけじゃ終わらない量なの」
これで、永遠にさようならだ。
最後に、とセシルは美しい緑の瞳を見つめた。息が止まりそうな新緑の色。あれが自分のの物だったらいいのに、とふと思う。あんな瞳に、ずっと憧れていた。
「詩作の先生が戻られたら、表彰を終えて帰らせましたと伝えればいいと思うわ」
「ええ。そうさせていただきます、リーヴィー。ごきげんよう」
「ごきげんよう、ジル。素敵なお帽子とお靴を、どうもありがとう」
「あなたもね。コートをわざわざきれいに仕上げて下さって。……まさかキャンディの殻まで取って置いてくれたとは」
ちくり、とセシルを刺す棘のような言い方にカチンときて、それでもセシルはのんきな娘の仮面を上手に被ったまま、ジルに別れを告げた。
「ええ。我が家のメイドさんはお仕事上手なのよ。……それじゃあね、ジル。さようなら!」
そのあとは、彼には何も言わせず、セシルは脱兎のごとく応接室を辞した。
コットンの大袋から、白いギフト用の箱に持ち替えて、聖堂への道を戻る。
……やった。
……やったわ。ジルを乗り切った。
彼から同等の時間を奪った。彼の後悔を得た。
ナディアの対価にあの夜失ったレダ・コルネリウスの靴と帽子を取り返した。コートも返した。ハンカチも糸巻きもキャンディの包みも返した。
あと、セシルに残されたのはたった一つだけ。
自罰の銀器磨きなんて慣れている。物の数にも入らない、ただ面倒だというだけ。
これからセシルがするのはたった一つの善行だ。これで、ジルと関わって喪ったり得たりしたものの差し引きがすべてゼロになる。
大箱を小脇に抱えて、機嫌よくセシルは駆けた。
途中、嬉しさが勝って何度か飛び跳ねたかもしれない。
残されたのは一つだけ。誰にも誇れる、善行を成すこと。
「やった!」
やがて胸に抱きしめるように持った白い箱に頬を寄せて、セシルはスキップもした。
セシルの手元には、新しい靴と帽子が残った。赤いリボンや刺繍の、とてもかわいいそれ。
復讐という言葉に感じた後ろ暗さや、罪悪感も、もうすでにきれいに消し飛んで、憂いなど何もない。あとは、自分のすべきことをするだけ!
セシルは聖堂に戻ると、スプーン磨きの続きに没頭しながら、読む人すべての心を打つ手紙の文面を考えた。
偽装の手紙を書いたときのように、適当な恨み言を綴った適当なものではいけない。
読む人の胸を打つ、感動的なものでなければいけない。修辞や恩着せがましさを多用した、親切なものでなければいけない。
もしかしたらの国の瑕疵に、勝るようなものでなければいけない。
ひょっとしたらの開戦の理由に、打ち勝つようなものでなくてはいけない。
こちらの情報は最大限に明かさず、秘匿し、簡素なものであってもいい。
『前略、同封のお手紙を拾いました』、で始まる、全てを兼ね備えた完璧な手紙。封蝋はせず、糊付けした封筒を匿名で送るのだ。
文章を頭の中で組み立てながら、セシルはスプーンを磨き続ける。
未達の木箱がなくなるころには、手紙の文面もすっきりと整って、紙に書かれるための準備ができていた。
あとは丁寧に、紙に書き写すだけ――――。
「私って、実は結構できる女の子なのかも」
自画自賛しながら、セシルは今日の分の作業が完了したスプーンの木箱をすべて、所定の場所に収め終えた。
寮の部屋には、家から持参した紙や封筒が、自分の出番を待っている。




