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眠れない夜のための音楽  作者: 枯枝折子
18/28

『皇帝陛下へ』とか、いわれても 4





「ねえ、フェンネルさんにも、グスタフさんにも、ある? いけないとわかっていても、やめられないこと」

「もちろんございますよ、ねえ、グスタフさん」

 フェンネルさんはいたずらめいた瞳でグスタフさんを覗き込んだ。

「……ええ、ございます。妻や子供たちににおいがひどいと言われても、嗜む程度ですが葉巻はやめられません」

 グスタフさんは、敷地内の使用人たちが住む住宅棟に夫人と三人の子と暮らしている。

 フェンネル家は同様に敷地内に家屋が建っている。

「葉巻はやめられないほどおいしいものなの? 煙を吸うのが好きな男の人って、実はちょっとわからないわ。パパもそうだけど。お祖父様もよ。グスタフさんもなのね」

「お嬢様にはお分かりいただけないかもしれませんね。妻に言わせるとなぜそんなにうまいうまいと煙を好むのかわからないと。恐れ多くもお嬢様と同じです」

「そうよねえ。グスタフさんのおなかの中が燻製みたいになっちゃうんじゃないかって、今とっても心配になったわ。奥様もきっとそうよ。でも、嗜む程度だから、と言ってグスタフさんはやめられないのね」

 不思議ね、とセシルはグスタフさんを見て微笑む。


「フェンネルさんは?」

「お姫様もご存知でいらっしゃるではありませんか、わたくしの悪癖は」

 恥じ入るようにしながら目を細めたフェンネルさんの悪癖と言えば、一点しかない。

「あー、悪癖。あなたはそう思っているのね。私は、あれは特に悪いことじゃないと思っているのよ。大丈夫よ、フェンネルさんはもっと自分を大切にするべきだとは思うけど。だって、あなたは私にも我が家にも欠かせない人なんだもの」

 彼の異名は『眠らずのセドリック』。どんな仕事も丁寧に引き受けては翌日翌々日の分にまで手を出し、その結果として、二、三日は平気で眠らずに仕事をこなし続けるという超人的な体を持つようになってしまった、のだという。

 三日目に仮眠をとって、また平気で仕事に励むというちょっとお役目が大事過ぎる人なのだ。

 悪癖とフェンネルさんは言ったけれど、体をいたわって休んだりは人間の生活に必要な時間だと思っている。

 それがたまにでも訪れるのは、体がそれを欲した証拠だろう。

「お姫様……」

「あなたの身体が眠りたい、と強く思った時にこそ休んだ方がいいっていう印なのかもね。だから、眠くなったら存分に休んでほしいし、眠らない分お食事は人の倍も食べていいと思うわ」

「お姫様……!」

 セシルは安堵して微笑んだけれど、フェンネルさんはセシルの肯定に悪を取り払った単なる癖であると自己認識ができたためか、嬉しそうにしている。

 誰にだって、いけないと思ってもやめられないことがある。

 いけないと思っていてもやり遂げなければならないことだって、同様にある。


 ただ、あのお手紙は何とかしなければ。手紙なのだもの、宛先の、届けられるべき人に届けられるべきだ。

 けれど、ジルが隣国に敵対する悪党か、この国のいるかはわからない諜報員かも、と仮定して。

 皇帝陛下、に宛てられた手紙を、何らかの理由、たとえばニーベルジュールの不利益を防ぐために別の誰かから、正規の密使からあれを奪っていたのだとしたら?

 セシルが何らかの方法で正しい宛先にそれを届けた場合、国に不利益が生じてしまう?


 隣国、千年帝国、ヘイスロワ帝国とは過去に何度も戦役があった。国境を接しているので、陸戦も海戦もあった。

 近くは、十七年ほど前、シシーとジェラルドの別離の海戦が対ヘイスロワ戦役だった。その二十年前にも、大きな戦役があったはず。

 イルーフのお婆様の旦那様、パパのパパ、当時のドリュー侯爵が戦死した戦争だ。

 それも、対ヘイスロワ戦線が海にも陸にもあった大戦だった、と本で読んだことがある。

 戦争のたびに停戦され、休戦協定が結ばれ、一応は和平が成って国境線が移動したり、あるいは貿易の協定が見直されたりして何とか均衡を保ちながら、この十数年は名目上平和な両国関係が続いている。


 それを危うくするような、危険なものだったらどうしよう。

 ニーベルジュールに一方的な瑕疵があったりして、それを皇帝陛下へ奏上するようものだったら。

 あちらからの宣戦布告の条件になるようなものだったら……?

 でも誰かが何かを伝えるために、必死な思いで書き綴ったものだったとしたら……?



 セシルは誰のために、何のために動けばいいのだろう。

 どういう選択肢を選べばいいのだろう。

 あれを、どう扱うのが正解なのだろう。

 自分の自尊心を守るためだけに、ジルから手紙を取り上げて、意地悪を返して、彼から手紙を喪わせて。 自分がされたように、彼が手紙に掛けた時間を、奪って。

 すっきりした後で、平然と本物をジルに返す?

 彼は、宛先の皇帝陛下に、手紙を届けない役目を負った人なのかもしれないのに。


 だいたいなぜ、セシルがこんな複雑な物思いを味わわなければならないんだろう。

 それに、自分の都合でセシルを利用し、勝手に巻き込んだのはジルのしたことだ。

 善人か悪人かなんて関係ない。セシルを騙した時点で、彼はセシルにとって大悪党だ。

 悪人が裁きを受けるのは、世の習いだ。

 ……やはり彼には、手紙を本当に喪ってもらおう。

 そして、頂いたものをお返しした後には、セシルは……。


 正しいことをしようと思った。

 郵便とは、手紙とは、宛先通りの場所に届けられる決まりだもの。

 それが守られないのでは、社会構造の根幹がくつがえる。

 国の郵政事業とは、信用で成り立っている。手紙を出す側が、郵政府を信用して手紙を出し、相手方に届けてもらう。切手という手数料を払って、届ける作業を委託するのだ。

 あの手紙には切手は貼られていなかったけれど。

 セシルは決めた。お手紙は『皇帝陛下へ』ちゃんと届くように、手配するのだ。

 もちろんセシルには、隣国の皇帝へ通じる人脈なんて持っていない。

 けれど、たった一つだけ、方法がある。

 それはセシル一人の手で簡単に行えてしまう、とても合理的な手段で、セシルにはいつでも実行可能だ。

 それは、森へやってきたジルの反応をうかがってからと思った。

 手紙を喪ってしまったとわかった時点でのジルの反応を見て、それから対応しよう。


 自分の考えが、あまりにも健全で常識的であることに、セシルは満足した。

「ね、フェンネルさん。少し大きめの封筒が欲しいわ。紙もね。家紋の入っていないものよ」

「お姫様、昨夜カンディにも同じようなことを申し付けたと聞きましたよ。お転婆はほどほどになさいませ」

「お転婆じゃないわ。とっても事務的で、もっというなら実利的なことに使うつもりよ。あと、郵便切手も欲しいの。王都内の料金よ」

「紙の重さはどれほどになりますか」

 セシルは少し考えて笑った。

「そうね、封筒三つ分くらい」

 郵便料金は距離と重さで決まるのだ。王都内は一律の料金。イルーフの森の門の外にも郵便ポストがあって、そこはぎりぎり王都市街なのだ。森の敷地は王都郊外の扱いになる。

「では、後程カンディにでも預けることにいたしましょう。お姫様、くれぐれもお転婆だけは……」

「しないわよ、もう。フェンネルさんが、セシルをいつまでも子供だと思ってるってことはわかったわ」

 セシルの復讐は淑女のそれだ。それも至って健全で常識的な。お転婆だなんて失礼しちゃう。

 セシルはぷりぷりと怒ったふりをしてつんと鼻先を反らし、わたわたと慌てるフェンネルさんとそれを見て笑いこけるグスタフさんを楽しんだ。


 ともあれ、ナディアは無事に戻ってきた。相手方の使いが誰だったかなんて、気にしても詮方ないことは、考えるのをやめよう。

 大切なのは、これからの相手の動きを注視すること。そして、そのための備え。

 夕食の最中など、ローガンはやっぱりセシルに何かお説教したげにしていたけれど、学者先生が、

「馬車は完璧に直りましたよ」

 などと、話を振ってくれたおかげで何の追及もされずに済んだ。

 そしてまた夜が明け、新しい週が始まる。

 セシルは火熨しが当てられて新品みたいにきれいになったジルのコートをコットンの大袋に、彼のポケットから見つけたハンカチやキャンディやその包み紙、歯磨き用の糸巻きと偽装のために用意した手紙を小さな巾着袋に入れて森へ戻った。

 週末の宿題用に杜から持ち出していたファイルホルダの中に、本物の手紙やフェンネルさんからもらった切手が貼付済みの封筒などは隠した。

 トランクはいつも以上にぱんぱんだったけれど、仕方がない。

 メラニー夫人は自宅静養中で、森の前まではカンディさんが見送ってくれた。


 カンディさんはメラニー夫人と違って、セシルに振舞いが、嗜みが、とイルーフの教えとは少し違うそれを押し付けるようなことはしない。

 だからセシルも彼女に対しては至って素直に対峙できるのだ。それに、フェンネル家の人たちは、みんなセシルに優しい。信頼している。

「お嬢様、次のお帰りを楽しみにお待ちしておりますね。杜がお好きなのはよくよく存じておりますけど、わたくしたちだって、お嬢様のお世話をしたいんです。そのためにご当家にお仕えいたしておりますのに」

 少しは仕事をさせて下さい、と年上のお姉さんなのにかわいいことを言って、彼女はセシルに罪悪感を覚えさせた。

「……だって、パパやママやローガンに、会いたくないんだもの。会うとひどいこと言っちゃいそうなのがわかるから、避けているのよ」

 ごめんなさい。

「そんな……旦那様も、奥様も、何かありますとセシルお嬢様は今頃……とお話されてばかりですのよ」

「嘘よ。シシーとジェラルドなのよ?」

 自分たちがよければ世界はそれで回っていて幸せ、とか思っているに決まっている。


「そういえば、セドリックも申しておりました。お嬢様は今成長期でいらっしゃって、それは時に周囲の方々への反抗期も付き物であるのだ、と。……わかりましたわ、今はカンディも我慢して見守らせていただきます」

「ありがとう、カンディさんたちのことは大好きよ。みんなにもよろしく伝えてね」

 言いながらセシルは完治したばかりの馬車から降り、その扉の継ぎ目をしげしげと眺めてみた。

 その様子を、馭者台から身を乗り出したグスタフさんが見つめている。

「どうでしょうお嬢様、あの学者先生のおっしゃった通り、破損していたのが嘘みたいな出来でございますでしょう」

「全くそうね。ガラスも取り換えられて、なんだか以前より素敵になった気がするわ」

 至って外側は、ごく典型的な箱型の馬車だ。

 でも、何か別の改良が加えられている気がする。気がするだけで、セシルの目には判別もつかない。

「では、我々は戻りますよ、お嬢様。セドリックさんからくれぐれもお転婆はおやめくださいませと念押しを申し付かっておりました」

「じゃあ、そんなことしないわよ! って伝えてね。フェンネルさんには『リーヴィー』は怒ってましたと強く言ってね」

 あははは、とおおらかな笑い声が響いて、カンディさんを乗せたグスタフさんの馬車は森の正門から離れていく。

 今日この日は後見家庭から戻ってくる少女たちのために、森の正門は随時開け放たれ、門番や守衛さんたちが詰所から門を守っている。

 門と、森に戻ってきた少女たちを。


「ただいま戻りました」

「これはこれは、リーヴィーちゃん、お戻りなさい」

 セシルは詰所の守衛さんたちに元気よく声をかけ、銛のような高い尖塔を持つ鉄製の門扉を潜りぬけた。

 一歩杜に足を踏み入れれば、セシルはただのリーヴィーになり、そこにはミスキナ女伯やマスキエフ女子爵の後継者、といった現実世界での現実は付き纏わない。

 杜にあれば、こんなに自然にただのリーヴィーとしてセシルは守られている。

 ただ、今、実は彼らに注意してほしいのは、セシルが爆発物みたいな手紙を所持している女学生だということ。

 あれを目当てに、ジル(仮)の私兵なんかが森を取り囲んで攻め入ってくることはないにしてもだ。何があるかわからない。

 杜と現実世界の境界は誰の目にも見えるけれど、それは地続きで、踏み越えてこようと試みれば簡単に破られる。


 でも彼は、もっとスマートなやり口で杜へやってくるだろう。森へ侵入してみせるだろうと、セシルは思った。

 セシルを見事に騙しおおせた、あの技術で。

 見事に陸軍府の人間のように振舞ってみせた、あの胆力で。

 セシルは今朝、出がけに新聞の社会面を読んでいた。

 小さな囲み記事が出ていた。


 聖フリーダの休日の夜に、フィオーラ通りと環状三号の近くで、黒馬が一頭保護され、家畜局が預かっているというものだった。心当たりのある持ち主は、家畜局へ馬の登録証か出生証明書、血統書を持って問い合わせを、と書かれてあった。

 やはりあの夜、一頭の馬があの付近で迷子になっていたのだ。

 家財である馬が、乗り捨てられていた、保護されていたなんて非常事態もいいところだ。

 その事実も、セシルの心証を裏付け、ますます心を重くさせていた。 



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