『皇帝陛下へ』とか、いわれても 3
その夜、セシルは一通の手紙を書いた。
ジル(仮)への恨み言ばかりを書き連ねた、ふざけないで、で始まる手紙だ。
そして、封筒の表にできる限り筆跡を真似るようにして、ヘイスロワ古語の『皇帝陛下へ』を書いた。
便箋を封筒に入れて、封印をした。
内容はなんでも問題はなかった。封蝋すら印章すらも、セシル自身の物で構わなかった。
なぜなら、これは誰にも読まれることなく盥の中で石鹸水につけられ、セシル自身の手によってくしゃりくしゃりと、何度も握られ、やがて紙はぼろぼろに、封筒もほぼ原形をとどめられず、インクも滲んで判読できない状態になってしまったから。
そんな状態にしておいてから、テーブルの上に敷いたタオルの上に乗せて休んだ。
手紙は一晩放置した。
セシルは翌朝の朝食の席で、馬車の設計者先生に内部は安全で安心だったことを伝え、扉の桟が破損してしまったことを詫びた。
戻ってきた馬車は馬車小屋へ、馬は馬小屋へ昨夜のうちに収められているらしい。
メラニー夫人はきゅうとなったきりで、このセシルの帰宅中は静養をするようにとフェンネルさんが指示して自宅へ戻したそうだ。
セシルの身体も、夜が明けても無事だった。
彼はとても怖いことを言っていたけれど、首が付け根から痛んだりするようなこともなかった。
「では、あとでちょっと見に行ってみましょうかね」
もじゃもじゃひげの学者先生は、おひげの奥でセシルに無事でよかったと笑った。
「なに、すぐに直りますよ。明日には同じ馬車で森に戻れますよ、セシルお嬢様。桟は車体から剥がれた方が、修理が早くて、便がいいんです」
「そういうものなのですか?」
「ええ、そういうものです」
その言葉にセシルはほっとした。
そして、ごちそうさまのあとで一度私室に戻ってまだふんだんに石鹸水の湿り気を帯びたくしゃくしゃの元手紙を手にし、一階の奥にある家事室に足を向けた。
「もう雑巾にするような布と、火熨しを貸してほしいの」
それぞれの仕事やおしゃべりに興じていた下働きのメイドたちはセシルの突然の訪れに驚いたけれど、お嬢様のなさることだからと鷹揚に受け入れてくれた。
「お嬢様は火熨しもお上手に使われるんですね」
半濡れの封筒を与えられた布に挟んで、セシルは炭が中に入って熱くなった小鍋の底を押し当てた。
感心したように言われて、セシルは嬉しくて饒舌になる。
「イルーフの森では、あなたたちのお仕事も、みんな自分たちでするのよ。洗い物や、ボタン付けや、繕い物もね」
だから、火熨しもお手のものよ、とセシルは微笑む。
心の中は、屈辱に汚れて真っ黒だ。小鍋の中の、黒炭みたいに。
「でも、それ、お手紙ですかお嬢様」
「ええ、そう。というか、水に濡れて読めなくなった、手紙だったものよ」
「蝋が融けてしまわれるんじゃありませんか、それじゃあ……」
「そうなの。だから布の上から当てているの」
メイドたちは、セシルのすることを不思議そうに眺めていた。でも、お嬢様のなさることだからと、のんびり自分の仕事を続けていたりする。
布の間の封書をちらっと見てみながら、セシルはふふっと笑った。
「ああ、ほら、封蝋が融けてしまったわ。捨てられる前の布がちょうどよくあって、本当によかった。協力してくれてありがとう」
実にセシルに都合よく、蝋は融けてセシルの印章を判別不能にし、紙の水気もあらかた蒸発してしまった。表に書いた文字も解読できない、その見事な出来映えにセシルは満足した。
後になって思い返せば、その達成感によってセシルの中の怒りはだいぶ落ち着いていた。
正午を過ぎて、昼食も取らずに部屋の外へ出て、ナディア号が厩舎に入るのを見送れば、嘆きもわずかに落ち着いた。
ナディアは特に窮乏したような不安定なところは見られず、戻ってきた。
彼が女王に接するように彼女に接したのかどうかは、残念ながら不明だ。
セシルはナディアを受け取りに行ったフェンネルさんとグスタフさんに、相手側の様子がどうだったのかと尋ねた。
「いらしたのはどんな方だった? グスタフさん、昨夜の青年ではなかったのね?」
「ええ、お嬢様。確かに昨夜の青年ではなく、壮年の……褐色の髪に白いものが混じった男性でした。身なりは、いかにも厩舎にいる方のそれで、動きやすく、汚れても構わないような恰好で、いうなれば上着を着ていない私と同様のそれです」
「なにか、他に変わったことには気づかなかった? フェンネルさん」
例えば、ニーベルジュール語の発音、発声、抑揚のことよ。
「特徴的な地方の訛りはなかった? 外国籍の人のようだと思ったりは、しなかった?」
より具体的に、慎重に、糸口を見つけたいセシルは言葉を重ねる。
フェンネルさんには、出かけるときに伝えていたのだ。
できるだけ注意深く相手を観察してほしい、そして帰りは誰かに跡をつけられていないか、こちらも注意深く背後や周囲に気を配ってほしい、と。
帰りには時間をかけて、わざと近辺を周回して数か所で立ち止まったりし、二人は家やセシルの素性を守ってくれたとのことだった。
「そうですね、お姫様。フェンネルに言わせますなら、相手方の遣いの方には王都北側の、浜街の言葉遣いが見受けられました。お一人で、態度はいたって紳士的であり、そつのないどこかの家中の方でありましたが、……言葉の底にある浜街独特の、荒々しさ、小さな口でぼそぼそと話す、特徴的な癖がございました」
「それでも、王都の方には間違いない?」
「はい。王都の言葉でした。……ただ、そういえば右手の中指の、このあたりにペンだこがございました。フェンネルのこれと、同じようなものです。掌は柔らかく、ひょっとすると、馬の扱いを専門的にこなす使用人ではなかったのかもしれません。フェンネルのように、普段は事務方の仕事をしているような人物だった可能性があります」
なるほどね、とセシルはうなずいた。
確かに、事務仕事で筆記具を日常的に使うフェンネルさんの右手の中指には、ペンだこがある。中指の爪の下あたりの皮膚が、一部硬くなったものだ。
「グスタフさんにはペンだこがある?」
「いいえ、馬の扱いには革手袋や白手袋をはめますし……それは私も読み書きは多少はこなせますが、セドリックさんほどのものは……」
グスタフさんは、自分より年若いフェンネルさんを丁寧に呼んで、自分の白手袋を脱ぎ、セシルに右手の甲を差し出した。
それを、フェンネルさんの右手と比べてみて、セシルは思う。
……試されているのかしら、彼に。
「確かに、グスタフさんの方が馬や馬車を相手に仕事をしているのだもの、掌が硬くなるわよね。手袋の上から手綱を握ったり、馬具の手入れも掌や指先を力強く使う仕事だわ」
……翻弄されているとか、感じてしまうのは深読みのし過ぎかしら。
「フェンネルさんの掌は柔らかい。ペンを握って仕事をするから、中指にたこがある。でも……浜街の話し言葉の特徴があった。出身がそのあたりか、今そこで暮らしているか、よね。で、日常的に事務仕事をしている人だった可能性がある、か……」
「人相は良くも悪くもございませんでした。片頬に傷があるとか、笑顔が特に印象的だといったこともなく……次に街中ですれ違ったときにあの時の人物だと特定できるかはフェンネルにも自信がありません」
「特徴的な特徴があまりない、ごく平凡な社会に溶け込んだ人ってことよね……」
そういった人選をあえてして、ナディアの引き渡しに寄越したのかもしれない。
推測してばかりで、いやになる。
杜の中でするように、大声で叫べたら今、すっきりするだろうな、とセシルは思う。
セシルの目の前に並べられたのは、どれも確証のない推論ばかり。
名前さえ定かではないジル。
所属も背景も不明の彼。
ただ、いかにも怪しげな他国の皇帝に宛てた手紙を持っていて、それを懐に隠していた。
旅装で……どこか遠くからやってきたにしては軽装で、コートには国中で手に入れられるキャンディの包みしか食べ物の証拠がなかったけれど、飲食には街道沿いの食堂や露店を利用していたとすれば長距離を移動してきた可能性も否定できない。
実際コートは、明かりの下で見れば薄汚れていた。
そして、多分やっぱり、幾台もの自動車が彼を追っていた……?
腰には剣を佩いていた。柄の扱いも、馬乗りも巧みだった。
――――騎士の誓いは嘘じゃない?
「フェンネルさん、グスタフさん。騎士の誓いって、誰がするもの……?」
剣を腰に差していても、それがすべからく軍属の兵士なのではない。
セシルには物語か、新聞の中だけに存在する夜盗や義賊や、馬賊のような、そういった反社会的な人々だって帯剣しているものだ。
「主に忠誠を誓ったもの、でしょうか。国軍属になる、陸府や海府の学生たちや憲兵も騎士の誓いを立てるようです。これはもっと古い時代に王国騎士団が全ての国防や治安維持を担っていた時代の名残だそうです」
「国軍への志願制や戦時徴兵制が始まるまでは、領軍の兵士たちは領主に誓いを立てていたと聞きます。我々はもちろんご当家に忠誠を誓っておりますが、騎士として誓いを立てたわけでは……」
「ねいわよね。それはわかるのよ……でも本当に二人とも、おうちを大切にしてくれているわよね、頼もしいわ」
「お勿体ないお言葉です、お姫様」
三人で馬小屋近くのベンチや腰掛に座って、笑い交じりに討議を交わしているけれど、セシルの心の中は不安でいっぱいだ。
なにしろ、うかつに扱えばどんな効果や効能があるかわからない爆発物のような手紙を、セシルは抱えてしまっている。
……巻き込まれてしまっている。
あれが、誰が発した物であるかもわからない。『R』か、『P』のイニシャルを持った誰かが、『皇帝陛下』に宛てた。
ジルがなぜあれを手にしていたのかも謎。
彼が善人なのか悪人なのかも謎。
自動車の隊列を先導していたのか、追いかけられていたのかも謎。
そもそも、黒い外套のその人が、ジルだったという確実な証拠だってない。
ただ、何かが引っかかる、気になるという、そうかもしれないというすべてセシルの心証だけ。
誰かに打ち明けて、これをどうすればいいのかと相談できたら、と思った。
ルー様に。お婆様に。
セシル、こんなものを預かってしまったの! と訴えて窮状や困惑を伝えることだってできる。
でもそれには、大きな代償が待ち受けている気がする。
まず、すごく怒られる。
それから……あとは想像もつかない。
とにかくすごく怒られて、パパやママにも知られ、問題は家全体に波紋を広げる。
隣国の皇帝陛下宛ての密書(?)を、セシルが手にするに至った経緯も詳細に聞かれ、それにどう対処すればいいかは大人の手にゆだねられる。大人たちが話し合いを持つことになるだろう。
あんな見るからに危険そうなものを、手元に置いておきたくないのだ、セシルだって。
でも、誰かに打ち明けて、誰かの手によって解決されてしまうことはセシルの瑕疵になる。
巻き込まれてしまった責任や、たやすく人を信用した挙句、どうやらうまく利用されてしまったらしい自分を知られることは、圧倒的にセシルにとっての不利益だった。
子供のしたことだから、と許されてしまえることではない。
セシルの不利益は、家にとっての弱点にもなりうる。
杜の外で、うかつな娘と思われることはどうしても避けたい。
セシルはミスキナ女伯になり、マスキエフ女子爵になる娘だった、楽園の外の現実では。
芽生えてしまった、復讐心の芽を摘み取ってしまうことも、セシルにはできない。
頂いたものはお返しするものだ。
セシルが奪われたのは、……時間だ。
だから、ジルがあの密書、にかけた時間を、労を、セシルも奪う。