『皇帝陛下へ』とか、いわれても 2
シャワーのお湯を止めて、水にぬれれば背中の下ほどまでになる髪を、セシルはぎゅっと絞った。
いい香りのする石鹸は、いつもよりずいぶん匂いが薄くなっていた。
それはそうだ、あれほどお湯を浴び続けていれば。
……後悔も一緒に洗い流せてしまえたらよかった。
現実は、残酷なものだ。そしてこれが、世界の現実なのだ。
杜の中にはありえない、現実世界には現実の恐ろしさがある。
セシルはあまりにも森の外の世界に無知だった。
幾枚も用意されたタオルで、髪を覆い、体を拭き、下着と夜着を着込んでガウンを羽織った。
髪を乾かして、もう休む体制。水分補給のお水を飲んだ後で歯を磨いてしまえばもう準備は整う。
ローガンの小言やお説教など今夜は聞くつもりもない。
あの子は偉そうなのだ。今日失敗したのが、セシルだと明らかに自覚があるから、今夜は特に。
そうだ、セシルは失敗した。
たやすく人に利用され、うまうまと裏切られた。
――――悔しい。
そして、悲しい――――。
触れ合った時間の楽しさとか、喜びが、突き刺さる胸の痛みにすべて壊されてしまった。
あれはきっと、すべて彼には戯れだった。
どんな言葉も信用してはいけなかった。
家の中のセシルらしいセシルのように振舞うのが今はもうつらい。
さっき、ローガンやフェンネルさんをやり過ごせた自分が奇跡みたいだとセシルは思う。
でもいったんバスルームの中の逃避から戻ると、そこにはやはり現実があって、セシルに決断を迫った。
「お嬢様、こちらのコート、いかがいたしましょうか。少し汚れておりますので、手洗いして火熨しを当ててと考えていたのですが」
セシル付きの侍女の一人であるカンディ・フェンネルさんがまるで邪気なく、セシルの罪状の結晶を抱えて示した。
む、と唸ってセシルは絶句した。
一瞬迷って、彼女からハンガーにすでにかけられたそれを受け取って、テーブルの上に広げた。
深い考えがあったわけじゃない。
何か、ジルが証拠を残していやしないかと思ったのだ。
セシルはポケットや、内隠しをあたらめることにした。
ポケットの一つからは歯磨き用の糸巻きが出てきた。薬局で売られているという一般的なものだ。出入りの薬店が納めた似たような品をセシルも使っている。
もう一方からは、汗を幾度もぬぐったような白い綿のハンカチ。
残念ながら、刺繍の一つもなく、何の手掛かりにもならない、ありふれたものだ。
それから国中で人気のある菓子チェーン店のキャンディの丸い包みと空のゴミが全部で四つ。
証拠は、内隠しにあった。
「なに、これ――――」
セシルは吐き出す言葉を再び失った。
「お嬢様?」
カンディさんはぴたりと動きを止めたセシルに怪訝げに訊ねるけれど、それを握ったセシルの手は震えた。
……その重み、現実の恐ろしさ。
「嘘でしょ……」
手が震えるまま、力なくそれがぱさりと黒いコートの上に落ちる。
「お嬢様?」
セシルの手元を覗き込んだカンディさんには、その意味は解らないはずだった。
他国の言語を、体系的に学んだ者でなければ、これは判らない。
『皇帝陛下へ』。
――――表に、そう書いてある。流麗な文字で、隣国の古語で。
この国は王政だ。国王のいる国、ニーベルジュール王国。
今はヘンドリック三世陛下の御代。三十六年目の治世。仮にこの国の陛下に宛てられたとしたら、『国王陛下へ』となるはず。
それが、皇帝陛下、となれば。
……これが冗談であれば。皇帝陛下とあだ名される誰かへ宛てた物であればと、セシルは否定したけれど。
……でも隣国の、それも古語で書かれたものであるから、これを書いた誰かは秘匿性を重視したはずなのだ。
皇帝陛下、がいる国なら隣にある。
大陸北で、皇帝のいる、つまり帝国というのは隣国、ヘイスロワ帝国だ。
ヘイスロワ古語で書かれた、『皇帝陛下』とは隣国の今上陛下なのではと思えた。ヘイスロワ古語を、こんな風に書いてみせる人間が、悪ふざけなんてするだろうか……?
機密性ゆえにわざわざ古語で記した。
インクは鮮明で新しい。紙も、特別古いようなものではない。
――――まったくの、冗談でなければ。
「……嘘でしょ……」
恐る恐るひっくり返せば、裏面は封蝋で閉じられている。『R』か、『P』か、印章は不鮮明で判読できないけれど、多分どちらかの文字をモチーフにした封印で形作られた封だ。
「何、これ……」
もうセシルはいい加減驚き飽きた。
何これ、密書? ひょっとして。
手の中のそれをぽいとコートの上に落として、同時に肩を落とした。
自分で引いた椅子に、セシルは腰を下ろした。
こんな密書を懐に隠していたから、ジルは追われていたの?
シャワーの下での想像は、あれはやっぱり現実なの?
目の前のコレもさっきのアレも、すべて現実? 私、いったい何の渦の中にいるの。
ジルは、ただの馬賊や夜盗の類ではなくて……この密書を携えた、密使?
どこかから、帝国に行こうとしてこの国に入った。通り抜けのために。あるいはもともとこの国にいて、ここから出国する目的で。
隣国行きなら幾本かの街道もあり、定期船も出ている。蒸気列車も国境までなら走っている。国境線をを越えてあちら側の蒸気列車に乗り換えれば、帝国の帝都までは最速で三日と聞いたことがある。
――――あれだけの自動車に追われて、ジルはセシルにコートごと密書を預けることで一時的に場を乗り切ったのつもりなのかもしれなかった。
追っていた自動車が、どんな組織の人たちなのかもわからない。ただ、あれだけの数の自動車が、たった一頭の騎馬を追っていた……?
コートは来週返してくれと言われていた。
もう二度と彼に会うことはないと思っていたけれど、彼は来週意図をもってイルーフの森にやって来るのかも。
意図って、つまり、コートというより、この密書か親書の回収のために。
これを、セシルや家人が見つけてしまったとしても、封蝋のある手紙を誰かが開けるとは思うまい。
まして、隣国の古語を、たやすく読み解くような人間がここにいるとは思わなかったのかもしれない。
これが全て、手の込んだ冗談なんかじゃないとしたら、ジルは失敗した。
まさか、ただの十四、五の小娘が、他国の古語まで何の労もなく読んでしまうとは考えなかったのだ。
ジルは失敗した。セシルを利用して、これを一時的にでも誰かの目から隠そうとしたことで。
「ふ、……っ、いい気味だわ」
セシルは、声を上げて笑った。頂いたものは同じだけお返ししなくては。
まるでお婆様の声で聞こえてきたそれが、セシルに小さな復讐心を目覚めさせた。
乙女には乙女なりの復讐方法がある。
お茶会や社交の場に出て一方的に攻撃される機会があったとして、イルーフの乙女なら泣き寝入りなんて簡単にすることはない。
しなしなと泣き崩れて弱弱しく情に訴えるのが淑女ではない。
頂いたものは、同じだけお返ししなければならないのだ。
喜びなら喜びを。感動なら感動を。……屈辱なら屈辱を。
これが冗談にしろ現実にしろ、セシルにはもうやられっぱなしでいるつもりなんてない。
セシルが失ったと後悔した分の重さを、彼に返すのだ。
彼にはこの手紙を失ってもらう。セシルに預けたことを、後悔してもらう。
ジル・トラヴィス(仮)は、来週きっと森にやってくる。この手紙の回収のために。
「カンディさん。コートは念入りに洗ってあげて。火熨しも当てて。それから、持ってきてほしいものがあるの。お洗濯用の石鹸を少しと、便箋と封筒がほしいの。セドリックさんが使っているのがあるでしょう、家紋の入っていないものよ」