『皇帝陛下へ』とか、いわれても 1
突然すぎて、わけがわからないわよ。
わけがわかったのは、自分が利用されたらしいってことだけ。そして、利用しやすいように扱われたってことだけ! とにかく自分の思いが、踏みにじられたってことだけ!
*
セシルは一人になりたかった。
心の荒ぶるままに悪態をつきたかった。
知っている限りの罵詈雑言を駆使して、あの男を追い詰められたら、と思った。
激しく非難できたら、と思った。
「――――なんなのよ、あれ!」
私室の隣にしつらえられたクローゼットルームの奥には、最新のバスルームが備わっている。バスタブの上に、下からくみ上げられる温水のシャワー。
壁についた蛇口をひねっても、ふんだんにお湯が出てくる。
シャワーを浴びながらセシルは一人だ。
数年前までは、お風呂ともなると大仕事で、三人の侍女に囲まれながら腕を流され、脚を洗われ、洗髪をされと、とても気の張るものだった。
お湯はすぐ冷めるし、とにかく時間がかかった。
近頃の文明の利器とは本当に素晴らしいものだ。
自動車しかり、バスルームしかり。
「――――自動車……‼」
温水を勢いよく顔中に浴びながら、セシルは口の中にお湯が入り込むのも構わずうわーっと叫んだ。
叫ばずにいられない。
「ジル・トラヴィス……‼」
あっの、嘘つき男……!
きっかけは単純だった。なぜ、素直に自分はあの男の話をうのみにしたんだろうと今頃になって思う。
結果を言うなら、ジル・トラヴィスはただの嘘つきだ。
聖フリーダや白の神は、あの男を早く罰してください、とお湯に打たれながらセシルは手を組んで祈る。
黒のコートは、金ボタンだった。
屋敷の玄関に入って、気がついた。銀ボタンの陸軍府の制服とは、ボタンの色が違う。
さらに言うなら、明るい場所で確認できたボタンの紋様も違った。陸軍も海軍も、国の百合十字のシンボルと、それぞれの府の紋章である蹄鉄と錨の組み合わせだ。
陸軍府のコートに、色も形もよく似ているけれど、ボタンの色と、模様が違う。
百合十字に蹄鉄のはずが、三つ百合の紋に、月桂冠か何かをあしらった別物だった。……あのコートは陸軍府の制服じゃなかった……!
騎士の誓いなんて、大法螺もいいところ!
きっと、馬賊か夜盗の類よ、だから、あんな……自動車の隊列に追われるような何かをしでかしたのに決まってる!
セシルの怒りは治まらない。
セシルの嘆きは収まらない。
ある、瞬間がある。
ばらばらだった一つ一つのかけらが、ふいに結びついて一つの物事を形作る瞬間がある。
セシルに訪れたそれは、あまりにも唐突だった。
由縁の不明になった黒のコート。
単騎の騎馬。漆黒のマント……に見えた翻る外套。
自動車の隊列。おそらくその一台が事故の原因だった。あの隊列の一台とぶつかって、馬車は横転した。
ジルの横顔になると鷲鼻気味の鼻。
馬を借りたい男。調子のいい、好色漢みたいな彼。……セシルに預けられた彼の黒いコート。
何もかもが一つの塊のように結びついて、セシルを混乱させた。
セシルは、勘違いしていた。あの橙色の街灯の下で、男のコートは銀ボタンだと。拍車もきっとそうだと。
陸軍府の人だと。
実際何度も陸軍府の、と彼の所属を繰り返した。騎士の誓いを立てた、軍人だと疑わなかったから。
……でも彼は、騎士の誓いを立てたとは言っても、陸軍府の所属だとは言わなかった?
セシルが勘違いするままに任せ、そして彼はそれを否定しなかった。
陸軍府に手配書を届けるとか、所属を盾にセシルが誠実を迫っても、自分からは陸軍府の者ではないと否定しなかった。
……その方が彼にとって都合がよかったのだ。
陸軍府の関係者とセシルに思わせておくことで、彼はそれ以上の素性がセシルに知られるのを防いだ、的確だ。
嘘なんてついていない、そっちが勝手に勘違いをしただけだと言い逃れができる。
重要だったのは、瞳の色じゃなかった。
鼻の形だった。
だいたい、あの橙色の明かりの下で、瞳の色なんて明るいか暗いか、そのくらいの区別しかつかなかった。彼の瞳は、はしばみ色でもないかも。青か、緑かも。
彼の横顔に見覚えがあった気がした。以前も、どこかで、と。
……そして、呼び止めた。聖フリーダか、と……。
セシルは、一瞬でも見ていたかもしれない聖フリーダの横顔をきっとあの時、想像した。
けれど事実は違った。あの、自動車の隊列の先頭の単騎。
黒の外套をはためかせた男。
その横顔を見ていたんだとしたら……。
男性らしいあの鼻の形に、記憶のどこかが慌ただしく引っかかれている気がするのだ。
そして、これだけでは出自が不明になった、ただの金ボタンの黒いコート。
先導していたんじゃない、あの自動車の隊列に最初の単騎が追われていたんだとしたら。
フィオーラ大通りで、例えば、とお湯に打たれながらセシルは想像する。
幾台もの自動車に追われた男は、馬を乗り捨てる。
小路に入って、追っ手を交わし、人が集まっていたモドリアンとディジョンの間の事故現場に身を隠す。
そこで思いつく。
また、馬を手に入れられるかも知れないと。
親切ぶって、事故の救助を指揮し、馬車の持ち主からまんまと馬をせしめることに成功する。
彼は、セシルが出て行かなければグスタフさんと先に交渉すればよかった。
セシルという、逃走には不向きなお荷物も、乗せていれば目くらましになる。
馬を乗り換えて、少女を乗せていれば、追っ手の目を欺くのには十分だ。
そして仕上げ。目立つ黒のコートを、セシルの肩に親切に掛け、気を付けてなんて声をかける。
自分は軽装で最初とは別の馬に乗り、まるで別人のように目的の場所へ向かう。
――――完璧な筋書きだと思えた。ジル・トラヴィス、なんて人なの!
確実なものなんて、何もない。
セシルには確証がない。
明日、無事にナディアが戻るのかどうか、それすらも確信が持てなくなった。
信用ならないのは、人を見る目のなかった自分。騙されてあとで気づいたような、鈍くさくて間抜けな自分。
名前も、所属も、不明。今となっては符牒の意味すら失っている。
ジル・トラヴィスと名乗った名前さえ、偽名だと考えた方がいいのかも。
明日、ナディアは戻らないかもしれない。
信用してはいけないのに、最初はちゃんと疑ってかかったはずなのに。
気がつけばこのありさまだ。
――――多分セシルは、彼の思い通りに動いた。
馬に同乗させて二号とハーヴァルの交差点まで送ることになったのは偶然の結果かもしれないけれど、彼はそれだって上手に利用したはずだ。
祭日に少女を乗せて馬に乗る青年なんて、当たり前すぎてありふれていて、偽装にぴったりだ。
悔しさに、セシルは涙を流した。歯を食いしばった。
……あの時間。
彼と一緒だった時間はほんのわずかだ。ほんの半時ほどのことだ。
事故現場で出会って、言葉を交わして、送ってもらって、別れるまで、半時ほど。
最後には別れがたいと思うほど、彼に心惹かれ、来週彼が森にやってくるとわかれば、びっくりし、森での逢瀬の約束も嬉しかった。
彼にまた会えるのだと思った。
また会えることを喜んだ。
借りたコートを返して、どんな言葉で会話をするのだろうかと、玄関ホールの明かりの下に立つまでは、楽しみに思っていた。
……きっと約束が果たされることはない。
セシルがジルと見えることは、二度とない。
セシルは彼と過ごして楽しかった時間さえ、失ったのだ。
彼の沈黙によって。……セシルの勘違いを、彼は否定しなかった。
頭が爆発するようだった恥ずかしさも、どきどきと高鳴った心臓の音も、かっとほてった頬の熱さすら、何もかもが嘘の上に成り立った時間だったのだ。
彼は、ジルは否定するかもしれない。
自分は嘘なんてついていない、そっちが勝手に勘違いしただけ、と。
所属のしっかりした陸軍府の人だとか、信用していい人だとか、騎士の誓いを立てたといった言葉や、白の神への誓い、何もかも。……踏みにじられた。
彼の『口先の技術』で作り出されたものを信じ込んでときめいたセシルが悪い。
淑女を惑わす沢山の言葉で、セシルを丸め込んだ彼のしたことが、セシルは許せない。
あの自動車の隊列が事故の原因なら、それに追われていたかもしれないジルにこそセシルが巻き込まれたのだ。
もとより、助けられたと恩を感じる必要もなく、対価としてナディアを貸し与える必要もなかった。
――――ジルがセシルを、事故やそれに続く混乱に巻き込んだ。
そして今もその渦中にある。
明日ナディアは戻らないかもしれない。セシルのせいで、ドリュー家は大切な馬を失ってしまったかもしれない。
……どうしよう。
ローガンの言葉よりもっとひどい。
セシルは世間知らずで、危機感が薄いどころか欠如していた。
淑女なのに、たやすく流され酔わされ、乱されてしまった。
……お婆様みたいなイルーフの乙女になりたいのに!
そうなる必要が、セシルにはあるのに。