危機感がうすいとか、いわれても 7
「答えを先にお話ししましょう。簡単です。貴女が『そうだ』と分かるのは、僕の三人の姉もかつて杜で学んだからですよ。もうみんなお嫁に行きましたが。礼の角度、首肯の仕草、スカートを持ち上げた高さまで、何もかも姉たちのものと同じです。だから『そうだ』と分かる。それに、内装は豪華なのに外側は武骨なこんな馬車から、貴女のように洗練された姫君が降りてこられたのでは、あなたの生息域は森の中だと、断定せずにはいられませんよ」
「……そうなの……。それほどわかりやすいものなのですか……生息域――――」
イルーフ型の乙女。叔父様はそう言う。そしてすでにイルーフの鋳型での成形が順調に進んでいるかのような自分。
「……わかりました。必ずお返しいただけるものと強くあなた様を信じます。あなた様が真に誓いを立てた騎士とおっしゃるなら、明日の正午にこの場所で馬は戻るのでしょう。でなければ盗難の届を憲兵隊に提出いたします。それが私の担保です。御名前をお伺いいたします。私が名乗る必要はありませんね」
「――――ジル。僕の名はジル・トラヴィス」
「ジル・トラヴィス様。陸軍府に手配書が走るのを回避されたいのであれば、どうか約束は違えないで」
「それはもちろん困ります。……というか、約束は必ず守ります。そうだな、白の神にも誓います」
白の神とは、多神教のこの国の最高神だ。白の神もまた、人の嘘を許さない。
十の悪徳の一つ。奇しくも聖フリーダは、白の神の心に触れて、大嘘つきから改心し聖人にまで序された人だ。
「そうですか。今日は聖フリーダの日ですもの。では、白の神がされたように、私もまたあなた様を信じることにいたします」
「よかった。ありがとう、お嬢さん」
心の底からほっとしたように、青年、ジル・トラヴィスは実にすがすがしい、人懐こいような笑顔を浮かべ、皮手袋の両手で、セシルの右手を取るとそれを振るうように上下させた。
セシルは驚いて、その手を自分に取り戻す。
胸の前で捕えられていた右手を左手で守り、ぎゅっと握った。
男の人に、手袋越しでもそんなふうにされるのは初めてだった。
「ああ、失礼。すみませんとんだ無礼を――嬉しくて、つい――――」
「いいえ。びっくりしただけです。こちらこそごめんなさい」
男性との握手の仕方など、杜では習わない。淑女の手とは常に上に置かれるものだと習った。
「馬のこと、家人に話します」
グスタフさんはまだ、やはりこちらから見れば扉の蝶番がわずかに傾いてしまっていた馬車の中にいて、メラニー夫人を介抱しているところだ。
セシルは動揺を収めるために、振り向いて馬車に近寄る。
――――びっくりした。……あんなことをされるなんて。
ぎゅっと自分の両手を握りしめ、思わず無事を確かめてしまう。黒皮の手袋は、良くなめしてあるようで柔らかかった。
彼の手に、ぴったりと嵌まっていた。
名前と顔しか知らない男性に、手を握られてしまった。
書生の男の子たちは昔から大勢家にいたけれど、みんなセシルには当たらず触らずだ。
気安く遊びの仲間には入れてくれないものらしいと、セシルにも自覚があった。
彼らは食客たちとたいていサロンにいて、議論したり、カード遊びや盤遊びやすごろくに興じたりしている。どれもこれも、男性の遊びだ。
セシルはその間、私室や寝室にいて刺繍の宿題をしたり、詩のアイディアをひねり出すのに時間を割いている。お婆様から出される課題は、量と質の両方を求められる。
一人での時間つぶしにそれらはもってこいだ。
握手。森の外にはそんな習慣もあるのだ。これもまた、現実。
「グスタフさん、助けていただいた方がね、馬を一頭貸してほしいのですって」
セシルは馬車の中を覗き込んだ。
メラニー夫人は気がついたらしく、座席に上半身だけ横たわって額にハンカチを押し当てているところだった。
「メラニーさん。よかったわ、元気そう」
「お、お嬢様、お外は危険です……お早く中へ」
今その状態で、そんなことを言えるほど、大丈夫みたいね。
セシルはほっと安堵のため息を漏らす。
「街はお祭りなのよ、メラニーさん。悪い人なんていないわよ。……ね、グスタフさん。馬をお貸しする約束をしてしまったの。必ず返してくれると、言ってくれているわ」
「お嬢様の仰せの通りに。ナディア号でしたら、単騎の走行にも馴れてございます。用具入れに鞍が」
「知ってるわ。私が見てみる」
中に声をかけて、セシルは馬車の後方へ回る。
構造としては後部の荷台に当たる部分、さらにいつもセシルが座るお尻の下に収納庫様の用具入れが備えられている。
鞍や、ちょっとした整備用の工具入れがそこには収納されているのだけれど。
「うん……?」
閉じ込みの金具が、先ほどの衝撃せいか硬くなってしまっていた。
セシルは蓋をがたがた言わせながら、金具の取っ手と苦闘する。
「お嬢さん、僕が拝見しても?」
いつの間にかジル・トラヴィスが、セシルの左手に立っていた。
「ええ。お願いします。金具が硬くなっているみたいで」
「どれ……ちょっと、これは」
言いながら彼は、腰に佩いた剣を鞘から抜いた。
「本当だ、硬いですね」
柄の先でこんこんと金具を幾度か叩き、
「……開いた」
彼は固くなっていた金具の先から、気が済んだように柄を離して剣を収めた。
まるで宝箱を開けるような仕草、とセシルは思った。
うやうやし気に金具をひねった彼は、用具入れの上蓋を上げて、中の左側に偏った馬具を見つけた。
「……貴女も、馬に?」
「……森には広い馬場がありますもの。乗馬の授業もございますし」
その馬場こそが、まさにマスキエフ女子爵領だ。王都の郊外の広大な馬場、その所有権がやがてセシルが受け継ぐ権利の一つだ。
近在にはいくらかの住人もいて、その土地の賃貸料がセシルの地代金収入の一部になるのだ。そのほとんどは、馬場の整備や維持で吹き飛んでしまうそうだ。
「……馬に乗るのは楽しいわ」
馬に乗るのは楽しい。
馬は、セシルにとっては家財というより友達だ。
「どうぞ、鞍を取られて。ナディア号をお貸しします。女の子なので、紳士的にお願いいたしますね?」
「……ありがとう、お嬢さん。感謝します。しかし、見かけよりすごいなこの馬車は。ちょっと珍しいほど機能的ですね、この用具入れなんか。座席の下にうまいこと納まっているんですね。少し車高が高いのはそのせいかな」
本業は数学者とかいう、食客の一人が設計をしたのだ。
彼とは食事の時間にしか顔を合わせたことがないのだけれど、まだ若いのに見事にもじゃもじゃのひげを蓄えた、不思議な人。その手によるものだ。
もっと幼いころ、子供の無邪気のまま彼に、そんなおひげなのにお食事は上手にできるのね、などと減らず口を利いてしまったことがある。
……というのを、ふと思い出してしまった。
子供は、それは無邪気なものだ。セシルに至っては、今もあまり変わっていないと思うのだけれど、本当のところはどうなのだろう。
着々とイルーフ型に形作られ、少しずつ大人に近づいているはずなのに、実感はあまりない。
「内側も、クッションで覆われて安全な作りですのよ」
自分の持ち物を褒められて、悪い気分にはならない。
セシルは機嫌よく、ジル・トラヴィスに説明してみせた。
「そうなんでしょうね。あなたは横転した馬車の中でも無事だったし、お付きの侍女殿もそのようだ」
「ええ、本当に。これほど馬車の構造に感謝したことはありません」
あの学者先生にも、お礼を言える機会があるといいんだけど。
セシルは思う。
身分や職業もさまざまらしい食客たちは、ただ食事の席にいることもある、という程度のいわば下宿人のようなものだ。
各人ごとに寝泊まり用の部屋があてがわれていて、そこで仕事をしている人もいたり、外出先を持っている人も多い。
幼いころからそうだったから、当たり前のように受け入れてきたけれど、ドリュー家における彼らこそ不思議な存在だ、と今気づいた。
書生たちより、実は複雑だし、奇妙な存在だわ。
書生の男の子たちは、地方出身の学生で、ジェラルドが、セシルのパパが身元引受人になっている。
王都後見人として彼らの身元を預かり、保護しているのだ。きっとできのいい学生さんたちなのだろう。
年齢はばらばらだけれど、海士官学校組と、ローガンの学友でもある学芸院組の区別も特になく仲良くやっている風だ。
「ただ、扉の蝶番が外れかけていますよね。このまま二頭立てで走行すると、扉が落ちてしまうかも」
鞍を持ちあげた青年は、鐙や手綱も一体型になっているやはり機能的にできたそれをよいしょ、と抱えて、馬車の前方に回る。
セシルは用具入れのふたを閉めて、こちらの金具もあとで修理が必要と伝えなくちゃ、と胸に刻んだ。
「失礼、お嬢さん。馬のお嬢さんをご紹介いただけますか」
考え事をしていたセシルを、ジル・トラヴィスが呼んだ。
セシルは、そうだったと思い出して、心は急いで、動作はゆっくりと馬車の前方に回る。
途中、外れそうだという扉を見上げた。
ドアはやっぱり斜めに傾いている。
二頭立てだから速度は落ちるけれど、風圧による影響なんてセシルには想像できない。
工具入れにネジ巻きは入っているかしら。
そのころにはグスタフさんも馬車を降りていて、後列の右に並んでおとなしくなっていたナディア号に掛けた手綱を枷から外しているところだった。
「グスタフさん、扉が落ちてしまうかもしれないそうよ。あと、用具入れの金具も傷んでいるわ。工具入れにネジ巻きがあるかしら?」
そういう些細な作業なら、セシルにも手伝いができる。
街を行く人たちはセシルの令嬢ぶりばかりを注視して通り過ぎるけれど、イルーフの乙女というのは、ただのご令嬢ではないのだ。特にセシルは。
銀器も磨けば、当番制のろうそくの火入れも、ドアノブの修理も、多少のことならこなすことができる。 畑があるから農作業だってする。芝刈りだってする。
馬具の扱いだって上手だ。手入れだってちゃんとする。
蝶番の取り付けだって、要領がわかる。
自分に何かができるかも、と思うことは重要だ。新しい手段や技術を得ることは。
――――大丈夫、私はまだ杜にいられる。
杜で学ぶことが、まだまだたくさんある。杜でもっと私は新しい知識を得られる。
セシルは自分に言い聞かせるように強く思って、ナディア号に鞍を乗せようとする青年のそばに立った。