危機感がうすいとか、いわれても 6
馬車から降りたセシルを、街の人たちが興味深げに観察している。
今日のセシルの装いは、ホテルでの会食に合わせて貴族令嬢らしいそれだ。
聖人の日に最適な薄桃色の伝統的な型のドレスと、同色のリボンを顎下で結んでいる造花で飾られた白い帽子。足元は職人が丹精込めた、やっぱり薄桃色のサテンのミュール。
どこからどう見ても、名家のお嬢様風情だ。誰が何と言おうと、外見だけは。
「ご助力くださった、ご親切な方々。ありがとうございます。家人共々お世話になりました。また、このような往来でご迷惑をおかけいたしましたこと、心よりお詫びいたします。申し訳ございませんでした」
イルーフ式の淑女の礼を取って、五つ数える。一度下げた頭を再び上げる。抓んだスカートはそのままに、周囲を取り囲むどなたにも目尻を下げて口角を上げて微笑む。
身に染みついた以上にごく丁寧な、イルーフの乙女としての嗜み。
そして、なによりありがとうの気持ちを込めた。
「いえいえ、お嬢様! 最近は街ではこんな事故が多いんですよ!」
令嬢然としたセシルが平然と頭を下げて礼を尽くすのを見て、びっくりしたようにどこかの商店主らしい、エプロン姿の恰幅の良い中年女性が、嘆くように声を上げた。
「そうそう、馬なしが馬車にぶつかったり、その反対に馬なしがひっくり返ったり、様々ですよ」
「とにかく人にぶつからないでよかったわ。誰も怪我をしていなくて」
お祭り帰りの、カップルと思しき若い男女も、顔を見合わせ頷いている。
「これからは馬車にも長縄の用意が必要かもしれませんね」
言いながら、どこからか借りられたものらしい二本の長縄を、円くまとめる男性とセシルは目を合わせた。その美声には聞き覚えがあった。
長縄を使っての横転の解決を、提案してくれた人だ。
ガス灯の橙色の明かりの下でも、薄い褐色らしい髪色がよくわかる。
この時期には不似合いな、金ボタンか銀ボタンの黒い厚手のコートを着ている。
その中は旅装だ。腰に剣を一本佩いている。
……あれ?
セシルは既視感に襲われる。
鷲鼻気味の高い鼻と、拍車のついた軍靴。甘い目尻のその瞳は、はしばみ色に見えた。
薄明るい色が見える瞳。橙色の明かりが、判別を難しくしているけれど。
「聖フリーダ?」
セシルは首を傾げた。
黒に銀ボタンのダブルのコートは、これは陸軍の制服だ。
おそらく軍靴の拍車も銀。
今年の聖フリーダは、たしか陸軍将校が務めたはずだった。
「ええ? 僕がですか? まさか。今頃きっと聖フリーダは王宮で聖餐の最中ですよ」
男性は快活に笑って、丸めた長縄をありがとうと側にいた中年男性に手渡した。
「そう……ですわよね。ごめんなさい、突然。私ったら、どうしてあなた様を聖フリーダだと思ったのかしら」
「ひょっとして、パレードをご覧にならなかった? 彼は金色の髪の美丈夫だそうですよ」
「ええ。見物には来ていたのですけれど、ちょうど窓の下を山車が通った時には、議論が白熱していて……」
自分の奔放な態度を形ばかり反省しながらセシルが言い訳すると、男性、セシルよりいくつかは年長のはずの青年は目を丸くして驚いた。
「見逃したんですか? それは残念なことを。王都中の少女たちが、彼の話題だけで半年は盛り上がるでしょうに」
少し皮肉交じりのような言葉。
少女たちに対する蔑視が、ほんのわずか、毒のように吐き出された。
「それとも貴女は、そうじゃない?」
もしかして、ご自分が聖フリーダに選ばれたかったのかもしれない。
なにしろ、聖フリーダは美男子の証だもの。
彼、と呼んでいる聖フリーダの青年とこの陸軍府の制服の青年は、職場の同僚かも知れないのだ。女の子に半年の間ちやほやされる同僚が気に入らないとか。
勝手な想像を、セシルはしてみる。
「ええ、私は違います。私とお友達は、あまり男性のお話はしないもの」
「それは、貴女がイフーフの杜にお暮しだから?」
当たりでしょう?
言いたげに、青年は口元の笑みを深くした。
「やはり、そうと分かるものなのですか?」
三々五々、周囲にいた人たちがセシルの挨拶を受け取って散り散りになり始めていた。
セシルはコートの青年にわずかに歩み寄って、訊ねた。
「やはり、杜にいる者だと、にじみ出てしまう何かがあるのですか? あなた様には、それがお分かりになるのですか?」
「それに答えたら、僕のお願いをお聞き入れいただけますか、お嬢さん」
ほんの少し、世間話の立ち話程度のつもりだったのに、なぜか話は混み入り始めていた。
お願い?
救出への尽力にに対する対価を、あるいは質問への答えへの対価を、青年は要求している。
「私にできることでしたら、何なりとお伺いいたしますが。……それが家族や私自身の身を危うくすることであれば、お引き受けいたしかねます」
セシルは慎重に言葉を選んだ。
ドリュー家は海軍籍の家だ。
陸軍府の制服を着た人から何かの取引を持ちかけられたりは、避けたい。
それがセシルと見ず知らずの青年の間で交わされてしまうことも、避けたかった。
どんな不利益を、自分も、家も被ってはいけない。
「ああ、怖がらせてしまったなら、ごめんなさい。謝ります。実はね、馬を一頭お貸しいただけないかな、と思っているんですよ。こちらは三頭立て、そのうちの一頭をお借りしたいんです。もちろん必ずお返しいたします。馬は財産だ。どこの家庭でも」
どんな要求をされるものかと身構えていたセシルは、拍子抜けして肩にこもっていた力を抜いた。
「些細なお願いでしょう? 明日の正午、そうだな、この場所で馬はお返しします。貴女のおうちの方に出向いていただくのは気が引けますが、貴女は質問の答えを知りたい。それに事故の解決に力を貸した者として、手間賃代わりに何かを要求しても、罪には当たらないでしょう?」
何かの時のために、馬車の後部には用具入れがあり、その中には鞍が一つ入っている。
馬車の手綱から馬を一頭はずし、鞍をかけることはそれほど労力のかかるものではない。
けれど。
「本当に、我が家の財産をお返しいただけるのか。疑わしいと申し上げたらお怒りになりますか」
信用できないんですとは、率直に伝えられない。
「貴女の先ほどの慈母のごとき感謝の言葉が、口先だけのものでないなら、同様に僕のことについても信用してください、としか。騎士の誓いは立てています。嘘は許されない」
そう返されては、セシルは彼の願いを聞き入れずにいられない。
残念ながら、セシルより青年の方がずっと雄弁だった。