プロローグ
「イルーフ校における『一つ身の乙女』の精神に思いをいたすとき、私は、この美しい杜に学ぶあなた方お一人お一人の、高潔でひたむきな魂が、この先のこの国の未来に育てるであろう幾多の物事の輝きに嫉妬すら抱きます。本当に妬ましく思う。今、こうしてここに立つ、この瞬間にもです」
壇上の男の低くよく響く朗々とした声が、凪の海のようだった少女たちの心に、波風を立てている。
「優しく愛情深い院長先生の胸に抱かれて、美しく穏やかに過ぎるイルーフ女学院での学生生活は、おおよそ人が考えうる至上の楽園というべきでしょう。身分の差、容姿の差、国籍の差から解き放たれたあなた方は、杜の中にあって自由で平等です。第十二代マデリーン女王陛下の号令により創立されたこの歴史ある学び舎は、大陸にあって女性教育の出発点であり、また現代においても最先端であり続ける唯一無二の機関です。かつて善き娘、善き母親であればそれが最良とされた女性観も、時代が進むにつれ変化しています。イルーフ校も幾度となく変革を迫られて今日まで参ったことでしょう」
貴公子と呼ぶには洗練され過ぎ、紳士と呼ぶにはいささか洒脱な美丈夫だ。栗色の髪と、同じ色の栗色の瞳。
大陸南に多いというその色味は、北国であるニーベルジュールの王都では一際異彩を放つ。
異国的、と珍しがられては少しうるさそうに微笑む、そんな男の様子が想像できる。
「私がこうしてイルーフ校にお招きいただき、皆さんに直接のお話をさせていただくのは、今回で八回目。ああ、またお友達が連れて行かれると心細く、不安に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが」
半年ごと、五年目、八回目。
男が壇上で演説をすると、穢れなき無垢な心の乙女のうち何人かは、乗せられてときめいて彼の思うがまま、この森を後にする。
だって、本当に耳触りがいい。あなたには特別な使命があると、真に貴族的で魅力的な容貌の――彼が口にすれば、それだけで夢中になれる。
もうすぐ、決定打があの薔薇の花のように官能的な唇から発せられることを、みんな心得て待っている。また、あの人が誰かを連れて行く。
「しかし、ご安心いただきたいのです。皆さんと机を並べたかつての仲間は、尊い目的をもって、人生最良の時間を過ごされていますよ。国や、社会の礎となることを自ら選ばれて、その道を着実に歩んでいらっしゃる」
杜を離れて行った少女たちの消息は、残された者には知りようがない。
……そう、不安に思う。
ここから出て行って、あの子たちは無事なのだろうか、と。
一昨年、同室になりずっと仲の良かったオードラやリサ・マタルも一年前に杜を去った。自分の力を試してみたいの、と言い残して別れた。
今以上に、国や社会に貢献できる女性になりたいの。彼女たちはそう言って森を出た。
近頃、杜で行われている新しい教育プログラムの賜物なのだろうと思う。
少女たちの魂は、高潔でひたむき。一途で美しい。
――そして、素地や素養や地力がある分、より高次での自分磨きに挑戦したくなる。それを、このしたり顔の男が扇動する。
「この杜で、あなた方は素晴らしい女性になる。諸先生方のお導きによって、約束されている道です。刻印があるわけでもないのに、この杜で学ばれた女性には皆一様にそれとわかる所作や教養、知識が備わります。これがイルーフの乙女と、『一つ身の乙女』と、一目見てわかる品格や、風格。淑女としての、貴婦人としての一律の輝きが」
ここが、演説における分岐の呼吸だ、とわかる。言葉を自由自在に操る、魔術師のような雄弁。ざわめく心を高揚させる抑揚と言葉選び。
……でもきっと、こんなのは。彼にとっては口先だけの技術なのだと、手の内をすでに知っている身にはただむなしいだけの時間だ。
また誰かが心を動かされ、また誰かが杜から消失してしまう。もしくは、正しく流失してしまう。この、狡猾な笛吹きのせいで。
「ただ、そう、惜しむらくは、わずかな懸念がある。イフールの乙女という鋳型が、世間の目で見てすでにこうである、教養高く見識深い、一流の貴婦人であるという画一の規格が出来上がってしまっている点です。イルーフ型の乙女、とでも呼びましょうか」
息をのむ少女たちの気配。自分の育った楽園が、にわかに否定されたのをさっと悟って、見つめる視線の先の男に敵愾心を抱く。
最初に芽生えた好感との落差が激しいほど、効果はてきめんなのだという。
「つまり、そう、こういうことです。今やイルーフの名、そのものが、培った歴史によって優秀であった諸先輩方によって、こうであるべき理想像の限界を飛び越えられていない」
上段から権高く見下ろしてくる栗色の瞳、勝ち誇ったような上向きの鼻、ほくそ笑んでいる風情の、感じの悪い口調。
「変革はしている、教育の質、学びの内容も変わる。けれど五百年の長きにわたってただただ美しく完全無欠の乙女、理想の女性の象徴であったイルーフ女学院においてあなた方は、そうであるがゆえにおのれ自身が没個性であるという事実の認識に未だ至っていない」
さんざんな言われ様で、本当に腹が立つ。
これが、半年ごと、五年目、八回目の演説。その意図や企みを、あらかじめ承知していたとしたって。
……本当に腹が立つ。
「――そこで、あなた方に提案するのは、私ども王立学芸院への編入の道です。すでに提携プログラムとして提供している初級代数や薬学基礎、鉱物学基礎等にとどまらないさらに高度な理系科目。イルーフ校では学びの機会を得られない、法学、政治学、経済学……あらゆる社会学分野の専門科目をより体系的に習得し研鑽を積むことによって、既存の枠に収まらない新しい時代の新しい女性像を構築する。大変に困難なこの試みに是非ご助力を賜りたいのです」
新しい飴、だと思った。少女たちは真深き森にいて、常に新しい知識に飢えている。
政治や経済の、あるいは生物学や医学、王立学校で専門的に学ぶことができるらしいという未知の学問への憧憬が、確かにある。
おいしい言葉を飲み込んだ少女たちがふっと肩に込めていた力を抜いて、しんみりと次のごちそうを待っている。
「大空を知らぬ蝶でいては、世界を知らぬ小鳥でいては、あなた方の青春が惜しい。単年の内であればイルーフ校への再編入を許可していますが、学芸院へ来られて杜に舞い戻った方はいません。それは、よくよくご存知でいらっしゃるでしょう。真に次の時代を担う女性となるために、新しい力を選び、得てください。我が王立学芸院で」
今や、純真無垢な乙女たちの頬は血潮の色に染まり、ふっと慈愛の笑みを見せた最高学府の化身のような男から目が離せない。
彼こそが、私たちを導く白の神かも知れない。信仰の奥、熱狂の奥、私たちの白の神かも知れない。
「心を穏やかに、じっくりお考えを。あなたには特別な使命がある。そしてそれを成し遂げる手段も。――自己の内面に問いかけ、心を決めてください。我々の門は、あなたに向って開かれ、あなたの訪れを待っています」
そして、終末。自然発生する感激と感嘆のため息、最初拍手はまばらだった。少女たちは、突きつけられた特別の招待状を前に、戸惑い立ちすくむ。
そして、週末。男の魔術にかかったまま、それぞれがベッドに持ち帰った招待状を開いてみるのだろう。決断は、心次第。
――こうして、からめ捕られていくのだ。巧妙な計画の渦中に。
身一つで。何よりも有益な質として。
悪魔のような男に――。




