#6 会いたくない。
「先輩…。」
しっとりとした春雨の降る、昼下がりの保健室。
球技大会で生徒の盛り上がりと熱気に包まれた体育館とは対照的に、しんとした沈黙の部屋の中に生徒2人。
「ん?どうした…?」
「先生……、志水先生。」
いつの間にか"その"名前"を無意識に呼んでいた。
消え入りそうな俺の声を聞き取ろうと、水城先輩が顔を覗き込むようにする。
「志水先生?今から呼んでこようか…」
「先生に、───"会いたくない"。」
「は……?」
俺の頭は只今、大混乱に陥っていた。
───────────────────────
前回までのあらすじ。
晴れて進学校桜花第一高等学校に入学した俺、神崎 昭は、すぐに深い考えに陥ってしまい人と話すことが苦手というコンプレックスを抱えていた。
そんな中担任として出会ったのが志水春樹であったが、冷淡、ストレート、表情が冷たいなど印象はさほど良くなかった、というかむしろ先生が面談で放った"ある"一言が大いに俺を傷つけたこともあり生徒として何となく嫌悪感まで抱いていた。
しかし、クラスメイトの佐藤京介という生徒の紹介もあり文芸部という一つ新たな居場所を見つけ徐々に高校生活に光が見え始めたある日。
球技大会で俺は熱中症になり気がつけばそこは保健室のベッドの上であった。
そして今に至る────
「取り敢えず落ち着け。」
ここでばっさり水城先輩の中断が入った。
無理矢理ここまでの経緯を捩じ込んで、自分の思考を整理させようと試みたが小っ恥ずかしいだけで効果は皆無だった。
駄目だ、全く落ち着けない…。
「何やらものすごく何かに悩まされているのは見て取れたが…、先生がどうした?何故"会いたくない"?」
「────……。」
「……?」
黙っていても解決策はいつまでも出せない。
俺は今まで話さなかったこの謎の痛みついて静かに話し出した。
「……痛いんです、心臓が。志水先生を見ると。殺されるんじゃないかと思う位…。
先輩、知りませんか、この原因。」
「心臓の痛み…、どんな?」
「ちくちくする…か圧迫感があります。文芸部に初めて行った日くらい以来時々…。」
「ふむ…。それも、志水先生が関係している…。」
先輩は暫く俺を観察するように見渡した後、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
何を調べているかと思ったら画面を見る先輩の表情げ突然、険しいものになる。
俺は息を飲んだ。
そして、俺の顔を再度見て低い調子で呟いた。
「……対人胸痛症候群。特定の人物から受ける精神的ストレスが原因となる。不整脈によって引き起こされる病にも又要注意…。」
「胸痛症候群…。」
やはりそうだったか…。
今までこのような痛みは経験をしたことがなかったため分からなかったが、一度内科で見てもらう必要があるかもしれない…。
何も異常が無くとも精神的ストレスは軽くなるだろう───……。
「嘘だよ、神崎君。そんな病は存在しない。」
「嘘って………、え?」
「それは多分、……────恋だ。馬鹿馬鹿しいほど典型的な。」
こい。
コイ、鯉、濃い、乞い、故意、
────恋。
…………。
考え中。
……、
「っていやいやいやいや。ちょっと待ってください…。さっきの粗筋の中でいったい何処に僕が先生に恋する要素があるんですか。」
「知らない。…顔じゃない?女子にひっそりと人気だよあの人。冷静沈着、頭脳明晰。」
「か、顔…。」
はた、と再び俺の思考が止まる。
代わりに浮かんできたのは横に座ったまま俺の顔を覗く志水先生の表情だった。
どこか悲しみを含んだ冷淡な微笑み。
俺はあの時、その双眸に思わず釘付けになった。
しかし…
人と接することを極力拒んできた自分が顔で人を判断したと…。
その容姿を自分から見ようとしたことは無い。
しかし確かに、初めて痛みを感じた文芸部で会ったあの時も先生の目に、その表情に見惚れていたとも言えなくは、ない。
かっこいい、ではなく端正な顔立ちをしているなと。
いやしかしその前に恐ろしく重要な事を根本的に見失っているような…。
「最近、年の差恋愛って流行ってるし。」
……そういう問題じゃない。
俺が志水先生に対して思いを抱く事にもっと何かしら見落としているモノがあるはず……、
「まあ42歳のおっさんだけど。」
「それだ。」
「まあ、それよ。」
2人で謎のやり取りを淡々と交わす。
というか志水先生、42歳なんだー。
「……じゃなくて。」
上半身を起こした状態で俺は頭を抱えた。
「神崎君、取り敢えず落ち着こうか。混乱するのは分からんでもないけど…。」
そうか、俺は混乱しているのか。
否定する事もなく。
嫌悪。
嫉妬。
憧れ。
尊敬。
それらのどれにも完全には当てはまらない
純粋な恋慕。
「……、………。」
そんな不純な動機で人を好きになることなど、俺に限ってあり得ない。
──否、自分が勝手に信じたくないだけか…。
「──神崎君………顔、真っ赤…。……そんな顔するんだ。」
制服の身体が熱い。
まだそんな季節でもないのに。
呼吸ってどうするんだっけ…、
一体、俺は今どんな表情をしてるのだろう。
──恋慕。
<名・自他サ変>
異性を思い慕うこと。
恐らくこれが正解。
じゃあ、これは何だ。
正解って何だ──。
「じゃあ、さっきの会いたくないは、会いたい、だったの。」
先輩は座り直しながらそう言った。
その事を思い出し恥ずかしくなりぶんぶんと俺は顔を横に振る。
「素直に好きって認めれば楽なのに。初心ね。」
そして入れてきたお茶をにやにやとしながら飲んだ。
「む………。」
かっこいい?教師として素敵?
もしそうだとしても一体俺はどうしたい…。
会いたい?それとも一緒にいたい?
「しかし先輩、まだ完全にそれと決まった訳じゃあ…、」
「あ、志水先生。」
志水先生。
カーテンの向こうからまさかの本人登場。
心臓が跳ねる。
突然俺に訪れたエマージェンシー。
何というタイミング…!
「大丈夫ですか神崎くん…?」
常時きっちりとしたワイシャツとスラックスに身を包んでいたはずの先生が。
──そこには、
オレンジラインが入ったジャージにラフなTシャツを着て心配そうな表情で立っていた。
「か…、」
「「か…?」」
────かわいい。
「おーい、神崎君…、」
可愛い……過ぎる。
俺はとうとう顔を布団に伏せた。
駄目だ…、可愛い過ぎる…。
いつもとのギャップというか…意外としっかりとしたスポーツマンの腕というか綺麗だというか何というか……。というかその大きめのジャージ、サイズ合ってるんですか…。
取り敢えず、混乱中…。
「あの、先生。今ちょっと神崎君頭が痛いみたいで…もう少ししたら戻れますので、ご安心を。」
横から水城先輩が言う。
「そうですか…、また何かあれば言ってください。神崎君、無理はしないでください。」
──神崎君。
いつもよりトーン低めの声で言うと先生は静かにカーテンを閉め、部屋を出ていった。
神崎君。
恐らく、俺は只今日本一気持ちが悪い表情をしている…。
「神崎君ー、顔上げていいよ。うわお、すごい汗。あはは、可愛いやつ。」
俺はもしかして変態なのかもしれない…。
しかし一番の問題は、相手が自分の担任教師、
しかも同性であるという事。
あ、と水城先輩が何かを思い付いたように手を叩いた。
「そういえば今思ったんだけど、間違っても文芸部腐男子2人にその事を出さないことね……。」
笑う先輩からお茶を受け取り、俺は入りたての緑茶を口に含んだ。
「……?」
そして、
一瞬考え、文芸部で見た"薄い冊子"の表紙に描かれたイラストを思い出し、
「……。」
盛大に吹いた。
──この恋、障壁多数有り。
やっぱり、先生には…
高校1年生、ある男子生徒の初恋物語。