#3 ある教師の考え事
硬式テニス。
軟式では、ウエスタングリップという持ち方とフォアボールもバックボールも同じ面で打つという打ち方に対し、硬式の持ち方はほぼ90度のイースタングリップ。
加えてフォアボールとバックボールでは面を変えて打つ。
更にインパクトの際に思いきり力を入れ、バウンドに大きなスピンが伴うのが軟式に対し……
硬式の方は感触まではまだ分からないが啓さん曰く、中学生時に軟式をやっていた者が高校生になって硬式テニス部に入るというのも珍しくはなく、支障は少なからずとも心配するほどではないらしい。
しかし──、
「──神崎。」
現在午前10:30、第2限目世界史Aの授業真っ只中。
「一番前の席で寝るとは…。優秀な神崎にしてはまた随分珍しいじゃないか。」
俺はおそるおそる世界史担当の新堂先生の顔を見上げた。
そして何度か瞬きをした後、ふと手元を見ると板書をとっていたノートは思った通り約15分前をもって止まっていた。
それに今、問題を解くよう指名されたらしいのだが勿論のこと問題すら全く聞いてはおらず、答えられるはずもない。
これまで授業で寝たことは一切無かった。
どうやら一番直さなくてはならないのは発言が上手く出来ないどうこうよりも、深い考えに陥りがちだという事の方なのかもしれない…。
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「一緒に行こう!」
「どこ回るー?」
トーンの高い女子の声が騒然とした教室に響く。
その日の放課後の時間は、5月の考査後に行く遠足の打ち合わせをすることになっていた。
しかし小中学校とは違い、班行動などの縛りも無いため、俺はいつも通り遠足は1人で勝手にゆっくり過ごすつもりでいた。
しかし1つ問題を挙げるとするなら…
「……。」
先程から自分に痛々しい程の視線がある一点から降り注がれているという事である。
更にある一点というのが目の前から、つまり教卓の椅子に座り先程から遠足オリエンテーションの様子を伺っていた担任、志水春樹というのだから恐ろしいのだ。
適当にそこらへんにグループを作っている生徒をよそに、静かに読書をする俺は本を読む自分の顔が徐々に引きつっていくのが分かった。
他にも行動班が決まって既に帰宅した生徒や席について勉強などをする生徒もいるはずなのだが一番前というのが致命的だった。
それとも…。
『──君、友人はいるんですか。』
昨日の面談での先生の言葉が鮮明に頭の中に浮かんできた。
ひょっとしたら先生はこういった様子を見て心配をしてくださっているのかもしれない。
しかし俺はもうとっくにこのような状況は慣れているので心配は…、
「……。」
怖い!
なんかお顔が怖い!
昨日の冷たさに更に恐怖までもが加わり堪らず俺が顔を挙げると、当然のごとく先生と視線がばっちり合ってしまった。も、もう帰ろうかな…。
「あ、あの……。」
この状況で俺が喋られるわけがない…!
予期せぬ非常事態に陥り顔面蒼白となっていると、先生は何故かふいと俺の後方を指差した。
俺もその指先の方向に従って後ろを向くと、
「あ、気づいた。」
1人の男子生徒がそこには立っていた。
名前は確か──
佐藤京介と言う。
「というか、それ。三島由紀夫の本だ。」
「………?」
彼は俺の読んでいた本をひょいと取り上げると、さりげなく隣の席に座りぺらぺらとページをめくった。
「<金閣寺>…三島由紀夫不朽の代表作。僕もこれ、凄くいいと思う。上から目線だけど。」
突然の出来事に唖然とする俺をよそに、所々寝癖のようにはねた短めの髪を揺らしながら楽しそうに彼は笑った。
そろそろ生徒も帰宅をし始め、教室は雑談で盛り上がる数人の男女と俺とこの隣にいる彼だけになった。
先生もいつのまにか廊下のロッカーの上にて、回収した課題の点検に取りかかり始めた。
佐藤君もある程度ページをめくり続け満足したのかパタンと本を閉じてしまった。
…というか、まずこの本を読むことが彼の目的ではないと思う。もしかして遠足のことで、と少々淡い期待を抱きながら、その様子をじっと見ていた俺の顔を見て、彼はやっと口を開いた。
「部活に行こう。」
「……は?」
しかしそこから出てきたのは俺の想像の範囲を越えた意外すぎる言葉だった。
思わず惚けたような声しか出なかった。
もしや昨日あれだけテニス部に入るよう勧誘してきた啓さんの後輩か、佐藤君は。そんなに俺をテニス部に入れさせたいか先輩…!熱心に気にかけてくださるのはありがたいがしかしまだ完全に決まったわけでは…
「いや、神崎くんいつも授業が終わると一直線で帰っちゃうでしょ?部活やってないんかなーと思って、勧誘しに来た。──文芸部。」
「文芸部…?」
そう言ってリュックから取り出したのは薄目の、しかしながらしっかり本のように整えられた一冊の冊子であった。タイトルは「桜花」。
それにしても初めて聞いた部活名だ。
「部員数は3年生は2人、2年生は3人、1年生は僕だけなんだけど半年に一度ずつこうやって部員の小説とかイラストとかをまとめた意外としっかりした冊子を発行していてね…。」
差し出されたその冊子を手に取りページをめくると、確かにそれは、各小説ごとにもきちんとフォントや文字の大きさの揃えられた活字で短編小説集のようになっていた。
ざっと見てもファンタジーや恋愛ものまでジャンルは様々なようである。
何よりも読んでいて感じたのは、本当にこの文芸部の部員が一人一人自由に、楽しそうに書いているのだと言うことが手にとるように分かるということであった。
自然とページをめくる手が止まり、じっと読み込んでしまう。
「……入ってみたい、ぜひここに…。」
「──えっ!本当に!?」
俺は小さく首を縦に振った。
小説など書いたことはないが、まさかこの高校にこんなに興味深い部活があるとは。
「うわぁやべえ。すげえ嬉しい!
……最初話しかけたとき凄い冷たかったけどめっちゃくちゃ好い人だー…!ありがとう!」
もしや。
無意識だったからか誰とは認識できていなかったが、あのとき話しかけてくれたのはこの彼だったのか…。
「あのときは…すまなかった。緊張してどう反応すればいいかわからなかった……。」
俺は興奮して立ち上がっていた佐藤君を見上げて、改めて謝った。
すると驚いたようにこちらを見て、ぶんぶんと手を顔の前で勢いよく振る。余程嬉しかったのか顔が紅潮している。
「──あ、そうそう、今日も部活あるんだけど体験入部ということで少しでもよっていかない?部活。」
そうして今日の帰りはいつもより少し遅くなることになってしまったが、後で家族にメールをしておけば済む話である。
何よりもこんなに嬉しいことはない。
ちなみに、
「そう言えば神崎くんって身長的にも体型的にも凄く運動神経よさそうな雰囲気があるけど、中学生の時も文化部だったんだよね?文芸部入ってくれるということは。」
と聞かれたので、文化部に入るのは初めてでテニス部だったと答えたところ、
「えーー!?嬉しいけど、も、勿体ないような…でもなー…!」
スクールカースト最下層の文芸部だけどとか何とか独り言を言っていたのにはまあ深くは言及しないでおこう。
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──神崎 昭が帰路につき、真っ白な光を帯びた月が綺麗に見え始めた頃。
他の運動部員もすっかり帰宅し、そこには冷たい校舎と静寂の残ったグラウンドがあった。
校内でも職員室や廊下、その他1、2室以外は真っ暗である。
まだ教師等が作業を続ける職員室。1人、部屋の一角の机で志水春樹が一枚の厚手のプリントを見ながらじっと考え事をしていた。
隣の年下の世界史教師、新堂がそれを覗き込む。
「あれ、神崎 昭って文芸部だったんですか?意外ですね…。
中学の時県まで行ったって聞いたんでうちのテニス部に来ることを期待していたんですが。」
志水は考え事を止め机におかれたコップに口をつけ、残っていたブラックコーヒーを飲み干した。
「────ええ。今日入部したそうです。
これでやっとうちの部活も1人、1年生が増えます。」
そう呟くと涼しい顔でひとり、──微笑んだ。