深山幽谷、死に近し
およそ一年前、文芸部にて執筆致しました作品にございます。
熟語を頻用し、やや締まった印象を受けるかと存じますが、何卒、お付き合いくださいませ。
どうぞお手柔らかに。
何処とも知れぬ未開の地、そこに、幽境はあった。
絶壁の聳える隘路を滔々と細流が往き、峨々たる断崖の諸処に数本の松が松籟に吹かれつつ逞しく生長していた。この地は霧不断の香を焚き、迷い込んだ者は最後、麓に下りることは叶わないと云う。かような峡谷に愚かなりとも足を踏み入れる者といえば、まさに人生において五里霧中、八方塞がりとなり、始終死に場所を求める者のみであった。彼らは生きる希望を喪い、吸い寄せられるように這々の体で訪れる。それが、この、深山幽谷の地であった。
少年は、漆黒の外套を身に纏っていた。頭から爪先まで、余す処無く、黒く覆い尽くす外套である。生地は、一見した処では判然としない。禍々しい意趣の、おどろお どろしい異種だと云えた。この衣裳に意匠の類は見られず、のっぺりと、まるで影を着ているような、そんな不可思議な感を覚えさせた。頭巾の奥には、黒く淀んだ瞳が覗いている。その無機質な瞳にはただ闇のみが湛えられ、覗き込めば、闇がこちらをも呑み込まんとした。その瞳を、少年はどこにともなく向けていた。
少年が今現在佇んでいるのは、事もあろうに松の木の上であった。人一人が全体重を預けるには、余りにも心許無い。何かの拍子に松が折れれば、命は無い。しかし少年はそのことを気にかける様子も無く、悠然と、颪に外套を揺らめかせるのである。闇の深淵をそのまま嵌め込んだかのような瞳を眼下の清流に落としながら。
突如にして、少年は背後に何かの気配を感じた。しかし振り向いても、何も見えない。もしも何かが見えたら、かような危険極まりない処に来て、身投げでもする積もりなのか、と訝るのが真っ当な物の考え方ではないだろうか。少年は自嘲の気色すらその瞳に宿さず、その気配が何だったのか、推理することにした。まず、今にも折れんばかりの松樹は、猿一匹でも撓み、やがて折れる。折れた幹は崖下の小川へ真っ逆様である。となれば、猿よりも軽い何かが居たことになる。正気の沙汰でない人間が来ることも在り得ないことはないだろうが、それなら松は真っ二つに折れているだろう。そもそも、如何に酔狂となれども、ここに立つのは不可能だろう。居るとすれば、自分と同じ、何ものでもない何か、ということになる。何ものでもない何か、成程、言い得て妙である。空虚な傀儡は、まさしく、然様である。その何ものでもない何かは、少年と全く同じでないにしても、恐らく、似た何かであることは疑いないだろう。かような場所に気配を現すだけで、そういったものであろうことは裏付けられているのだから。少年はゆるりと後ろを向いて、例の気配と相対した。
意を決し、「誰か居るのですか」と少年が訊くと、ややあって、「はい、貴方の眼の前に」と返答があった。嗄れた男の声であったが、依然、相手の姿は見えないままである。見えぬものとの会話は、名状し難い気味悪さを覚えさせた。手応えが無いのに、相手は見えないのに、返事のみが返ってくるのだ。甚だ奇妙であった。それを知ってか知らずか、男の声は、慇懃な口調で、「ところでお尋ね申し上げたくございますが、私めは一体、どうなっているのでしょう」と云った。どうなっているも何も、見えぬのだから見えぬと、そう答える他あるまい。仕方無く、「そちらに居るのは分かるのですが、如何せん、貴方の姿が私には見えません。一体貴方がどうなっているのか、僕にはそれを知る術は無いようです」と答えておいた。暫くして、「然様でございますか」と呟くのが聞こえた。今度はこちらの番とばかりに少年が、「貴方は如何な心積もりでここに来たのですか」と尋ねると、ふむとうなる声が聞こえた。何やら考え込んでいるらしいのだが、前述の通り、姿を窺えないので松韻と勘違いしてしまいそうだった。少年が待ち侘びた頃に、こう告げるのがあった。「恐らく、私めは幽鬼の類にございましょう。先程、ここらで身投げを図ったのでございますが、どうやら僭越なことに未だこの世に未練を持っているようなのでございます。然様な積もりは毛頭ございませんでしたが、かくて化けて出た以上、間違いはないのでございましょう。早々に今生に別れを告げ、閻魔様に謁見致さねばなりません。私めは無間地獄に落ち、然る報いを受けねばならぬのです」成程、死霊であるのなら、ここに現れるのも得心がいく。じかに会ったことはないが、いずれ然様なこともあろうと思っていたのだ。
相手の正体が判明すると、自然、痩躯で麻の着物を着た男の姿が、薄ぼんやりと、視認できるようになってきた。顔色は青白く、頬はこれでもかとばかりに痩けている。襟元からは、不気味に浮き出た鎖骨が覗いていた。亡魂だと云われれば、納得せざるを得ない容貌であった。
ところで何故、その男の幽鬼はこのような場所に現れたのだろうか。その旨を尋ねると、男の霊は答えた。「それは私めにも分かりかねます。きっと、この世の未練を断ち切れとの神様仏様からのお達しなのでしょう」神様仏様。その言葉を聞いて、少年の背筋に何か薄ら寒いものが走った気がした。そのようなことならば、男の幽霊がここに現れたのも、皮肉めいた因果を感じさせる。その亡霊が云う神様仏様とやらは、なかなか粋なことをしてくれるものだ。最も身近な神は、奪い、落とすことしかできない神は、惨めな程に疲弊し、憔悴しているというのに。惨たらしい終焉を、待ち惚けているというのに。
「ところで、貴方は」「なんでしょう」胸中で渦巻いている憤懣とした感情を仕舞い込み、出来うる限りにこやかに答える。男の問いは、以下のようなものであった。貴方は、何者で、どうしてこのような処にいらっしゃるのか、と。
今は昔。この時既に、少年は今と同じ有様を呈していた、しかし、今よりはまだ幾分か、一縷の希望を見出そうと躍起になれてもいた。それは僅かな相違かもしれないが、本質的には大きく異なっていた。
精神というのは重要な糧である。それを削られるというのは即ち、平静の瓦解を意味する。錯乱の果てには、磨り減った心が残る。摩耗した感情が残留する。やがて肉体が腐り、朽ち、魂の残滓がこの世を漂い始めた。それが、この少年である。少年は、自分が何であるか、分からなかった。探ろうとは思わなかったが、しかし、探らずとも知ることになろうとは、知る由も無かった。
最初は行く当ても無いので、近くの郷に逗留していた。人間というのは、肉体ありきの魂のみを感知するらしく、剥き出しの魂の欠片たる少年は、認識されることはなかった。誰にも干渉されることはなく、且つ干渉することもない。一抹の寂寞を覚えることもあったが、それ以上に、平穏に彷徨うのが心地良くもあった。
そんな或る日、郷でも最年長だった老人が死んだ。死因は分からなかった。明くる日、今度は子を身籠もった女性が急死した。死因は分からなかった。翌日、豪傑を謳われた頭領が変死した。死因は分からなかった。次の日、悪戯好きだった子供が殺された。死因は発狂した住民による刺殺だった。その夜、郷中が火と血の海に沈んだ。明朝、郷には焦げ跡と焼けた屍と、少年の魂が残った。
悲嘆に暮れた少年は、自らを慰める為に隣の郷を訪ねた。そこは、以前の郷のようだった。しかし暫く彷徨していると、また、人が死に始めた。そして、潰滅の末期を辿った。次の郷でも、同じ事が起きた。少年が滞在した場所で、人の死なないことはなかった。
そのうち、少年は、人郷を避けるようになった。いつの間にか、自覚したのだ。自分は、何もしなくても、できなくても、ただそこに居るだけで人を殺すのだと。疫病神ならぬ、厄災神といったところだろうか。或いは、死神、呪われた魂。少年がしていたのは、逗留ではなく、憑依だった。滞在ではなく、大罪だった。少年は自らを忌み、厭い、怨んだ。しかし、それで自らの本質が変わることなど、在り得ない。因って、何も発生しないよう行動するしかなかった。それから、少年が、その深山幽谷の地に辿り着くのに、然程の時は要しなかった。
「然様でございましたか、そのようなことが……。心中お察し致します」男は気の毒そうに眉根を下げて云った。「いいえ。僕の平静は止むことなどないでしょうし、ましてや、心を病むといったこともありません。こうして貴方にお話ししたことで、貴方は僕の闇を負ってしまった。そのことが、その悔恨の念が、僕を追って縋る、ただそれのみのことなのです。忘れてください、何もかもを、僕の言葉も、僕自身も……」そうすることで、貴方は、穢れのない、清く澄んだ魂のまま逝けるのですから。その言葉をしばし逡巡し、嚥下した。男は怪訝な目で少年の目を覗き込んで、やがて微笑んだ。やつれた顔で、痛々しい程に柔和な笑みを浮かべて。「それでしたら、少しばかり私めと話をしてくださいませんでしょうか。なに、どうせ忘れるのですから、冥土の土産にすらなりませぬ。墓にもどこにも持って行きやできません。ここでお会いしたのも何かのご縁、一期一会と云いますし、ここは一つ、お付き合い頂けませんでしょうか」細められた彼の眼の奥に、人懐っこい、幽かな輝きを見つけた。見つけてしまった。「……」少年は僅かに顎を引いた。
二人は崖の上へと場所を移り、その縁に腰掛けた。「茶も菓子もありませんが、何卒……」「お気遣い痛み入りますが、構いません。ですが、どうせなら酒があればよかったやもしれませぬ。きっと良き肴がございますでしょうから」何が切っ掛けとなったかは判然としないが、この男はどうやら、心を開いた者には随分と距離を近しくするらしい。先刻の、常に相手を窺うような物腰はこの霧の中へと雲散していた。半透明な男の亡霊は、殆ど見通しの利かない崖下の景色を見下ろし、何やら感嘆らしい吐息を漏らしていた。この濃霧の中に、彼は一体何を見ているのだろう。少年の視線に気付いたのか、男の幽鬼はこちらに微笑む。かような屈託ない笑顔を見せられるのに、何故彼は自死を選んだのだろうか。その笑顔の裏に、何を隠しているのだろうか。少年と何が一線を画しているのだろうか。訊こうにも、赤の他人の死に無遠慮に踏み込むのは憚られる。そうして、暫時、沈黙が流れた。
「……何も見えなくとも、何かを見通そうと躍起になってはみましたが、矢張り見えぬものは見えませぬな」唐突に、男が口火を切った。「亡魂となり、摩訶不思議の存在となり、何かこの身に変わったことは、と思っておりましたが、哀しいかな、ものに触れることさえ叶わぬ、ただの霞に他なりませぬ」霞ならいっそのこと、仙人にでも食われた方が重畳でございましょうか、と、幽霊はそっと目を眇める。「貴方の最期を、聞かせてくださいませんか」少年が云うと、彼は眼窩の奥に虚ろな光を湛えて云った。「聞いて愉快なものでは決してございません。私めは、鬼畜の所業を為したのです。貴方よりも、より凄絶な、悪行に手を染めたのです。お話しすれば、きっと私めの負荷は軽くなるでしょう。赦しを乞う積もりは毛頭ございません。私めの負い目は、私めの中で堆く積み上げられるべきなのです」「……」見たこともない、謎の迫力に、思わず気圧される。彼は息を呑む少年を黙視し、初めて見たのと何ら遜色ない笑みをその痩せぎすの顔に貼り付ける。少年は、彼の言外の声を幻聴した。
「さて、話を変えましょうか。……そうですね、折角死んだのですから、お互いの死生観を語るというのは如何でしょう」彼は、有無を云わせない威勢で以て強引に話題転換を図っていた。それ程までに、この死霊の重荷は形容し難き煩悶に覆い尽くされているのだろうか。「……僕は、輪廻転生が、都合の良い解釈の内の一つに過ぎない、ということくらいしか、思う処はありませんが」彼は、自らの意向に少年が乗ったと知るや、元の明朗さを取り戻した。「と、云いますと」「来世で云々、というのは、僕には現世からの逃避であるかのように思われて仕方が無いのです」「私めは、寧ろ逆であると思っておりますが」「?」「それはつまり、現世で何らかの逃避行為をしても、また来世でその因果、因縁に縛られる、ということでしょう? ――丁度私めのように。自縄自縛とはよく云ったものでございますね。須らくは、輪廻で永遠に、私めが生前しでかした事を贖うべきなのです」「いつかは赦される、ということは最早、念頭には無いのでしょうね」「無論です。万物に蔑まれ、嘲られ、論われ、虐げられ、甚振られようと、恒久的にそれを甘受し続けなければなりません」自らそう断じることが出来る程に、自覚した咎は重いということだろうか。果たしてそこに夸誕が含まれているのか否かは知る由もないが、兎も角、今の少年にとって、それを是とする他ないのは、火を見るよりも明らかなのであった。ここまで自らの罪を贖わんと一意専心する者は、今後に於いてもそう類を見ないだろう。
その後、他愛もない歓談に花を咲かせ一息ついた処で、少年の隣りに坐った幽鬼が、「私めはもう人にございません。或いは、まだ人にはございません。生まれ変わり、僅かでもこの身にこびり付く穢れを雪ぎ落としたいのです。貴方のお蔭で、烙印が再び煌々と輝き始めました。私めがこの地と貴方に逢着したのは、恐らく神様仏様の計らいに因るものなのでしょう」次に、幽霊は何を云うのか、凡そ察しはついた。その言葉を待ち、静聴する。「それでは、左様なら。いつか、またお逢いできる時を、心待ちにしておりますから――」彼が遺した言葉と白い残滓は、霧の中に溶けて消えていった。
何処とも知れぬ未開の地、そこに、幽境はあった。そこは、最後の地である。人知れず災厄と相成った少年の魂が黒い外套に身を包み、訪れる者の最後の旅立ちを見送る、あらゆる結実の集合点である。この深山幽谷の地は、蓋し、次の生への階であるのだろう。山紫水明とも形容すべきこの地は、遍く終局を発端へと昇華すべく、あるのかもしれない。死を、生へ。それこそが真髄であり、真骨頂でもあった。
即ち、深山幽谷、死に近し。
今回の後書きはご覧の通り、長いです。
今作が恐らく、私自身の死生観を文字に起こした作品の、黎明であったように思います。
それにしても、一年前の私は何を考えていたのか、どうしようもない程に、男の幽霊の言動が支離滅裂、意味不明な事態に陥っております。いやはや赧顔ここに極まれり、といったような心地にございます。まぁ、それ程に男の幽霊が謎めいていたということに致しましょう。
ちなみに今作のタイトル「深山幽谷、死に近し」は、「剛毅木訥仁に近し」という言葉を元にしています。これにより、作品のイメージが深くなればと思っておりましたが、如何でしょうか。
詳しい裏事情というか設定を練っている時もありますが、今作は殆どそういったことはございません。ですので、読者の方々の、お好きなように想像して頂いて結構でございます。読者の数だけ、その世界観があるということでしょうかね。
思えば、私の難しい文章を書きたがる癖は、「Loup-garou」や今作で培われたような気がします。
今はなりを潜めてはいますが、それはそれは酷い時期があったものです。
その癖と申しましょうか、病気と申しましょうか、それの最盛期に起筆、擱筆致しました拙作「手記、今生臨の暇乞い」を投稿したく思っておりますが、何せ難解な熟語や言い回しの血祭りと形容したくなるような惨事にございますので、一度、ついこの間手遊びにルーズリーフに仕上げました作品を二作、クッションに使用しようかと思っております。そちらは、ライトベル風能力ものラブコメ的な何かであったり、ただ普通に剣戟を交わすだけであったりしますので、ご安心を。
ご読了頂き、恐悦至極に存じます。