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アリカ  作者: ざわし
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プロローグ 


0



確か、その日はいつもより少しだけ寒かった。


玄関を出た時に感じる空気がいつもより一段冷たくて、急いでマフラーと手袋を取りに戻った。

そういえば、朝の番組でアナウンサーが「ダウンをおろすには丁度良い」って言っていた気がする。


耳の痛さを感じながら教室に入ると、クラスメイトも数人防寒具を使っていて、いよいよ冬の本格化を感じ取った。


それから朝礼が始まり、眠たい授業が続いて、お弁当を食べて…

代わり映えのしない、それでいて何の変哲もない、ありふれた日常だった。




事故。



それは記憶を形容するには不自然な言葉選びのように思えるけど、

突如として私の目に飛び込んできた、偶然出会ったあの一瞬の出来事は、事故としか、表現のしようがない。



だけど、後になって考えると、この事故に出会った事は、きっと必然だったんだろうと思う。

少なくとも、あの子との出会いをもって、私は後悔なんて何一つしていない。





1


食べるのが遅い私は、いつも教室の最後の住人だった。

加えて口数も少なく、話す事に常人の数倍エネルギーを必要とする性格が拍車をかけて、

いつも一人でお弁当を食べていた。


親切に授業のために必要な情報を教えてくれる存在なんて、当然私にはいなかった。

だから、五時間目に移動教室がある事を知ったのも、たまたま横にいたクラスメイトの会話を盗み聞きしてのことだった。



こんな自分が、情けないとは思う。

授業一つ、盗み聞きをしないと参加することが出来ない。


でも、そんな劣等感も毎日続くと、流石に耐性がついてくる。


いや、正しくは、内側からふつふつとこみ上げる嫌な気持ちを、力技で忘れる能力がついた。


都合の悪い出来事は、自分の中から消してしまう。

私が学生生活で身に着けた、数少ないスキルだった。


だから、最後までとっておいた卵焼きを急いでかきこんでも、教室の施錠担当を無言で押し付けられても、

小走りで次の教室まで移動したって、平気だった。

だって、その時感じたみじめな気持ちなんて、しばらく経ったら簡単に忘れることが出来るんだから。



廊下に響く生徒達の話し声、上履きが床に擦れる音。

それに混ざって、不自然な音が、耳に入った。


急いでいたとはいえ、気になって少し移動を遅くする。

それは、勢い良く、水が跳ねる音だった。


一瞬、誰かが蛇口を開けっ放しにしているのか、と考えた。

でも、それにしてはおかしい、

均一的に流れ続けているというよりも、不規則で、動きに波が感じられるようなリズムの音だった。


それは、廊下から一瞬通りかかった、理科室の中から聞こえていた。



いつもよりも一段冷たい空気で冷え込んだ、人気のない空間。



電気は付けられてなくて、部屋の中は所々空いているカーテンの隙間からの光だけで照らされていた。


微かに見える教室、

その窓際に、学ラン姿の生徒が背を向けて立っていたのが見えた。

ゆっくりと揺れている、肩辺りまで伸びたロングウルフ。

薄暗闇に立っているはずなのに、なぜか髪が淡く灯っている。


そんなことよりも。

いや、髪が光っている事も十分に不自然ではあったけど、

それに対する思考が後回しになるくらい、注目すべき所が、それにはあった。



その生徒は、ただひたすら、頭から水を被っていた。




理解できない状況に、思考が止まった。

右手のペットボトルが傾くたびに、頭から水が流れる。

床には水溜まりが出来ていて、空になったボトルが何本か転がっていた。

その時、水を吸って黒さを増した学ランが、すごく重たそうだった。


手に持っていた最後のボトルも空になって、それを床に置く。

すると、さっきまで響いていた水音がピタリと止んで、それからしばらく静かな時間が続いた。


それでいてなお、私はなぜか、その後ろ姿から目が離せなかった。


制服から滴るしずくが、不規則に音を立てる。

まるで冷たい空気で時間まで凍り付いてしまったような、

痛みを持った静寂だった。



不意に、大きな音が響いた。


学校中にチャイムが鳴った。

それを聴いて、初めて我に返った。


今、どれくらいの時間が経過したんだろう。

どうして、私はこの子をしばらくの間、見つめていたんだろう。

そもそも。なぜ、目の前の生徒は、こんな寒い日に水を浴びているんだろう。



思考を再開した束の間、

まるでチャイムが鳴る瞬間をずっと待っていたみたいに、学ランを着た後ろ姿が、少しずつ、体を振り返らせていた。



まずい。


爪先から頭にかけて、ビリビリとした感覚が流れていく。

決して言語で説明することができない根源的な感覚が、目の前の生徒とこれ以上関わることを拒んでいた。


でも。

今思うと矛盾した感覚だけど。

早くここから離れないといけないと分かっていても、不思議と足を動かす事はなかった。


早くここから逃げ出したい。だけど、見ていたい。

好奇心が、恐怖心を殺した、その刹那――。


その一瞬だけを繰り返すみたいに、景色が止まった。



薄明かりの中で、はっきりと見えた綺麗な、深紅の瞳。


ゆっくりと振り返ったその生徒と。


ただ、静かに。


確かに、私はそれと目が合ったのだ。


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