狂い咲き
艶やかな柘榴の、滴る赤。美しく飾られた、とりどりの祝い菓子。
精緻な細工の盆を彩る、可愛らしい光景。控えて並ぶ侍童達に、指し示す。
「みんな、よかったら食べて」
顔を見合わせる面々。おずおずと、その中で一番年長の侍童が尋ねる。
「よろしいのですか?」
「いいよ。お兄様方がいないうちに――ね」
悪戯っぽく微笑むと、一面ぱあっと華やぐ。丁重に礼をしてから、揃って手を伸ばす。
幸せそうに頬張る、多彩な肌色の顔。居室に漂う、薔薇水の香り。
いないはずの感触が、べっとりと、全身にまとわりつく。とても、食べ物を口にする気分にはなれなかった。
スヌンゴが、小さな器に、一房の柘榴と三つの菓子を移す。そして、そっと差し出した。
「さすがに全部は、もったいのうございますから」
その数の意味。淡く微笑んで受け取る。
弾ける、爽やかな甘さ。繊細な細工の施された菓子を眺める。
今朝、姉は、ベフナームと婚礼の式を挙げ、三人目の妃となった。しかも、今日はメフリガーンだ。
秋の始まりを祝う、収穫祭。
各地の名産品が、王〈シャー〉に献上され、その披露だけでも、見物客が溢れるほどだという。
家族や友人で集い、柘榴で長寿を、薔薇の香りで無病息災を、祈願する。新年祭のノウルーズと並んで、ファールサを代表する祝祭だった。
まさに、国を挙げての結婚。大切にするという言葉は、本当だったようだ。
せめて、花嫁姿を見られればよかったが、披露目前の身では、どうすることもできない。菓子を摘まんで、その幸せを心から願う。
訪いがあって、落ち着いた声が名乗る。侍童の一人が引き開け、高雅な姿が現れた。
「黄玉様。お務めは、もうよろしいのですか?」
十五歳以上の侍童は皆、楽士や舞い手として、祝宴に参加していた。寵童であるカースィムも、賓客をもてなすために、駆り出されていたはずだ。
「大役は果たしましたから。酌人は、侍童が務めればよいのですよ。私はもう、来年には退宮する身。誰かが見初められて、ベフナーム様のお心をお慰めしてくだされば、後顧の憂いもなくなります」
にこやかな笑み。おもむろに絨毯に座すと、そのまま倒れ込んだ。
「ああ、よいですね。小うるさい侍童達がいないのは。――あなた達も、そう思うでしょう?」
侍童達の、困った顔。怒った体で、大げさに言う。
「ぼくの大切な弟達に、変なことをふきこまないでくださいよ」
「おや、これは失礼いたしました」
すかさず起き上がって、カースィムが丁重に礼をする。顔を見合わせて吹き出す。
おもむろに表情を改めると、緩やかに話し始めた。
「本当に、素晴らしいお式でございましたよ。奥様は、私の舞いを、いたく気に入ってくださって――筆談役の侍女を介して、お言葉を頂戴いたしましたが、ああも手放しで喜ばれると、嬉しいものですね」
感動を全身で表す姉の姿が、ありありと浮かぶ。そして、それを咎めない環境。
妃に選ばれたと説明した時の、心躍るような表情が、にわかに心に染みてくる。
「他にも、不思議な振りをしていましたね。筆談では、一部しかお話しできなかったのが、とても残念です」
「……どんなふうだったのですか?」
「ええとですね、こんな感じで――」
相手を指し示してから、印を結ぶような手つき。そして、大きく腕を広げ、音の鳴らない拍手が続く。最後に、胸に手を当て、拝むように両手を合わせた。
「きっと――あなたの踊りは、とても上手ね。心から、お礼を言います。本当に、ありがとう。そんな……意味だと思います」
「……そうでしたか……」
静かに呟いて、気遣う微笑み。
一瞬、逡巡するように目がそれたあと、優しい声が語る。
「頭巾で、お顔は拝見できませんでしたが――ベフナーム様は、常にお気遣いなされて、奥様も、温かく応えられていらっしゃいました。見ているだけで、幸せな光景でございましたよ」
視界が滲んで、一筋、涙が頬を伝う。
正面に向き直り、膝をきっちり揃える。絨毯の上に両手をついて、深く額づいた。
「黄玉様。よい知らせを、まことにありがとうございました。このご恩は、決してわすれません」
マタラム式の最敬礼。そっと、肩に手を置かれて、顔を上げる。
涼しげな面立ちに宿る、悲痛な表情。
何事かを告げるように唇が震え、しかし淡く微笑んだ。
「……何か、知りたいことがございましたら、遠慮なく仰ってくださいね。きっと、お力になれるはずですから」
「はい、お気づかい、ありがとうございます」
頬を拭って微笑む。
まだ、うっすらと残る、哀しみの色。
カースィムは、ひとつ手を打つと、快活に言った。
「君達、そんなでは食べ足りないでしょう。私の分が、厨にあるはずだから、取ってきておいで。――大丈夫。お兄様方は、宴でおいしい思いをしているから、柘榴とお菓子なんて、興味ないよ」
少年達の歓声が上がる。
しまった、というように、口を押さえる姿。微笑ましく頷く。
「お言葉にあまえて、行っておいで。でも、あまりさわいだら、だめだよ」
元気のよい返事。一番年長の侍童が采配して、係を決める。
うきうきと居室を辞する三つの背中を、温かな心持ちで見送った。
*
サカ暦七六六年カリマ(五番目)の月の五日。
時季の移ろいを予感させる雨の中、その時を待つ。
閉めきった板戸の向こう、漏れ聞こえる、苦悶の叫び。
虚しく抱き続けてきた希望が今、生まれて消えようとしている。ただせめて、早すぎる出産が、妻の負担にならないことを祈る。
ひときわ高く、悲鳴が上がり、次の瞬間、朗らかな赤子の泣き声が響いた。
しばらくして、開いた板戸から、産婆が姿を現す。
「無事にお産まれになりました。元気な男の子でございます」
丁重な礼。謝意を述べて、心づけを渡す。押し頂き、辞する背中を見送る。
祝辞はなかった。赤黒い感情が、湧き上がりながら、渦巻いていく。深く呼吸をし、己を戒めるように、小さく経を唱える。
ゆっくりと溜め息をつくと、降りしきる雨音を背に、寝間へと入っていった。
暗がりの中、スアングティは横たわっていた。
茫洋とした瞳が、緩慢にこちらを向く。傍らに座ると、赤子の姿が、目に飛び込んできた。
黒い巻き毛。黒々とした瞳。濃い造作。赤い肌。
紛れもなく、父親はファールサ人と知れる容貌だった。
諦念が、心に重く、降りかかる。もはやここまでだ。
「……スアングティ」
名を呼びかける。この世の何よりもいとしい、妻のその名を。
「離縁しよう。……その子は、私の子ではない」
微かに、青い瞳が頷く。
ふあ、と赤子が、のんびりとあくびをする。その、無垢な仕草。
この乳飲み子には、何の咎もないのだ。新しく輝く命に、胸が詰まる。目鼻立ちは、確かに、スアングティに――二人の娘に似ていた。
「……どうか、健やかにあるように」
青が潤み、静かに雫をこぼす。
魔除けの短い経を唱えると、おもむろに腰を上げた。
「――こちらでございます」
ふくよかな手が、閉めきった竹の網代戸を示す。礼を言って、戸の向こうに断りを入れる。
身じろぎひとつない静けさ。叱りつける声が、隣で上がる。
「スメラティ、返事をなさい。バガワド様が、おいでになってくださったのよ」
息を呑む気配がして、ゆっくりと引き開いていく。
懐かしい顔が、隙間から覗いた。
「久しぶりだね。話がしたいのだけれど――入っても、いいかな」
はい、と小さな返答。開いた先に、足を踏み出す。
雨季に入ったというのに、風通しのない部屋。暗がりに沈むように、スメラティは隅に座った。額づいた背中を見つめる。
最後に会った時よりも、ほっそりとした肩と腕。どれほどの苦悩を抱えてきたのかと思うと、胸が詰まった。
緩やかに、穏やかに、口を開く。
「君に、頼みがあってね。娘達の世話を、お願いしたいんだ」
ファールサに送る調度品を送り出して以来、地揺れは、ぱたりと止んだ。
やはり、ウォン・ラナン・プティ(白い人)の血筋でなければ、神々の怒りは鎮められない――三大臣は、息巻いて懇願した。
何度も固辞したものの、祈祷や祭礼の度に、親族総出で説かれるのだ。
特に、二〈カリ〉の王女である実姉の言葉はこたえた。
――私達が苦しもうと、八歳で宮を出たあなたには、何の痛みもないんでしょうけれどね。
望んで選んだ道ではない。二〈カリ〉の王子はプマンクになる、という慣習に従っただけだ。心細くて一人泣いた夜が、いったい何度あっただろう。
スキリコを隠し通せるか。
言いようのない不安が心をかすめたが、折れずにはいられなかった。
しかし、幼い娘達を、たった二人残して、町に下りるわけにいかない。助言役として、頻繁に出かけるとなれば、家事と子守りの担い手が必要だった。
出産の翌日、少ない荷物と赤子を抱えて、出ていく背中を見送った。
せめて身体が回復するまではと引き留めたが、スアングティは、頑として、首を縦に振らなかった。
プマンクの夫に先立たれたなど、リシ・ヤドニャ(出家儀礼)を受式済みで、山を下りられない女達が暮らす女寺。スアングティは今、その一室に、身を寄せている。
こうなった以上、頼れるはずもない。召使いを探すよう、三大臣に頼み、薦められたのが、スメラティだった。
か細い声が、消え入るように答える。
「……有難いお申し出ではございますが――お守りすべきお方を見捨てて逃げた、卑怯なこの身にございます。どうか、ご容赦たまわりませ」
悲惨な光景を目の当たりにし、ふさぎ込んでしまった心。
スメラティは今年、十四歳になった。母親が、このままでは嫁ぐことさえままならないと案じ、手を挙げた。
その親心と、姉のスムナリの近習だった経緯。放ってなどおけない。
静かに、言葉を紡ぐ。
「君を卑怯だというのなら――私は、愚の骨頂というべきだろうね」
この二週間、母に会わせる、という名目で、娘達に様々な品を持たせ、女寺に足を運んできた。
家路を帰りながら、代わる代わる語られる話を聴き、思いを馳せる日々。夫婦の寝間は、いとしいぬくもりが去った、あの日のままだ。
「スアングティは、ファールサ兵に連れ去られた。わかっていたことなのに……死ぬことも、離縁も、許さなかった。その結果、赤い肌の子を産んだ」
はっと、やつれた顔が上がる。濃茶色の瞳が、悲痛な色に光る。
「それでも、この想いを止められない。たとえ、妄執だとしても」
静かに淡く微笑む。はらはらと落ちる、雫を見つめる。
「もはや、私は、バガワドと――ウォン・ラナン・プティと、尊ばれる存在ではないんだよ」
サトリアのプマンクにのみ、与えられる呼び名。
リシ・ヤドニャを受式した十四歳の時、寂しさを乗り越え、一心に修行した褒美のように感じた。確かに、誇りだったのだ。
「それなのに、流れる血からは逃れられない。静かに在ることを、許してはもらえない」
ゆっくりと、胸に息を満たし、おもむろに吐き出していく。滲む瞳を見つめて、言葉を押し出す。
「だから、助けてほしいんだ。スメラティ――姉上を慕い、心から仕えてくれていた君に」
痩せた喉から、嗚咽が漏れる。濃茶色の瞳に灯る、強い光。
スメラティは、承知の意をこぼすと、深々と額づいた。
羊皮紙を削り取るような、独特の癖のあるヤワ文字を見つめる。
筆談を必要とする、マタラム出身の妃。状況からして、まず間違いなく、姉のスムナリだった。
婚礼の式は、目を瞠るほどに盛大で、新婚の二人は、幸せそのものだったという。
言葉を選びつつ、事実を語る文面に、これほど苦い重みを感じているとは、外帝将は思いもよらないだろう。
不具のために、家族の輪から外されていた姉。どこかで、同士のように感じていた。
その姉が、結婚した。きっと、遠くないうちに、子を持つだろう。
たとえ家族の仇だったとしても、見込みのなかった夢を叶えられるのだ。どちらかが大切かなど、愚問だろう。
紙面から目を上げる。轟々と降りしきる雨。濡れそぼった庭土を眺める。
希望は、もうないのかもしれない。スクワトの行方は掴めず、ステノゴは〈薔薇の宮〉に送られてしまった。役目が侍童なら、まだ救いがあるが、詳細はわからないという。
それでも、諦めたくはなかった。これ以上、どうして、大切なものを剥ぎ取られなければならないのか。
スメラティは、よく働いてくれている。娘達も懐いているし、スアングティの手伝いも、うまくこなしているようだ。
そして、スキリコが話すには、何度か鉢合わせしてしまったという。
しかし、三大臣からは、特に何も聞こえてこない。まだ大々的には動けないものの、地盤は固まりつつある。
(何としても、取り戻さなければ――何としても、絶対に――)
傍らによけていたクラムビル(ココナッツ)紙を引き寄せる。
今後の助力を、どう願うべきか。薄い褐色の紙面を見つめて、思案する。
立場があろうとも、こうして手紙を送ってくれているのだ。マタラムに暮らした日々を、その深い縁を――きっと、忘れてはいない。
竹筆を取り、竹炭を溶かした壺に浸ける。文机に相対すると、息をついて、綴り始めた。
*
晩秋の空に浮かぶ、月を眺める。
身体の中身が押し上げられ、引きずり出される感覚。増していく速度。今夜は一回だといいな、とおぼろげに思う。
と、不意に、強い刺激が走って、悲鳴を上げる。
身体の中心から背筋を駆ける痺れ。波立つ影が、高揚した声音を発する。
「おお、シャーグルよ。ここか? ここが良いのか?」
その一点に、何度も打撃が来る。波のように押し寄せる何か。持ち上げられて、間近にある根が、ひくひくと震えている。
(何⁉ ふくれてるっ……いやだ! いや!)
しかし、声は、知らない音色へと変わっていった。高く――甘い、奇妙な声。太い影の猛った声が、楽しげに降ってくる。
「果てて射るか? のう、シャーグルよ。咲き乱れる瞬間を、見たいものよのう」
月が滲む。たまらず、首を強く振る。
何かが、身の内で膨れ上がっている。腫れた根。用を足したい時のような、それでいて、脈打つような疼き。
身体がはじけてしまう、と思った、その時。
強い衝撃。叫んで跳ねる。浮遊感と解放感。
歓喜の声が上がる。
「まっこと、めでたい! これぞ初矢よ! ジャハーンは、正しく仕事をしておったのだな。これほどに、胡桃と葡萄が浅いとは」
毛深い手が、頬に触れる。髭面が、機嫌よく笑う。
「すまんかったのう。だが、これで、そちも至れるというもの。わしが、じっくり育ててやるからの」
何が、起きたのだろうか。
変なものが飛び出たというのに、どうして、そんなに嬉しそうなのだろう。こんなにも、恐ろしいのに。
(……気持ち、良かったなんて……きっと、思いちがい……)
抜けて、身の内が閉じる。
さらに持ち上がった腰。身体が少しだけ広がって、一点が押される。
「まっこと小さな弓よのう。初心な弓ぞ。愛でてやらねばの」
真っ黒な髭の中に、根がうずまる。
確かに嫌だと叫んだはずなのに、脈打つ感覚に、妙な声が出る。
目の前の光景が、信じられなかった。まるで、ご馳走のように、不浄の場所を味わっている。
しかも、その刺激が、気持ち良いなんて。
(ちがうっ……! ちがう! きっと、何かのまちがいなんだ! だから、だからっ!)
枕を握り締めて、歯を食い縛る。
きつく吸われる感覚。緩んでは締まる波に、悲鳴を上げる。そして、一点を押し込まれた。
「やはり、まだ少ないのう。――まあまあ、これからよ。数多の白矢を射る日が、楽しみだの。のう、シャーグルよ」
「……は、い……ベフナームさま……」
髭面が、満足げに笑う。身体が、再び広がっていく。
根を弄る、太い指先。溢れるままに、声を出す。
「おお、おお、なんとのう、愛らしいさえずりだのう! 南洋の可愛い小鳥よ。今度は、ともに射てみようぞ」
滲む視界の中で微笑む。
髭面が迫り、分厚い舌が、口の中をなぞっていく。腰から這い上ってくる感覚と混ざり合って、全身が気持ち良かった。
ベフナームは、日を空かず訪れた。
そして、侵略した国の王子を、これだけ特別に遇するのだ。きっと知らなかっただけで、厠以外の使い方があるのかもしれない。
(……そう、きっと……善い行いなんだ……だから、気持ち良いんだ……きっと、善いことだから……)
晩冬の青空の下、威勢のよいかけ声が響く。火祭りの薪が組まれていく様を、見るともなしに眺める。
四日後には、新しい年が始まる。ファールサで迎える、初めての年越し。
マタラムでは今頃、悪鬼の張り子が、各地を練り歩いているだろう。それとも、もう少し先だろうか。
(雨が降れば……わかるのに……)
甕をひっくり返したようなプラハラ(スコール)。
その分厚い雲に切れ目ができれば、もう乾季は目前だ。暦を知らなくても、そうして人々は稲刈りをし、オゴオゴとニュピの準備を始める。
マタラムの様子は、〈緑の学院〉でも、おぼろげにしか聞こえてこない。皆が、つつがなく、カダサ(十番目)の月を迎えられるよう、祈るばかりだ。
果物と種実の載った盆に、手を伸ばす。
炒った種実の香ばしさ。ようやく、腹が満たされてきた。
(……お米が食べたい……魚とえびは揚げて……ああ、ぶたの丸焼きも……)
祭礼の豪華な料理達。
しっかり冷ました白米と、揚げ鶏の汁物に、鶏の串焼きと包み焼き。グダン(バナナ)やサンテン(ココナッツミルク)の菓子。
しかし、何よりも、炎に包まれて盛大に焼かれる、豚の脂の匂いに勝るものはない。
鶏肉と魚介類は、ごく稀に供されるが、豚肉だけは、絶対に食卓に上らない。そして、まるで改宗の証のように、定期的に牛肉が出された。
供された命は、残さず食べなければならない。ただ、心の中で経を唱えつつ飲み下しても、結局、えづいて吐いてしまう。
背中をさすって、慮る声。その、どこかほっとしたような――神獣を、好んで食しているのではないのだ、という思い。年嵩の侍童達の、突き刺さる視線。
いつかは、おいしい顔をして、平らげなければならない。その時、スヌンゴは、どんな目をするのだろう。
(……ののしられてもいい……そばに、いてくれれば……それだけで……)
スクワトの行方は、いまだ判然としなかった。
ベフナームに尋ねても、夜を越えれば忘れてしまう。定員の規定だけが嘘だったと仮定して、今は将来に託すしかなかった。
そして、姉は三ヵ月前、第一子を懐妊した。豪勢な振る舞い菓子が、〈薔薇の宮〉にも配られた。
小さな子達を楽しく世話していた、優しい姿。きっと、よい母親となるだろう。
おぼろげに、腹をさする。母子の健やかな日々を、静かに祈る。
と、何かが耳に引っかかって、振り見る。
優雅に歩みを進める姿。カースィムが、にこやかに微笑む。
「ああ、よかった。行き違いになってしまったのかと」
瞬いて、首を傾げる。途端、姿勢を正して、頭を下げた。
「……っすみません! ぼくが伺うと、お約束していましたのに」
年末ということで、師範は休暇に入っている。身体がなまってはと、舞いの名手であるカースィムに、稽古を頼んでいたのだ。
「いいえ、よろしいのですよ。私が楽しみにしすぎて、待ちきれなかっただけでございますから」
にこやかに笑む、涼やかな顔。
不意に、すっと冷えて、控える侍童達を見下ろす。
「なるほど――今日は、ボルナーが不在なのですね。侍童達にも稽古を、という、緑玉様のお優しいお心遣いに、ぜひともお応えしたかったのですが」
最年長の侍童が、はっとする。ファールサ人らしい赤い顔が苦く歪み、深々と頭を垂れる。
「……ご予定を頂戴しておりましたにもかかわらず、管理が行き届かず、誠に申し訳ございません、緑玉様。黄玉様におかれましても、大変ご無礼をいたしました。今後は、このような不手際のなきよう努める所存でございますので、何卒ご容赦くださいませ」
「さすが、銀で人売る赤銅面――ですね。正直でよろしい」
思わず、苦笑が漏れる。どうやら人買いにさらわれてきたらしいカースィムが言うと、痛烈極まりない。
おもむろに座して、柔和な声が尋ねる。
「緑玉様。もし、お加減が優れないようでございましたら、ご見学でも構いませんので」
「いえ、だいじょうぶです。火祭りがめずらしいもので、つい見入ってしまいまして」
茶色い瞳が、わずかに細まる。しかし、すぐに笑みが広がった。
「左様でございましたか。――では、始めるといたしましょう」
「はい、よろしくお願いいたします」
明瞭に返事をして、立ち上がる。
最近、ぼーっとしてしまう時が増えている。しっかりしなければと、気合いを入れて、厳しくも秀でた指南を受けた。
豪奢な衣装に、念入りな肌の手入れと化粧。〈薔薇始め〉に選ばれる重みを感じる。
新年が明けて九日目。十三日続くノウルーズも、いよいよ終盤だ。
この期間、王〈シャー〉は各所を巡回する。宮殿と後宮で、それぞれ四日ずつ過ごし、最後に〈薔薇の宮〉を訪れる。
〈薔薇始め〉は、その初日の〈花見〉であり、最も寵が深い、という証だった。
扉が開くと同時に、深く頭を下げる。
「新年、誠におめでとうございます、ベフナーム様」
「めでたいのう、シャーグルよ。――どれ、顔をよう見せておくれ」
顔を上げて、上目遣いに微笑む。
頬に触れる、肥えた指。甘えてすり寄る。
「本当に、うれしゅうございます……今日まで、どれほど長かったことでしょう」
「わしもぞ。今日は、二人きりで、ゆっくり過ごそうのう」
肥え太った影が、覆い被さってくる。分厚い舌に絡め取られ、吸われながら、あっという間に全裸になる。
尻を掴んで揉む両手。喜んで、腰を振る。淡々と、静かな声が割って入る。
「王〈シャー〉よ。寵をお授けになるのであれば、〈追肥〉を」
「――おお、そうか。すまんのう。この愛らしい顔を見たゆえ、ついな」
ジャハーンが、居間から寝間へと移動するよう促す。
抱えられたまま、でっぷりと肥えた腹に、弓をすりつける。黒い髭面が、鷹揚に笑う。
「早う射たいよのう。今日は、たんと、白矢を射ようぞ」
「……うれしい……ベフナーム様……」
寝間の絨毯に下ろされ、寝台に腰かけた、その下衣の紐を解く。下着から引きずり出し、熱く息を吹きかける。
「でも、ぼく……果てる方が……好き、です……」
指が入る感触を合図に、口に含む。そして、自分の弓に、手を伸ばした。
気持ち良さに打ち震える。歓喜の声が、降ってくる。
「まっこと、健気なものだのう! 我が猛き弓で、存分に果てさせてやるゆえの」
幸せだと告げるように、深く飲み込んで、強く吸う。射る予感に、声が高まる。
こうして、〈弓張り〉と〈弓引き〉を同時に行うと、太い影は、必ず喜んだ。
しかし、毎回同じではなく、体勢や時機を変えた方が、おもしろいらしい。今は早く入りたいみたいだから、後ろを向いた方がいい。
脈動を、じっと溜める。
ジャハーンが去る気配とともに、片手で尻を掴んで、振り返る。
「ベフナーム様……ぼくっ……ぼく……」
「わかっておるぞ、我が可愛い小鳥よ。そちの小さな手では足りぬのう。今、引いてやるゆえ」
毛深い手が、弓を握り込む。ひたりと宛がう感触。
白矢を射ながら刺し貫かれる衝撃に、高く悲鳴を上げた。
全身が、気持ち良くて苦しい。
いつ、灯火が点いたのだろう。最初の受寵のあと、昼食を摂って昼寝をし、また受寵した。夕食を供された気もするが、なんだかもう、わからない。
気持ち良さに喘ぎ、甘えた声で、もっととねだる。その度に、涙が溢れた。
大きな悦楽を感じているからだと、巨大な影は言う。より多く感じれば、矢筒にある弓も良くなる、と。
だから、自分で、豆粒や弓を弄った。中身が、ぎゅうぎゅう締まって、腰が、びくびく跳ねる。唸る声が轟く。
「おお、おお! まっこと素晴らしいのう、シャーグルよ! たんと白矢を射てやろうぞ!」
打撃に合わせて、良いとか、すごいとか、言葉にならない何かを叫ぶ。突き抜けて、凄まじい感覚が、身体をわななかせる。
少しして、黒い髭面が迫ってくる。
「可愛いのう。いとしいのう」
分厚い唇が、ぐにぐにと押し当てられる。おもむろに、腹から重苦しさがなくなって、終わりを知る。
「――さて、寝るかの」
傍らの手ぬぐいで、肥えた巨体を拭き、新しい方で、自分の汗を拭う。
背後で、轟々と鳴り響くいびき。うまく立てなくて、隅に佇む影を呼ぶ。
「……ジャハーン、お願い……」
影が揺らめき、人の形を為す。音もなく近づいて、長い腕が、ゆっくりと抱え上げる。
ばたばたと、白矢の落ちる音。こんなに長く、念入りに掻き出すなんて、初めてかもしれない。
(明日……きちんと、厠で使えるといいな……)
涙が、はらはらと伝っていく。悲しくも、気持ち良くもないのに、どうしてだろう。
寝間着を着せられて、化粧が落とされる。差し出された抱き枕に、きつくしがみつく。その指が、柔らかくほどかれて、そっと繋がる。
深く低い声が、静かに歌う。
「――クラムビルが落っこちて、青い海を、どんぶらこ……遠く、遠く、どこへゆく……」
さざめく波。山刀を振るう、風切りの音。喉を甘く滑っていく、ぬるい汁。
(……クラムビル水……飲みたいなあ……)
スヌンゴと分け合えたら、それだけで素敵だ。
(でも……できれば、揚げグダンも食べたい……サンテンを、たくさん……まぶして……)
そんなことは、もう無理だろう。きっと、もう、帰れない。どうしてか、そんな気がした。
ひんやりとした、手の感触。
故郷の音色が撫でる中、滑るように、意識が落ちていった。




