到来
サカ暦七六五年マラ・サドハ(閏月一三番目)の月の二十三日。
時季外れに降りしきる雨。騒がしい大粒の音とともに、先刻まで読んでいた書状の文面が、頭を巡る。
スティンヴァーリから届いた返事は、すげないものだった。
それでも、回答があっただけでも、ましと思うべきか。同送されてきた外帝将からの手紙が、わずかな希望だった。
あくまでも古い隣人としてだと、断った上での温情。
ファールサに赴くとあったから、何かしらの手がかりが掴めるかもしれない。居所さえわかれば、打てる手も見つかるだろう。
(……今はただ、待つのみ……武力を持たぬ手でいるならば――)
濡れそぼり、澱んだ庭土の水溜まり。田畑を潤し、村落を呑み込む、恵みと破壊の天水。
一向に晴れぬ鈍色の空を、ただ静かに見つめた。
*
ソル暦二五〇年七月九日。
「――ちちうえっ! ちちうえ!」
木扉を押し開けた途端、幼い我が子の歓声が、鼓膜をくすぐった。飛び込んでくる勢いのまま、すくうように抱き上げる。
心の溶ける、愛らしい笑顔。ぷくぷくとした頬に口づけ、土間で短靴を脱ぐ。そうして、機の前に立つ妻に歩み寄った。
グンヒルドが、肩越しに振り返って微笑む。
「アルヴ、ちょうどよかったわ。これから、あなたのところに行こうと思っていたの」
「何かあったか?」
きりが悪かったのだろう。ちょっと待って、と一言入る。
頷いて、息子を乳母に預け、時節柄、火のうずまった炉端に座って待つ。
右から左へと渡されていく、毛糸の束。木のへらで丁寧に筬打ちされ、目が詰まっていく。織り始めの、わずかな上部。どんな柄が仕上がるのかと、楽しみに思う。
「――よし。いいわね」
作業を数回繰り返したところで、グンヒルドは、織り目を数えて、ひとつ頷いた。
そうして傍らに座ると、革帯に提げた小さな鞄から、一枚の紙を取り出した。受け取って広げる。
流麗なファールサ文字。差出人の名に、はっと顔を上げる。聡明な面立ちが、確かに頷く。
「しばらく返事がなかったのだけれど――どうやら、お考えあってのことだったようだわ」
唾を呑んで、食い入るように読み進める。返事が遅れたことの詫びに続いて、歌うような文句が綴られていた。
――南洋の蝶は、野薔薇で翅を休めています。秋の祝祭には、名声の下へと飛び立つでしょう。美しい蝶の囁くには、幼い薔薇のうち、ひとつは庭に植えられ、もうひとつは咲き場所を決めかねている――とのこと。
勇ましき岩の狼は、月影の照らす地にとって、大切な同胞。その懐から得た銀で日々を送るなど、心苦しく、胸を痛めております。もし、太陽の贈り物の下で咲けるのなら、野薔薇は喜んで、猛き狼に頭を垂れるでしょう。――
読みきって、こめかみを押さえる。どうしてこうも、ファールサ人は持って回った言い回しを好むのか。
グンヒルドが、眉尻を下げて、補足を入れる。
「私も、さすがに不安だったから、スピユットの戦士団長に確認したわ。――要するに、スムナリ第三王女は、正后ナスリーンとともに、後宮で暮らしていて、メフリガーンに王〈シャー〉の妃になるようね。ステノゴ第六王子は〈薔薇の宮〉に、スクワト第一王子の行方はわからない。それから、太守〈アミール〉メフルダードの妻になれるのであれば、協力は惜しまない、ということだそうよ」
つまりは、王〈シャー〉を追い落とせばいい。
それは、太守〈アミール〉にとっても、利益になることだろう。
宮殿の内部に協力者を得られれば、強力な武器になる。光明が見えてきて、心が奮い立つ。
「グッニ、これを借りてもいいか? ヘリイェイルに送りたい。きっと、手助けになるだろう」
王〈シャー〉の婚礼の噂は、耳に届いていた。近いうちに、知らせが舞い込むだろう。
そして、皇帝の名代として、祝宴に出席する外帝将は、すでに招待状を手にしているにちがいない。王〈シャー〉の腹違いの兄である太守〈アミール〉も、同様だろう。
遠く、太守府のあるアスパダナへと赴く手間と言い訳が省けた。二羽の鴉から朗報を聞いた心地で、再び文面に目を落とす。
「もちろん、構わないわ」
しっかりと頷く声。しかし、どこか陰りのある音色に、顔を上げる。
寂しげな微笑を浮かべて、グンヒルドが言葉を継いだ。
「可哀想な人だと思って――ご結婚されて、もう十五年は経つのに、想い続けているなんて……」
「……そうだな……」
閉じ込められ、顔すら表に出せない、ファールサの女達。
ノールでも、結婚は父親の取り決め次第だ。しかし、子の人生を振り回してまで、縁談を強行することはない。
にじり寄り、肩に預けられる、淡金色の頭。スノーヴァーリらしい灰色の瞳が、優しく微笑む。
「夫があなたでよかったわ。お義父様に、感謝しなくてはね」
同い年の、母方の従妹。幼い頃から、ともに過ごしてきた。初恋であり、青春であり、愛そのものであった。
手を重ねて囁く。
「愛しているよ、グッニ。どんな困難な航海になろうとも、君さえいれば、乗り越えていける。二人で、この荒波を乗り越えよう」
確信に満ちて、白銀に輝く澄んだ瞳。
応える吐息に返すように、柔らかく口づけを交わした。
*
サカ暦七六六年カサ(一番目)の月の四日。
クラムビル(ココナッツ)の剛毛を束ねた、たわしを手にしたまま、滴る汗を拭う。
乾季は真っ盛り。照りつける昼下がりの太陽が、目に眩しい。日影にいても、暑さは容赦してくれない。
たらいに満たした水に皿をつけて、こすりながら、夕飯はどうしようかと思案する。
スアングティの体調は、一向に回復しなかった。一方で、身ごもった腹は、順調に膨らんでいた。
その、悟ったような色のない瞳。
この身の種だと、何度言い聞かせても、静かな青を見る度に、希望は虚しく、さらわれていった。
(……たとえ、我が子だったとして――私は……)
きっと、以前のように、妻を抱けないだろう。
ファールサの男達は、どんなふうに暴いたのか。どうやって苛んだのか。夫しか知らぬ畑を、どのように踏み荒らしたのか――。
焼けつくような劣情の渦巻く心で、どうして穏やかにいとしめるというのだろう。幸せに溶け合っていた時は、もはや取り戻せはしないのだ。
じんわりと湧き上がる、湿った重みを飲み込む。ぼやけ始めた視界を払うように、手首で目元をこすった。
なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。なぜ、自分達なのか。もし、島民達を放り出して、家族で逃げられたら――。
気を抜けば、邪念に覆われる心を経文で満たして、黙々と皿をすすぐ。
最後の平皿を籐の籠に押し込めると、悪心を打ち払うように、たらいの水をぶちまけた。土に染み込んでいく様を、見るともなしに眺めて、籠に手をかける。
と、軽やかな足音とともに、長女のスイムティが現れた。
背丈に合わせて柄を切った短いほうきを持ち、大人ぶった口調で宣言する。
「ちちうえ、三〈テル〉のだいじんが、まいりましたよ」
思わず、不審に眉をひそめる。
政は三大臣に任せてある。ファールサの文官もいる。大臣直々とは、いったいどういうことだろう。
「……ちちうえ?」
じっと見上げる視線に気づいて、眉間を緩める。微笑んで、柔らかく告げる。
「知らせてくれて、ありがとう。お掃除はもういいから、二人で遊んでおいで」
「うん!」
元気な返事。愛らしい笑みが、幼い顔に広がる。
ほうきを仕舞うべく、物置へと駆けていく小さな背中を見送って、玄関門へと足を向けた。
手をつき、深く額づく頭を見下ろす。述べかけた口上を遮るように、言葉を出す。
「挨拶はいい。いったい、何用だ」
おもむろに上体を起こして、恐縮した声が語る。
「今年の収穫祝いの祭礼に、王〈シャー〉が四人目の妃を娶る、とのことで――お祝いの品の選定をお願いいたしたく、まかり越しました」
やはり、ろくなことではなかった。長く溜め息をついて、固く告げる。
「私は政には関わらないと、伝えたはずだ。支庁の文官と相談して、進めるがいい」
「しかし、スセハト王子……!」
本音がこぼれた失言。
目を泳がせ、即座に平身低頭する。くぐもった声が懇願する。
「……お言葉ながら、バガワド様。先日の揺れは、非常に大きなものでございました。王家の皆様が去られて以来、頻度は増すばかりにございます」
確かに、一ヵ月余り前から、地揺れが頻発している。こと、一昨日は、比較的規模が大きい揺れに見舞われた。
白い王を望む神々の怒りではないか――そう、島民達が噂していることも、把握している。
しかし、災厄が来る以前も、地揺れはあったのだ。
規模も回数も大きくなっていて、父と兄のスルシコは、懸念を示していた。特別に祭礼を行うべきか、相談を受けたこともある。
(あの時――姉上は、何かを見ていたのだろうか……)
遥か遠くを見はるかす横顔。
贈り物として、王〈シャー〉に献上され、今はどうしているのか。
「……地揺れについては、私も心配している。しかし、神々の尊いお心を憶測するなど、不遜なことだ」
哀願してすがる目を、しかと見返す。静かに宣告する。
「私は、政に一切関わらない。――話は終わりだ。帰りなさい」
青ざめて、わななく面立ち。
腰を上げ、縁側へと足を向ける。鋭い悲鳴が、背中を打つ。
「――バガワド様ッ! どうか、お待ちください!」
切迫した声音。
歩みを止め、肩越しに振り返る。悲痛な声が、板張りの床に響く。
「新しい妃は、マタラムより出でたとのこと! 今般の贈り物は、その居室に揃える調度品となるそうにございます! どうか、せめて、此度のことばかりは、お力添えいただきたく……!」
そっと、息を呑む。平伏した背中に向き直り、言葉もなく見つめる。
ファールサには、数多の移民がいる。そして、妃は身分を問われない。王〈シャー〉に見初められさえすれば、召使いでも嫁げるのだ。
確証などない。今回を許してしまったら、また次回があるだろう。
それでも、もし、スムナリなら。同じ年に生まれ、同じく家族から弾かれた、あの腹違いの姉だったなら。
恐縮しながらも巧妙な大臣に、言葉を下す。
「……わかった。ただし、今回限りだ」
礼を述べ、さらに深々と額づく姿。
ざらつく思いを、胸中で噛み潰した。
*
ファールサ暦二二二年四月十八日。
衛兵が訪いを告げ、巨大な体躯の男が入ってくる。
さりげなくあたりに視線を巡らせると、ほんのわずかな一瞬、張り出した眉骨の下の瞳に、怪訝な色が浮かぶ。しかし、疑問など呈さず、ファールサ式に、丁重に礼をした。
「――久方ぶりにございます、宰相。まずは、王〈シャー〉のご結婚につき、誠にめでたいことと、お慶び申し上げます」
頷いて、絨毯に据えた敷き綿を勧める。難なく正座をする姿を見届け、部下が茶を注ぐのを待つ。
静かに下がって辞する音。あくまでも穏やかに、口を開く。
「新任のご挨拶以来ですな――五年ぶりでしょうか」
「いやはや、もうそれほど経ちますか。時が過ぎるのは、早いものです」
外帝将が、視線と眉を下げて笑う。そして、少しかがむようにして、茶器に手を伸ばした。
まったく、立っていても座っていても、高さが変わらないのだから、忌々しい。
しかし、マタラムでの戦果は上々だったのだ。この悪魔のような巨躯の蛮族どもに、無数の矢が突き立ったと思えば、胸のすく心地である。
灰色の目が、強い光を宿して、愚直に語り出す。
「早いといえば――この度のマタラム侵攻は、鮮やかでしたな。機を過たず、事を動かされた。貴殿の手腕には、毎度ながら、目を瞠るばかりでございます」
ふっと淡く、笑みをこぼす。
神ホダーの威光は、万物に通ずる。異教徒が屈するのは、当然のことだ。
「褒め言葉、と受け取っておきましょう。――して、約束のものは、お持ちですかな?」
「――こちらに」
差し出された羊皮紙を受け取る。
スティンヴァーリ皇族を表す、岩山と狼の紋様が浮き上がった封蝋。
粗野な意匠を、素知らぬ顔で真っ二つに割り、巻き癖を伸ばして広げる。
ノール人らしい、角張った品のないファールサ文字。読みにくいことこの上ないが、書かれた内容に、満足する。
「――なるほど、増税の始期を定めたい、と」
「先の熱病は、多くの民の命を奪いました。それは、ヴァーリ地方はもちろん、ヘスト地方も、例外ではございません。関税により、復興の資金が不足すれば――トァール河に流す木材や木炭を、減らさざるを得ないでしょう」
外帝将は言葉を切り、ふっと息を漏らした。そうして肩をすくめ、眉尻を下げて苦笑する。
「――材木を切り出す者がいなければ、商船には、載せられませんからな」
甚だ遺憾に思う、といった様相。
まったくもって、白々しい。しかし、ここが落とし所であろう。
華々しい勝利から四ヵ月。マタラム支庁の整備は、始まったばかりである。
戦果は、投じた費用の分だけ育つ。決して少なくない支出に見合うだけの体制を構築するならば、多くの銀貨と時が、今後も必要になる。
その上、これもまた忌々しいことに、遊牧民が高原に帰る気配は、いまだない。
メフルダードは今、マタラムの第一王子の反抗をくじくことに夢中だが、略奪が落ち着かなければ、またわめき始めるだろう。
この美しい都〈シャフリカシャン〉が、いくら強固な円城に守られているとはいえ、東と北とに挟まれれば、さすがに分が悪い。アスパダナをいなしつつ、スティンヴァーリの国力を少しずつ削り落としていくのが、得策といえよう。
蛮族を駆逐し、北方の地に、神ホダーの威光をもたらすのは、それからでも遅くはない。
(まだまだ時はある――焦ることなどない)
六十歳を目前にしてもなお、心身は冴え渡っている。これを天啓と言わずして、何と表すのであろうか。
クーロシュと誓い合った、あの夕暮れ時を思う。
あれから四十三年。着実に、歩みを進めてきた。いと高き実りのために、己のあらゆる全てを捧げてきた。今さら急いて仕損じることの方が、愚かというものである。
そして、ベフナームは、狙い通り、新しい寵童に夢中である。
薔薇局長の報告によれば、この二週間余り、毎夜のごとく、〈花見〉に訪れているという。危ぶむことなど、何もない。
悠然と微笑んで、受諾の意を告げる。
「それでは、始期は、次のノウルーズとしましょう。修正した証文を作成いたしますので、明朝、文書庁にお越しください。王槍戦士隊の方々は、軍務庁の者に、外帝将館まで送り届けさせましょう」
「――承知いたしました。委細、よろしくお頼み申し上げます」
丁重ながら、眉骨の下で、挑むように燃える瞳。
再び熱病が襲えば、武力が全てのこの蛮族ですら、為す術はない。
確かに請け負って、上質な茶の芳醇な旨みを味わった。
*
サカ暦七六六年カサの月の二八日。
二十一歳になったその日の朝は、いつも通りの快晴だった。
のんきに尻尾を揺らす牛達。かけ声とともに、職人達の技術の粋が、次々と荷車に積まれていく。
手際のよい作業を眺めながら、定まる心を、静かに見つめる。
(たとえ、どうあっても――)
家族を取り返す。それだけは、必ず、成し遂げなればならない。
牛番に牽かれて、のんびりとした足取りが、道を踏み締める。
傍目には壮観な景色を、きつく睨み据えて、見送った。




