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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第二章 蕾のほころび
7/9

〈蕾開き〉

〈薔薇の宮〉を仰ぎ見つつ、道を進むと、宮務庁の建物が見えてきた。

 中へと入り、案内役が扉を叩く。一声かかって、持ち手を回した。短く整えた髭の男が、にこやかに挨拶する。

「ようこそいらっしゃいました。長らくお待たせいたしまして、誠に申し訳ございません。私は、宮務庁薔薇局の長を務める者にございます。入宮の準備が整いましたので、お手続きいただきたく――さあ、どうぞこちらに」

 絨毯の敷かれた一画を示されて、敷き綿に座る。薔薇局長が正面に座し、低い台座の上に、本を置いた。

 題名のない表紙。神の啓示が記されているという、ディーダム教の聖典ハーンだ。

「入宮が許されるのは、原則、ディーダム教徒の男子のみ。ご氏名は、ファールサ語に改めていただきます。本日より、ご本人様は、シャーグル・アーバーン・サブズ、お連れの方は、ボルナー・モンシと、お名乗りください」

 あまりのことに、言葉が詰まる。

 名は、ワルナ(カースト)を表す大切なものだ。前世で善行を積んだからこそ、サトリアに生まれた。シワの采配を否定するなど、とんでもないことだった。

 しかし、取引に応じた以上、今は従うほかない。

 心の中で手を合わせ、経を唱える。そっと息をつくと、振り返って尋ねた。

「スヌンゴ。意味は、わかった?」

「――はい。改名と改宗が必要、ということ……ですよね?」

 不安と決意の入り交じった眼差し。向き直って、手を取る。

「ごめんね……まきこんでしまって」

「みな様のお命を守るためにございます。姿形を変えたとしても、シワは行いをご覧になるお方。目的を見失わなければ、善い方向へと進めるはずです」

 額を寄せ合う。ともに小さく、神々の平和を願う経を唱えて、姿勢を正した。

「――それで、どうすればいい?」

「信仰告白を行います。私に続いて、復唱してください」

 念のため、再びスヌンゴに確認する。

 眉尻を下げた顔。ヤワ語に訳してから、正面に頷く。低く落ち着いた声が、詠唱を始める。

「――ホダーの他に神はなく、最後の預言者ハルフは、真正なる神の使徒である」

 短い文言で、ほっとする。スヌンゴも、ついてこられたようだ。

 薔薇局長が、厳かに宣言する。

「これで、あなた方は、正式にディーダム教徒となられました。まさしく、王〈シャー〉の寵を受けるにふさわしいお心にございます」

 ハーンを見つめる。

 異教徒であれば、人を人とも思わない神。

(学ばなければ。ファールサ人の心根を――その、命の境界線を)


 引き開いた扉の先、広がる光景に、思わず感嘆の溜め息を漏らす。

 贅を凝らした調度品の数々。精緻な織りのファールサ絨毯。壁も、床も、鮮烈に満ちている。

 多彩な紋様が溢れているのに、下品なところはどこにもない。むしろ、この色と柄の洪水があるからこそ、白い内装が映えるのだ。

 緑玉の間というだけあって、要所要所に、深い緑が輝いている。粒は小さくても、貴重で非常に高価な宝石だ。いったい、どれほどの費用がかかっているというのだろう。

(あ、ヤワ更紗……)

 居間の敷き綿袋や寝具に紛れた、見慣れた模様。低い寝台に腰かけて、そっと撫でる。

 一般的なものよりも、厚手の生地。確か、大陸への輸出用に、特別につくっているはずだった。

 細めの子供用の抱き枕も、きちんと用意されている。

 これがないと、マタラム人は寝られない。硬さや長さなど、各々のこだわりがあって、同じものはない、といわれるほどだ。

(……本当に、〈慈しまれる子供〉なんだ……)

 ファールサの所業は許しがたい。

 しかし、これ以上の危害が及ばないと確定したのなら、むやみに噛みつくよりも、この厚遇を享受した方が得策だろう。

(手続きが、早く終わるといいな……)

 薔薇局長が話すには、スクワトは、引き取り手がいなかったため、〈薔薇の宮〉で暮らすことが決まったという。

 ただ、異国出身の寵童の定員は二人で、空きがなく、侍童としての入宮となった。

 とはいえ、待遇は寵童並みということで、特例のため、手続きに時間がかかるらしい。なるべく早く、滞在先の宰相宅から移れるようにすると、薔薇局長は請け負った。

 もう、修復できないかもしれない。

 それでも、生きて、ともに過ごせるのだ。大人になって、知恵と経験を身につけたら、島に帰してあげられるかもしれない。

「シャーグル様。お食事は、あちらの区画だそうにございます」

 香草の独特な匂い。羊肉の臭み。

 豚肉の香ばしさを思いながら、対角の絨毯へと歩いていった。


「まず、この蒸留水で清拭する。それから、保湿を行う。顔は皮膚が薄いから、力は入れずに丁寧に」

 低い声が、淡々と手順を説明する。スヌンゴが、質問を挟みながら、真剣に頷いている。

 夕暮れ時、蒸し風呂に入って、さっぱりしたあと、スヌンゴとファールサ語の特訓をしていると、一人の男が訪れた。

 珍しく、髭のない顔。緑玉の寵童付きの〈庭師〉だという。

 名は、ジャハーン・サブジガーン。

〈庭師〉とは、〈薔薇の宮〉に暮らす少年達を診る医師で、特に、寵童付きは、世話の一切を取り仕切る責任者も兼ねるそうだ。

 そして、今夜は、〈蕾開き〉と呼ばれる儀式を行うらしい。驚くほど豪奢な衣装に着替え、化粧を施されていた。

 男なのに変な感じだが、なるようにしかならない。何が先々の利益になるか、わからないのだ。あらゆる全てを吸収する心持ちで、丁寧な所作を受ける。

「――これで完成だ。不明な点はあるか、ボルナー?」

「いえ、問題ございません。ご指導ありがとうございました」

 鏡に映った顔を眺める。

 想像よりずいぶん薄くて、ほっとする。さすがに、女の化粧とは方法が違うようだ。

「あとは私が引き受ける。朝まで、自室で過ごすように」

 意外な指示に、顔を上げる。

 スヌンゴの、戸惑った面立ち。心細さが胸を突く。

「……ねるまで、ともにいることはできないか?」

「立ち会える者は、〈庭師〉に限られている。例外はない」

 淡々と、しかし有無を言わさぬ口調。微笑んで、下がるよう伝える。

 辞する背中を見送ると、〈庭師〉は〈蕾開き〉の説明を始めた。その内容に、愕然とする。

(……覚悟を、決めないと……もう、あとには引けないんだから……)

 どういう意義かはわからないが、それが受寵だというのなら、受け入れるしかない。

〈庭師〉に促され、階段状の〈花台〉の上に乗る。寝間の隅に置いてあって、何に使うのか、ずっと不思議だった。まさか、こんな用途だったとは。

 下衣と下着が下ろされ、尻の穴が拭われる。

 香油の、むせ返るような薔薇の匂い。

 ぬるついた感触のあとに、細い管が、おもむろに入ってくる。

〈香水器〉と呼ばれた、腹の中を洗う水を注入するための器具。下腹が膨れていく感覚に、心がおののく。

 管が抜けて、〈花壺〉が宛がわれる。静かな声が告げる。

「腹に力を入れろ」

 噴き出す水流。腹を下した時と、同じ音。袖を握り締めて、きつく俯く。

 再び清拭され、ぬるぬると、香油でなぞられる。受寵のために、指を入れて、ほぐすのだという。

 しばらくさすったあと、ゆっくりと、入ってきた。

(考えるな……何も……考えたら、だめ……)

 これで、皆の命の保障が確約される。スクワトと、一緒に暮らせるのだ。

 そして、寵童は、王〈シャー〉の身内として扱われる。折々の行事で姉にも会えると、薔薇局長は話していた。

 ただ、厠で使う不浄の場所を繋げるだけだ。大切な人達を失うよりは、ずっといい。皆を守るためなのだから、きっと、シワも善行と見てくれるだろう。

 指が去り、綿(わた)で柔らかく拭われる。〈花台〉から降りると、服が整えられた。促されるまま、寝台の上に座す。

 ほどなくして、王〈シャー〉が訪れた。〈庭師〉が恭しく礼をし、宣言する。

「王〈シャー〉よ。蕾は今まさに、ほころびの時を迎え、受寵を待ち望んでおります」

「うむ、大儀である。――おお、おお、まっこと、愛らしいのう」

 髭面が微笑んで、何度も頷く。

 先ほど聞いた説明通り、頭を下げて、口上を述べる。

「慕わしきベフナーム様。あなた様の猛き弓を、どうか引かせてくださいませ」

「ようよう引くがよいぞ」

 膝立ちになったところで、下衣の紐を解いて下げる。同じように、下着も下ろした。

 でっぷりと太った腹の下――黒い剛毛に覆われた、肉の塊。ヤワ語では根、ファールサ語では弓と呼ばれるそこに、手を伸ばす。

 ファールサ人は大の風呂好きだ。風呂屋は、王都シャフリカシャンだけでも、大小合わせて、百軒はあるという。だから、きっと、よくよく洗ってあるはずだ。

 教えられた手順で、〈弓引き〉を行っていく。

 みるみる硬さを増していく根。形が変わり、グダン(バナナ)のようになる。自分にも生えているはずなのに、恐ろしくて、できる限り距離を取りつつ、作業する。

「おお、我が小さき蕾よ。弓は、弾けんばかりに引けた。そちの薔薇を、咲かせようぞ」

 太く短い指が、紐をほどく。

 寝転がって開いた脚の間に、王〈シャー〉が収まる。

「なんとのう、まっこと美しい薔薇よ! 白くまろい肌に、紅がよう映えよる。まさに、南洋の芸術品よ」

 ひたりと、感触が来る。ゆっくりと、穴が広がっていく。

 指とは比べものにならないほどの質量。

 息を詰めて、根が埋まっていく光景を見つめる。出す場所に、身体の一部を入れようなんて、いったい誰が思いついたのだろう。

 肥えた腹が当たって、王〈シャー〉が鷹揚に微笑む。

「やはりきついのう。今宵は〈蕾開き〉。ゆるりと咲かせようぞ」

 確か、これから動いて、急に止まると聞いた。それが、受寵の――終了の合図のはずだ。

 おもむろに、王〈シャー〉が腰を引く。腹の中身が引きずられて、思わず確認する。

(……だいじょうぶ……飛び出ていないから……だ、だいじょうぶ……)

 そうして、また、入ってくる。次第に増す速度。

 臍のあたりが、内側から、ごつごつと押し上げられる。のけ反った喉から、苦悶の呻きが漏れる。

 いったい、いつ終わるのか。こんなことに、何の意味があるのか。

 目の前の雄叫びを上げる影が恐ろしくて、抱き枕をきつく抱える。

 遠く海を渡ってきた、ヤワ更紗。

 幼い頃、甘えて、よく母に膝枕をしてもらっていた。母好みの、優美で鮮やかな柄を眺めて微睡む時が、大好きだった。

 高々と、破裂音が突き抜けていく。

 低く唸る声。身体が急速に閉じて、腰が寝具につく。

「〈庭師〉よ。蕾は開いたゆえ」

 隅に控えていた〈庭師〉が進み出て、布を差し出す。王〈シャー〉は受け取り、根を拭き始めた。

 断りがあって、指が入ってくる。

 掻き出すような感触。〈庭師〉は黒い小皿を確認すると、深々と頭を下げた。

「王〈シャー〉よ。確かに、受寵してございます。誠におめでとうございます。――緑玉様におかれましても、大変めでたきことと、お慶び申し上げます」

「――うむ。では、わしは戻るゆえ、あとは頼んだぞ」

「承りましてございます」

 自ら服を整えると、王〈シャー〉は去っていった。

 上体を起こして、〈庭師〉が淡々と告げる。

「――さあ、〈土替え〉をするぞ」

 受寵後の洗浄。きちんと洗わなければ、腹を壊すという。

 腰に力が入らず、抱きかかえられて、〈花台〉に乗る。

 受寵前の〈追肥〉と、ほぼ同じ手順。水の噴出する音に、沸々と、怖れが湧く。

(……これで、みんなを守れたんだ……だから、だいじょうぶ……だいじょうぶ……)

 何も、失ってなどいないはずだ。それなのに、どうして、こんなにも恐ろしいのだろう。

 寝具が、柔らかくかけられる。

 静かに辞する背中。意識が、滑り落ちていった。


 ふっと覚めて、瞼を開く。

 燦々と降り注ぐ朝日。見慣れない景色に、〈薔薇の宮〉に移ったのだと思い出す。

 身体が、だるくて重い。寝返りを打てば、腹に深く響いた。身を縮めて、顔を枕に押し当てる。せり上がる喉を、きつく飲み込む。

 訪いの合図があって、上体を起こす。

 返事をすれば、スヌンゴと緑玉付きの侍童達が現れた。絨毯に座して、挨拶する。

「おはようございます、シャーグル様」

 普段と変わらない面立ち。無事だったのだと、ほっとする。

 身支度を言いつけて、朝食を摂る。

 食欲は湧かなかったが、スヌンゴには、昨夜のことを知られたくなかった。

 紛れもない不浄の場所で、人前で厠と同じことをした。それで命が助かったとなれば、スヌンゴは、ひどく自分を責める。

 どんなに近しい間柄であれ、スードラにとって、王家の者は神々の化身なのだ。常に、清くあらねばならない。

 食器が片づけられて、居間の区画で、眼下の中庭を眺めていると、侍童達が、大きな籠をいくつも携えてきた。恭しく(こうべ)を垂れて告げる。

「王〈シャー〉より、〈蕾開き〉のお祝いにございます。ご受寵された由、誠におめでとうございます」

 それは、絢爛豪華な品の数々だった。

 衣装に装飾品、絨毯、絹地、小物類。どれも、一目で最高級だとわかる。

 この居室だけでも贅沢すぎると思っていたが、まだ上があったとは。ファールサの財政は、いったいどれほどの規模なのだろう。

「お礼をお伝えして」

 承知の意が返ってきて、ほっとする。伝達手段はあるらしい。

 とにもかくにも、いい関係を築いておくに越したことはない。義務は果たした。あとは、スクワトの手続き完了を待つだけだ。

 贈り物を仕分け、収納すべき場所を、侍童達と相談する。

 華やかな品々を眺めているうちに、腹の重さは、少しずつ薄れていった。


 その夜、〈庭師〉が訪れた。差し出された緑玉の耳飾りを、まじまじと見つめる。

「受寵の証だ。これから、耳に穴を開ける。じっとしていろ」

 思わず、髭のない顔を凝視する。

 化粧は落とせるが、穴は傷になる。いくら着飾るといっても、自分は男なのだ。限度というものがある。

「開けずにおく方法は……」

「――ない。王〈シャー〉に私の首を差し出すのであれば、別だが」

 ぎょっとする。薄く血の気が引くのを感じながら、尋ねる。

「罪に、問われる……のか?」

「薔薇の世話に、不備があれば」

 本当に、ファールサでは人の命は軽いのだ。観念して、承諾する。

「――今つけたものは仮だ。一ヵ月後、〈緑の学院〉に入院する。登院前に、これと取り替える。それまで触らないように」

「わかった。他に注意点があれば、ボルナーに伝えてほしい」

 頷いたのを認めて、緩く息をつく。

 今夜は、王〈シャー〉は来ないそうだから、ゆっくり寝られる。

 しかし、〈庭師〉は〈花台〉へと行くよう告げた。

「今日から毎夜、〈植えつけ〉をする。受寵に耐える身体をつくる作業だ」

 長身を見上げて固まる。

 受寵は、一度きりではないのか。

「……だって、もう……寵童に……」

「〈蕾開き〉は、あくまで初夜の儀式だ。普段の受寵――〈花見〉の頻度は、王〈シャー〉が、お前を気に入るかで決まる。つまり、多ければ、それだけ王〈シャー〉の寵が深い、ということだ」

 身体の芯が、すっと冷える。唾を飲み込んで、言葉を絞り出す。

「……〈花見〉がないと……どうなる……?」

「どうもならない。ただ――」

 黒い瞳に一瞬、微かな光が宿る。低い声が、淡々と語る。

「最上寵童になれば、正后と同等に扱われ、外交権限が付与される。外帝将などの国賓と、個人的に会見することもできるだろう。――青薔薇の耳飾りを授けるかは、王〈シャー〉のお心次第だがな」

 朝日の降り注ぐ中、恭しく拝む島民達の笑顔が浮かぶ。

 温厚で素朴な、優しい人々。咎ある父祖を迎え、王と仰いでくれた。庇護者を失った今、どれほどの苦境に立たされているだろう。

(……ちょっと……お腹が苦しくて、痛いだけだから……夜、ほんの少し、がまんするだけでいいんだから……)

 大丈夫と、心の中で繰り返し唱える。

 立ち上がって、〈花台〉へと足をかけた。


「黄玉の寵童、カースィム・メフル・ザルドと申します。以後、お見知りおきくださいませ、緑玉様」

 丁重な礼から、おもむろに顔が上がる。

 凹凸の少ない面立ち。日焼けが定着する前の赤子のような、澄んだ黄色の肌。涼やかな目元が、柔らかく微笑む。

「私は、ここの暮らしは長くございます。お困りのことがございましたら、ご遠慮なくお尋ねくださいませ」

「ありがとうございます、黄玉様。よろしくお頼み申します」

 茶色の瞳が瞬く。そっと、丁寧な口調が語る。

「お気遣いいただかなくて、結構でございますよ。あなたの方が、格が上なのですから」

 青、緑、紅、黄。四つの居室の色が、すなわち格の高さだった。

 とはいえ、明らかに年上なのだ。マタラム伝統の敬老の心まで、失いたくなかった。

「……まだ、言葉に慣れなくて……」

「確かに、ファールサ語は難しゅうございますね。私も、ずいぶん苦労いたしました」

 やはり、この人も、連れてこられたのか。

 あまり見かけない顔立ち。もしかしたら、遠く東の出身なのかもしれない。

「故郷を詮索しないのが、この〈薔薇の宮〉の習わし。ただ、お寂しいお心を分かち合うことはできましょう。少しでも、お慰めになれば、嬉しゅう存じます」

 口元が震える。視界が、潤んでいく。

 耳も、腹も、重かった。同じ寵童なのだ。尋ねたら、意味も、わかるだろうか。

 矢筒と呼ばれる身体の中身は、もはや少しの労力で、王〈シャー〉の代わりだという〈角〉を受け入れるようになってしまった。

 それなのに、やはりそこは、排出の――不浄の場所なのだ。

 斜め前に控える姿。慮る視線。一番、知られたくない――同じ乳で育った、大切な乳兄(あに)

「お心遣い、痛み入ります。どうぞ、仲よくさせてください」

 カースィムが穏やかに微笑む。そうして、柔和に告げた。

「――さあ、そろそろ参りましょう。よろしければ、少しご案内いたしますよ」

 頷いて立ち上がる。

 これから、円城内にある〈緑の学院〉に登院するのだ。

 夕方頃まで授業を受け、帰ってきてからは、枝葉院の稽古場で、師範から歌舞詩楽を学ぶ。一ヵ月の〈植えつけ〉を終え、今日から、寵童としての本格的な生活が始まる。

 そっと、腹に触れる。

 夜には、初の〈花見〉がある。太陽なんて暑くて苦手だったのに、今は昼の方が恋しい。

 久しぶりの敷地外。照りつける日差しを仰いで、沈まないよう願った。


 扉の開く気配がして、深く頭を下げる。

 寝台に座す巨体。顔を上げれば、上機嫌な笑みがあった。

「待ち望んでおったぞ、シャーグルよ。薔薇は見頃を迎えたかの」

「はい、ベフナーム様。あなた様のために、花開いております。――ですが、その前に、おうかがいしたいことがございます」

 ずっと気にかかっていたこと。

 薔薇局に問い合わせようにも、宮殿の事務には口出し無用の決まりで、確認できずにいた。

「なんぞ、申してみよ」

「ぼくのおいを侍童にむかえてくださったと、薔薇局長から聞きました。入宮の手続きは、いつごろ済みますでしょうか?」

 丸い顔立ちの中で、焦茶色の目が瞬く。

 妃と同等だから、親しく話すよう、〈庭師〉に教えられた。口調は、間違っていないはずだ。

「はて――そのようなことは、指示しておらぬがのう」

 固まって、髭面を見つめる。困ったように下がる、濃い眉毛。

 おもむろに、笑みが広がる。

「今日はもう皆、帰っておろう。また明日、尋ねてみるゆえ」

 毛深い肥えた手が、頬に触れる。黒い髭面が、おもむろに迫ってくる。そして、唇に、何かが押し当てられた。

 その、額でしか知らない感触。

 目を瞪って、赤銅色の景色を凝視する。

(……っ何、これ……⁉)

 舌が絡んで、吸いついてくる。

 こんなものは知らなかった。ただ、下半身を繋げるだけではなかったのか。

 抱きすくめられたまま、羽織が滑っていく。帯を解く音。肌着の中に手が差し入れられ、分厚い手が、脇腹を撫でた。

 途端、怖気が全身を駆け抜ける。とっさに腕を突き出し、肥えた胸を突く。

「いやだっ……さわらないで……!」

 するりと腕がほどけて、寝台に倒れ込む。太く低い声が命じた。

「――ジャハーンよ。〈誘引〉せよ」

 短い返答のあと、隅で控えていた〈庭師〉がやってくる。

 あっという間もなく、押さえ込まれ、衣が剥がれた。背後で縛られた手。仰向けにされて、冷たい声が降ってくる。

「〈庭師〉には、〈剪定〉の権限が与えられている。王〈シャー〉に危害が及ぶとあれば、容赦はしない。――わかったな」

 鞘から覗く、鮮烈な閃光。

 振り上げられて、吹き飛んだのは――あれは、兄の右腕だった。

 しぶく赤。崩れ落ちた背中。悄然とした顔。血の海に沈む身体。耳を裂く慟哭。

「まっこと美しいのう。このやわい白。まさに真珠よ」

 肥え太った影が、全裸で笑う。粘りつく視線。毛深い手が、頬から下へと、線をなぞっていく。

(……見ないで……さわらないで……いやだ……)

 島では、腰布一枚で過ごすなんて、普通だった。裸なんて、毎日、着替えで見られる。

 それなのに、今すぐ身を縮めて隠したかった。気持ち悪くて、恥ずかしかった。

 太く短い指が、胸の一点をつつく。上機嫌な声が語る。

「小そうて、愛らしい豆粒よのう。よくよく育ててやらねばの。――どれ、ひとつ、食べてみようぞ」

 根が、でっぷりとした腹にうずまる。汗ばんだ肌が、べっとりと密着する。

 豆粒と呼んだ点を、絡んで舐め上げる舌。悪寒に震えて、顔をそらす。

 無造作に転がる抱き枕。その、ヤワ更紗。母の、おやすみなさいの微笑。優しい口づけ。温かな膝。さらさらとした腰布。

「……助け、て……」

 手を伸ばしかけて、ぎちと締まる。背が丸まり、腰が高く掲げられる。

「いやだっ……助けて……母上……! 母上えぇ――っ!」


 いったい、どこで間違えたのだろう。

 腹が重くて、痛かった。感触が、全身にべったりと絡んで、気持ち悪い。

 轟々と響き出すいびき。覆い被さる、長い影。

 ようやくほどかれた手を、力の限り振りかぶる。それなのに、かいなく抱きすくめられてしまう。

「……っやだ! やだ、やだ、放してよぉ……!」

「もう大丈夫だ、ステノゴ。もう、終わった」

 紛れもない、故郷の音色。

 心に、深く沁みていく。静かな声が告げる。

「寝る支度をするから、もう少し、辛抱してくれ」

 しがみついて頷く。大きな手が、ゆっくりと背をさする。

「いい子だ」

 抱えられたまま、丁寧に洗われて、差し出された抱き枕を抱き締める。囁く低い歌声が、鼓膜を柔らかく震わせる。

「――まあるい、まあるい、お月さま。お母さま、見えるでしょう。おねがい、おねがい、取ってきて。明るく道を、照らせるように……」

 さあ、取ってきましたよ、と抱き締める、優しい母の笑顔。

 ――ステノゴ。あなたが、私のお月様――いつも明るく照らしてくれる、大切なお月様ですよ。

 少し厚手のヤワ更紗。すがりついて泣きながら、遠く隔たった故郷を思った。

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