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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第二章 蕾のほころび
5/9

波紋の行方

 ファールサ暦二二二年一月十九日。

 憤怒のありありとこもった字を眺める。

 長々と書かれた、抗議の文言。要約すれば、たった一行で終わるものを、まったく執念深いこと極まりない。

 この元日、ベフナームの長男であるパルヴィーズを太子に立てると、大々的に発表した。それを、メフルダードは、誓書を反故にしたとして、憤慨しているのだ。

 敬虔で偉大なる王〈シャー〉の、唯一の汚点。

 もはや五十年近く前になるが、当時太子だったクーロシュを、父が諫めて結婚を止めていれば、こんな面倒なことにはならなかっただろうにと、非常に悔やまれる。

 正后の息子が優先して太子に立つのは、当然である。

 しかし、クーロシュは、兄弟で骨肉相食むような事態にならないように、との親心で、道理をねじ曲げてしまった。生前、誓書を交わさせてからもずっと、継承争いは、その苦悩の源だった。

(ご無事にご成長なされた今こそ、あなた様のお心残りをおそそぎいたしましょうや――クーロシュ様)

 パルヴィーズの母は、正后ナスリーン・オルディーベヘシュト・ラフバル――つまり、宰相を代々務める、この貴き血筋から出た娘である。

 孫が産まれた時の、クーロシュの心底惜しむ顔は、十四年経った今でも忘れない。

 手紙を巻き戻し、控えて待つ部下に告げる。

「王〈シャー〉には、私からお話しいたそう。お使者には、十分に遊び〈バーズィー〉をお楽しみいただいた上で、帰すように」

「――承知いたしました」

 丁重に礼をして、部下が辞する。もうひとつの知らせを見遣る。

 遠征兵団の勝利。捕虜の確保。戦利品の獲得。それも、王家が三人である。他に、見目のよい平民を十一人捕らえたという。

 春の盛りの空を仰ぐ。

 万事、滞りなく進んでいる。心穏やかに微笑んだ。


 *


 小さな正方形に区切られた盤面。各役割の像が彫られた駒を見つめる。

 シャー(王)の駒を追い詰めるには、どうすればいいか。覚えたての動き方を総動員して、勝ち筋を見出す。

(――あった……!)

 アスブ(馬)の頭を掴む。飛ぶように動かすと、合図を叫んだ。相手が、茶色い髭をしごく。

「あーあ、完全に俺の負けだ。あんた、筋がいいな」

「単に、お前が弱いだけだろうよ。――ほら、ここが脆い」

「いいや、一時しのぎだな。どうやっても無理さ。この坊や、なかなかだぞ」

 観客が口々に、盤上の攻防を解説し出す。にこにこと愛想よく応えながら、多彩な顔立ちの船員を巡り見る。

 顔の起伏の薄い者。造作の濃い者。色素の淡い者。多様な祖先を持った者達が、一同に会し、この巨大な船を動かしている。

 ディーダム教徒という共通点で繋がる人々。様々な民族が結集することで、優れた技術が生まれる。それが、ファールサの強さだった。

 しかし、この船に乗る将のほとんどは、いにしえのファールサ地方に由来を持つ、赤い肌のファールサ人だ。

 改宗者と蔑まれ、差別される不満。この七日間だけでも、ずいぶん耳にしてきた。多様な生まれは、同時に、脆さでもあるのかもしれない。

 ふと、視線を感じて瞬く。複雑な表情で、白い肌の船員が唸る。

「それにしても、こんなに賢い子がなあ……」

「俺達が言ったところで、どうにもならねえよ。あいつらの少年遊びは、病みたいなもんだからな」

 同情のこもった、数多の目。

 首を傾げていると、金切り声が、鼓膜をつんざいた。

「――この、裏切り者……ッ!」

 振り返れば、スクワトが立っていた。

 赤黒く染まった形相。躍りかかりかけて、傍らにいた監視役に押さえられる。

「放せよっ! 畜生が!」

「話すべき言葉を忘れたか。厠に行かないなら、戻るぞ」

 もどかしく悶える姿。今にも噛みつきそうな気配に、すかさず歩み寄る。

「スクワト。今ここで歯向かったところで、何にもならないよ。それは、きみだって、わかるよね」

 薄青の眼が、炯々と光る。食い縛った歯から、苦い声が吠える。

「だったら、あの時、止めてくれなきゃよかったんだ! あの時、おじ上が止めなかったら、父上を、一人で逝かせなくてすんだのに!」

「でも、きみは生きて、務めを」

「それがなんだ⁉ こいつらが、おれ達の話を聞くとでも⁉ 甘いんだよッ! 政のことなんか、何も知らない甘ったれのくせに、わかった口利くな! こんなやつらのごきげんなんか取って、本当に最低だ! 恥知らずの裏切り者!」

 とめどなく溢れる涙で濡れた頬。憤怒にまみれた瞳が、必死にすがっていた。

 見下ろしたまま、淡々と告げる。

「……気は、すんだ?」

 口元が震える。視界が滲む。スクワトの顔が、幼く歪む。手が微かに伸びかけて、しかし、弾けるように駆けていった。

 思いきり息を飲み込んで、勢いよく振り向く。

「――おさわがせしました! 次の対戦は、だれでしたっけ?」


 *


 サカ暦七六五年デスタ(十一番目)の月の八日。

 かがんで喘ぐ背中をさする。長い溜め息。

 おもむろに上体を起こして、スアングティが息をつく。手ぬぐいを渡しつつ問う。

「大丈夫か?」

「……ええ、少し……落ち着きました」

 礼を言って、口元に布を宛がう横顔。そうはいっても、顔色はよくなかった。

 ここのところずっと、吐き気に悩まされている。グダン(バナナ)やサラックといった果物は食べられているが、それも少量だ。

 このまま食事がままならない日が続けば、遠からず、身体を壊す。たまらず、何度目かの言葉をこぼす。

「やっぱり、バリアン(呪医師)に診てもらった方が……」

 緩やかに、首が振られる。微かな声が告げる。

「きっと、つわりですから――」

 ぎゅうと、心が縮まる。

 オゴオゴの日から、一ヵ月余り。夫婦の営みは、一度もない。

 深く呼吸をして、スアングティが向き直る。床に手をつき、深々と(ぬか)づいた。

「バガワド様。私は、赤い肌の子を産むでしょう。かねてよりお願いしておりました通り――どうか、離縁してくださいませ」

 千切れんばかりに首を振る。わななく声が、口をつく。

「離縁は決してしないと言ったはずだ、スアングティ。それに、きっと、私の子に違いない。――ああ、きっとそうだ」

 オゴオゴの前夜も、確かに妻を抱いた。その身に、幾度も種を蒔いた。

「それでも、私は姦通いたしました。一人ならず、多くの――」

「――畜生どものしたことに、屈しろと言うのか!」

 びくっと、細い肩が跳ねる。握り込んで、上体を押し上げる。

 驚き見開いた瞳。その、澄んだ青。六年間、見つめ続けてきた景色を射抜く。

「君は私の妻だ! 誰がなんと言おうと、私の妻なんだ! 他の誰に、渡してたまるかッ!」

 叫ぶまま押し倒す。きつく巻かれた腰布に、手をかける。

 数多の悪鬼が、この美しい畑を荒らしたのなら、また耕せばいい。穢れた種を掘り起こし、この身の種を蒔けば。

 ぱたぱたと、淡黄色の頬に、雫が落ちる。滲む視界の中で、瞠った青を見つめる。

 十四歳の誕生日、ウマス島から、はるばるやってきた花嫁に、一目で恋に落ちた。

 初めての夜も、喧嘩をして仲直りした夕暮れも、子ができたと知った幸せ深い昼下がりも、立ち上がった瞬間をともに喜んだ朝も――全て、覚えているのに。

「君は、私のものだ、スアングティ――私の……私、だけの……」

 腰布の折り目を握った拳に、手が重なる。淡く儚い声が囁く。

「……あなた……」

 目尻から一筋、こぼれ落ちる涙。

 喉が震え、食い縛った歯から、嗚咽が漏れる。固く目をつむり、深く浅く呼吸を繰り返す。おもむろに、手を離した。

 身を起こし、腰を上げる。せり上がる重みを飲み込んで告げた。

「……産婆を、呼んでくる」

 娘達の時に世話になった名を挙げ、それでいいか尋ねる。

 はい、と微かな返事。それだけ聞くと、戸布を上げて、寝間を去った。


 *


 マタラムからの航路の終点であるシヤーザミーン港は、活気に満ち溢れていた。

 特色豊かな衣装の人々が、通りを行き交い、露店では、商人の威勢のいい声が、客の関心を引いている。まさに、税務庁の南部支庁が置かれるにふさわしい、大きな街だった。

 強烈な日差しに、乾燥した空気。

 湿気がない分、肌当たりがきつい。着た直後は違和感のあったファールサ式の衣も、こうして外に出てみれば、理に適っているのだと知る。

 甲板の軋む音。準備が済んでいないのは、あと一人だけだ。妙に長かったと思いつつ、振り返る。

「姉上! 支度がすんだのですね」

 途端、ぎょっとして固まる。

 全身、黒づくめの衣装。顔の部分にだけ、網状の布が縫いつけられている。ファールサでは、いくら肌の露出は憚られるとはいえ、まさかこんな強固だとは。

「だいじょうぶですか? 前、見えます?」

 困ったように傾ぐ頭。やはり、視界が悪いのだ。副官の男を見上げて尋ねる。

「姉にとって、目は耳なんだ。くちびると表情を読んで、理解している。せめて顔だけでも、出せないか?」

「女の美しい部分は隠せ。聖典ハーンの言葉だ。大切な贈り物を、見世物にするわけにはいかない」

 手招きされて、姉の傍らに立つ。蝋盤に尖筆で、文字が綴られる。

『私は大丈夫。ファールサの衣装だけれど、ヤワ更紗なのよ。とても素敵なの』

 軽くかがんで、うっすらと透ける紫の瞳が、優しく微笑む。釈然としないながらも頷く。

 マタラムから離れるにつれて、姉は上機嫌になっていった。もともと苛立ったりする人ではなかったものの、明らかに、表情が豊かで明瞭になった。

 蝋盤を手に入れたからなのか――それとも、自分のいない隙に、何か吹き込まれたか。

 家族が惨殺される光景を、ともに見ていたはずなのに。姉の心が、遠く思えた。

 副官に促され、皆で桟橋に降り立つ。

 大通りに出れば、街の活況が近々と見えた。ファールサ語にノール語、他にも、聞いたこともないような言葉が飛び交う。

 土を型に入れて日干しした、煉瓦という塊。その、乾いた薄茶色の家並み。隊商の人々。

 あれが、駱駝(らくだ)だろうか。本当に、背中がぼこぼこしている。

「珍しいか」

 鞍のふちを掴んだまま、慎重に振り仰ぐ。

「シャフリカシャンは、こんなものではない。スティンヴァーリはもちろん、遥か東のヒンドゥシュやターング――大陸の全ての品が、王都には集まる」

 誇らしげな口調。顔を引き締めて、反論する。

「過信と強欲は、身をほろぼすぞ」

 航海中の二十六日間、この男を利用して、ファールサ語はもとより、政治や経済といった国情を学んできた。

 王都に着けば、贈り物として、王〈シャー〉の検分を受けるという。その時、不当な侵略だと訴え出て、交渉に臨むつもりだった。

「お前なら、王〈シャー〉は、きっとお気に召す。どんな望みも、思うがままだ」

 黒髭に囲われた唇が、薄ら笑いを浮かべる。

 言いようのない気味の悪さ。とっさに前を向く。

「……任務がなければな。まったく、残念だ」

 かすれた低い呟き。

 問い返すこともできず、ただ賑やかな街を見つめ続けた。


 *


 ソル暦二五〇年五月二十二日。

 灰を溶き混ぜたような晩春の青空の下、刃を落とした戦斧や剣の鈍い音が響く。丘の上に建つスティンの大居館を背に、鍛練に励む従士達を眺め渡す。

 その精強さ。熱病の吹き荒れる中、生き延びた者が多かったことは、不幸中の幸いだった。

(これで、どう転んでも、外憂に戦力を割けられる――)

 初冬から、ファールサは不穏な動きを見せていた。

 遊牧民や改宗者への対策にしては、規模の大きい軍備の増強。

 当時まだ壮健だった父は、把握しながらも、熱病に苦しむ民の救済を優先した。

 それから父は命を落とし、跡を継いだ自分は、ファールサ軍がシヤーザミーン港から発つままにしてしまった。

 足元が崩れれば、身動きすら取れなくなる。あの時の判断は、間違っていなかった。しかし、それでも、駐留する王槍戦士隊や島民達を思うと、たまらなかった。

 今は五月。熱病が小康状態になって、一ヵ月半が経った。決断の結果がわかるまで、そう幾ばくもかからないだろう。

「――陛下! アルヴァリン皇帝陛下!」

 慌てた声に振り見る。

 丘を駆け上がる、一人の従士。つまずくように跪く姿を見下ろす。

「何事だ」

「王槍戦将が帰着されました! 謁見を申し出ております!」

 はっと息を呑む。顔を引き締め、素早く命じる。

「わかった。すまないが、もうひと走りしてくれ。外帝将と内帝将を頼む」

 短い返答とともに、駆け出す背中を見送る。

 振り返り、ともに観閲していたスティンヴァーリの叔父に告げる。

「従士団長。あとは頼んだ」

「――御意」

 重厚な声に頷き、大居館へと足を向けた。


 あぐらで居住まいを正し、深く(こうべ)を垂れる王槍戦将を見下ろす。

 ぼろを纏い、やつれた姿。旅路の過酷さが窺われて、胸が詰まる。

「長旅ご苦労だった。――それで、マタラムは。ファールサとは、どうなった」

「……プラゴタ隊が、総力を挙げて、対応いたしましたが――惨敗にございます……」

 板張りの床についた両の拳が、わななく。食い縛った歯から、苦い声が漏れる。

「生き残った者は、わずか五十名余り……それもほとんどが、戦いでの傷が元で、帰国の道中に命を落としました――今、無事に着いた者は、二十四名でございます」

「……そうか……」

 プラゴタ港に駐留していた戦士は、およそ二百。被害は甚大だった。

 灰茶色の頭が、軋まんばかりに下がる。

「大切な戦士達を預かっておきながら……誠に、面目次第もございません……」

 静かに首を振る。腰を上げて歩み寄り、その分厚い肩に触れる。

 苦悶に満ちて、歪んだ顔。淡く微笑んで告げる。

「助けのない中、よく戦ってくれた。皆きっと、死者の館〈ヴァルホル〉に召されていよう」

 こらえきれず、淡褐色の瞳から、大粒の涙が溢れる。男泣きに濡れる様を、たまらない思いで見つめる。

 控えていた内帝将が、そっと口を開く。

「王槍戦将。貴君の配下にあった、スコーグヘストの我が叔父は……」

 武骨な手で、おもむろに顔を撫でると、深く溜め息を吐き出して、王槍戦将は答えた。

「捕虜として、シャフリカシャンへと連行されました。ファールサ語を理解できると悟られ、ご身分を知られたために……」

「ああ、なんということだ……」

 悲嘆に暮れる声。最悪な方に転んだと、歯噛みする。

 南西のヘスト地方を治める、スコーグヘスト家。

 その第十五代当主は、先の熱病で、死者の国〈ヘルヘイム〉へと下ってしまった。たった一人の遺児であり、まだ幼子の第十六代当主の後見となるために、この春、マタラムから帰国する予定だったのだ。

「内帝将。叔父御の歳は、確か――」

「……十七でございます」

 思わず漏れそうになった溜め息を飲み込む。

 女より、少年の尻に目がないファールサ人だ。年齢を確認していないはずがない。このまま看過すれば、遠からず、〈槍なし〉にされるだろう。

 勇猛を栄誉とする戦士にとって、女のように組み敷かれるなど、無上の恥だ。

 旧王家の当主の後見を務める者が、まさか、尻を槍で貫かれた腑抜けであるわけにいかない。

 椅子に座り直し、王槍戦将に問う。

「――交換条件は」

「マタラムから輸出する商品――特に黒剛石について、関税の増額を行う、とのことでございます」

 告げられた額。あまりの上げ幅に、めまいがする。しかし、選択の余地はなかった。

「……わかった。ただし、始期は交渉したい。せめて一年――来年の春以降なら呑もう。――外帝将、使者を頼めるか」

「承知いたしました。次の新年祭で、打診してみましょう」

 ファールサは、年に二度、元日と秋の祝祭に、政に係る公表を行う。妥当な線だろう。

 確かに頷き、委細は任せる旨を伝える。ファールサの事情に通じたヘリイェイルなら、きっと、うまくまとめてくれるはずだ。

 しかし、油断はできない。

 相手は狡猾なラタトスクだ。何か、喜ぶ情報を掴ませなければならない。

「――内帝将。マタラム産の黒剛石について、武具以外の製品への使用制限と備蓄、木材と木炭の輸出の引き締めの準備をしろ。ファールサがこちらへ刃を向けるならば、暮らしの火は消えると、切り返せるようにな」

 乾燥した気候のファールサにとって、材木と木炭の安定的な供給が途絶すれば、あらゆる産業において、致命傷になる。

 寒冷な地で育つがために、目の詰まった、ヴァーリ地方の針葉樹。温暖で降雨に恵まれ、豊かな森林の広がる、ヘスト地方の広葉樹。

 それぞれに特性を持つ樹木は、建材はもちろん、ファールサにとって貴重な木炭を生み出している。

 特に、ヘスト地方産の木炭は、火つきは悪いが、高温で長く燃焼する。鍛造には欠かせない。

 そして、ヘスト地方まで分け入るには、陸ならば、国境である山脈の、唯一の谷に設置された関所のスルト門を抜け、コルプ地方を通らなければならない。

 一方、内陸に食い込んだスヴァット海の出入り口であるビフロスト海峡は、対岸が容易に視認できるほど、近々と両国の港が迫っている。しかし、騎兵による奇襲が得意なファールサには不利だ。

 何より、ファールサ船が、海の民として生きてきたノールの軍船に、勝てるはずがない。必然、陸での会戦を選択することになる。

 そうなれば、相当な準備が必要だ。侵略の隙を見せれば、食いついてくるにちがいない。

 油断した猶予の間に、喉元を食い破る。そのためには、熱病で疲弊した国力を回復させなければならない。

 外貨を稼ぎつつ、いつでも脅しを利かせるには、現状、これが最善の策だろう。

 承知の意を告げて、内帝将が両の拳を床につき、(こうべ)を垂れる。外帝将に向くと、確固として尋ねた。

「おそらく、今回のマタラム侵攻も、宰相ファルジャードの画策だろう」

 他者の心を憚りもなく否定し、異教徒排斥を強行する、悪辣な手腕。

 これまでも、嫌がらせのように、ファールサに暮らすノールの民は、いわれのない重税に苦しんできた。

 黒剛石を手に入れた先で目指すものは、間違いなく、この地味(ちみ)豊かなノールの大地だ。

「あの者の外政も、もはや看過できない。――外帝将、王〈シャー〉の一族で、我らに味方する者に、見当はないか?」

「太守〈アミール〉のメフルダードが、適役でしょう。現在の王〈シャー〉が立つまでの継承権争いは、有名でございますから」

「……あまり、よい噂を聞かないが」

 宴で酌をした少年を射殺(いころ)した。斬首した。火に投じた。目をつけられたが最後、命はない――降り積もった怨恨で狂った、先代の王〈シャー〉の息子。

 そんな男が、はたして利益になるのだろうか。

 外帝将が、静かな声で語る。

「風評は、確かに事実も含みますが――それは、かの者の実力を恐れてこそ。太守〈アミール〉の尽力がなければ、東部の治安が改善し、東方との交易のさらなる発展は、見込めなかったでしょう。それにもかかわらず、長年慕い合っていた娘と引き離し、王都から追い払ったのですから、尋常でいろと言う方が、酷であるかと」

「実態は異なるのだな?」

 金灰色の頭が確かに頷いて、言葉を続ける。

「どれほど弾圧しても、人の心を真に変えることはできない――遊牧民との長い紛争を収めた経験から、物事の道理を、よくわかっておいででした。統治についても、土地勘と技能のある者に任せ、交易による方が、遥かに有益である、とも」

 頑健な喉が、息を継ぐ。灰色の瞳が、強く光る。

「もし、太守〈アミール〉が王〈シャー〉の座についたなら、我らにとって、これほど利益になることはございません。――太守〈アミール〉の奥方は、いまだ三人。正后ナスリーンを想ってのことだと、囁かれているのも事実。皇妃殿下のお力添えもございますれば、協力を得られる確度は、より強固となりましょう」

 かねてより、スティンヴァーリの皇妃とファールサの正后は、手紙を交わし合ってきた。内容は、ごく個人的なものだが、それゆえに、人目に触れることはない。

 穏やかで静かな外交。行き詰っていた思考が晴れ渡るようで、打ち震える。

「――よし。ならば、皇妃に任せよう。太守〈アミール〉のことは頼んだぞ、外帝将」

 は、と短い返答。道筋がついて、少しばかり安堵する。

 王槍戦将が、おもむろに口を開く。

「皇帝陛下。お渡ししたいものがございます」

 にじり寄り、差し出された巻き物。繊維質のざらついた手触りに、クラムビル(ココナッツ)紙だと知る。

「第一王妃のご次男、スセハト第二王子殿下からの書状にございます」

 受け取って、封を切る。ノール文字にしては、曲線の多い癖のある字面を追う。

 マタラムのために戦い、散っていった戦士達への感謝と詫び。そして、連れ去られた家族を助けてほしい、との嘆願。

 慣れない異国の言葉ながら、訴えかける悲痛さが、心に迫る。

 ノール語の文面まで読み、外帝将に渡す。

「下半分はヤワ語だ。訳せるか」

 意を得て、灰色の目が素早く左右に動く。端まで行きついて、壮健な顔が上がる。

「――同じ内容です。ノール語では、伝わるか不安だから、と」

 同情の滲む声音。続く言葉を目顔で制す。

「外帝将。お前が、マタラムに、並々ならぬ思い入れがあることは知っている。しかし、我らがかの国を守るのは、利益があるからだ」

 マタラムとの関係は、表面上は対等である。

 一方で、歴史的な経緯から、王家は皇族に対し、多大なる恩義を感じている。

 交易が有利に進むからこそ、古くからの血縁を重んじ、貴重な戦士達を遠く南洋へと送るのだ。

「捕虜は、奴らにとって、何よりの戦利品。表立って動けば、無用な争いを招きかねない。南槍戦士隊に調査させることは許す。それ以上は関わるな」

「……重々、心得ましてございます、陛下」

 おもむろに下がる頭。頷いて、三人を見渡す。

 報告は出尽くしたと認めて、解散を宣言する。丁重に礼をし、立ち上がった姿に呼びかける。

「――ヘリイェイル」

 静かな、しかしどこか非難するような面立ち。微笑んで、穏やかに告げる。

「経験豊富なスノーの叔父殿の交友関係を、若輩の甥が、全て把握するなど――フギンとムニンなしで、世界を見聞きするようなもの。そう、思いませんか」

 厳しく寄っていた眉間のしわが、緩んでいく。灰色の瞳が、柔らかに笑む。

「――確かに、左様でございますな」

 では、と断って、(きびす)を返す背中。

 万事がよく進むよう、心の底から祈った。

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