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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第四章 染まりゆく花弁
14/15

輝く星

 透かし彫りの扉を開け、回廊へと出る。夕方の涼気が、入浴で火照った頬を撫でていく。薔薇は花を終え、今はただ、初夏の爽やかな風が香るだけだ。

 今夜は〈花見〉がないからと、つい長湯をしてしまった。

 たっぷり流した汗の代わりにとでもいわんばかりに、腹が鳴って仕方ない。空腹を抱えつつも、その時を、佇んで待つ。

 対面の女湯から聞こえる、賑やかな声。夕陽に照らされた、二階の露台。

 蝶になった姉を思う。

 あれからもう、一年余りが経ってしまった。

「――シャーグル様。刻限でございます」

 スヌンゴの声に振り返る。

 整然と並べられた、四人分の細長い礼拝用の絨毯。頭の示す先――南西の遥かには、ディーダム教の聖地ホラーブがある。

 威儀を正して座し、深々と(ぬか)づく。口では、聖典ハーンに定められた祈りを述べながら、心では、経を唱える。ただひたすらに、島民達の日々の安寧を願う。

 披露目まで、あと三年弱。

 先月、枝葉院で実施される入宮の試しの合格者から一人、寵童が選ばれた。

 それも紅玉で、輝くばかりの美しさだという。ベフナームの関心がそれないよう、気を引き締めなければならない。

 おもむろに上体を起こして、立ち上がる。侍童達が、くるくると絨毯を片づけていく。

 作業完了の礼に頷いて、奥湯殿をあとにした。


 化粧煉瓦で彩られた廊下を渡る。

〈薔薇の宮〉に入ると、どこからともなく、芳香が漂ってくる。香水か香油か――花が閉じても、ここの匂いは変わらない。

 沈みつつある太陽の下、灯火が徐々に光を強めていく。

 影になった柱の傍らで、くすくすと笑い合う声が聞こえる。

 花遊び〈グリ・バーズィー〉でもしているのだろう。眉をひそめ、いささか歩みを早める。この国の習慣だと知っても、快くはなかった。

 居室へと上がる階段まで行って、ふと立ち止まる。

 振り返って、スヌンゴに尋ねた。

「ボルナー。今、何か聞こえなかった?」

「いえ、特には――」

 言い差して、黄褐色の顔が、はっとする。

 中庭の生垣の影――ひときわ闇に沈んだ奥で、争う声が聞こえた。灯火を手にしたスヌンゴに、前に立つよう指示し、慎重に進む。

 歩んだ先には、複数の人影があった。甲高い声が怒鳴る。

「……っ放せよ! このっ!」

 スヌンゴと顔を見合わせる。二人で駆け出す。

 灯火の照らした光景に、息を呑む。

 手首を押さえられた男の子。馬乗りになった侍童の手に閃く、鋭利な光。

「きみ達、何をしている! その子から離れろ!」

「――くそッ! 緑玉かよ!」

 誰かが吐き捨て、散り散りに去っていく。駆け寄って、抱え起こす。

「けがは? どこか、痛いところは――」

「ありがとうございます。だいじょうぶです」

 男の子は、何事もなかったように起き上がり、乱れた衣を整えていく。

 唖然として見上げていると、白雪のような面立ちが苦笑する。

「こういうのは慣れてますから。さすがに、今回みたいなのは、初めてですけど――改宗者だって、石を投げられたりは、しょっちゅうですよ」

 宵闇に透ける、真っ白な肌。灯火に輝く、金髪と青い瞳。

 明らかに、ノール人だとわかる容姿。

「でも……だからといって、こんなことをするなんて……」

 鋭い光。あれは確かに、刃物だった。

 いくら改宗者を疎んじていたとしても、尋常ではない。

「まあ、あいつらには、関係ないんでしょう。長年仕えてきたのに、受寵どころか、新しい寵童の世話を命じられたんですから。それが、入宮のおひろめで、あっさり選ばれたやつだったら――しかも、改宗者だったら、腹も立ちますよね」

 死なばもろともってやつですかね、と肩をすくめる姿。開いた口がふさがらない。

「……え、じゃあ、きみが、新しく入宮した紅玉の……?」

「あれ? 言ってませんでしたっけ?」

 白い指が、繊細な金髪を払う。

 耳朶できらめいたのは、硝子玉の耳飾りだった。〈植えつけ〉が終わるまでの、仮の品。さらに驚く。

 寵童を傷つけたとなれば、問答無用で死罪だ。

 犯人が特定されなければ、という浅はかな考えなのかもしれないが、それでも、負うものが大きすぎる。

 しかし、快活な声が、あっけらかんと言いのけた。

「それぞれ事情がありますからね。〈蕾開き〉祝いは、すんごい額だったって、父ちゃんから手紙も来てましたし。あの人達だって、きっと何かに困って入ったはずです。必死なのも仕方ないですよ」

「……確かに、そうかもしれないけれど……」

 あまりにも頓着のない態度。

 戸惑って、白雪の顔を見つめる。やっていることは身売りなのに、この明るさは、どうしたことだろう。

「でも、困るよなあ。ノール語はわからないし――ノール神話だって、小さい頃、死んだじいちゃんに聞いたっきりで、よく知らないんですよ。生まれてこのかた、シャフリカシャンから出たことないのに」

 紅赤の唇が、やれやれと溜め息をこぼす。そして、乱雑に髪を掻くと、無邪気に笑った。

「助けてくれて、ありがとうございました、緑玉様。おれは、この通り打たれ強いんで、あんまり気にしないでください。――それじゃ、また」

 ぺこりと、大ざっぱに下がる頭。快活な笑みを残して、あっという間に走り去ってしまった。

 苦々しい呟きが、降ってくる。

「……名も告げずに――なんと無礼なのでしょう」

 思わず吹き出す。小声で指摘する。

「スヌンゴ。心の声が、もれているよ」

「――申し訳ございません、シャーグル様」

 眉尻を下げて微笑む。

 立ち上がると、紅玉の間へと続く回廊を見遣る。

「明るくて楽しそうな子で、よかったじゃないか。〈植えつけ〉が終わったら、あいさつに来るだろうし、その時に聞けばいいよ」

 恐縮するスヌンゴを促す。

 (きた)る日を想像しながら、荷物持ちの侍童二人の待つ元へと戻っていった。


 それから一週間後、正式な訪問があった。

 名は、アフシン・モルダード・ケルメズ。登院のために、男物の衣を纏った姿は、黙っていれば、ノール出身の親衛軍人の子弟に見えた。

 アフシンは、本当に口のよく回る子で、渾々と湧く泉のように、話が尽きなかった。

 聞けば、祖父の代に移住してきた鍛冶屋の息子で、貧困から抜け出すために、枝葉院の門を叩いたのだという。

 改宗者――特に、ノール人の移民に対する差別は厳しく、役人から不当な扱いを受けることも、しばしばだそうだ。

 そして、アフシンの家は、ことさら腕がよく、目をつけられていた。

 稼げば稼いだ分だけ、何かと理由をこねて、奪われていく。一家は常に、食うに困る日々を送っていた。

 そこで、兄弟の中で唯一、純粋な金髪だったアフシンが、手を挙げた。

 瞳の色は青だが、それでも混じり気のない金色は、価値あるものだ。

 実際、礼儀作法に通じた者は、他にたくさんいたそうだが、見事、紅玉の寵童に選ばれた。

「あれでも、おれ、結構がんばったんですよ。じっとしてるなんて、本当に苦手なのに。ベフナーム様がおおらかな人で、助かりました」

 というわけで、結局、出自は明かさない決まりだと伝える隙もなく、その日のうちに、生い立ちから入宮までの経緯を知ることとなった。


「それで、それでですね! もう、すごかったんですよー!」

 青い瞳を燦々と輝かせて、アフシンが手を大きく広げる。

 夕刻の緩やかなひととき。舞いの稽古を終えた身体に、菓子の甘さが染み渡る。

 器用に菓子を摘まんで茶を飲みつつ、喋り続ける姿。何でもおもしろおかしく話すものだから、頬が緩んで仕方ない。

「紅玉様は、おしゃべりの名手ですね。こんなに笑ったのは、久しぶりです」

 途端、金色の眉毛が、しゅんとする。にじり寄って、手が握られる。

「もしかして、影でいじめられたりとか? やっぱり、緑玉様も苦労してるんですね」

 苦労というか、何というか。

 志願して入宮すると、こんなにも差が出るのかと、毎度ながら感心する。

「あなたみたいに、よく話す人はいませんから。それだけですよ」

「……あ、おれ、うるさいですか?」

 微笑んで、首を振る。手を重ねて語る。

「あなたが来てくれると、とても元気が出ます。ベフナーム様も、あなたのことをお気に召していらっしゃるようですし、助かっていますよ」

 実際、ベフナームはアフシンに夢中だった。この二ヵ月、一度も〈花見〉がないほどだ。

 目標を思えば、確かに気にかかる。しかし、おかげで熟睡できて、体調は良好だ。背も伸び始めている。たまには、こういう日々があってもいい。

 疑問の浮かぶ、アフシンの顔。淡く苦笑して、言葉を継ぐ。

「あなたが入宮する前は、その……毎夜のように、〈花見〉がありましたから……」

 納得の色が広がる。そして、うんうんと頷きつつ言った。

「ベフナーム様、結構はげしいですもんね」

「……また、そういうことを……」

 顔が熱くなる。

 何のてらいもなく話すから、流してしまいがちだが、本当に困ったものだ。

「緑玉様、赤くなってる。かわいいーっ!」

「ちょっと、紅玉様ったら! 頬はつつかないでください!」

「はーい、すいませんっ」

 悪戯っぽく、ぺろりと舌を出す。無邪気な様に、どうしても顔がほころんでしまう。

 アフシンが、思い出したように口を開く。

「あの、緑玉様。お願いが、あるんですけど……」

 目顔で促すと、おずおずと、言葉が継がれる。

「えっと、えっとですね……兄ちゃんって、呼んでもいいですか……?」

 瞬いて見つめる。すると、急に火がついたように、アフシンがまくし立てた。

「おれっ、ずっとあこがれてたんです! 気品があって、頭もよくて、歌も舞いも詩も楽器も、ぜーんぶ上手くて、すごく素敵だなって、思ってたんですっ! だっ、だから、兄弟みたいに、なれたらなって……」

 尻すぼみになる言葉。

 少し悪戯心が起きて、小首を傾げる。

「初めて会ってから、まだ二ヵ月しか、経っていませんのに?」

 おあずけを食らった仔犬のような顔。耐えきれなくて、相好を崩す。

「――いいですよ。でも、ここは〈薔薇の宮〉ですから、兄上が適切ですね」

 音楽でも流れそうなほど、全身が輝く。元気いっぱいの声が返事する。

「はい! 兄上!」

 微笑んで頷く。そして、すかさず飛び跳ねそうになったところを押さえた。

「ほら、落ち着いて。あなたの場合、宮殿に出るまで、あまり時間がないんですから」

 先月の十五日、アフシンは十一歳になった。

 たかが四年、されど四年。染みついた立ち振舞いを直すには、それなりの労力が必要だ。

 凛とした面立ちが、きりっと引き締まる。居住まいを正して、礼をする。

「――おやさしい兄上。弟と情をかけてくださったからには、誠心誠意努めてまいりますので、ご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします」

「そうそう、よくできました。――改めてよろしくね、アフシン」

 顔が上がって、照れて笑う。

 可愛くて、いとおしくて、心から微笑んだ。


 秋の始めの爽やかな午後。

 盤面の駒の合間を、噴水の涼気を含んだそよ風が、吹き渡っていく。紅玉を精巧に彫った赤い駒を差して、指摘する。

「――ほら、アフシン。ここをそうしたら、追い詰められてしまうよ。アスブ(馬)は特殊な動きをするから、気をつけないと」

「ああっ、そっかあ……やっぱり兄上は、お強いですね」

 盤面をまじまじと見つめながら、白い手が、乱雑に金髪を掻き乱す。

 あとで整え直さないと、と内心で苦笑しながら、盤面の格子模様を眺める。

「考えごとが好きだから……その代わり、身体を動かすのは苦手だよ」

 実際、舞いは、いまだに苦手だった。高みを極めるには、まだまだだと、稽古の度に痛感させられる。

 それでも、カースィムの指導のおかげで、以前より楽しく思えるようになってきたのだ。

 来月の誕生日には、きっとベフナームの訪問がある。成果を披露して、気を引きとめるためにも、少しでも実力を上げておかなければならない。

 アフシンが、盤面から顔を上げ、不思議そうに瞬く。ちょっと首を傾げてから、何のてらいもなく言った。

「でもおれ、兄上の舞い、好きですよ。なんかこう――天国にいるみたいな気持ちになります。きれいで、すごく感動するというか。おれの足りない感性では、表現しきれないですけど、とにかくすごいです」

 おもむろに熱を帯びていく語り。

 憧れに満ち溢れた眼差しに、面映ゆくなる。

「ありがとう。個人師範がよかったおかげかな」

 厳しくも、理に適った指導の数々。高雅な所作。あでやかに咲く富貴花。

 折々に届く便りは、日々のささやかな楽しみとなっていた。

「先の黄玉様ですよね。――いいなあ、おれも、習ってみたかったです」

「アフシンなら、きっと、気が合ったと思うよ」

 軽妙なやり取りが想像されて、顔がほころぶ。

 カースィムは王書官なのだ。アフシンの披露目の宴で、もしかしたら実現するかもしれない。

 青い瞳が輝き、紅赤の唇が揺らめく。しかし、楽しいお喋りが始まる前に、訪いを告げる音が、居室に響いた。

 扉の開いた先。現れた姿に居住まいを正し、丁重に礼をする。

「ベフナーム様。お越しになるとは知らず――ご無礼を、お許しください」

「よいよい。顔を見に来ただけゆえ」

 のんびりと歩み寄り、鷹揚な口調が応える。そうして、かけ声とともに、肥えた巨体が居間の絨毯に座った。

 盤面を覗き込み、丸い頭が傾ぐ。

「おお、シャトランジか。――はて、駒が妙よの」

 ばらばらに入り組んだ、二色の駒の群れ。

 気づくあたりは、さすがというべきか。感心したように、微笑んで答える。

「紅玉様に、ご指南さしあげておりまして。感想戦の最中でございました」

 肉厚な瞼で細まった目に、得心の色が浮かぶ。ふむふむと頷いて、盤面を眺め渡す。

「なるほど。そちは強いゆえのう。――アフシン、シャーグルの教えを受ければ、間違いのう名人になるゆえ、励むがよい」

「はい、ベフナーム様っ!」

 きらきらと輝く笑顔。微笑ましく和む。

 と、毛深い手が伸びてくる。顎を掴まれ、髭面を見つめる。分厚い唇が降り、当然のように、舌が入ってくる。

 されるがままに受け止めて、息をつく。すかさず、恥じらう仕草で俯いた。

「……薔薇は、慕わしいお方のためだけに、咲きたいと願っております――これ以上は、どうかご容赦を」

「うむ、〈花見〉を楽しみとするかの」

 おもむろに、髭面が離れていく。心中で、ほっと安堵しつつ、幸せに満ちた笑みを返す。

 気を取り直して正面を向き、目の前の様子に瞬く。

 潤んで揺れる、青い瞳。口を歪めて、耐える面立ち。今にも泣きそうな顔だった。

「……紅玉様、どうされたのです?」

「お、おれもっ……ベフナーム様と、したいのに……っ」

 滲んだ声が訴える。巨体が、慌ててアフシンを抱き寄せる。

「おお、おお、すまんかったのう。――ほれ、我が朗らかな仔馬よ。泣くでない」

 アフシンが、ぎゅっと抱きつく。まるで、空腹の仔馬が母乳を欲するように、赤い唇を吸いつかせる。

 絡み合う舌。感じて漏れる吐息。

 幸せに満ちた音色に、現実が、ゆっくりと降りてくる。

 アフシンには、花遊び〈グリ・バーズィー〉の相手がいたという。

 意味をわかった上での触れ合い。

 秘密にするのが決まりだからと、詳しくは話してくれなかったものの、きっと幸せな記憶なのだろう。

「大好きです、ベフナーム様……おれ、寵童になれて、本当に幸せです」

「まっこと、そちは真っ直ぐだのう」

 肥えて膨れた指が、上気した頬を、いとおしく撫でる。感じ入った声が語る。

「我が溌剌たる仔馬よ。そちとともにいると、わしの心は、この青い瞳のように、晴れ晴れとするものよ。次の〈花見〉を、楽しみにしておれ」

 元気な返事。快活な笑顔が、明るく咲く。

 純粋な姿に微笑みつつも、沈む心で、目の前の光景を見つめた。

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